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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨブ記 37章

2019年05月31日 | ヨブ記
ヨブ記37:23 全能者は───我々はこれを見出すことができない。
 
エリフは更に語ります。我々は神をいったいどれほど知っているのだろうかと。先の36章では、「見よ、神は大いなるものにいまして、我々は彼を知らない」と述べ(36:26)、様々な天然現象の神秘を列挙します(36:27-33)
 
そして、37章に入っても、神は雷鳴のごとく力強く語り、その働きをなさるのだが、「我々の悟りえない大いなることを行われる」のです(37:1-5)。そして、引き続き天然界の神秘とそれを支配なさる神の偉大さを語ります(37:6-18)
 
だから、ヨブよ、こんな大いなる神と論議したいなどと無謀なことをどうして要求するのだ。そんなことをしても滅ぼされるだけだと諭すのです(37:20)
 
結局のところエリフも、ヨブがなぜ苦難を受けているのか、説き明かすことができませんでした。ただ「全能者なる神を、人は見出すことができない」という結論で終わります。人間には神は偉大すぎて、神を知ることができない。だから苦難の意味もすべてを説明できないというわけです。
 
しかし、申し上げておきたいことは、神は決してご自身を隠そうとはなさっていないお方だということです。むしろ、神はいつの時代も自己紹介をなさるお方です。旧約聖書の時代は〝使いの者〟を通して自己紹介をなさいました。使いの者とは「天使」であったり、天使から教えを受けた予願者たちです。
 
そして、わりの時代に、神はご自分の御子イエス・キリストを通して自己紹介をなさいました(ヘブル1:2)。これぞ究極の自己紹介です。
 
ですから、今や御子イエス様を通して神を知ります。この御子イエス・キリストの受けられた苦難の中に、苦難の意味が啓示されています。そして、その苦難はやがて栄光の復活へとつながっていることを知るのです。
 
エリフもヨブも知り得なかった神を、今やイエス・キリストを通して知るのです。イエス・キリストの中で苦難の意味を知り、イエス・キリストの中で苦難は復活の希望へとつながるのです。(Ω)

ヨブ記 36章

2019年05月30日 | ヨブ記
ヨブ記36:22 見よ、神はその力をもってあがめられる。だれか彼のように教える者があるか。
 
エリフは先の35章では、まだ充分に神について語り尽くしていないと感じたようで、きちんと説明するからもう少し私の話を聞いてくれと……彼の神論を続けます(36:1-4)
 
神はどのようなお方なのかがテーマです。
 
冒頭の聖句が示すように「神は教えるお方だ」と。新改訳や新共同訳では「教師」と訳し、「神のような教師がだれかいようか」と述べています。
 
すでに33章でも見たように、人が罪ゆえに滅びないように、神は苦難をもって悟らせるのだとありましたが、「教育的手段としての苦難」を説明しています。そして36章でも、神は良き教師のようにして人を訓練し教えられるお方だと述べます。
 
力強い神は悪しき者を放っておかず、虐げられている者を引き上げてくださるお方です(5-6)その神は、悪い者たちに何が問題なのかを教えその罪を告げて(9)悪から立ち返るように命じられるのです(10)
 
このような神だから賛美こそすれ(24)、神に向かって反論するなどもってのほかであると、エリフは語るのです。
 
神が、苦難を用いて私たちを教え諭(さと)すお方であることに異論はありません。神は愛する者を訓練なさるお方です。しかし、人生におけるすべての苦難とか災いを説明できていません。「教育的手段としての苦難」ではない苦難があるからです。
 
それは「あがないとしての苦難」です。罪のない御子イエス・キリストは、全人類の罪を引き受けて苦難を受けられました。そのような苦難を、キリストに属する者たちも体験することもあると思います。
 
また、「きよめるための苦難もあるでしょう。黙示録が預言する終わりの時代は苦難の預言です。患難期とも呼ばれる時代が来ると語られています。それは、地上的な利益のために信じるといった〝不純物〟をきよめるための苦難です。
 
いずれにせよ、私たちの確信は「神は苦難の中にも共におられる」ということです。たとえ、苦難の中にあっても、神の愛は薄まるどころか、むしろより濃く、より深く啓示されるのです。だからこそ、ユダヤ人もキリスト教会のクリスチャンも、今日に至るまでその信仰を受け継いでいるのだと思います。(Ω)

ヨブ記 35章

2019年05月29日 | ヨブ記
ヨブ記35:14 あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは(神の)御前にある。あなたは神を待つべきなのだ。(新共同訳)

