創世記 50章
ヨセフは彼らに言った、「恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか」。(50・19)
ヨセフは彼らに言った、「恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか」。(50・19)
イスラエルの家族がエジプトに寄留して17年が経ち、ヤコブは息絶えてその民に加えられました。父の死を契機にヨセフの兄たちは、かつての自分たちの悪に対してヨセフが報復するのではないかと恐れました。
ヨセフと兄弟たちが再会して既に17年も経過しているというのに、彼らの心に抜けきれない罪の棘があったのです。このように、罪は時としてすぐには癒えないことがあります。
私たちはイエスによって罪をゆるされましたが、罪の記憶がまだ残っています。法的にはゆるされたのですが、良心の呵責が自分を責め続けるのです。ヨセフの兄弟たちもこれと同じでした。
罪は「傷」のようなものです。神からゆるしをいただいたものの、罪に対する良心の呵責がずっしりと重くのしかかることがあります。これには「良心」の癒しが必要です。
神からのゆるしを得たにもかかわらず、なおも自分を責め続ける良心があります。このような良心のことを聖書は「邪悪な良心」(新改訳・ヘブル10・22/口語訳では「良心のとがめ」)と呼んでいます。悪魔によって歪められた良心のことです。
だから、イエスの血によって「良心」を清められなければなりません。
邪悪な良心は、自分が自分の罪を責めたり、ゆるしたりする権限があると考えます。つまり、自分が神の座にすわっているのです。自分が神のようになって自分の罪を責めたり、これだけ責めたのだから「ゆるされる」と考えるのです。でも、それでもゆるされた感じがしないので、再び責め続けるという悪循環をくりかえします。
真面目で良心的なようですが、それは神がご覧になるに「邪悪な良心」です。そこには神のようであろうとする思い上がりが潜んでいます。それは悪魔が刷り込んだ誤った考えです。
だから、ヨセフは、「私が神に代わることができましょうか」と応えました。
そうです。自分が神になり代って、自分をさばいたり自分をゆるすことなどできないのです。でも邪悪な良心は、神に代って自分を責め続けるのです。
ヨセフはさらに続けて言いました。
「あなた方は私に対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。それゆえ、恐れることはいりません。私はあなた方とあなた方の子供たちを養いましょう。」(50・20~21)
兄たちのやったことは悪であるという事実は変わりません。しかし、神の大きな御手の中で、神はその悪を善のために用いられる。イスラエルの救いのために取り計らわれるのです。
そんな、神の大きな御手の中で、ヨセフも兄たちをゆるすことができました。自分にされた悪だけにこだわっていたら……、つまり、神の大きな御手を知らなかったら、ゆるせずに憎しみ続けたことでしょう。
神の大きな御手の中ですべては変えられるのです。憎しみはゆるしに変えられ、罪責感は和解と平安に変えられ、悪は善へと変えられるのです。
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