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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

創世記 50章

2024年01月30日 | 創世記
創世記 50章
ヨセフは彼らに言った、「恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか」。
(50・19)

イスラエルの家族がエジプトに寄留して17年が経ち、ヤコブは息絶えてその民に加えられました。父の死を契機にヨセフの兄たちは、かつての自分たちの悪に対してヨセフが報復するのではないかと恐れました。

ヨセフと兄弟たちが再会して既に17年も経過しているというのに、彼らの心に抜けきれない罪の棘があったのです。このように、罪は時としてすぐには癒えないことがあります。

私たちはイエスによって罪をゆるされましたが、罪の記憶がまだ残っています。法的にはゆるされたのですが、良心の呵責が自分を責め続けるのです。ヨセフの兄弟たちもこれと同じでした。

罪は「傷」のようなものです。神からゆるしをいただいたものの、罪に対する良心の呵責がずっしりと重くのしかかることがあります。これには良心の癒しが必要です。

神からのゆるしを得たにもかかわらず、なおも自分を責め続ける良心があります。このような良心のことを聖書は邪悪な良心(新改訳・ヘブル10・22/口語訳では「良心のとがめ」)と呼んでいます。悪魔によって歪められた良心のことです。

だから、イエスの血によって良心清められなければなりません。

邪悪な良心は、自分が自分の罪を責めたり、ゆるしたりする権限があると考えます。つまり、自分が神の座にすわっているのです。自分が神のようになって自分の罪を責めたり、これだけ責めたのだから「ゆるされる」と考えるのです。でも、それでもゆるされた感じがしないので、再び責め続けるという悪循環をくりかえします。

真面目で良心的なようですが、それは神がご覧になるに「邪悪な良心」です。そこには神のようであろうとする思い上がりが潜んでいます。それは悪魔が刷り込んだ誤った考えです。

だから、ヨセフは、私が神に代わることができましょうかと応えました。

そうです。自分が神になり代って、自分をさばいたり自分をゆるすことなどできないのです。でも邪悪な良心は、神に代って自分を責め続けるのです。

ヨセフはさらに続けて言いました。

あなた方は私に対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。それゆえ、恐れることはいりません。私はあなた方とあなた方の子供たちを養いましょう。(50・20~21)

兄たちのやったことは悪であるという事実は変わりません。しかし、神の大きな御手の中で、神はその悪を善のために用いられる。イスラエルの救いのために取り計らわれるのです。

そんな、神の大きな御手の中で、ヨセフも兄たちをゆるすことができました。自分にされた悪だけにこだわっていたら……、つまり、神の大きな御手を知らなかったら、ゆるせずに憎しみ続けたことでしょう。

神の大きな御手の中ですべては変えられるのです。憎しみはゆるしに変えられ、罪責感は和解と平安に変えられ、悪は善へと変えられるのです。 


創世記 49章

2024年01月29日 | 創世記
創世記 49章
あなた方はヘテ人エフロンの畑にあるほら穴に、私の先祖たちと共に私を葬ってください。
(49・29)


ヤコブは死のまぎわに我が子イスラエル12部族への祝福と預言を語りました。

シメオンとレビにはかつての妹デナに関わる殺人罪の報いがあること、ダンには堕落がそれぞれ預言されています。そんな悲しい未来にも、主よ、あなたの救いを待ち望むと……ヤコブは執り成しを忘れませんでした(49・18)

ユダについての預言は最も多く(49・8~12)つえ王権はユダから離れず(49・10)とあるように、ユダ族から王が誕生し、救い主(メシヤ)へとつながって行くことを予感させます。

当時の現状からすれば、大出世をはたしたヨセフから王の家系が始まりそうに思えるのですが、人間的な予想を超えて、神の御業は進んで行きます。神の視野は我々よりはるかに広く、遠くに及んでいます。

さて、ヤコブは自分をエフロンのほら穴に葬るよう願いました。このほら穴はかつて父祖アブラハムが買い取った墓地で、約束の地にある唯一の所有地でした。ヤコブの遺言は今は寄留の地エジプトにいるが、真に住まうべき所は約束の地カナンであるというヤコブの信仰告白です。

今や、エジプトの総理大臣の父上としての厚遇を受けていますが、そんな世俗の繁栄に甘んじようなどとは思っていません。人生の終わりにあたっても、自分は何者かをヤコブは証ししました。自分は神の民であり、約束の国に属する者であるという告白です。

私たちにとって墓地とは、このような信仰告白です。

私もお願いします。私が地上の生涯を終えたら、どうか私をキリスト教会の墓地に葬ってください(きっと私の息子はそうしてくれるはずです)。キリスト教の墓地は、私はこの地上では寄留者であって、私の真に住まうべき所は天の故郷、神の御国ですという告白を表しています。

ヤコブは当時最高の文明の地エジプトにありながら、その生活に埋没して信仰を失うようなことはありませんでした。つねに彼は、やがて実現する神の御国こそ自分が行くべき所だと信じ続けました。