 
ヨブは「神は私を〝正しい〟としてくださるはずだ」と主張しているが、はたしてその考えは正当なのだろうかとエリフは反論します(35:1)。その反論の根拠は、一方でヨブが「人が罪を犯さないからといって、それが神の役に立つのか」とも言うからです(2)
 
人間の正しさとか人間の過ちとか……そんなことは人間界の下々(しもじも)のことであって、偉大な神にとって痛くも痒くもない。神になんの影響も及ぼさないのだとエリフは論理を展開します(5-8)
 
だから、人間ごときが「自分は正しい」と主張することは愚かなことであって、ヨブが「自分は潔白だ」とか「神は私に訴えを聞いてくださらない」とか騒ぎ立てることを戒めています(15-16)。そのような叫びに神が答えてくださらないのは「悪しき者の高ぶりによる」と指摘します(12)
 
つまり、ヨブの訴えに神が答えてくださらないのは、彼が高慢であるゆえだと指摘するのですが、はたしてそうでしょうか。その理屈で言うなら、祈りが聞かれないのは不信仰だからであり、祈りが足りないからでです。それはカルト宗教が信者を熱心にさせるための手口と同じです。
 
私たちの祈りは神に届いています。エリフがいみじくも述べているように、「あなたの訴えは(神の)御前にある。あなたは神を待つべき」なのです(14)
 
不信仰だからだと自分を責めたり他者を責めるのをやめよう。祈りが足りないからだと脅すのをやめよう。信じて待とう良きことをなさる神であることを信頼して待とう
 
最後にもうひとつ。エリフはヨブの主張に矛盾を感じたようですが、私はそうは思いません。ヨブが主張するように、人の正しい行いが神に役に立つとがあるでしょうか。人の小賢しい正しさが神を喜ばせるとでも言うのでしょうか。
 
ヨブが主張しているのは〝神が〟私を正しい者だとしてくださることを期待しているのです。不完全な人間ごときが正しいことを行ったり、自分は正しいと主張しても、それで正しいとされるのではありません。
 
では〝どうやって?〟……どうしても、行いを考えてしまいます。行いではなく信仰によってです。神を信頼する信仰によって、神はその人を義と認められるという世界を知ってほしい。ヨブよ、そしてヨブにつながる人々よ、「信仰によらなければ神を喜ばせることはできない」という世界を知ってほしい。(Ω)


ヨブ記 34章

2019年05月28日 | ヨブ記
ヨブ記34:17 いったい、公義を憎む者が治めることができようか。正しく力ある方を、あなたは罪に定めることができようか。(新改訳)
 
繰り返すことになりますが、ヨブは「自分は潔白である」と主張してきました。エリフはそれを再確認しています(34:5-9)。しかし、ヨブがそのように主張すればするほど、「神に間違いがある」「間違っているのは神だ」と主張することになってしまうわけです。
 
だから、エリフは「神は断じて悪を行うことなく、全能者は断じて不義を行うことはない」とヘブル的神学の正統理論を述べます(10-11)。かたや人間味あふれるギリシャ神話では、神々が多くの過ちをおかすわけですが、それとは正反対です。
 
さらに、神がいかに正しいお方であるかを論じて行きます。神はえこひいきをなさらない方であること(19-21)。そして、神の目にはどんな悪も隠せることがなく、それを確実にさばくお方であることを語ります(22-30)
 
31節からは翻訳によって随分と違いがあります。大まかな意味は「私は罪をおかしました。もうしません」と申し上げても、どのようにあなたを裁くかは神のなさることだ。なのに、ヨブよあなたは神に対して反論するのか……といったところです。 ※口語訳では「私は罪を犯さないのに懲らしめられた」(31)と訳しておりニュアンスが異なる。
 
さあ、冒頭の聖句を考えてみましょう(34:17)
 
はたして神に問題があると言えるのかと問うています。多くの人が、苦難や災害があると「神がいるならどうしてこんなことが……」「ほんとうに神は愛なのか……」と叫んでしまいます。つまり、神を罪に定めることをしてしまいます。
 
神がいるならどうして……と問うのは〝利益のために信じる神〟を求めているからです。世の一般宗教はそうですが、キリストへの信仰は違います。 ※ヨブが苦難を受けるきっかけは、「神から良くしてもらっているからヨブは信心深いのだ」というサタンの疑問であった。
 
