詩篇30:1 主よ、私はあなたをあがめます。あなたは私を引きあげ、敵が私の事によって喜ぶのを、ゆるされなかったからです。
この詩篇は「You Raise Me Up」の詩篇です。 ※日本ではケルティック・ウーマンという女声ボーカルグループが歌って一躍有名になった。荒川静香さんもスケートのフリースタイルでこの曲を採用し注目を浴びた。
私たちの神は、引き上げてくださるお方です。敵の罠にはまって、罪の中でもがき苦しんでいるところから、主は引き上げてくださいます。困難故に悶々としている暗闇から、主は引き上げてくださいます。
もし、私が落ち込んだままでいるなら、敵は拍手喝采。祝宴を上げることになります。私たちの敵とは悪魔とかサタンと呼ばれる存在です。
ああ、主よ。私をこのどん底から引き上げてください。敵があざ笑うのをおゆるしにならないでください。そして、事実、主は私たちを引き上げてくださるのです。詩篇はさらにこう続きます。
「主よ、あなたは私の魂を陰府からひきあげ、墓に下る者のうちから、私を生き返らせてくださいました」(30:3)。
あの水の上を歩いたにもかかわらず、嵐を見ておぼれかけたペテロを、主イエスは引き上げてくださいました。再びおいでになる主イエス・キリストは、最後のさばきから救い出すようにして、私たちを天に引き上げて下さるお方です。
私たちの住むこの世界は、まさに黄泉(よみ)のような世界です。罪と死が支配する世界です。でも、私たちはそこから引き上げられるのです。復活の日、私たちは墓に捨ておられることなく、復活して出てくるのです。その希望を常に忘れないでいよう。
「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」(30:5)。涙の夜があっても、主は私を引き上げてくださるので、喜びの朝を迎えることがででます。
「夜」とは泣き明かすしかできない時間です。何も出来ない領域です。何も出来ないというよりは、何もしないで、神におまかせして休むという領域だとも言えるでしょう。
昼間は働いて活動しますが、何も出来ない夜、何もしないで神にゆだねるしかない夜が、人間には必要です。ですから、何も出来ないで、悲しむことしかできない夜は、神の癒しの御手にお任せする時間です。
ゆだねて休もう。朝と共に喜びが来るのです。涙のある夜も、神が癒される時間帯です。主が引き上げてくださるのを信頼して、何もできない「夜」を通過します。
そんな夜の次には、朝と共に喜びが来ることを信じて。(Ω)
詩篇29:1 神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
「神の子ら」とは人間のことです。新改訳では「力ある者の子ら」と訳されています。人は神に似せて創造されましたから、神のように力ある存在であります。時に、王になって最高の権力を手にすることもあります。
でも、「主に帰せよ」と御言は命じています。
「主に帰せよ」とは、主に帰りなさいという意味です。人は、本来、神のものです。神の所有としてあるとき、人としての本来の生き方ができるものです。本来あるべき所にあるとき、そのものの本来の意味が生じます。
例えば、ボートが陸地に置かれたままであれば無用の長物。物入れにするにしても、風呂にするにも不釣り合いです。海に置かれてはじめて意味をなします。
それと同じように、人間も神の手にあってこそ意味があります。
神は、人間に神の働きをまかせようと、人間を神に似せて創造なさいました。なのに、人間が自分の楽しみや肉欲の満足のためにだけ生きようとするので、人生が空しく過ぎ行きます。
だから、神の子らよ、主に帰せよ……なのです。
栄光と力も、主に帰せよと述べています。栄光は神がお受けになるべきものです。人間が受けると、それは似合わないのです。人間が栄光を受けようとすると、人間が歪(ゆが)み始めます。人間は、栄光を受けるようには造られていないからです。
悪魔(サタン)は、自分が栄光を受けようとして堕落した元・天使です。自分も神のようになろうとして堕落しました。その悪魔によって、人間も同じ誘惑を受けています。
しかし、栄光は神がお受けになってこそ相応しいものです。
人は、分不相応(ぶんふそうおう)のものを受けると傲慢になったり、その重みでつぶされたりします。自分が受けるものでないなら、それは神に帰属するようにすべきです。
悪魔(サタン)がそうであったように、われわれ人間にも、栄光を自分主のものにしたいという欲求が所々に潜んでいます。
具体的にはどうしたらよいのでしょうか。「私はふつつかな僕(しもべ)です。すべき事をしたに過ぎません」(ルカ17:10)と告白し、このようにさせてくださった主イエスこそがお受けになるべき栄光ですと告白することです。
「主の祈り」でも、最後にこう祈っていますね。「国と力と栄光は、限りなく主のものです」と。このように栄光は主がお受けになるのが丁度良いのです。
でも、最後に申し上げておきます。主は、決してその栄光を独り占めしようというちっぽけなお方ではありません。「良い忠実な者よ。わたしと一緒に喜んでくれ」といって栄光を分かち合われるお方です。この真実なお方に信頼しよう。(Ω)