人には晩年にすべき大仕事が残っています。それは死ぬという仕事です。死後、私たちが行くべき所は天の御国であることを証しして死ぬという大仕事です。


創世記 48章

2024年01月27日 | 創世記
創世記 48章
父は言った
彼らを私の所に連れてきて、私に祝福させてください」。(48・9)


エジプトのつかさとなったヨセフには、長男マナセと次男エフライムのふたりの息子がありました。ヨセフはふたりを連れて、晩年の父ヤコブを見舞いに行った時のことです。

父ヤコブは、ふたりの孫を祝福したいと願い出ました。

この時、ヤコブは自分がかつて父イサクから祝福を受けた時のことを思い起こしていたことでしょう。彼にとっては苦い思い出です。父と兄を欺いて得た祝福でした。

しかし、その祝福は本物でした。だからこそ、自分のような傲慢で卑劣な人間にもかかわらず、主なる神は祝福を注ぎ続けてくださいました。

私は小さい者に過ぎない。しかし、神の祝福は偉大だ。この祝福こそ我が子孫が絶対に失ってはならないものだ。ヤコブはそう願って、ふたりの孫を祝福して祈りました。

荒削りのヤコブでしたが、主なる神は彼を人生のあらゆる出来事を通して訓練し、削り、砕き、造りかえてくださいました。晩年は祝福の基としての円熟した姿を見ることができます。

新約時代の私たちにも、聖霊なる神が内に住まわれて、私たちを取り扱われます。生まれつきの肉なる私の姿は、あの若い時のヤコブと同じです。しかし感謝しましょう。聖霊が私たちを造りかえてくださいます。これは主イエスにある祝福です。

その聖霊が私たちの内に、御霊の実(愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・忠実・柔和・自制……ガラテヤ5・22~23)を豊かに結ばせてくだいます。これこそ神の祝福の実です。円熟したクリスチャンの姿です。

祈りましょう。聖霊様、私の肉なる力を砕くと共に、御霊の実を豊かに結ばせてください。


創世記 47章

2024年01月26日 | 創世記
創世記 47章
ヨセフは父ヤコブを導いてパロの前に立たせた。ヤコブはパロを祝福した
(47・7)


※「祝福した」は、新改訳では「あいさつした」。新共訳では「祝福の言葉をのべた」。原意は「祝福した」である。

ヨセフに導かれてヤコブ(イスラエル)は時のエジプト王パロの前に立ちました。一介の羊飼いであり、カナンから来た田舎者のヤコブには、パロの王宮の威容は圧倒するほどのものです。
 
逆に、エジプト王からすれば、ヤコブは食糧を求めてエジプトに逃れてきた避難民。この両者の取り合わせの何とギャップの大きいことでしょうか。この雰囲気にのまれて小さくなるところですが、何とヤコブはパロを祝福しました。
 
何という大胆さ。ヤコブには、祖父アブラハムから父イサク、そして自分へと受け継がれてきた祝福の基としての自覚と誇りがあったのです。この時のヤコブは130歳。苦労の多い130年でしたが、祝福する老年へと成熟した姿がここにあります。  ※ヤコブが生きた130年を「不幸せ」と訳すより、新共同訳の「苦労に満ちた」が良訳である。不幸な人は他者を祝福できない。ヤコブは苦労を肥やしに「祝福する人」へと変えられたのだ。

新約時代の私たちは、この祝福の基としての使命を、イエス・キリストにあって受け継いでいます。世俗の威容に圧倒されることなく、他者を祝福する者として毅然として振る舞おう。

クリスチャンにはどことなく気弱なイメージが定着していないだろうか。もちろん、義とされた罪人に過ぎない者ですから謙遜でなければなりません。

しかし同時に、主に在っては祝福をもたらす者です。私たちはそのために召されたのですから。世の力や栄華を前に、私たちクリスチャンは小さくみすぼらしく感じることもあります。でも、恐れることなく「祝福の基」として、世に祝福をもたらす存在です。

悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。(Ⅰペテロ3・9)

だから、雄々しくあれ。謙虚かつ大胆たれ。私が祝福しないでいったい誰が祝福するのかという自覚と誇りを持つのです。これは高慢なことではありません。高慢と誇りは区別されるべきです。

パロの前に立って彼を祝福したヤコブの気骨が、私たちの内にもあるように祈ります。


創世記 46章

2024年01月25日 | 創世記
創世記 46章
ヨセフは車を整えて、父イスラエルを迎えるためにゴセンに上り、父に会い、そのくびを抱き、くびをかかえて久しく泣いた。
(46・29)


神の家族の救いのために、ヨセフは父イスラエルとその兄弟たちを呼び寄せました。飢饉はなお数年は続きますが、神の家族はヨセフのもとで救いを得ました。

こうして、ヨセフが見た2番目の夢が実現しました。それは、太陽と月と11の星がヨセフを拝むという内容の通り、父と母と11人の兄弟たちが、エジプトでつかさとなったヨセフにひざをかがめました。