私たちにも問われています。「あなたは何のために信じているのですか」と。神と共に生き働くのが、被造者である人間としての本分だからです。ですから、良くても悪くても神を信頼して神と共に生きるのです。 ※本分とは〝あるべき姿〟のこと。
 
ですから、神がおられるのに災いを受けることがあります。神が愛であられるのに苦難を受けることがあります。しかし、その神が、人となって来られて、人類史上ほかにないほどの苦難を受けられたことを忘れてはなりません。しかも、それが私たちの罪の支払いであったことを……。(Ω)

ヨブ記 33章

2019年05月27日 | ヨブ記
ヨブ記33:30 魂を墓から引き返し、彼に命の光を見させられる。
 
エリフの論旨は、神が苦難とか災いをおゆるしになるのは、教育的な意味があるだという内容です。懲らしめられることで人は正され、滅びに至ることを免れるためだと教えています。
 
ヨブはこんなに神に叫んでも答えてくださらない、神は私の敵となられたのだと言っているが、「神はある方法で語られ、また他の方法で語られるが、人はそれに気づかない」とエリフは諭します(33:9-14)
 
つまり、エリフにいわせれば、寝床で恐ろしい幻や夢を見るとか(15-17)体調の異変とか(19-22)、そんな諸々の災いの中で、神は警告するかのようにして語りかけておられるのだというのです。
 
それは、その人の「魂を守って、墓に至らせず、その命を守って、剣で滅びないようにされる」ためです(18)。同様の主旨のことが24節にも30節にも記されています。
 
口語訳は「墓に至らないため」ですが、「墓」は別訳では「滅亡」とか「よみ」と訳されています。いずれにせよ、神は苦難や災いをもって私たちに悔い改めへと導き、滅びないように(よみにくだって行かないように)語りかけておられるのだというのです。
 
確かにそのように神はあえて苦難をおゆるしになることがあります。旧約における民は神の教育的苦難を度々受けています。その度に、民は悔い改めて神に立ち返った歴史が記されています。
 
神は、私たちを愛する故に訓練なさるのです。わが子が罪に汚れるのを放っておかれません。だから懲らしめられます。問題はそれが該当する場合もあれば、そうではないことがあります。
 
エリフの教えも一面では確かにそうなのですが、すべての問題を説明することができません。すべての問題を解決できてこそ真理です。そして、真理はあなた方を自由にするのです。(Ω)

ヨブ記 32章

2019年05月25日 | ヨブ記
ヨブ記32:18 私には言葉が満ち、私の内の霊が私に迫るからだ。
 
ここにブズ人のエリフという若者が登場します。先の3人の友とは別人です。早い段階からヨブたちの議論を聞いていたようですが、発言は慎んでいたようです。
 
エリフは〝ブズ人〟とありますが、ブズ人はアブラハムの兄弟ナホルの子孫だといわれています。3人の友たちは皆イスラエルからすれば外国人ですが、エリフは直系ではないものの近い存在です。そんな彼の意見の背景にはヘブル的神学の影響があるようです。
 
さて、「人間の不幸は罪の結果である」と主張する3人の友と、それに対して「自分は潔白だ」と主張するヨブとの論争はかみ合わないままです。業を煮やしたエリフは、「自分は正しい」と主張するヨブの傲慢に苛立つと共に、ヨブに答えることのできない3人の友たちにも怒りを覚えています。
 
冒頭の聖句は新共同訳では「言いたいことはたくさんある。腹の内で霊が私を駆り立てる」と訳しています。「新しいぶどう酒の皮袋のように」(32:19)と記されているように、エルフは言いたくて仕方がないのです。 ※新しいぶどう酒がアルコール発酵するので皮袋が膨張するようにエリフの言葉はあふれ出てきている。
 
エリフの論旨には今までの3人にはなかった視点があります。それは人が霊的存在であるという点です。8節でも「人の内には霊があり、全能者の息が人に悟りを与える」とありますが、全能者の息とは霊という意味です。人の本質は霊であり、霊から絞り出すような言葉が真実なのだという理解です。
 
日本的にいえば〝魂の叫び〟です。知性とか理性とかから出てくる言葉ではなく、彼の深いところである霊からの言葉のことです。たしかに真実な言葉は人の霊からの言葉です。「人の思いは、その内にある人間の霊以外にだれが知っていようか(Ⅰコリント2:11)と記されているとおりです。
 
問題はその霊はきよめられているのかどうかです。神は人の霊に聖霊を住まわせようと計画なさっています。しかし、それが実現するのはイエス・キリストが十字架で罪のきよめをなし終えた後です。
 
