マラキ書 4章
しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽が昇り、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。(4・2)
先の3章では、主に仕える者と仕えない者との区別を知るようになることを見ました。それを知る日は、キリスト来臨の時です。「炉のように燃える日」と表現されています(4・1)。
しかしです。主の御名を恐れ、仕えてきた者にとって、その日は「義の太陽がのぼる」ような栄光の日になるのです。
雨が降り暗くジトジトとした日々が終わり、太陽の陽に照らされる日の到来は、何と気持ちの良いことでしょう。神に仕え、神の御言に従って生きることは、苦難や困難を味わう日々もあります。でも、その人にはやがて「義の太陽がのぼる」のです。
たとえ正義が踏みにじられ不義が覆うようなどんよりとした人生にも、イエス・キリストの十字架の故に〝あなたを義とする太陽〟がのぼるのです。
ご自身をさして「わたしは世の光だ」と宣言なさったイエス・キリストは、まさに私たちを照らす「義の太陽」なのです。この太陽に照らされるので、罪人である私は勇気を得て立ち上がるのです。まるで、牛舎から飛び出す子牛のように、 罪の牢獄から飛び出して歩き出すのです。
世間からのスポットライトを浴びたいと願う人がいます。人々から注目されたい。称賛されたい。有名になりたい。脚光を浴びて主役のように振る舞う人生を夢見る人がいます。そんな一時だけのスポットライトで照らされるより素晴らしい生き方があります。イエス・キリストという「義の太陽に」照らされ続けることです。
さて、マラキはそのようなキリストの来臨を預言したわけですが、その準備のために「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と言われました(4・5)。この時点でエリヤはすでに過去に登場した預言者で、列王紀に記録されています。ですから、この「預言者エリヤ」とは、かつてのエリヤを想起させるような人物のことです。この人物については、すでにマラキが3章1節で預言しており、「わが使者」であり、「わたしの前に道を整える者」のことです。
しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽が昇り、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。(4・2)
先の3章では、主に仕える者と仕えない者との区別を知るようになることを見ました。それを知る日は、キリスト来臨の時です。「炉のように燃える日」と表現されています(4・1)。
しかしです。主の御名を恐れ、仕えてきた者にとって、その日は「義の太陽がのぼる」ような栄光の日になるのです。
雨が降り暗くジトジトとした日々が終わり、太陽の陽に照らされる日の到来は、何と気持ちの良いことでしょう。神に仕え、神の御言に従って生きることは、苦難や困難を味わう日々もあります。でも、その人にはやがて「義の太陽がのぼる」のです。
たとえ正義が踏みにじられ不義が覆うようなどんよりとした人生にも、イエス・キリストの十字架の故に〝あなたを義とする太陽〟がのぼるのです。
ご自身をさして「わたしは世の光だ」と宣言なさったイエス・キリストは、まさに私たちを照らす「義の太陽」なのです。この太陽に照らされるので、罪人である私は勇気を得て立ち上がるのです。まるで、牛舎から飛び出す子牛のように、 罪の牢獄から飛び出して歩き出すのです。
世間からのスポットライトを浴びたいと願う人がいます。人々から注目されたい。称賛されたい。有名になりたい。脚光を浴びて主役のように振る舞う人生を夢見る人がいます。そんな一時だけのスポットライトで照らされるより素晴らしい生き方があります。イエス・キリストという「義の太陽に」照らされ続けることです。
さて、マラキはそのようなキリストの来臨を預言したわけですが、その準備のために「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と言われました(4・5)。この時点でエリヤはすでに過去に登場した預言者で、列王紀に記録されています。ですから、この「預言者エリヤ」とは、かつてのエリヤを想起させるような人物のことです。この人物については、すでにマラキが3章1節で預言しており、「わが使者」であり、「わたしの前に道を整える者」のことです。
実際にイエス様がキリストとして活動する前に、バプテスマのヨハネが登場し、キリストを迎える道備えをしました。そして、イエスご自身が、バプテスマのヨハネこそが、マラキ書で預言されていた〝預言者エリヤ〟だと指摘なさいました(マタイ17・11~13)。
キリストを迎えるためにやがて登場するエリヤの働きは、「父の心をその子たちに向けさせ、子たちの心をその父に向けさせる」ことです(4・6)。父とは神であり、子たちとは人々のことです。顔を向き合うようにして関係が回復することを表しています。それが、キリスト登場のための準備なのです。
アダムとイブが罪をおかして以来、彼らは「主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」とあるように、人類は罪の結果、神に顔を向けることができない状態です(創世記3・8)。そんな民に向かってバプテスマのヨハネは「悔い改めよ」と叫びました。
「悔い改め」とは〝向きを変える〟ことです。神に背を向けていないで、神の方に向きを変えることです。恥ずかしくて顔を背ける人もいれば、恐れてうつむく人もいるでしょう。
でも、まず私たちがなすべきことは「悔い改める」ことです。顔を神に向けることです。大丈夫です。勇気を出して、顔を主に向けるなら「そのおおいは取りのぞかれる」のです(Ⅱコリ3・16)。
まともに主の御顔を仰ぐことになるのですが、「義の太陽」であるキリストの栄光に照らされて、私たちは主イエスと同じ姿に変えられて行くのです。大事なことは、顔を主に向けることです。
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