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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

マラキ書 4章

2023年08月11日 | マラキ書
マラキ書 4章
しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽が昇り、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。
(4・2)


先の3章では、主に仕える者と仕えない者との区別を知るようになることを見ました。それを知る日は、キリスト来臨の時です。炉のように燃える日と表現されています(4・1)

しかしです。主の御名を恐れ、仕えてきた者にとって、その日は義の太陽がのぼるような栄光の日になるのです。

雨が降り暗くジトジトとした日々が終わり、太陽の陽に照らされる日の到来は、何と気持ちの良いことでしょう。神に仕え、神の御言に従って生きることは、苦難や困難を味わう日々もあります。でも、その人にはやがて義の太陽がのぼるのです。

たとえ正義が踏みにじられ不義が覆うようなどんよりとした人生にも、イエス・キリストの十字架の故に〝あなたを義とする太陽〟がのぼるのです。

ご自身をさしてわたしは世の光だと宣言なさったイエス・キリストは、まさに私たちを照らす義の太陽なのです。この太陽に照らされるので、罪人である私は勇気を得て立ち上がるのです。まるで、牛舎から飛び出す子牛のように、 罪の牢獄から飛び出して歩き出すのです。

世間からのスポットライトを浴びたいと願う人がいます。人々から注目されたい。称賛されたい。有名になりたい。脚光を浴びて主役のように振る舞う人生を夢見る人がいます。そんな一時だけのスポットライトで照らされるより素晴らしい生き方があります。イエス・キリストという義の太陽に照らされ続けることです。

さて、マラキはそのようなキリストの来臨を預言したわけですが、その準備のために主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたに遣わすと言われました(4・5)。この時点でエリヤはすでに過去に登場した預言者で、列王紀に記録されています。ですから、この「預言者エリヤ」とは、かつてのエリヤを想起させるような人物のことです。この人物については、すでにマラキが3章1節で預言しており、「わが使者」であり、「わたしの前に道を整える者」のことです。

実際にイエス様がキリストとして活動する前に、バプテスマのヨハネが登場し、キリストを迎える道備えをしました。そして、イエスご自身が、バプテスマのヨハネこそが、マラキ書で預言されていた〝預言者エリヤ〟だと指摘なさいました(マタイ17・11~13)

キリストを迎えるためにやがて登場するエリヤの働きは、父の心をその子たちに向けさせ、子たちの心をその父に向けさせることです(4・6)。父とは神であり、子たちとは人々のことです。顔を向き合うようにして関係が回復することを表しています。それが、キリスト登場のための準備なのです。

アダムとイブが罪をおかして以来、彼らは「主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」とあるように、人類は罪の結果、神に顔を向けることができない状態です(創世記3・8)。そんな民に向かってバプテスマのヨハネは「悔い改めよ」と叫びました。

「悔い改め」とは〝向きを変える〟ことです。神に背を向けていないで、神の方に向きを変えることです。恥ずかしくて顔を背ける人もいれば、恐れてうつむく人もいるでしょう。

でも、まず私たちがなすべきことは「悔い改める」ことです。顔を神に向けることです。大丈夫です。勇気を出して、顔を主に向けるなら「そのおおいは取りのぞかれる」のです(Ⅱコリ3・16)

まともに主の御顔を仰ぐことになるのですが、「義の太陽」であるキリストの栄光に照らされて、私たちは主イエスと同じ姿に変えられて行くのです。大事なことは、顔を主に向けることです。
 

マラキ書 3章

2023年08月10日 | マラキ書
マラキ書 3章
その時あなた方は、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。
(3・18)


真実な礼拝を回復するために、神はある人物を派遣されると言われます。彼は、わたしの前に道を備えるのです(3・1~2)。この〝わたし〟とはキリストのことです。つまり、キリストが来臨なさる道を準備する者が派遣されるという預言です。

この「わたしの前に道を備える」人物とは、バプテスマのヨハネでした。彼によってイスラエルの中に悔い改め運動が起こり、それによってキリストを迎える準備、すなわち道が整えられました。

そして、遂にキリストが来られるわけですが、その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようであると言われています(3・2)

つまり、キリストは聖霊と火によってバプテスマを授けるお方なので、まるで金を精錬する火のように、また布を晒す灰汁のように、主と出会った者はおのが罪を露わにされ清められるのです。

彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清めるとはそういう意味です(3)

そのようなお方が世に来ようとなさっています。だから、神に立ち帰りなさい。そうすれば、神もまた、私たちのもとに戻って来られます。つまり、わたしに帰れ、わたしはあなた方に帰ろうと、万軍の主は言われるのです(7)

では、どのようにして神に立ち帰るのかと民は質問しました(7)。自分たちは神殿に詣でているし、礼拝をささげているのだから、神に背を向けているとは思っていないのです。