死んだと思っていたヨセフとの再会を果たしたイスラエルの喜びと感動は、どれほど大きなものだったでしょう。

私たちにも、やがて主イエス様が呼び寄せてくださる時が来ます。再臨の時です。天に住む場所が用意できたら迎えに来ると主は言われました(ヨハネ14・3)。この時、すべての人々は、かつて人類が裏切り拒絶して十字架につけて殺したイエス様が天の御国の王であられると知って、驚嘆し、嘆き、ひざをかがめることになります。

特に、十字架につけよと主張したユダヤ人たちにとって、この事実は腰が抜けるほどの驚きとなるはずです。
それは、ヨセフを裏切った兄たちが、エジプトのつかさとなっていたヨセフを知った驚きと同じです。※ゼカリヤ12・10は、そのことを預言している。


しかし、私たちはこのお方を知っています。十字架で死なれたイエスこそキリストであり、天の御国で神の右の御座につかれた王であることを知っています。

さて、ヨセフがイスラエルの家族を迎えた時、ヨセフはパロに次ぐ地位を得ていました。かたや、父イスラエルと兄弟たちはエジプト人が卑しむ羊飼いでした(46・34)。天と地の差のある立場ですが、ヨセフは自分の父とその兄弟たちを恥とせず、暖かく出迎えてくれました。

現在の私たちも、この時のイスラエルの兄弟たちのように貧しく小さな存在です。しかし、主イエスはそんな私たちを御自分の兄弟と呼ぶことを恥とはなさらず、天に迎えてくださいます。実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりの方から出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされないのです(ヘブル2・11)

このような主イエス様のもったいない程の歓迎を覚えるなら、どうして私たちが主イエスを否むことができましょうか。どうして、このお方を無視して生きることができるでしょうか。

祈りましょう。どうか主よ、ペテロたちが主の十字架刑を前にイエスを否んだように、私が主を知らないということがないように、聖霊で満たしてください。


創世記 45章

2024年01月24日 | 創世記
創世記 45章
神は命を救うために、あなた方より先に私をここに遣わされたのです。
(45・5)


ヨセフは兄たちを責めませんでした。それは第一に、兄たちの悔いし砕けた心を知ったからです。第二に、自分も兄たちも、神の大きなご計画の中に用いられて今があることを知ったからです。

兄たちの裏切りという罪があったからこそ、今のヨセフの地位があり、飢饉の中から家族を救うことができました。神は、兄たちの過ちを用いて神の家族を救われたのです。そればかりか、神の家族の中に愛が回復し、互いの信頼と交わりを取り戻したのです。

ああ深いかな、神の知識と富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたいのです(ローマ11・33)

かつてヨセフが見た夢は、父母兄弟たちが自分にひざまずくという幻でしたが、ヨセフはそれを、「自分は兄たちよりも偉くなるのだ」という〝自己実現型の夢〟だとは解釈しませんでした。己の虚栄心を満たすための夢(ビジョン)など、ちっぽけなものです。

ヨセフが見た夢は、神が見せてくださった夢でありビジョン(幻)です。〝神実現型の夢であり、それは預言です。神は、神の御心を成し遂げるために、ヨセフに夢を見させ、ヨセフを用いられました。

ヨセフが見た夢には神の意図が込められていました。それは、神の家族の救いのためにヨセフが用いられることでした。そのために裏切りを受け、そのために患難を通り、そのために今の立場を与えられたのです。

これは神がなさったのだとヨセフは告白しました。この救いのために、神が、自分を苦難にあわせられたのだというのです。

ヨセフは大きな視野から物事を見ています。神のご計画」「神の御心という視野から物事を捕らえています。この視野に欠けると視野は狭くなり、目の前の出来事で一喜一憂し、他者のせいにしたり、後悔ばかりが先立ちます。視野を広げよう。神は万事を用いて益となさるのです。

主イエスの十字架の死もそうです。私たち人間の裏切りによって、主は十字架の死に追いやられました。しかし、主は、人間に裏切られたとはお思いになりません。ただ、「彼らは何をしているのかわからないのです」と執り成してくださいました。

そして、人類の救いには十字架が必要であることを知って、十字架の苦難をお受けになったのです。これは世の終わりの大いなるさばきに備えて、神があらかじめ〝先に遣わされた〟出来事です。

ヨセフの苦難が、そしてイエス・キリストの十字架の苦難が、後の救いのためのご計画となったように、私たちにとっても、あの苦難は、この時の救いのためだったと告白できる時があるはずです。

今は試練の時のようですが、ヨセフがいみじくも告白したように、他の人々より先に遣わされた者としての使命があるのです。他の人よりも先に遣わされて苦しむこともあれば、他の人よりも先に遣わされて救われることもあります。神の測りがたい救いのご計画を感謝し、讃美しよう。


創世記 44章

2024年01月23日 | 創世記
創世記 44章
どうか、しもべをこの子供の代わりに、わが主の奴隷としてとどまらせ、この兄弟たちと一緒に上り行かせてください。
(44・33)


