ヘブル人への手紙 1章
終りの時には、御子によって、私たちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、諸々の世界を造られた。(1・2)
ヘブル人への手紙は「ヘブル教会」呼ばれる教会があったわけではありません。ヘブル人とはユダヤ人のことで、イエスをキリストと信じたヘブル人クリスチャンに宛てて記された手紙です。
そもそも、初代教会の構成員の中心はヘブル人たちでした。旧約聖書にしっかりと根をおろしたヘブル人クリスチャンたちが、各地の教会の核となって教会を支えていました。
終りの時には、御子によって、私たちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、諸々の世界を造られた。(1・2)
ヘブル人への手紙は「ヘブル教会」呼ばれる教会があったわけではありません。ヘブル人とはユダヤ人のことで、イエスをキリストと信じたヘブル人クリスチャンに宛てて記された手紙です。
そもそも、初代教会の構成員の中心はヘブル人たちでした。旧約聖書にしっかりと根をおろしたヘブル人クリスチャンたちが、各地の教会の核となって教会を支えていました。
しかし、折しも迫害はきびしさを増す時代、クリスチャンの中には棄教する者たちも出てきました。当時の迫害は次のようなデマや誤解が理由でした。
①聖餐式でイエスの肉と血を受けるクリスチャンたちは、人肉を食う恐ろしい連中だ。
②家族の中に信者と未信者がいる場合、そこに考え方や習慣の違いが生じるため、クリスチャンは家庭を破壊する者だ。
③クリスチャンはローマ皇帝(カイザル)を主と告白しないので、国賊であり反逆者だ。
④クリスチャンは、聖書の預言をもとに、終わりの日にこの世界は火で焼かれて滅びると語ったことから、クリスチャンは放火魔だと揶揄された。
……などがあげられます。
そうすると、ヘブル人クリスチャンの中には、自分たちは怪しげな新興宗教に踊らされているのではないかと疑う者も現れて、昔の旧約に基づくユダヤ教に逆戻りする者たちが出てきました。 ※ユダヤ教は当時、既にローマ帝国で公認された宗教であったので、ユダヤ教徒であることの方が安全であった。
そういうわけで、この手紙は、旧約と新約を比較しながら、イエス・キリストによる新約の確かさを論証する構成になっています。対象は旧約聖書に深く根を下ろしたヘブル人クリスチャンです。そのため随所に旧約聖書からの引用があります。でも、その旧約の記録は、イエス・キリストにあって完成しているのだという論述形式になっています。
異邦人クリスチャンである私たちがヘブル人への手紙を学ぶことは、新約の根っ子を探究することになり、根の張った土台を据える作業になります。
◆◆◆◆◆
さて、神はご自分を隠しておられるのではありません。人間が懸命に神を捜し出そうとしているのに、意地悪をして隠れておられるのではありません。神は常に私たちに語りかけておられます。
旧約聖書の時代、神は預言者たちを通して語られました(1・1)。つまり、直接、神が語られたのではありませんでした。ですから、神のことをすべて言い表すことはできませんでした。旧約で語られたことは部分的で限定的です。
しかし、終わりの時には―新約時代のことを〝終わりの時〟という―御子イエスによって語られました。この「語られた」とは、単にイエス様の口から出た言葉だけではなく、イエスご自身、その生涯すべてが神の〝語りかけ〟だという意味です。
神は、御子イエスを通してご自分のすべてを明らかになさいました。このイエスを知ることが神を知るこです。「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである」とはそういう意味です(1・3)。
「わたしを見た者は父を見たのだ」とイエスが言われたように、父なる神の輝かしい栄光も、罪に対するきびしいさばきも、罪に苦しむ人間への愛も、尊い神の名も……、すべて御子イエスによって神は見せてくださいました。イエスご自身も弟子たちに「わたしの父から聞いたことをみな、あなた方に知らせた」と言われたとおりです(ヨハネ15・15)。
ですから、この御子イエスを無視して神を知ることができません。イエスは〝門〟です。イエスを無視して神を知ろうとする者は、門を通らず、塀を乗り越えて入ってくる盗人のようなものです。
冒頭の御言は「神は御子を万物の相続者と定め…」と記されているように、被造界はすべて御子イエスのために創造され、御子が相続者です。このようにして、神は、ご自身の栄光を、御子イエスとその御子が相続すべき被造物によって表現なさいました。
このように神の御子イエスは、立場においても、また働きにおいても御使たちのそれとは違います。その違いを4節から論述しています。
(1)イエスは受け継いだ名がすぐれている。(4)
新約になって御子が受け継いだ名は「イエス」です。父から受けた名です(ヨハネ17・11)。かたや、御使が受けた神の名は「主」とか「ヤァウェ」という名です。旧約ではこの名が表されました。
しかし、罪をゆるし救う権威ある名はイエスです。この名の他に、天下のだれにも与えられていない権威ある名です(使徒4・12)。このように、イエスの名は御使たちの受け継いだ名よりすぐれています。