聖霊を受けて語ろう。聖霊によって錬られた〝わが霊魂〟からの言葉で語ろう。(Ω)

ヨブ記 31章

2019年05月24日 | ヨブ記
ヨブ記31:35 だれか私の言うことを聞いてくれる者はいない者か。……ここに私の署名がある。全能者が私に答えてくださるように……私を訴える者が書いた告訴状があれば、私はそれを肩に担ぎ、冠のように、それをこの身に結びつけ、私の歩みの数をこの方に告げ、君主のようにしてこの方に近づきたい。(新改訳2017)
 
冒頭の聖句は難解な箇所です。新改訳2017版でいう「ここに私の署名がある」は、新共同訳では「見よ、私はここに署名する」。口語訳では「私の書き判がここにある」。新改訳は「見よ、私を確認してくださる方」。
 
先の29章では、かつてのヨブは人々から尊敬を集めるほどの人格者であったこと。しかし、30章では、そんなヨブは不当な仕打ちを受けているが、神は答えてくださらない。そしてこの31章で、ヨブは自分が潔白であることを堂々と訴えています。「正しいはかりをもって私を量れ。そうすれば神は私の潔白を知られるであろう」と述べているとおりです(31:6)
 
1節の「私はわたしの目と契約を結んだ」とは、この目が女性を姦淫の目で見ないようにしたという意味です。好色の罪を犯さなかったと述べます。また、5節からは「嘘つきではない」と述べ、9節では「姦淫の罪も犯していない」と主張します。もし、そのような罪があるなら、私は徹底的に滅ぼされて当然だと言います。
 
以後、様々な罪が述べられ、ヨブはそれらの罪に対しても潔白であると主張し、最後に冒頭の言葉を述べるのです。
 
だれか私のこの訴えをきちんと受けとめてくれ。私の証言には偽りがないことを表すための印鑑を押したのだ……と。書面に直筆の署名をした正式な告白です。これに全能者である神が応答してくれるようにと願っています。
 
いやいや、ヨブよ。お前には罪があると訴える「告訴状」があれば、なお好都合だ。それに反論するに足る証言をもっているので、その告訴状をわが身に付けて、堂々と神の御前に出るのだ。以上が35~37節の意味です。
 
いったいこのヨブの確信は何なのでしょう。ひとつの見方は、ヨブの高慢です。被造者である立場の「正しい」とは、神の如く完璧であることを意味しないからです。造られた者としての〝分〟をわきまえ、その 〝分〟  を越えないことこそ被造者としての正しさです。
 
もうひとつの見方があります。ヨブがいみじくも語ってきた「贖う者」「保証する者」「代わりの者」の存在です。キリストの存在があれば、私たちは大胆に神の御前に出ることができます。しかし、まだこの時点ではそれらは明らかにされいません。
 
「自分は潔白である」というヨブの証言を読むと、これほどまでに正しくなければならないという意味になります。ヨブはそうできたのかも知れません(これは皮肉です)。でも、私にはできません。痛いところをチクチク刺されます。ああ、私はヨブのようになれないと思います。
 
でも、祈ります。「主よ、私はヨブのようではないことを感謝します。ヨブのように立派でないからこそ、私にはキリストが必要です。こうして今、キリストは私と共におられて執り成してくださることを感謝します」。(Ω)

ヨブ記 30章

2019年05月23日 | ヨブ記
ヨブ記30:20~21 私はあなたに向かって呼ばわっても、あなたは答えられない。私が立っていても、あなたは顧みられない。あなたは変わって、私に無常な者となり、御手の力をもって私を責め悩まされる。
 
先の29章では、過去を振り返って「昔はよかった」と告白していました。昔は、若者たちから老人までがヨブを尊敬してくれました。「しかし、今は私よりも年若い者が、かえって私をあざ笑う」のです(30:1)
 
昔は、ヨブは人々からの称賛のまとでした。「それなのに、私はいま彼らの歌となり、彼らの笑いぐさとなった」のです(30:9)。人々はヨブを忌み嫌って遠ざかり、情け容赦なくつばを吐きかけ、蔑むのです(30:10)
 
あまりにもの落差。見事な手のひら返し。なんと悲しいことか。やり場のない悲しみや怒りがヨブの魂を揺さぶるのです(30:27)
 
このヨブの叫びは神に向かっています。でも、神は応えてくださいません。最後の望みの綱である神からの応答もない状態……。これが本当の〝死〟なのだと思います。人の死とは、単なる肉体の死を意味するのではなく、神との断絶です。ヨブはそんな死の苦しみを受けていたのです。
 