ヤコブの11人の息子たちはエジプトで食糧を無事調達し帰途についたのですが、末の弟ベニヤミンがヨセフ宅から銀の杯を盗んだ疑いをかけられ捕らえられてしまいました。

再び舞台はエジプトのヨセフの邸宅に移ります。兄たちは必死でこれに対応し、ベニヤミンひとりの責任ではない、我々兄弟全員が罰を受けると申し出ました。

我々はわが主に何を言い、何を述べ得ましょう。どうして我々は身の潔白をあらわし得ましょう。神がしもべらの罪をあばかれました。我々と、杯を持っていた者とは共にわが主の奴隷となりましょう。(44・16)

かつてヨセフを奴隷に売った時は、腹違いの弟への憎悪に満ちていた兄たちでしたが、今では心をひとつにして腹違いの末弟ベニヤミンをかばう姿に麗しい兄弟愛が表れています。

兄たちが神がしもべらの罪をあばかれましたと告白したように、ヨセフを裏切った罪を彼らは思い起こし、神の御前に隠し通せる罪はないこと、そして悔い改めて誠実に生きようとする姿も表れています。

中でもユダは、父がいかに末息子のベニヤミンを愛しているのか、この旅にこの子を連れてくるに際してどんなことがあったのか、切々と訴えました。そして、自分がベニヤミンの身代わりになるとまで言い出したのです(44・18~33)

かつてヨセフをねたんで奴隷に売ろうと画策したのはこのユダでした。しかし、今では弟の身代わりを申し出るほどに弟を愛し、父ヤコブを思いやる者へと変えられていました。

話しは変わるようですが、創世記37章からの「ヨセフ物語」に割って入るようにして、38章に「ユダの失態」が記されているのは、文脈からして不自然に思えるのですが、ここに至って合点が行くのです。

弟ヨセフを裏切り、父ヤコブには弟は獣に喰い殺されたと偽り続けたユダは、やがてふたりの息子たちの死、その息子の嫁タマルとの姦淫と続く大失態の中で、悔いし砕けし魂が養われて来たのでしょう。

罪は痛みや苦しみを伴います。しかしこの罪によって、私たちは神への謙遜と従順を学びます。神の喜ばれるいけにえである「悔いし砕けし魂」を献げることができるようになります。思いやる心、哀れみ深い心、愛する心を養います。

なぜなら、多くゆるされた者は多く愛するようになる(ルカ7・36~50)からです。

ユダは神からのレッスンを受けて変えられてきたのです。38章の記録は、そこに至るための布石だったのではないかと思うのです。私たちの人生にも、そんな〝創世記38章〟があるのです。

今までヤコブの家庭に、身代わりを引き受けるような麗しい愛があっただろうか。母親が違うことでいがみ合ったり、父のゆがんだ愛によって関係が冷え切ってしまった神の家族に、暖かい愛が流れはじめた瞬間でした。

ヤコブとその家族にまつわる物語は、壊れかけてしまった家族を悔い改めへと導き、愛し合い、いたわり合う神の民として完成する物語だと言えるでしょう。これこそ「祝福の基」となるべく姿です。

ヤコブ家への取り扱いは、私たちキリスト教会にも同じです。憎しみを愛に造りかえ、愛の器に導かれます。最後に神から問われるのはこの一言です。

愛しましたか」。


創世記 43章

2024年01月22日 | 創世記
創世記 43章
どうか全能の神がその人の前であなた方をあわれみ、もう一人の兄弟とベニヤミンとを返させてくださるように。もし私が子を失わなければならないのなら失ってもよい。
(43・14)


食糧が底をつき、再びエジプトに買い出しに行かなければなりません。しかし、兄弟のシメオンはエジプトで捕らえられており、次回の買い出しには末息子のベニヤミンを連れて行くのが条件でした。それ以外に食糧調達の道はありませんでした。

父ヤコブはベニヤミンを同行させることに反対でした。ヤコブにしてみれば、すでに最愛の妻ラケルの生んだヨセフを失っているのです。その上、同じラケルの生んだもうひとりの息子ベニヤミンまで失うことになりはしないかと躊躇したのです。

しかしついに、ヤコブはベニヤミンを送り出すことにしたのです。冒頭の聖句はヤコブの決意のあらわれです。

ヤコブは家族に起こる一連の事件を通して気づきはじめたのです。子どもに対する偏愛と溺愛が家族の愛を壊してきたことを……。

ヤコブの家庭は、決して理想的な家庭とは言えません。二人の妻のうちレアよりラケルを偏愛したこと。ラケルの生んだヨセフとベニヤミンを溺愛したこと。このようなヤコブのゆがんだ愛が、異母兄弟で構成されていた家族を深く傷つけてきました。

今まで神からの様々な取り扱いを受けてきたヤコブですが、神からの最後のレッスンはについてでした。私たちも同じです。人生の最終に受けるレッスンは「愛」です。

もしベニヤミンを連れて行くことを拒否したなら、兄たちは失望したことでしょう。「ラケルの子は大事にするが俺たちはどうでもよいのか。人質になっているシメオンを犠牲にするのか」。こんな疑念が家族の絆を切り裂いたことでしょう。