(2)イエスは神の御子だ。(5)
詩篇2篇7節の「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ※」を引用してイエスこそ神の御子だと説明します。この「生んだ」とは創造したという意味ではなく、「あらわれた」といったニュアンスです。御使は神が創造したのですが、イエスは父のふところにおられた御子が、見える姿であらわれたのです(ヨハ1・18)。御使は神のしもべの立場ですが、イエスは神の御子という立場であって、決定的な違いです。※この聖句から、イエスは創造された天使たちのひとりだと解釈し、イエスの神性を否定する異端がある。
(3) エスは礼拝を受けるお方だ。(6~7)
イエス様は礼拝の対象となるべきお方です。でも、御使は違います。使徒ヨハネは御使を拝もうとしたことがありましたが、御使は「そのようなことをしてはいけない。私はあなたと同じ僕仲間である」と述べて礼拝を拒絶しています(黙19・10)。
(4)イエスは御国の支配者だ。(8~13)
御子イエスの「御座」とか「杖」について述べていますが、それは御国の支配を意味します。また、天地はやがて古くなった外套のようにして、それを脱いで新しい世界を着るようにして、イエスは万物を支配なさると表現されています。このような立場は御使には与えられていません。
(5)御使は仕える霊だ。(14)
要するに御使(天使)は神の御子に仕える立場に過ぎません。神の子でもありませんし、礼拝の対象でもありませんし、支配者でもありません。旧約は御使たちが活躍した時代だったので、御使はすばらしく輝いて見えたでしょう。しかし、御子イエスの栄光の輝きとは比較になりません。太陽の光の前で輝きを失った蝋燭の光のようです。
さて、その御使は御子イエスに仕えるだけでなく、救いを受けた私たちにも仕える存在です。序列でいえば、御子イエス、次に御使たち、その次に人間というイメージでしたが、正しくは、御使は人間に仕えるしもべの立場です。
それは人間が、神の創造の意図の中でどのような意味をもつのかに関わっています。神は、私たち人間を特別な存在として創造なさったことを忘れてはなりません。それは、神が、私たちを神に似せて創造なさったことです。突きつめて言うなら、人間は御子イエスに似せて創造された存在です。
人間は、今は肉体を持つ存在であり、同じ被造者である御使(天使)からすれば低い立場のようです。しかし、御子イエスも人間と同じ肉体をとって来られ、御使たちよりも低い姿になられました(2・9)。
肉体は弱い存在です。かたや御使には肉体がないので―彼らは〝霊の体〟を持っている―パンを食べなくても働けるし※睡眠をとる必要もありません。肉体の制限がないので、地と天を行き来することもできます。※御使の食物とは神の御言(命令)だ。神の御言に従うことが生きるための食物である。この点では人間も同じ。
しかし、肉体を着た私たち人間は―そして御子イエスは―御使より低い姿として世に遣わされました。そんな肉体という弱さを持つ「神の子」ではありますが、「御使」とは決定的に身分が違うのです。
さあ、何のために人間は御使よりも低い者として創造されたのか。それは、なぜ御子イエスが肉体をとって世に来られたのかという疑問と密接に関わっています。次の2章のテーマです。
④クリスチャンは、聖書の預言をもとに、終わりの日にこの世界は火で焼かれて滅びると語ったことから、クリスチャンは放火魔だと揶揄された。
……などがあげられます。
そうすると、ヘブル人クリスチャンの中には、自分たちは怪しげな新興宗教に踊らされているのではないかと疑う者も現れて、昔の旧約に基づくユダヤ教に逆戻りする者たちが出てきました。 ※ユダヤ教は当時、既にローマ帝国で公認された宗教であったので、ユダヤ教徒であることの方が安全であった。
そういうわけで、この手紙は、旧約と新約を比較しながら、イエス・キリストによる新約の確かさを論証する構成になっています。対象は旧約聖書に深く根を下ろしたヘブル人クリスチャンです。そのため随所に旧約聖書からの引用があります。でも、その旧約の記録は、イエス・キリストにあって完成しているのだという論述形式になっています。
異邦人クリスチャンである私たちがヘブル人への手紙を学ぶことは、新約の根っ子を探究することになり、根の張った土台を据える作業になります。
◆◆◆◆◆
さて、神はご自分を隠しておられるのではありません。人間が懸命に神を捜し出そうとしているのに、意地悪をして隠れておられるのではありません。神は常に私たちに語りかけておられます。
旧約聖書の時代、神は預言者たちを通して語られました(1・1)。つまり、直接、神が語られたのではありませんでした。ですから、神のことをすべて言い表すことはできませんでした。旧約で語られたことは部分的で限定的です。
しかし、終わりの時には―新約時代のことを〝終わりの時〟という―御子イエスによって語られました。この「語られた」とは、単にイエス様の口から出た言葉だけではなく、イエスご自身、その生涯すべてが神の〝語りかけ〟だという意味です。