詩篇28:1 主よ。私はあなたに呼ばわります。私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。
私たちの神は聞いてくださるお方です。そして、語ってくださる神です。この事が、偶像と決定的に異なる点です。
人は木や石を削って偶像をつくり、神として拝みます。しかし、偶像は聞ける耳がなく、語るこ口のないものです。それについて聖書はこう述べています。
「刻める像、鋳像および偽りを教える者は、その作者がこれを刻んだとてなんの益があろうか。その作者が物言わぬ偶像を造って、その造ったものに頼んでみても、なんの益があろうか」(ハバクク書2:18)。
しかし、私たちの神は、私たちの祈りを確かに聞いておられます。そして、確実に語ってくださっています。
ですから、たとえ、主が耳を閉ざしておられるように思えることがあっても、聞くことの出来る神だから、あえてそうなさるのです。たとえ、沈黙なさっているようでも、語ることの出来る神だからこそ、あえてそうなるのです。
だから、私たちは、聞くことも出来ず語ることも出来ない偶像にもの申すように祈るのではなく、しっかりと伝わるように、心をこめて祈ります。そして、耳を澄まして、聞き漏らすまいとして、主の語られるメッセージを受け取るまで待ちます。
それは、人格と人格の交わりです。偶像礼拝は「一方通行」の祈りですが、私たちの祈りは人格者同士の会話です。そんな会話のような祈りをささげよう。(Ω)
詩篇27:8 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。
今日の詩篇では、悩みの中から神に助けを求める祈りがささげられています。そのような状況で、神が言われたのは、「わが顔をたずね求めよ」でした。
私たちは、多くの場合、目先の困っている現実の解決を願うものです。経済的な問題の解決、人間関係の修復、攻撃してくる敵から守られるように等々……。
病気で言えば「対症療法」を求めているわけです。熱があれば熱を下げるとか、痛みがあれば痛みを和らげるとか、湿疹がれば炎症を抑えるとかです。実際はその原因になっている根本を治癒しなければなりません。
人生でも同じように、対症療法的に、神に願い求めることがあります。しかし、今日の詩篇では、まず「わが顔をたずね求めよ」と言われるのです。
簡単にいえば、ちゃんと神さまの顔を見てものを言いなさい、ということです。
人間関係がぎくしゃくしていると、相手の顔をきちんと見ることができません。喧嘩でもしていれば、目も合わせなくなります。そんな状態で、何が期待できるでしょうか。顔を見ることもできない関係で、祝福があるでしょうか。神との関係も同じです。
幼な子は正直ですから、何か悪いことをしていたりすると、まっすぐ顔を見せません。隠しごとがあると、見抜かれるかと思って目を合わせようとしません。神さまとの関係でも同じようなことを、私たちはしていないだろうか。
私たちがまずなすべき事は、神の顔を見ることです。これは象徴的な表現ですから、誰かの顔を思い浮かべて、それがイエス様の顔だなんて想像をふくらませないように願いますが……。
神と面と向かい合うことの出来る関係になることが、根本的な問題解決です。
さて、この「わが顔をたずね求めよ」という言葉は、主が私に向かって語られたことになっていますが、新改訳聖書ではニュアンスが違います。次のように訳しています。
「あなたに代わって、私の心は申します。『わたしの顔を、慕い求めよ』と。(28:8)
自分が自分の心に向かって語っています。でも、それは自分が語っているのではなく、主が語っておられるわけです。他の詩篇でも「わが魂よなにゆえうなだれるのか」という表現がありますが、これも、自分が自分に向かって語っています。
でも、それは私の内に住まわれる聖霊さま(イエスさま)が、私に向かって語っておられるとも言えるのです。
そういえば、私は普段から「自問自答」しています。
「なんでイライラしてんの?」。「自分の思い通りにならないからやろ?」。「思い通りになるなんて、自分は神さまか?」。「いや、違う。自分は神ではないし、神になってはいけない」……。
「なんでブルーになってんの?」。「……?」。「あの人のあのひと言が気になってんのと違う?」。「そやな。意外と的を射たことを言われたな」。「素直になって受け止めたらいいやない」……。
私の内におられるイエス様は、関西弁で語ってくださいます。自問自答って大事です。私の内でイエス様が語りかけて下さっている場合があるからです。
こう考えると、神が私に語りかけて下さっていることは、遠くの話しでも、まれな話しでもありません。今日も、主の語りかけを聞きながら生きて行こう……そう願うのです。(Ω)
詩篇26:2 主よ、私をためし、私を試み、私の心と思いとを練りきよめてください。
今日の詩編の冒頭は、「主よ、私をさばいてください」という衝撃的な言葉で始まっています。新改訳は、「私を弁護してください」と翻訳していますから、原語の意味は「正しく判断してください」といった意味だろうと思われます。