神の御子イエス・キリスト栄光ある神の御姿であるお方ですのに、人々からあざけられ、つばを吐かれ、痛めつけられ、はずかしめを受けられました。そして、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶほどに神との断絶を味わわれたお方です。
 
ヨブの苦しみがイエスのそれと同じだとは断定できませんが、時に御子の苦難を共にするような経験が人には与えられるのかも知れません。なぜそうなさるのか。それに対する明確な回答を私は持ち合わせていません。
 
ただ、ヨブ(私・あなた)と同じような苦難を、否それ以上の苦難を引き受けられた罪なきお方がイエス様であることは事実です。このお方を受け入れ、このお方と共に苦しみ、共に喜ぶ者に真実な回答があるような気がします。(Ω)

ヨブ記 29章

2019年05月22日 | ヨブ記
ヨブ記29:2 ああ、できれば私は、昔の月日のようであったら良いのに。神が私を守ってくださった日々のようであったら良いのに。(新改訳)
 
ヨブは過去を振り返って懐かしんでいます。昔は良かった。昔のようであったら良いのに……と。
 
かつてのヨブの様子が描かれています。神の光がヨブを照らしていて、暗闇でも明るく歩くことができたのです(29:3)。どれだけ栄光に富んだ生き方だったのでしょうか。
 
ヨブは人々から尊敬を受けました(29:7-11)。それは、彼が貧しい人や弱い人々を助けたからです(29:12-20)。そんなヨブの発言に人々は一目を置き、首長や王たちもヨブに意見を求めるほどでした(29:21-25)
 
ヨブって凄い人だったのです。まるでキリストのような姿にも見えます。ところが、今は見る影もありません。次の30章では嘆きの言葉がつづられています。
 
どうしてこのようなことがあるのだろうか。私も説明できません。
 
ただ言えることは、光を創造なさった神は闇も創造なさったのです。平和を造られた神は、わざわいも創造なさったのです(イザヤ45:7)。これを創造なさったからには、光であろうが闇であろうが、平和であろうがわざわいであろうが、すべては神の御手にあるという意味です。
 
そして、それを神は御心のままにお与えになる権威があるのです。それは陶器師が陶器をいかような形にも造る権限があるのと同じです。だから、陶器は陶器師に向かって不平を言うことができないのです(イザヤ45:9)。でも、神はあわれみ深いお方です。不格好に造られた陶器さえも、栄光を盛るために計画なさっているのだと言います(ローマ9:2-23)
 
私たちには分からないことばかりです。でも、確実に言えることは、すべては神のご支配の中にあり、すべては神の御手の中で益と変えられるということです。ただただ、神を信頼するしかありません。ただただ、今は苦難の中にあることをおゆるしなっている神の権威に従うのみです。
 
だから、「過去は良かったが今は悪い」と言うのをやめよう。「今は恵みの時だ」と信じよう
 
もう一点、ヨブの心を探ってみたいことがあります。かつて繁栄していたときは、神が共におられて云々……と述べています(29:5)。ということは、今は神は共におられないとヨブは感じているのです。
 
果たしてそうなのでしょうか。神は沈黙なさってはいますが、共におられるお方です。
 
足跡」という詩をご存知でしょうか。
 
過去を振り返るとイエスと私のふたり分の足跡があった。しかし、あるときから足跡はひとり分になっていた。ひとり分の足跡の時代はちょうど自分が苦難の時と符合する。ということは、その苦難のときイエスさまは私を離れて見捨ててしまわれたのか。
 
それに対して「いや、あの苦難の時、わたしはあなたを背負って歩いていたから、足跡はひとり分なんだ」とイエスは答えられたのです。
 
ヨブの一番苦しいとき、神は共におられないと思えるとき、ヨブ以上に苦難を受けられたキリストが、ヨブと共におられることを知ってほしい。(Ω)

ヨブ記 28章

2019年05月21日 | ヨブ記
ヨブ記28:20 それでは知恵はどこから来るか。悟りのある所はどこか。
 
冒頭の言葉と同じ問いかけが12節にもあります。ヨブは神の知恵を求めたのです。これは3人の友人との対話によって到達できなかったことです。友たちはさも究極の知恵であるかのように語ったが、満足の行くものではなかったのです。
 
それまでも人間は様々な知恵を得てきました。地中の奥深くから金鉱石や鉄鉱石を掘り出し、それを製錬する知恵を得て来ました。奥深い山の中にそれを見出す道を見つける知恵はなんと優れたことか。他のどんな動物たちも見つけ出すことができない(28:1-11)
 