ついにヤコブはベニヤミンを失うことを覚悟しました。もし私が子を失わなければならないのなら失ってもよいと告白し、全てを神の御手にゆだて兄弟たちを送り出しました。
ヤコブは偏愛と溺愛の対象であるベニヤミンを手放したのです。

自分の手に握りしめているうちは解決がありません。神の御手に任せ、手放す時、物事が動き始めます。こうして、父ヤコブの決断は、兄たちにも変化をもたらすことになったのです。


創世記 42章

2024年01月20日 | 創世記
創世記 42章
あなた方に誠実があるかどうか、あなた方の言葉をためしてみよう。
(42・16)


パロの夢によって預言された通り、7年の豊作の後に7年の飢饉の時代がやってきました。

エジプトでは、ヨセフの提言に従って豊作の時代に充分な食糧備蓄が実施されました。そしてききんが全地に激しくなったので、諸国の人々がエジプトのヨセフのもとに穀物を買うためにきたのです(41・57)

カナンに住むヨセフの兄弟たちも、食料調達のためにエジプトのヨセフのもとにやってきました。兄たちは彼がヨセフだと知る由もありませんが、ヨセフには彼らが自分を奴隷商人に売った兄たちであることが分かりました。

この時にいたって、ヨセフはかつて見た夢――兄たちの束がヨセフの束に向かっておじぎをした夢――を思い起こし、その意味を悟ったのです。自分がエジプトに売られ、苦難を経て今日に至ったのは、この時のためであったと……。

「あの時はよくぞ裏切ったな!。オレはお前たちが裏切った弟のヨセフだ。見ろ、あの夢の通りになったじゃないか。さあ、食糧を得るためにひざまずくがいい!」と、憎しみに支配されているなら言いたくなりそうですが、ヨセフはしませんでした。

彼は夢に込められた神のあまりにも深いご計画に感動すると共に、この夢の実現にあたり何をすべきかを思い巡らしたに違いありません。

ただ単に、出世した自分に兄たちがかしずく姿を見て、悦にいるような高慢さは微塵もありません。それよりも、神が与えてくれた夢に込められた、神の栄光を見て賛美せざるを得ませんでした。

だから、ヨセフはこのことで私は神をおそれますと告白しました(42・18)

夢が叶った自分を誇るのではなく、神の夢(ビジョン)が実現することによって、神がほめたたえられるようにすべきです。 ※ヨセフの見た夢は2つ。最初の夢は11人の兄弟たちがヨセフにお辞儀をするというもの。2つ目は、父と母と11人の兄弟たちが自分に向かってお辞儀をする内容であった。この時点では末の弟ベニヤミンが不在であり、10人の兄弟たちである。

そこで、第一の夢の完成に向けてヨセフは策を講じました。兄たちにスパイ容疑をかけ、シメオンを人質にとり、この場にいない弟のベニヤミンを連れてこなければならないように仕向けました。

こうして兄弟たちの真意を知ろうとしました。

兄たちは相変わらず昔のようにいがみ合っているのだろうか。それとも、神の家族として愛し合うようになったのだろうか。あなた方に誠実があるかどうか、あなた方の言葉をためしてみようとヨセフは問うたのです(42・16)。この問いかけは、神からの問いかけでもありました。

そのように問われたものですから、兄たちは今まで隠し通してきたヨセフ事件の罪を思い起こさなければなりませんでした。

彼らは互に言った『確かに我々は弟の事で罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、我々は聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ』(42・21)。彼らは罪を解決するために苦しまなければなりませんでした。罪の問題を放置しても苦しみが増すばかりです。時間が経過しても本当の解決はありません。解決のためには苦しみが伴います。

ただ単に食糧を得たいがために、兄たちがヨセフにひざまずくのでは、夢の真意ではないでしょう。誠意をもって罪を悔い改め、神の御前にひざまずくことによって、夢の真意が完成します。

兄たちは帰りの道すがら、声を震わせながら、神が我々にされたこのことは何事だろう(42・28)と告白したように、罪を精算しなければならない時がついにやって来たのです。

これは、神が与えられたビジョン(夢)の完成に向かって必ずくぐらなければならない門です。


創世記 41章

2024年01月19日 | 創世記
創世記 41章
パロはヨセフに言った、私はあなたをエジプト全国のつかさとする」。(41・41)

ついに時が来ました。パロの見た夢を説き明かすために、ヨセフは獄から呼び出されました。まず注目したいことは、ヨセフが7年の豊作と7年の凶作を告げただけでなく、豊作の期間に食糧の備蓄を提案した点です(41・33~36)

ヨセフは未来について予告しただけでなく、そのために何をすべきかを語り、実行しました。神の御言は、聞いて「ああそうですか」では終わりません。みことばに基づいて行動が生まれます。これが信仰者のあるべき姿です。

私たちは、主イエスの再臨と神の御国の到来を知らされています。それを知って「ああ、そうですか」で終わりません。それに備えて生き、行動する者であります。御言を聞いて行う者は岩を土台に家を建てる人のようです。