普通、私たちは裁かれるのはいやです。そう思うのは、正しい裁きを受けたことがないからです。他者から不当な裁きを受け、傷つき、誤解され、悔しい思いをするからです。
「何でそんなこと言えるのよ!私のことなんか知らないくせに!」
その通りで。正しく知らないでは、正しい裁きをは出来ません。どんな事情があったのか。どんな経緯があったのか。どんな生い立ちだったのか。本当のところを誰も知らないのです。
ですから、人が人を裁くのは何と難しいことでしょう。
しかし、すべてをご存知の神が裁かれるとき、それは正真正銘の正しい裁きです。時には他者(ひと)から誤解され責められてきたことを、正しくご存知である神は弁護すらしてくださいます。
このようなお方の御前でこそ、裁きを受けるなら本望(ほんもう)です。
人々は、裁きが不当だといって、さらに上級の裁きを求めて控訴します。地方裁判所では納得できなくて、高等裁判所へ。そして、最高裁へと……。
このように不当な裁きがあるので、裁かれたくないと思います。しかし、神による正しい裁きを受けることは、問題を精算し、新しく出発することを意味します。問題をきよめて、新しいスタートを与えます。
だから、今日の詩篇では、「主よ私を裁いてください」と申し上げた後で、「主よ、私をためし、私を試み、私の心と思いとを練りきよめてください」と祈っています。
人に裁かれるのは恐ろしいです。誤解されたり、非難されたり、失望や顰蹙(ひんしゅく)を買うことにもなるからです。でも、私たちの神は正しくご覧になるお方です。正しく弁護してくださる方です。
このお方の前でこそ、すべてをつまびらかにする勇気を得ます。
神が私を試すとは、調べてくださるという意味です。学校の試験は、私の本当の学力を調べるわけです。神も、私の本当の姿を調べて、きよめてくださいます。このことを「さばく」と表現しています。
意外と自分でも知らない部分、闇になったり、傷ついて痛んでいる部分があるものです。でも、神はそれをご存知です。ですから、神に見ていただくことです。神は、私たちをためし、調べて、練りきよめてくださいます。(Ω)
詩篇25:15 私の目は常に主に向かっている。主は私の足を網から取り出されるからである。
私たちの目はどこに向いているでしょうか。誰に向いているでしょうか。今日の詩篇は「主に向いている」と証ししています。
後半の「主は私の足を網から取り出されるからである」は、その理由として説明されていますが、新共同訳では「私の足を網から引き出してくださる方に」と翻訳されています。
私たちの主であるイエスは、私の足を網から引き出してくださるのです。
網とは何でしょうか。悪魔のしかけた罠です。悪魔が、私たちを罪の支配に取り込もうとして、捕らえようとする網です。
網とは何でしょうか。人生で出会う様々な試練であり、患難です。その網に捕らえられて、逃げ出すことの出来ない網です。足も手も網に絡んで、もがけばもがくほど、捕らえられて行く網です。
そこから救い出してくださるのは主イエスです。だから、目を主イエスに向けよう。今日も点検して出かけてください。私の目は常に主に向かっているか……と。
「来なさい」と言われた主イエスの御言を信じて、ペテロは舟から足を踏み出し、湖の上を歩き出しました。何歩進んだのでしょうか。ふとイエス様から目を離し、周囲の波風を見て、ペテロは恐ろしくなって溺れ始めたと記されています。
どんな危険なところも、主イエスに目を向けて進もう。それは、「来なさい」と言われたイエスの御言だけに集中することです。周囲の波風や、人や世間の言葉に目も心も奪われないようにすることです。(Ω)
詩篇24:1 門よ、頭(こうべ)をあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王が入られる。
前半(1~6節)は、この世界を統治する王座について描かれています。海の底から基をすえ、山の頂(いただき)に至る壮大な王座です。そのような栄光に富んだ所に立つ者は誰か……と。
後半(7~10節)は、その座にふさわしい方。それは栄光の王、主であると賛美しています。
さて、その栄光の王が御座に付かれるので、「門」に向かって、あたまをあげよ!と命じています。「門」について考えてみましょう。
戦争が日常的であった当時の町は、外敵から守るために城壁で囲まれていました。町への唯一の出入りは「門」です。様々な人々が出入りするため、町の重要な会議は門で行われました。
ボアズが親族エリメレクの地所をあがなうことについて、ベツレヘムの町の長老達と会議を開いたのも「門」でした(ルツ4:1-12)。また、アブサロムが、エルサレムに陳情にやってくる人々の話しを聞いてやった場所も「門」でした(Ⅱサムエル15:1-6)。
このようなことから、「門」は権威を意味する象徴的な表現です。
戦争になると、敵は「門」を集中的に攻撃します。そして、門が破られれば、その町は陥落したのも同然です。門を開くことは降伏を意味します。
イエスを「神の子キリスト」と告白する信仰の上に、キリストの教会を建てると宣言なさった時、黄泉(ハデス)の「門」は教会に打ち勝つことは出来ないとイエスは言われました。 ※口語訳では「門」を「力」と翻訳。つまり「権威」のこと。