しかし、本物の知恵に至る道が分からないのです。
 
いったいどこにその道があるのだろうかと探究するも、「淵」も知らないと言い、「海」も知らないと言う。大自然のどこにも見出すことができません(28:13-14)。また、「滅びと死」にたずねてみても、噂を聞いただけでよく分からないと答えます(28:22)
 
その知恵は純金によっても買えず、様々な高価な宝石によっても買うことができない(28:15-19)。いったい、本物の知恵はどこから来るのか(28:20)
 
12節と20節に知恵を求める問いかけが2回記されていますが、両者に変化があります。最初は「どこで見つけられるのか」と問うています。人間の側から一生懸命探して到達しようとしています。
 
しかし、最後の問いかけは「どこから来るのか」と問うています。
 
つまり、人間の側から探しても到達できない。神の側からやって来ないと知り得ないのです。神からの啓示がなければ、だれも知ることのできないのが知恵なのです。
 
一般宗教はみな「人間から神に到達しよう」という方向です。人間が探した知恵とか、人間の立派な行いとか……。そのような哲学や理論を幾重にも積み重ねて天に至ろうとする道です。まさにバベルの塔です。
 
しかし、聖書が示す信仰は「啓示宗教」です。ベクトルが逆です。神が知恵を啓示し、神が道を用意なさるのです。その究極が、神の側からやって来られたイエス・キリストです。このお方にこそ、神の知恵が満ち満ちています。このお方こそ天への道です。このお方を通して父なる神に出会うのです。(Ω)

ヨブ記 27章

2019年05月20日 | ヨブ記
ヨブ記27:6 私は自分の義を堅く保って手放さない。私の良心は生涯私を責めはしない。(新改訳)
 
このヨブの言葉を聞いて何を感じるでしょうか。ここまで主張できるヨブは頑張り屋さんだなぁ……すごいなと感じる人もいるでしょう。また、逆に「肩に力はっているな」と思う人もあるでしょう。
 
ヨブの堅い決意は2~6節に表れています。
 
口語訳の場合、「神は生きておられる。彼は私の義を奪い去られた。全能者は私の魂を悩まされた(27:2)と翻訳していますが、新改訳は「私の権利を取り去った神、私の魂を苦しめた全能者を指して誓う」となっています。
 
口語訳では、うらみがましく神に訴えているイメージですが、新改訳では、自分を苦しめた神に対してなおも信頼をもって宣言しているように感じます。
 
神は私の義を奪ったけれど(口語訳)、私はその義を手放さないというのです。
 
なぜ、ここまで確信しているのだろうか。ヨブの単なる肉的な頑張りであろうか。不当な苦しみのあまり意固地になっているのだろうか。私はそうとは思えません。
 
ヨブが苦しみの中で、くしくも預言的に語った「保証人」「贖う者」「代わりの者」の存在ゆえに私は義を手放さないし、私の良心は私を責めることがないと言い得たのではないかと思います。
 
普通にはここまで言えません。「私は正しい」と自分を守るために人前では主張しても、静かになって良心の声に耳を傾けると、「お前、そう言うけれどなぁ」と責めを感じるものです。
 
私を保証し、私を執り成し、私の身代わりなってくださる方の存在なくして、このようには主張できません。そうです。その方こそ私たちの主イエス・キリストです
 
ヨブの宣言の冒頭に「キリストにあって」と述べるなら、現実味があります。肉による頑張りなしに、肩に力を入れなくても、私たちはキリストにあって、私の義はだれも奪うことがないと主張できるのです。(Ω)

ヨブ記 26章

2019年05月18日 | ヨブ記
ヨブ記26:4 あなたはだれの助けによって言葉を出したのか。あなたから出たのはだれの霊なのか。
 
もっともらしい言葉を語ったビルダデに対して、ヨブは皮肉まじりに答えます。ご立派な言葉ですが、その言葉で弱っている人をどれほど助けたというのですか。知恵のない人々をどれだけ悟りに導いたのですか(26:2-3)
 
これぞ真理だと言わんばかりにおっしゃいますが、それはだれのお言葉ですか。……つまり、本当に神の言葉なのか……と。そうでなければ、いったいどのような霊の導きで語ったのか(26:4)。 ※新改訳では「だれに対して言葉を告げているのか」となっているが、口語訳・新共同訳を参照。 ※言葉は霊的なものだ。ただ、その言葉が聖霊による言葉なのか否かを問うている。「霊」は「息」「風」とも訳す。
 