さて、ヨセフはエジプトのつかさ(総理大臣)に任じられました。投獄されていたヨセフがパロの右の座に就くことになったわけです。何という大逆転!。

神のなさることは、いつもこの大逆転があります。

イエス様も罪人として十字架で死なれ葬られました。聖書ではこの間、陰府に下られたと記されています。ところが、大逆転が起こります。天の父はイエスを復活させて、ご自分の右の座に就かせました。イエス様は、陰府という牢獄から引き上げられて天に昇り、全ての権威を授けられました。

私たちもこの大逆転を信じています。たとい今が牢獄の中のような状況であっても、復活という「夢(ビジョン)」をもっています。この夢があるので、私たちは希望を失いません。

さて、エジプトの王パロが、ヨセフをつかさに任命したことは不思議です。ヨセフは昨日まで投獄されていた囚人です。しかも奴隷の身分の男です。夢を説き明かしたことは凄いことですが、その程度のことでつかさに任命するでしょうか。

ヨセフにはつかさに相応しい品格が現れていたのだと思います。何度も裏切りを経験し、牢獄の中で冷や飯を喰らったのですが、その経験がヨセフを滅ぼすことにはならなかったのです。

何故ですか。ヨセフには夢があったからです。神から啓示された幻(ビジョン)があったからです。それは言い換えるなら、神のいのちを持っていたからです。いのちがあるので、彼はくさらなかったのです。

患難の中で忍耐を学び、忍耐は練られた品性を生み出して行きました。そんな姿が、パロの心を動かしたのでしょう。パロをして、ヨセフにはエジプトを治めるに相応しい品格があると確信させたのでしょう。

大事なことは、私たちが永遠のいのちを持っていることです。「永遠のいのち」とは、「腐らないいのち」です。「滅びないいのち」です。

腐らないいのちを持っているので、牢獄の中でも夢を持ちます。腐らないいのちを持っているので、牢獄の中で謙遜と従順を学びます。腐らないいのちを持っているので、牢獄の中で錬られた品性を生み出します。

ヨセフのように、私たちも神の力強い御手の下に自らを低くします。時が来れば神はあなた方を高くしてくださるのです(Ⅰペテ5・6)。時が来れば、私たちは引き上げられるのです(Ⅰテサ4・17)。
 


創世記 40章

2024年01月18日 | 創世記
創世記 40章
ところが給仕役の長はヨセフを思い出さず、忘れてしまった。
(40・23)


投獄中のヨセフは、同じ獄に収監中の料理長と給仕役長の見た夢を説き明かしました。これは、神がヨセフに与えた賜物でした。※給仕役とは王の毒味役。王からのあつい信頼と、王のために死を厭わない覚悟が必要であった。その重責からして、「献酌官」との表記(新改訳)が相応しい。

ヨセフの説き明かしの通りに、献酌官長は容疑がはれ赦免となり、彼はもとの職に復帰。かたや料理長は処刑。出所の際、ヨセフは献酌官長に、無実の投獄から解放されるよう取り計らいを願いました。

王の食事を整える献酌官長は王に近い立場ですから、ヨセフの無罪を王に進言してくれるまたとないチャンスでした。しかし、献酌官長はヨセフを思い出さず、忘れてしまったのです(40・23)

何という恩知らず者!と言ってやりたいですね。結局、人間とは自分中心なのです。少しばかりの恩義を売って、見返りを期待することなど小賢しいのです。人に期待するから一喜一憂します。人にではなく、神に期待せよ……これが平安の秘訣です。

さて、この時は献酌官長によって事はうまく行かなかったのですが、人の考えるタイミングと神のタイミングとはしばしば違います。

献酌官長が思い出さなかったばかりに、2年後、エジプトの王パロが悪夢に悩む時まで、ヨセフは牢獄にとどめおかれることになりました。

もし、献酌官長が釈放されてすぐに、進言が功を奏しヨセフが牢獄から解放されていたなら、パロの夢を説き明かすという千載一遇の機会に立ち会えなかったことでしょう。

まさに全てに時があるのです(伝道3・1)

神の御業には神の定めた時があるのです。ただ、私たちは自分の都合だけでタイミングを見計らうので、疑いや迷いが生じます。でも、あの恩知らずな献酌官長さえ、神は用いられるのです。

このように、神のなさることは皆その時にかなって美しいのです。私たちは、神のなさることの始めから終わりまで見極めることができないのですから、神のタイミングを信頼すべきです(伝道3・11)


創世記 39章

2024年01月17日 | 創世記
創世記 39章
主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた
(39・23)


ヨセフのたどった歩みはどれも悲惨な道ばかりです。①兄弟たちからの裏切り。②奴隷商人に売られ、エジプトのポテパルの奴隷となる。③ポテパルの妻からの誘惑を断ったことで彼女から恨みを買い、姦淫罪を捏造されて冤罪で投獄される。

しかし、恨みと憎しみに燃えるヨセフ……そんな姿は微塵も感じられません。その理由は、主がヨセフと共におられたのでと、何度もくり返し聖書は記しているとおりです(39・2、21、23)