死者が閉じ込められている所がハデス……すなわち黄泉(よみ)です。今まで、この黄泉に打ち勝つことのできる者はいませんでした。どんなに攻撃しても、黄泉の門は開きませんでした。罪人は死という牢獄に捕らえられたままです。
悪魔が王として君臨する黄泉の国はこの堅固な門で守られ、栄光の王が入るのを頑(たかく)なに拒んできました。この門を打ち破らない限り、死の奴隷となっている人間を救い出すことが出来ません。
しかし、ついに神の国の王キリストが来られました。栄光の王が来られたのです。このお方が来られるとき、どんな堅固な門も開かれます。いかなる権威も、このお方の前に打ち砕かれます。
イエス・キリストによって黄泉の門は開かれました。罪と死の支配の中に捕らえられていた人々は、いのちを得てそこからで来ることができるのです。
イエスをキリストと信じる教会には、王なるイエス・キリストによって最高の権威が与えられました。その権威は黄泉の門も打ち砕きます。この教会が行くところはどこででも、黄泉の門を閉じたままにすることは出来ません。
この王であるイエス・キリストと共に、私たちは黄泉の権威を滅ぼして行くのです。何と力強い宣言でしょうか。共に叫ぼうではありませんか。「黄泉の門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王であるイエス・キリストが入られるのだ」。(Ω)
詩篇23:1 主は私の牧者であって……
詩篇の中でもこの23篇は多くに人々に愛され親しまれてきました。私の神学校では、詩篇の授業の課題は「第23篇を暗唱せよ」でした。人生の様々な場面で、何度も思い出しては、深く学ぶことのできる詩篇です。
この詩篇を詠ったダビデは、もとは羊飼いでした。羊飼いの身分から、神の預言者サムエルに見出され、王としての油そそぎを受け、幾多の苦難を経て王となり、神の御国の栄光を垣間見ることのできた人です。
人間としては最高位に就いたダビデでしたが、彼は自分が羊飼いであったことを忘れていませんでした。むしろ、ますます、羊飼いであったときの体験の中に、神との交わりの真理が込められていることを知って、賛美したに違いありません。
先の第18篇では、武将としてのダビデが体験した神は、「岩」のようで、「城」「盾」「高き櫓(やぐら)」のようだと告白しましたが、ダビデが羊飼いであったときの体験は、「主は私の羊飼い」として表されています。
先の場合は「戦いの神」というイメージですが、ここでは、「安息の神」を表しているように思います。羊が牧者のもとで守られ安息を得ているように、主は私たちの牧者のようなお方です。
イエスもご自分のことを、「わたしは良い羊飼いだ」と言われ、人間のことを、羊にたとえて表現なさいました。つまり、神は羊飼いのようであり、人間は羊のようだというのです。
①羊は視力が弱くて遠くが見えない。
だから、目の前の羊について行きます。目の前の羊が右に行けば右に行き、ジャンプすればジャンプする……。この性質を使って、羊飼いが羊を囲いに入れる場合、手なずけた先頭の羊を導くことで、あとはゾロゾロと着いてきます。
人間も似ています。永遠の世界が見えなくて、目先の現実ばかりを見ています。実に人間は近視眼的です。しっかり未来を見据えていないので、他者(ひと)がこっちだと言えば引っ張られ、集団心理で動いて行きます。
しかし、羊は耳が良いのです。羊は羊飼いの声を聞き分けるのです。こう言われています。
「羊飼いは羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。他の人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」(ヨハネ10:4-5)。
私たちは確かな耳を持つべきです。羊飼いであるまことの神の言葉なのか。それとも、破滅に導く悪魔の言葉なのかを聞き分ける耳を養うべきです。
②羊はとても弱い動物である。
一般的な動物は爪・角・牙等を持っていて、敵を攻撃する能力を備えています。たとえ弱い動物であっても、護身用の甲羅や、敵を素早く発見できる視力・嗅覚・聴覚があるとか、すばやく逃げるための「俊足」が与えられています。
しかし、羊には、それらが備わっていません。こんな動物がよくも絶滅せずに生きのびてきたものだと思います。羊飼いによって守られなければ生きられない動物です。
人間もそうです。実に弱い存在です。正しい羊飼いを必要としているのが人間です。人間は羊のような存在として創造されました。
③羊は「家畜」であって「獣」ではない。
羊は典型的な家畜です。家畜とは主人を持つ存在です。神は、動物を創造なさったとき、「家畜」と「獣」を区別して造られたというのは、とても興味深い記録です(創世記1:25)。獣とは野生の動物で、主人を持たない動物です。
狼と犬とはとても近い関係ですが、狼は獣です。主人を持たず、人間になつきません。しかし、犬は家畜であって、人間に仕え、人間に従う性質を持っています。このように、家畜である羊は、主人である羊飼いに従います。