すると神は、あなた方はわたしの物を盗んでいると指摘なさるのです。そうですよね。他者の物を盗んでおいて、何食わぬ顔でその人の前に出ることなどできません。同様に、神の物を盗んでいるなら、神の御前に立つことはできません。

でも、民はいったい何を盗んだのだろうと不審に思いました(8)。それに対して、神は、十分の一のささげものをしないことが、すなわち神の物を盗んでいることになるのだと言われました。言い換えれば、〝十分の一〟は神の所有だというのです。

人は、この十分の一を意識することで、万物は神の所有であって、自分は管理者に過ぎないことを自覚することになります。これを忘れるので、富におぼれ、富を主人として拝んでしまうのです。

だから、〝十分の一〟をささげることを通して、富は主人ではないと告白し、まことの神に立ち返ることになるわけです。こうして神に立ち帰るなら、神も私たちのただ中に戻ってきてくださり、その証しとして、豊かな収穫で満たすと約束されています(11)

しかし、疑い深い人々は、神に不従順な者の方が繁栄しているではないかと反論します(14~15)。確かに、イエスが言われた神の御前に富むという豊かさに開眼するまでは、彼らの反論は的を射ているように思います。 ※ルカ福音書12章21節。

でも、結果が出る時がやって来るのだと、冒頭の聖句は告げています。神に仕える者と仕えない者との差が歴然とする時代が来るのです。

信仰とは見えない神の約束を、忍耐強く信頼し続けることです。忍耐強く、神の御名をあがめ、神の御名に仕えることです。神は、必ず天の窓を開いて応えてくださる時が来るのです。



マラキ書 2章

2023年08月09日 | マラキ書
マラキ書 2章
あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない。
(2・15 新改訳)


先の第1章では堕落した祭司たちについて、「わが名をあなどる祭司たち」と呼ばれています。新改訳では「わたしの名をさげすむ祭司たち」。つまり、礼拝の形式は行われているが、その実、神の名をあなどる姿が描かれていました。

第2章でも、神の御名に栄光を帰するようにと語られています。もし、御名に栄光を帰さないならば、呪いがあるとまで言われるのです(2・2)

そもそも、神を尊ぶとはどのようにすることでしょうか。

神は霊的な存在ですから目に見えません。だからこそ、神の御名を尊重することが、神を大切にすることになります。「主の祈り」で最初に祈るテーマが御名があがめられますようにであることに注目すべきです。

神の御名をあがめるまことの礼拝者。神はそのような民を求めておられます。そんな民を得ようと、神はイスラエルを選び、その中のレビ族を礼拝奉仕者として聖別なさいました。このことは、出エジプト記とレビ記に詳しく述べられています。

マラキ書2章4節と8節のレビとの契約とは、そのことを指しています。祭司職もこのレビ人の中から出ているのですが、残念ながらその契約に背いた礼拝の姿が指摘されています(2・8)

さらにその逸脱は、結婚においてもなされていました。ユダは偽りを行い、イスラエルおよびエルサレムの中には憎むべき事が行われた。すなわちユダは主が愛しておられる聖所を汚して、他の神に仕える女をめとったのです(2・11)

神殿建設も完成して落ち着きを取り戻したかに見えた時代に、ユダヤの宗教指導者たちは、はじめの妻と離別し、異教の神に仕える女性との結婚を推し進めたのです。教会の指導者である牧師が、熱心な異教徒の女性と結婚するようなものです。当然、霊的には混乱が生じます。

異教徒である女性との雑婚は、異教徒である周辺諸国と親戚関係になるわけです。そうすることによって、当時の帰還民たちは自国の安泰を得ようとしたのだろうと思われます。しかし、それは神の目には、神を信頼しない不信仰な姿でした。そして、彼らは先祖たちに倣って再び偶像礼拝へと傾斜していったのです。

そこで、15節の預言が語られているのですが、とても難解な箇所です。

一つ神は、我々のために命の霊を造り、これを支えられたではないか。彼は何を望まれるか。神を敬う子孫であるゆえ、あなた方はみずから慎んで、その若い時の妻を裏切ってはならない。(2・15)

共同訳では次のように訳しています。

主は、肉と霊を持つただ一つのものを造られたではないか。そのただ一つのものとは何か。神の子孫を求める者ではないか。あなたがたは、自分の霊に気をつけるがよい。若い時の妻を裏切ってはならない。

文語訳も紹介しておきましょう。

エホバはただひとつを造りたまひしにあらずや。されども彼にはなほ霊の余りありき。なにゆえにひとつのみなりしや。是は神をうやまふの裔を得んがためなりき。故に汝ら心に謹み、その若き時の妻を誓約にそむきて棄つるなかれ。 ※新改訳では「彼には霊の残りがある」。神が霊的存在を造るなら、天使たちのように多くの霊を創造できたはずなのに、人間だけは「たったひとつの霊」として創造した。キリストにしてみれば〝ひとりの花嫁〟を念頭におく表現だろう。それほどに神は一途に私たちを愛してくださっているのだ。だから、人よ、あなた方もかくあれと命じられている。