人生で最も重要なこと。それは主が共におられることです。

どんな華やかな人生でも、主が共におられなかったら、それは暗黒の世界です。逆に、どんなに悲惨な状況下にあっても、主が共におられるなら、そこに希望の光があります。

ヨセフは投獄という最悪の状況でしたが、そこにも不思議な明るさが感じられます。このままで終わるはずがない。主が共におられるのですから……。そんな期待や希望をいだかせる雰囲気があります。

そして何よりも、ヨセフにはあのがありました。あの夢は何を意味しているのだろうか。どのように実現するのだろうか。どのような経過を経なければならないのか分かりませんが、神が見せてくださった夢は必ず成就するに違いない。だから、このままで終わるはずがないのだ……と期待するのです。

このように、ビジョンには試練を乗り越えさせる力があります。

試練は忍耐を生みだし、忍耐は練られた品性を生みだし、練られた品性は希望を生み出すと、苦難の連続であったパウロも証しました(ローマ5・3~5)

試練の中にも夢がある時、忍耐をもたらし、そして練られた品性へと展開します。しかし、夢がなく、主が共におられない試練は、ねじれた品性を生みだし、それは恨みや憎しみを生み出します。

主が共におられる幸いを感謝しよう。主が与えて下さる夢(ビジョン)を持ち続けよう。


創世記 38章

2024年01月16日 | 創世記
創世記 38章
彼女
タマルはユダによってみごもった。(38・18)


38章には、ヤコブの4番目の息子ユダが、自分の息子の嫁タマルとの間に子を生むという失態が生々しく記録されています。このことは、マタイ福音書の系図にもユダはタマルによるパレスとザラの父……としっかりと記録されています(マタイ1・3)

先の37章から「ヨセフ物語」がはじまったばかりなのに、物語に水をさすかのようにユダの失態が記されています。何故でしょう。

どんな困難な中にあってもそれに屈せず、ついにはエジプトの総理大臣まで登り詰めたヨセフです。このヨセフの家系からキリストは誕生したとなると話しは格好良くおさまるのですが……。

しかし、格好良くまとまらないのが聖書です。そして私たちの人生です。

ヨセフを奴隷商人に売ってしまおうと提案したのはユダでした(37・26)。そのユダが今度は、嫁タマルとの間に子を生むのです。何という忌まわしい家系でしょう。こんな恥ずかしい家系は神の民から消し去ってしまいたいところです。

しかし、なんとそのユダの家系からイスラエルの王ダビデが誕生し、神の国の王キリストがお生まれになりました。裏切りや失態によって汚された家系でしたが、キリストを身ごもるという栄誉を受けたのはユダの家系でした。

キリストは傷もしみもない美しい人類の中にではなく、このような汚れに満ちた者たちの中にお生まれくださいました。あの不衛生な家畜小屋にお生まれになったように……。

これは、どんな失敗だらけの人生にもキリストは来てくださるという証しです。

さて、売春婦を装ってまでして、舅のユダの子を得ようとしたタマルについて考えてみましょう。もちろん、このような姦淫を奨励するわけではありませんが、彼女の子を得ようとする情熱と強かさに学ぶところがあります。

「祝福してくださるまではあなたを離しません」と、天使と格闘したヤコブ(イスラエル)に通じるものがあります。食卓からこぼれ落ちたパンくずでも良いのですからと、したたかに求めたカナンの女のようでもあります。

神は、求める者に応えてくださるお方です。求めよ、そうすれば与えられるのです。あわれみ深い主を信頼して、熱心に求める者であれと教えられます。

さて、タマルが生んだユダの子は双子でした。その時の様子が記されており、弟が兄よりさきにと割り込むようにしたことから、その子の名はペレヅペレツ)」と名づけられました。言いかえれば割り込みくんです。

まさに名がしめすように、ヨセフ物語に割り込むようにしてユダの失態が記録されています。

また、割り込むようにしてタマルはイエス・キリストの家系にその子孫を生みました。そして、その子も割り込むようにして、祝福を受けようと生まれてきました。さらに、私たちも、イスラエルの家系からは無縁の異邦人ですが、神の家族として割り込ませて頂いているのです。

だから、これからも大胆に求めようではありませんか。タマルのように、ペレヅのように。求める者に主は応えてくださるのです。


創世記 37章

2024年01月15日 | 創世記
創世記 37章
ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言ったはまた夢を見ました。日と月と11の星とが私を拝みました」。(37・9)


ヨセフはヤコブが年老いてからの子であり、しかもラケルの生んだ子であるため、ヤコブの寵愛を受けました。しかし、このことが他の兄弟たちにねたみを引き起こし、深い溝を作り出していました。

また、ヨセフには夢を通して神の啓示を受ける賜物が与えられており、ある日、父母と兄弟たちがヨセフに向かってひれ伏すという不思議な夢を見ました。

ところが無神経にも、ヨセフはそれを家族の前で誇らしげに告げたので、兄弟たちのねたみはさらに増しました(37・5~11)。そしてついに、兄たちはヨセフを奴隷商人に売ってしまったのです(37・28)