しかし、もしこの性質を失ったら「獣」です。旧約聖書から新約聖書に一貫して、神に敵対する人間のことを、聖書は「獣」と表現しているのは興味深いことです。私たちは羊のように、神に従順な存在として創造されています。
主イエスこそまことの羊飼いです。このお方に従順するのが人としての生き方です。このお方の御言に聞き従う者であるように祈ります。(Ω)
詩篇22:1 わが神、わが神、なにゆえ私を捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れて私を助けず、私の嘆きの言葉を聞かれないのですか。
この詩篇の御言は、イエスが十字架にお掛かりになった時、苦しみの中で叫ばれた言葉です。イエス様はあの十字架で、神から見捨てられるという絶望を味わわれたのです。
しかし、今日の詩篇は、イエスの十字架より千年前に、ダビデが詠った詩篇です。
ダビデは神から見捨てられたかのような苦しみを通りました。サウル王にいのちを狙われ、荒野をさまよった時もそうでした。また、息子アブサロムに王位を追われ、惨めな敗残者のように都落ちした時もそうでした。
まさにダビデの生涯には、王でありながら人々から裏切られ蔑(さげす)まされる……まるで、神の国の王であるはずのイエス・キリストが受けられた御苦しみを事前に体験したかのような事件でした。
彼のこの時の苦難はこう表現されています。
「すべて私を見る者は、私をあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、『彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ』と」(22:7-8)。
「犬は私をめぐり、悪を行う者の群れが私を囲んで、私の手と足を刺し貫いた。私は自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、私を見る。彼らは互に私の衣服を分け、私の着物をくじ引にする」(22:16-18)。
このダビデ王の体験は、千年を経てイエス・キリストが十字架の上で体験なさいました。「犬は私をめぐり……」の「犬」とは異邦人のことです。イエスを十字架につけたのはローマの兵士……つまり異邦人でした。そして実際に彼らはイエスの衣をくじを引いて得たのでした。
ダビデは耐えがたいような苦しみを受けましたが、その後、王として復帰しイスラエルの繁栄を享受することが出来ました。それ故、この苦難の詩篇の最後は、主への高らかな賛美で終わっています。
「地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、主がなされたその救を後に生れる民にのべ伝えるでしょう」(22:29-31)。
この詩篇から何を学ぶことが出来るでしょうか。
第一に、十字架に掛かられたイエス様は、預言されていた通りのキリストであるという確信を得ることが出来ます。十字架のイエス様こそキリストです。十字架は偶然の出来事ではなく、神の御業です。私たちの受けるべき罪の刑罰を、キリストが身代わりに受けてくださったのです。
第二に、たとえ神に見捨てられたかのような試練があっても、必ず回復の賛美で終わるということです。ダビデも回復を得て主を讃美しました。イエス・キリストも十字架の御苦しみの後に復活の栄光をお受けになりました。
苦しみの後には復活の栄光がある……これは神の法則です。ダビデはそれを体験しました。イエス・キリストも体験なさいました。そして、今は私たち、イエスを信じる者が体験する番です。(Ω)
詩篇21:1 主よ、王はあなたの力によって喜び、あなたの助けによって、いかに大きな喜びをもつことでしょう。
ここで言われている「王」とは、ダビデのことと思われます。王が王であることの所以(ゆえん)は、主である神の助けなしにはあり得ないことを、この詩篇は告白しています。
「あなたは(主は)大いなる恵みをもって彼(王)を迎え、そのかしらに純金の冠をいただかせられる」(21:3)。「あなたの助けによって彼の栄光は大きい。あなたは誉と威厳とを彼に与えられる」(21:5)。
決して自分の能力や何かで王であるのではない。「神の力によって」「神の恵みによって」「神の助けによって」なのです。
この詩篇では、王としての権威は神からのものだと、ダビデ王は謙遜に告白しています。この謙遜を忘れた権威ほど恐ろしいものはありません。
王でなくても、教師、社長、部長、各部門でのリーダー、責任者、そして親……。みなその権威は神によって与えられていることを知らなければなりません。
というのは、神が創造なさった世界は、目に見える世界だけでなく、その世界の秩序とか権威も創造なさったからです。こう述べられています。
「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである」(コロサイ1:16)。
「位も主権も、支配も権威も……」とありますね。しかも、それは誰のためにですか?。人間のためにですか?。「御子のために」とあるように、御子なる神、イエス・キリストが神のご支配を表すために創造されています。
ですから、「神からのもの」だといって偉ぶるわけではありません。逆に、神からであるがゆえに、責任を問われるし、謙遜でなければならないのです。