15節を要約すれば、結婚を尊び最後まで添い遂げることは、神に対する忠実な霊をもって神に仕えることにつながるのだという意味です。なのに、人は結婚の聖なる目的を逸脱し、肉体的な汚れだけでなく霊的な汚れをももたらしている。神が人をただひとつの霊的存在となさったのは、神を敬う子孫を得るためです。神に忠実であると同時に、妻に対しても最後まで裏切らない者であれと語られているわけでます。

新改訳や共同訳では、15節と16節の二度にわたって、自分の霊に気をつけよと命じているように、結婚は霊的な事柄なのです。肉体的、便宜的な男女の関わりに終わらないのです。

「お身体に気をつけて」と相手の体を気づかって人は挨拶するのですが、神は私たちの「霊」を気にかけておられます。人の霊が神に忠実で真実な霊であってほしい。清い霊であってほしい。神への一途な愛を貫いてほしいと願っておられます。そのために「自分の霊に気をつけて」と言われるのです。私の霊が、結婚を通して、また神への信仰を通しても、忠実な霊でありますように祈ります。


マラキ書 1章

2023年08月08日 | マラキ書
マラキ書 1章
子はその父を敬い、しもべはその主人を敬う。それでわたしがもし父であるならば、あなた方のわたしを敬う事実がどこにあるか。わたしがもし主人であるならば、わたしを恐れる事実がどこにあるか。
(1・6)


先のハガイとゼカリヤの励ましによって、ユダヤの人々は神殿再建工事を遂行し完成へといたりました。しかし、やがて年月が経過すると、信仰の火は衰えてしまい、信仰は形骸化してきました。

かつて、後の神殿の栄光は前の栄光より大きいのだと語られました(ハガ2・9)。神殿が完成すればキリストが王として来られるのだ。だからシオンの娘よ喜べと励まされました(ゼカ2・10)。人々には、それらの約束は直ぐにでも実現すると思われたのですが、この時点で現実とはなっていませんでした。

丁度、新約において、天に昇られた主イエスが「わたしはすぐに来る」と言われて待ち望むも、2千年が経過した私たちにも似ています。

やがて、人々の信仰には倦怠感がうまれ、情熱は冷めていったようです。そんな状況の中でマラキは預言しました。

開口一番、神の御言はわたしはあなた方を愛したといわれます(1・2)。民の心は時代や状況とともに移り変わるのですが、神の愛は変わらず、私はあなた方を愛していると言われるのです。

ところが、民は神の愛を感じられなくて、あなたはどんなふうに、われわれを愛されたかと切り返す始末です(1・2)。神の愛がわからなくなったら霊的には危険水域です。

人は霊的存在であると共に肉体をもった存在ですから、霊の感覚が鈍ると肉の感覚で愛を確認しようとします。しかし、肉なる感覚は、経済的、物質的に満たされることで愛を感じようとします。でも、神は、そのひとり子を与えるほどに愛してくださったことを知るべきです。

民が霊的惰眠をむさぼっているのは、指導者である祭司たちが堕落しているからです。ですから、冒頭の聖句は、神の御名をあなどる祭司たちに向けて語られています。いったい、父である神を敬う事実がどこにあるか。いったい、主人である神を恐れる事実がどこにあるかと問われました。

しかし、この質問についても、えっ、そんな失礼なことをしましたかと返答するのです(6)。霊の感覚が鈍っているので、神に対して失礼なことをしているのがわかりません。

神は、礼拝で献げるいけにえにそれが表れていると指摘なさいました。つまり、彼らは、汚れたパンをささげげ、病気や傷のある動物をささげて、自分たちは神を敬っていると自負していたわけです(7~8)

病気や怪我のある家畜は残しておいても商品価値がないので、それを神にささげました。では、そんな献上物を自分の上司に差し出してみなさい。彼は馬鹿にするなと怒るはずです(8~9)。上司は目に見えても神は見えないので、人間は神を侮るのです。

私たちの礼拝はどうだろうか。良い献げ物をもって礼拝しているだろうか。日曜日に時間があいたので礼拝に参加するのだろうか。生活費が残りそうだから献金するのだろうか。心のこもらない讃美をカラオケ気分で歌うだけなのだろうか。

あのレプタ2枚を献げた婦人に見習おう(マル12・42)。その額はわずかであったが、心を込めて、自分の誠意を尽くして彼女は神を礼拝したのです。主は、霊とまことをもって礼拝する者たちを求めておられることを知らなければなりません。