ヨセフの波乱に富んだ人生の幕開けです。

ヨセフの見た夢は、自分はこうなりたいという自己実現の夢ではなく、神の啓示としての夢でした。ですからそれは預言でもあり、神が成し遂げようとなさって彼に見せてくださった夢です。

このような夢はヨセフだけでなく、私たちにも与えられます。神の御言を通して、信仰によって私たちは夢を抱きます。単なる肉の願望ではありません。神が示してくださる夢です。それはビジョンです。

このような夢(ビジョン)を 抱く人は滅びません。夢には希望があるからです。困難を乗り越える勇気を与えるからです。神は、そのような夢(ビジョン)を私たちに見せてくださるのです。

ヨセフは身内の裏切りによって悲惨な道をたどるのですが、不思議なことに、彼にはそれが心の傷となっていません。彼が恨みや憎しみで心を燃やしている姿が記されていません。被害者意識でくさったりもしていません。

何故ならヨセフにはがあったからです。

傷つきやすい人がいます。被害者意識と憎しみの奴隷になったり、くさってしまう人がいます。それは夢がないからです。神が御言を通して示してくださるビジョンがないからです。

米国の黒人解放運動で戦ったキング牧師も、私には夢があると語りました。その夢ゆえに、あれほど理不尽な仕打ちを受けながらも、敵対する白人を愛し続けられたのです。

新約の時代……、それは聖霊によって新しい夢を見る時代です。終わりの時代に、わたしの霊をすべての人に注ごう。若者たちは幻を見、老人たちは夢を見る(使徒2・17)とあるように、私たちは信仰の夢(ビジョン)を持つ時代です。

人生の数々のつまずきを傷とせず、くさらず、乗り越えて行くのは、主イエスが示してくださる夢があるからです。

私たちには夢があります。それは卑しい罪人である私がキリストに似た者へと変えられて行くビジョンです。そして、愛する兄弟姉妹の集う教会が、キリストの花嫁として染みも傷もない栄光の姿に変えられることです。そんな私たちから祝福の川が流れ、高崎の町を潤し、いやし、救って行くビジョンです。こんな夢があるので、教会形成のなかで味わう様々な事件や悲しい出来事も、私たちは乗り越えることができるのです。傷つくこともありますが、それを引きずらないのです。※高崎は著者が住む群馬県の町の名である。

そして、最後に完成する夢……それは復活です。復活のビジョン(夢)をいだく人は、どんな困難の中でも滅びません。くさりません。やけになりません。憎しみに支配されないのです。


創世記 36章

2024年01月13日 | 創世記
創世記 36章
エサウはカナンの娘たちのうちから妻をめとった。
(36・2)


第36章はヤコブの兄エサウの系図が記録されています。エサウの子孫たちはエドム人と呼ばれ、彼らは主なる神から離れてしまい、やがてイスラエル民族に敵対する民となってしまいます。 ※クリスマスの時、幼な子イエスを殺そうとした王ヘロデもエドム人であった。

そのエドム人の始まりにあたって、エサウの結婚について記しています。それは36章だけでなく26章にも記されています。

エサウは40歳の時、ヘテびとベエリの娘ユデテとヘテびとエロンの娘バスマテとを妻にめとった。彼女たちはイサクとリベカにとって心の痛みとなった(26・34~35)。 ※彼女たちは「カナンの娘」である。

カナンの地は偶像の神々を拝む人々の地でした。その地の娘をめとることは、アブラハム・イサクと続いてきた信仰の流れを薄め、歪めることになったのです。それがイサクとリベカにとって「心の痛み」となりました。 ※聖書は男性目線で記録されており、異教徒の女性がイスラエル民族に悪影響を与えたことを問題にしている。女性にとっては不快な記述であろう。しかし、見方を変えれば、それほど女性の影響力は強いのだ。ひとたび女性がキリスト信仰をもつならば、夫を変え、子どもたちを変える霊的な強さを秘めているのが女性だ。未信者の家族の中にある婦人クリスチャンたちの使命は大きい。

実は、エサウがカナンの娘をめとる以前から、彼の信仰は歪んでいました。エサウは長子の権を軽んじたのです。父祖アブラハムから始まった祝福の基となる使命より、即物的な価値観を優先したのです。

信仰によって飯が食えるか!。それより、今日の稼ぎと飯を第一とする生き方です。エサウは主を信じてはいましたが、「神の国と神の義を第一に求める」ことを軽んじたのです(25・3~34)

信仰を同じくする伴侶が得られるようにと祈ります。なぜなら、神のご計画は、イエス・キリストを信じる私と私の家族から祝福の川を流し出そうとなさっているからです。「地上のすべての人々は、あなたとあなたの子孫によって祝福される」のです(28・14)

この聖なる使命を共有できる伴侶を得るように祈ろう。また、未信者の伴侶を得ておられるなら、万事を益とされる神の御手の中で、信仰を共にする伴侶へと造りかえられるように祈ろう。

初めが肝心です。私と私の家族とは主に仕えますと告白しようどうか、私の子孫から、イエス様に敵対する者が生まれないようにしてくださいと祈ろう。