神の権威の下での謙遜……これがなければ、権威も位も、主権も支配も、恐ろしい世界を作り出す狂気と化します。神の権威の下でへりくだる者こそが、正しい権威をもって、任された世界(国・会社・家庭)を治めることが出来ます。
しかし、この権威が自分のものだと思い上がる人間が絶えません。イエスを十字架に処する判決を下したポンテオ・ピラトもそのひとりでした。ピラトは裁判の席で傲慢にもこう語りました。
「私には、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのか」(ヨハネ19:10)。
ピラトはおのが権威を振りかざしてイエスを裁きました。しかしイエス様は、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない」とお答えになりました(ヨハネ19:11)。
権威をお与えになる神の下で謙遜なリーダー達が、日本の国に起こされますように。日本の教育界に、そして各家庭に起こされますように。そのような者たちの治める国、職場、家庭には次のような約束が与えられています。
「まことに、あなたは彼をとこしえに恵まれた者とし、み前に喜びをもって楽しませられる」(詩篇21:6)。(Ω)
詩篇20:7 ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主の御名を誇る。
当時の戦争では「戦車」とか「馬」は最強の兵器でした。各国はこぞって戦車や軍馬の量産し、軍備増強にしのぎを削りました。しかし、ダビデが率いるイスラエルの軍備たるや貧相なものでした。
イスラエルに統一国家が誕生する以前は、ペリシテ人の脅威にさらされていました。彼らはいち早く鉄器文明を取り入れ、最新兵器をもってイスラエルを支配しました。
また、イスラエルが鉄器を使用する場合は鎌とか鍬などの農具に限定し、しかもメンテナンスはペリシテ人に外注させるなど、イスラエルが鉄製の武器を持たないよう監視を強めました。
核兵器を持つ国の発言力が増すと共に、他国に核技術が拡散しないために統制を強める今の時代にも似ています。
そんなわけですから、圧倒的なペリシテ軍を前にイスラエルは震え上がっていました。ある時、イスラエルを取り囲んだペリシテ軍は、戦車3,000、騎兵6,000、無数の歩兵でした。そんな状況下で、ダビデはペリシテの軍人ゴリアテに立ち向かいました。
この時まだ少年であったダビデには、サウル王から借りた鎧甲(よろいかぶと)は大きすぎて体に合わず、投げ石だけを手にして、こう言ったのです。
「お前は剣と槍と投げ槍をもって私に向かってくるが、私は万軍の主の名、すなわち、お前が挑んだ、イスラエルの軍の神の名によって、お前に立ち向かう」(Ⅰサムエル17:45)。
この時の戦いは、ダビデおよびイスラエルの大勝に終わり、イスラエル統一王国への転換点となりました。そんなダビデの原点とも言える出来事は、戦車でもない、軍馬でもない、われらの神である主の御名による戦いでした。
そうは言うものの、私たちは戦車や馬を誇りたい。それがあることで安心したい。主の御名を誇り戦うなんて心もとない。肉の感覚は、そのような心配や肉の自慢をかき立てます。
肉の感覚は信仰とは逆なのです。ですから、信仰は聖霊の助けを得て、霊の感覚に目覚めるしかありません。「霊で始めたものを肉で仕上げようとするのか?」と問われ続けながら、御霊による感覚を取り戻さなければなりません。
さあ、勇気をもって神の名である「イエス」を呼んでみてください。「イエス様!」と叫んでみてください。神の名のあるところに私も共に居ると約束されたではありませんか。
神の名のあるところに、神の最大の関心があります。神はご自分の名のあるところに目をそそぎ、耳を傾けられます。
だから、日々の祈りの中で、生活の具体的な場面で、「イエス様!」と呼び求めます。神が共もにおられるという不思議な体験をするはずです。この体験というか確信がなけいと、戦車や馬を誇りたくなります。
日本は、憲法第9条で、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記していながら、「戦車を誇り、馬を誇る」という道を進もうとしています。
「われらは、われらの神、主を誇る」という信仰がなければ、憲法第9条は絵空事に終わってしまうでしょう。
イエス・キリストを信じる者こそが、十字架で死なれたイエスの御名を誇り、その御名にこそ、和解の力があることを体験しなければならないと思います。(Ω)
詩篇19:1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
私たちの信じる神は万物の創造者です。見える世界も、見えない世界も神が創造されました。また、世界の秩序とか権威とか仕組みも神が創造されました。これらを総称して「被造界」と呼びます。
この被造界は神の作品であって、神のメッセージが込められているのです。言葉にならない言葉が語られており、真摯(しんし)な心で探究する者に、神は語りかけられています。