3人の友たちが語ってくれたが、ヨブの心には届きませんでした。ヨブは応報論から抜け出して、「代わりの者」「天におられる証人」「執り成すおかた」「贖うおかた」の存在を提示してきたが、だれもこのお方を論じようとせず避けています。
 
話しは変わりますが、ヨブの友人たちはみな男性です。男の人はどちらかといえば人の話を聞かない。聞きながら正解を語ろうとする。聞きながら解決策を授けようとする。聞きながら会話に勝利しようとする。かたや女性は共感しようとする傾向にあります。
 
多くの場合、問題を抱えている人が語り出すとき、まず必要としているのは、女性たちがそうであるように「共感する」ことが大切なのだと思います。 ※かく言う私も前述の男性的な会話をしてしまう典型である。時々妻に叱られる。「私は答が聞きたいのではなく共感して欲しいのだ」と。
 
「良し悪し」は後まわしにして、「判決」を急がないで、まずじっくり聞いて共感しよう。人に相談するよりも、まず神に祈るべきなのは、神がそのようにして私たちの祈りを聞いてくださるからです。
 
人に相談すると、ヨブの3人の友のように、人は何かと回答しようとしたり、間違いを指摘しようとする傾向にあります。しかし、神に祈る時、ヨブの場合がそうであったように、神はすぐに応えてくださいません。無視しておられるのではありません。沈黙なさっているようですが、私たちの苦しみを「そうかそうか」「大変だったねぇ」と聞くことに徹しておられるのだと思います。
 
ヨブ記の聖書解説からずれた話題ですが、彼らの対話から学ぶべき事ではないかと思い記しておきます。
 
さて、かみ合わない議論のまま、26章から31章まで、ヨブはこの苦難を通して考えたことをまくし立てるように語り出します。引き続きヨブと共に考えて行くことにしよう。(Ω)

ヨブ記 25章

2019年05月17日 | ヨブ記
ヨブ記25:4 人はどうして神の前に正しくあり得ようか。女から生まれた者がどうして清くあり得ようか。
 
25章で3人の友たちの議論は終わります。最後に語ったのはビルダデです。今までの主張をまとめるようにして短く語っています。ヨブは自分は正しいと主張するが、「結局のところだれも神の前に正しい者はいないのだ」と結論づけています。
 
一面これは真理です。旧約(詩14:3)でも、新約(ローマ3:10)でも「義人はいない。ひとりもいない」と結論づけています。
 
しかし、こう主張することでビルダデは大きな矛盾をかかえることになります。
 
彼の論旨は伝統的な応報論であって、「正しい者は神によって祝福される」と言い、「悪しき者は神によって没落するのだ」と論じてきました。
 
ところが、「神の前に正しいとされる者はいない」のに、現実は繁栄している人々がいます。彼らは繁栄しているので正しい人なのでしょうか。そうとは言えません。逆に、苦難を受けている人々は、それなりの罪を犯しているからなのですか。そうとも言えません。むしろ、ヨブが指摘しているように、「悪しき者であるのに繁栄している」のです。
 
この矛盾をかかえたまま行くなら、繁栄を得るために、結局は表面的な正しさを整えることに徹するしかありません。罪人としての本音は隠して〝正しい人〟を徹底して演じるのです。
 
それは、律法的に正しくあろうとするが、内なる罪人の問題は解決しないまま「白く塗られた墓」となる道です。このように見て行くと、エリパズたちが律法学者たちのように見えてきます。
 
ある律法学者パリサイ人は、自分が正しい行いをしている者であることを神に報告し感謝の祈りをしました。一方で、律法を守ることもできない取税人は胸を打ち叩きながら「罪人の私をおゆるしください」と祈りました。このふたりの内で、神から義と認められたのは取税人の方だと、主イエスは宣言なさいました(ルカ18:9-14)
 
ここに新しい世界があります
 
ビルダデによるなら、「人はどうして神の前に正しくあり得ようか」という世界しかありませんでした。これが律法の世界です。律法によるなら、だれも義と認められない世界です。ヨブも「自分は正しい」と主張はしてみるものの根拠がありません。
 
しかし、イエス・キリストは私たちの霊魂を見抜かれます。私たちの信仰を見て「あなたは正しい」としてくださるキリストの宣言にこそ根拠があります。(Ω)