神は、御子イエスを通してご自分のすべてを明らかになさいました。このイエスを知ることが神を知るこです。「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである」とはそういう意味です(1・3)。
「わたしを見た者は父を見たのだ」とイエスが言われたように、父なる神の輝かしい栄光も、罪に対するきびしいさばきも、罪に苦しむ人間への愛も、尊い神の名も……、すべて御子イエスによって神は見せてくださいました。イエスご自身も弟子たちに「わたしの父から聞いたことをみな、あなた方に知らせた」と言われたとおりです(ヨハネ15・15)。
ですから、この御子イエスを無視して神を知ることができません。イエスは〝門〟です。イエスを無視して神を知ろうとする者は、門を通らず、塀を乗り越えて入ってくる盗人のようなものです。
冒頭の御言は「神は御子を万物の相続者と定め…」と記されているように、被造界はすべて御子イエスのために創造され、御子が相続者です。このようにして、神は、ご自身の栄光を、御子イエスとその御子が相続すべき被造物によって表現なさいました。
このように神の御子イエスは、立場においても、また働きにおいても御使たちのそれとは違います。その違いを4節から論述しています。
(1)イエスは受け継いだ名がすぐれている。(4)
新約になって御子が受け継いだ名は「イエス」です。父から受けた名です(ヨハネ17・11)。かたや、御使が受けた神の名は「主」とか「ヤァウェ」という名です。旧約ではこの名が表されました。
しかし、罪をゆるし救う権威ある名はイエスです。この名の他に、天下のだれにも与えられていない権威ある名です(使徒4・12)。このように、イエスの名は御使たちの受け継いだ名よりすぐれています。
(2)イエスは神の御子だ。(5)
詩篇2篇7節の「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ※」を引用してイエスこそ神の御子だと説明します。この「生んだ」とは創造したという意味ではなく、「あらわれた」といったニュアンスです。御使は神が創造したのですが、イエスは父のふところにおられた御子が、見える姿であらわれたのです(ヨハ1・18)。御使は神のしもべの立場ですが、イエスは神の御子という立場であって、決定的な違いです。※この聖句から、イエスは創造された天使たちのひとりだと解釈し、イエスの神性を否定する異端がある。
(3) エスは礼拝を受けるお方だ。(6~7)
イエス様は礼拝の対象となるべきお方です。でも、御使は違います。使徒ヨハネは御使を拝もうとしたことがありましたが、御使は「そのようなことをしてはいけない。私はあなたと同じ僕仲間である」と述べて礼拝を拒絶しています(黙19・10)。
(4)イエスは御国の支配者だ。(8~13)
御子イエスの「御座」とか「杖」について述べていますが、それは御国の支配を意味します。また、天地はやがて古くなった外套のようにして、それを脱いで新しい世界を着るようにして、イエスは万物を支配なさると表現されています。このような立場は御使には与えられていません。
(5)御使は仕える霊だ。(14)
要するに御使(天使)は神の御子に仕える立場に過ぎません。神の子でもありませんし、礼拝の対象でもありませんし、支配者でもありません。旧約は御使たちが活躍した時代だったので、御使はすばらしく輝いて見えたでしょう。しかし、御子イエスの栄光の輝きとは比較になりません。太陽の光の前で輝きを失った蝋燭の光のようです。
さて、その御使は御子イエスに仕えるだけでなく、救いを受けた私たちにも仕える存在です。序列でいえば、御子イエス、次に御使たち、その次に人間というイメージでしたが、正しくは、御使は人間に仕えるしもべの立場です。
それは人間が、神の創造の意図の中でどのような意味をもつのかに関わっています。神は、私たち人間を特別な存在として創造なさったことを忘れてはなりません。それは、神が、私たちを神に似せて創造なさったことです。突きつめて言うなら、人間は御子イエスに似せて創造された存在です。
人間は、今は肉体を持つ存在であり、同じ被造者である御使(天使)からすれば低い立場のようです。しかし、御子イエスも人間と同じ肉体をとって来られ、御使たちよりも低い姿になられました(2・9)。
肉体は弱い存在です。かたや御使には肉体がないので―彼らは〝霊の体〟を持っている―パンを食べなくても働けるし※睡眠をとる必要もありません。肉体の制限がないので、地と天を行き来することもできます。※御使の食物とは神の御言(命令)だ。神の御言に従うことが生きるための食物である。この点では人間も同じ。
しかし、肉体を着た私たち人間は―そして御子イエスは―御使より低い姿として世に遣わされました。そんな肉体という弱さを持つ「神の子」ではありますが、「御使」とは決定的に身分が違うのです。
さあ、何のために人間は御使よりも低い者として創造されたのか。それは、なぜ御子イエスが肉体をとって世に来られたのかという疑問と密接に関わっています。次の2章のテーマです。
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