「話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ」(19:3-4)。
天文学者ガリレイは、「被造界は第二の聖書である」と告白しました。第一の聖書とは書物としての聖書ですが、被造界は言葉にならない言葉で、神の栄光を表し、神の偉大さを証しし、神の御心を示しているというのです。
芸術家が描いた絵画とか彫刻とか建造物など……それらの作品には作者の心が込められています。作者の価値観とか人生観とか、喜びであったり悲しみ、祈りや願いが込められています。
作者は言葉にならない言葉で、「肉眼に見えない世界」を表現しているわけです。神に創造された人間でさえそうなのですから、創造主である神はそれ以上に表現なさるお方です。
創造主である神は真の芸術家です。神の深遠なる世界を表現なさるかのように、神は万物を創造されました。
目の前の衣食住で明け暮れる現実から、神の創造の御業に目を向けようではありませんか。詩人は神の創造なさった太陽を見て、神のあわれみ深い大きな心を読みとっています。6節を読んでみましょう。
「それは……太陽は……天の果てからのぼって、天の果てにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない」(19:6)。
新改訳では「その熱を免れるものは何もない」と訳していますが、口語訳では、誰もが太陽の暖まりの恩恵にあずかっている……というニュアンスの翻訳です。神の恵みは昼の太陽の暖まりのように、誰でもあずかることができるのです。
ただし、夜行性の動物のように神の光のもとに出てこないので、その恩恵を受けることができません。
新約の時代……それは、誰にでも神の恵みが注がれる時代です。その恵みはイエス・キリストです。「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」のです(ヨハネ1:9)。
しかし、「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光に来ようとはしない」のです(ヨハネ3:20)。
人前で明るみに出されるのであれば、恐ろしいことです。でも、神の御前であれば大丈夫です。神はそれを赦してきよめてくださるからです。この恵みを信頼して、神の光のもとに出ることにしよう。(Ω)
詩篇18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
詩人ダビデは武将として幾多の危機を乗り越えてきた人でした。だから、ダビデが体験した神である主については、武将ならではの表現です。
①主はわが岩
サウル王にいのちを狙われ逃亡生活に明け暮れたダビデは、多くの場合、荒野にある大きな岩穴に隠れました。まさに神である主はダビデを匿(かくま)うようにして、その岩穴で守られました。
時にサウル王が岩穴の中に入ってきて、その奥にダビデたちが居ることも気付かずに用を足しているとき……それは正に敵であるサウル王を仕留める絶好の機会でありましたが……ダビデは油注がれた王サウルに刃向かう罪からも守られました。
私たちにとっても、主イエスは外敵から守ってくださる「岩」であり、内なる罪の誘惑からも守ってくださる「岩」です。この岩なるイエスの中にとどまるとき、私たちは守られます。
②主はわが城(とりで)
岩とは違って、城には日常の生活があります。砦(とりで)と解釈しても、外に出れば戦いはあるのですが、ひとときの安息がある場です。ダビデにとって、神である主は安息のある霊的な居場所として体験されていたのでしょう。
私たちの主イエスも、そのお方の中で、真の安息があります。
私たちの信仰はいつも「イエスの中で」です。イエスを信じるとは、イエスの“中に”信じるのです。日本語文法では奇妙な表現ですが、霊的にはこれが正しい訳です。イエス“を”信じるのではなく、イエスの“中に”信じるのです。
英語でも「believe in Jesus」です。“in”とは“~の中で”の意味です。原語のギリシャ語も同じ表現です。イエスを信じるとは、イエスの中に入ることです。イエスの中に匿われることです。
③主はわが高きやぐら
櫓(やぐら)とは高い位置にあって、敵の攻撃を見張る場所です。未来に備えて見張る場所です。
今しか見えていない私たちに、主イエスは「高きやぐら」となってくださって、私たちに未来に目を向けさせてくださいます。終わりの時代に起こると預言されている患難の時代を見据えて備えておられるでしょうか。
主は、目をさましていなさいと命じられました。
やがて来られる主イエスの再臨の予兆を見据えておられるでしょうか。主は近いのです。あのノアの洪水の時、人々は「平和だ、平和だ」とこの世の楽しみに溺れているとき、滅びが襲いました。
高きやぐらなる主イエスの中で、終わりの時代に備える者は幸いです。(Ω)
詩篇17:3 あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。(新改訳)
開口一番。「主よ、聞いてください」。祈りの詩篇です。主への心からの訴えです。