ヨブ記 24章

2019年05月16日 | ヨブ記
ヨブ記24:1 なにゆえ、全能者はさばきの時を定めておかれないのか。なにゆえ、彼を知る者がその日を見ないのか。
 
ヨブは神への信頼と恐れを感じつつ、神への疑問をぶつけます。かつてのヨブも、エリパズ(エリファズ)たち同様、「神に従う者は幸いを与えられ、神に逆らう者は災いを受ける」……それが当然だと考えていたのです。
 
しかし、いざ自分が心当たりのない苦難を受けると、今までの因果応報的な思考はヨブの中で崩壊していったのです。
 
それまでのヨブであれば、災いの中にある人を見ては、彼は何らかの罪を犯していて、それを戒めるために神は災いをお与えになったのだと思っていたのかも知れません。
 
新約時代のクリスチャンでもそんな思考法をしているかも知れません。あの人が祝福されないのは、祈りが足りないからだ。もっと熱心に神を求めれば主は祝福してくださるのに……と批判していないだろうか。
 
でも、はたして困難の中にある人は信仰が足りないからそのような境遇なのでしょうか。そんな単純な物差しでは測りきれない現実が沢山あるのです。
 
ヨブが世の中を見渡すや、土地の境界線を勝手に変更したり、他者の羊の群れを横取りしたりする者たちがいる(24:2-11)。貧しく弱い人々は、権力や力のある者たちから搾取を受けているのが現状です。でも、神はそれを放置なさっているように見えます(24:12)
 
殺人者もしかり、姦淫者もしかり。彼らは暗闇で犯行に及び、暗闇が悪事を覆い隠してくれるから大丈夫だと高をくくっているのです(24:13-17)。こんな不条理を神はなぜ照らしてくださらないのですか。
 
そこで冒頭の聖句になるのです。「なにゆえ、全能者はさばきの時を定めておかれないのか」と訴えているわけです。 ※新改訳では「なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか」と翻訳されわかりにくい。口語訳を参照。
 
不当な苦難の中にある人々が、神に正しいさばきを求めて祈るも、神は応えてくださらないのはなぜですかと訴えているのです。
 
ヨブは、自分が苦難を受ける側になってみて、その思いを持つに至ったのだと思います。弱者の側になってみて、試練の中にある人を応報論で決めつけたりさばいてはならないと気づくようになったのでしょう。
 
だから、神よ正しくさばいてくださいと叫ばざるを得ません。しかし、神は沈黙なさっています。
 
ただ、イエスは祈り続けるように教えてくださいました。
 
まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなた方に言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるだろうか。(ルカ18:7-8)
 
私たちの目には長い沈黙に見えますが、神はすみやかになさると言われます。神の時を信頼する信仰がはたして地上にあるだろうか。そして、ヨブをはじめ私たちにあるだろうか。(Ω)

ヨブ記 23章

2019年05月15日 | ヨブ記
ヨブ記23:3 ああ、できれば、どこで神に会えるのかを知り、その御座まで行きたい。(新改訳)
 
先のエリパズは、「あなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る」と語ったのですが、ヨブもそれは望むところです。しかし、どうやって神と会えるのか……。それが問題です。
 
ヨブなりに神に叫び、時に「この苦難は神による暴虐だ」とも訴えたのですが、何の音沙汰もありません。手を上げて求める祈りも応えがなく、その祈りの手も重いと感じています(23:2)
 
ヨブは「神の前に私の訴えをならべ、口をきわめて論議するであろう」と述べ、神ととことん語り合いたいと願っています。そして、神が何をお考えなのかを知りたいのです(23:4-5)。しかし、神を求めてもいまだに出会うことができません(23:8-9)
 
神とお会いして、自分の人生の苦難の意味を知りたい。私に悪があったからですか。私は自分が潔白だと思っていますし、それを神は明らかにされるはずだと信じているのです。
 
「しかし彼(神)は私の歩む道を知っておられる。彼が私を試みられるとき、私は金のように出てくるであろう」(23:10)とは、神が自分を取り調べてくれれば、混じりけのない金のように無実だと分かるはずだという意味です。
 
しかし……です。もし、神が有罪判決を下されるなら、それは覆ることはない。神の決定は最終決定である(23:13)。そのことを思うと恐れも感じるのです(23:15)
 
自分のことを神に明け渡すようにして、神の御前に正直に語りたいという心と、神の御前に出ることの恐ろしさ錯綜するヨブの心が表されています。
 
これほどにまで、神と向き合った人がいるだろうか。人生における苦難は、こうして神と真摯に向き合うまたとない機会なのだろうと思います。(Ω)