伝道11:1 あなたのパンを水の上に投げよ。多くの日の後、あなたはそれを得るからである。
パンを水の上に投げたらどうなるでしょうか。なくなってしまいます。もったいないと思います。無駄になったと思います。しかし、今日の御言は、そのような無駄と思えるような献身の勧めです。
「献身」といっても、牧師や伝道者として献身することに限りません。福音のための奉仕であったり、献品や献金をささげることも含まれています。
私たちは、自分の手ににぎっている限り「失わない」と思っていますが、この肉の手が持っているものは、やがて失います。人は手に入れたものを、やがてみな手放して、裸で神のもとに帰って行かなければなりません。
しかし、神のためにささげたものは永遠に残ります。福音のために「水の上に投げ出したパン」は、無駄になるどころか、必ず豊かな収穫となるのです。
ただし、すぐに結果は出ません。「多くの日の後」なのです。
私にとって(あなたにとって)水の上に投げ出す「パン」とは、何でしょうか。富でしょうか。奉仕でしょうか。「ゆるし」でしょうか。能力でしょうか。時間でしょうか。ある時には「いのち」そのものかもしれません。
聖霊なる神が、私たちの心に示してくださるものを大胆にささげることが出来ますように祈ります。
さて、ひとりの青年がおりました。彼は京都の某教会の牧師のもとで、神学生として修行に励んでいました。
ある日、路傍伝道に同行したのですが、立ち止まって話を聞く人などいません。それどころか、ひとりの小学生には「アーメン、ソーメン、冷やソーメン」と始末。小憎たらしい少年に腹が立ってしょうがなかったのです。
青年神学生は「こんな無駄なことをして何になるのか」と思いながら教会に戻ると、牧師が「感謝しましょう」といって賛美を歌い出すのを聞いていると、ますます腹が立ったというのです。
やがて数年が経ち、自分が牧師となって仕えている教会に、ある青年神学生が派遣されてきました。その青年が救いを受けた教会を聞くと、自分がかつて神学生の時に仕えていた京都の某教会であるというのです。
当時の路傍伝道のことを話すと、何とその時、「アーメン、ソーメン、冷やソーメン」とはやし立てたのは彼であったというのです。あれから彼は教会に行くようになり、救われ、牧師としての道を目指すようになったというわけです。
まさに今日の御言のように、水の上にパンを投げるようにして奉仕した路傍伝道が、多くの日の後に、すばらしい収穫となって得られたのです。
神のなさることは何とすばらしいことでしょうか。主イエスの御名を讃美します。(Ω)