その訴えの中で、「自分の訴えには偽りがない」とか、「言葉の上でも誤っていない」というので、これは高慢な祈りではと思ったり、そこまで言い切れるのかとツッコミを入れたくなるところです。
しかし、それだけ必至の祈りです。また、そう言えるだけ、彼は自分を見つめ、問いただされたのではないだろうかと思われます。冒頭の聖句にあるように、彼は、夜、その心を問いただされたのです。
夜、神である主は、私たちの心を探られるのです。
昼間は日常生活のあれこれで慌ただしく過ぎて行きますが、夜……それは主イエスと向き合う時間です。過ぎた一日を振り返る時間です。主は、私の心を探り、問いただされます。
あれで良かったのか。あれは言い過ぎではないか。問いただされる中で悔い改め、探られる中できよめられるのです。そんな「夜」が必要です。それは、単なる日没後の夜だけでなく、試練の中で人生の「夜」を過ごすときも意味するでしょう。
いずれにせよ、主から問いただされる夜を経て、朝、目が覚めると詩篇17:15に至るのです。
「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」。 新共同訳では、「私は正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚める時には御姿を拝して満ち足りることができるでしょう」。
朝、起きたとき、何を見ますか?。昨日の苦々しい思いが出てきますか。おぞましい悪夢で目覚めますか。それとも、詩篇の祈りのように、主の御顔、御姿を拝する朝でしょうか。
聖書は「怒ったままで翌朝を迎えてはならない」(エペソ4:26)と勧めていますが、神の御前に正直になって、罪や問題を神に申し上げ、キリストにあるゆるしの中で翌朝を迎えたいものです。
それは私に人間的な正しさではなく、罪を告白して、イエス・キリストの正しさで匿(かくま)われている正しさゆえです。(Ω)
詩篇16:10 あなたは私を陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。
「陰府(よみ)」とは死者の行く所です。詩篇の作者ダビデは、自分が死んでも、神は陰府から救い出してくださると告白しています。神は、神を信頼する者を陰府に捨ておかれないと言うのです。
死んだらおしまいで、葬られて、陰府に捨て置かれてしまうのではなく、そこから引き上げてくださるのです。ダビデはそのような確信をどこから得たのでしょうか。今日の詩篇から三つのポイントを上げておきましょう。
①ダビデは“主だけ”を頼った。
こう告白しています。「神よ、私をお守りください。私はあなたに寄り頼みます。私は主に言う、『あなたは私の主、あなたの他に私の幸はない』と」(16:1-2)。
「寄り頼みます」は新改訳で「身を避けます」。ダビデはいつも主に頼った人です。彼は王ですから、権力も軍事力も経済力も持ち合わせていました。しかし、それらに頼らず、主に頼ったのです。
王という身分や権力とか財力が、彼を幸いにしたのではありませんでした。主が共におられ、その主にいつも信頼するがゆえに、彼は幸いであったのです。
私たちも告白しましょう。「主よ、あなたの他に私の幸いはない」と。
②ダビデは主を自分の“嗣業”と告白した(16:5)。
「嗣業」とは、受け継ぐべき財産とか任務を意味する言葉です。イスラエル民族がカナンの地に入ったとき、各部族ごとに「嗣業」が与えられました。ユダ族の地、ベニヤミン族の地……とそれぞれ振り分けられました。
各自の嗣業の地を手放してはならない。それは神から与えられた「使命」としてその地を支配せよという意味……それが嗣業です。
一般の部族には土地が嗣業として与えられたのですが、レビ族には土地ではなく「主ご自身が嗣業」として与えられました。ダビデはユダ族の人ですが、レビ族が受け継いだ「主を嗣業とする」ことの霊的な祝福の豊かさを悟った人でした。
神は、御子をお与えになるほどに、私たちを愛してくださっています。つまり、御子イエス・キリストを受け継ぐようにと、神の御子を私たちに割り当てられたのです。
まさに、「測りなわは、私のために好ましい所に落ちた。まことに私は良い嗣業を得た」のです(16:6)。
③ダビデは常に主を“前に”置いた(16:8)。
主を後ろに置いて、自分が前に出てしまう人……居ませんか。「主よ、ここは私にお任せください」と、しゃしゃり出ては失敗するのです。時には主を下に置いて、押さえ込んでしまう場合さえあります。
そうではなく、主はいつも私の“前に”……です。主イエス様を優先しよう。主イエスのなさることに従順しよう。
主に寄り頼み、主を嗣業とし、主を前に置く者を、神は陰府に捨て置かれません。神は必ず引き上げてくださいます。まさに、このような歩みをなさった方は、イエス・キリストです。
イエスは十字架で死なれましたが、陰府に捨て置かれず、復活なさったお方です。
このイエス・キリストが私たちの主ですから、私たちも同じように、陰府から救い出されます。実際の死後の復活もそうですが、人生の様々な「陰府」という名のどん底の中から引き上げてくださるのです。
われらの神は、主を信頼する者を陰府に捨て置かれないからです。(Ω)

