goo blog サービス終了のお知らせ 

朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヘブル人への手紙 1章

2023年02月28日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 1章
終りの時には、御子によって、私たちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、諸々の世界を造られた。
(1・2)


ヘブル人への手紙は「ヘブル教会」呼ばれる教会があったわけではありません。ヘブル人とはユダヤ人のことで、イエスをキリストと信じたヘブル人クリスチャンに宛てて記された手紙です。

そもそも、初代教会の構成員の中心はヘブル人たちでした。旧約聖書にしっかりと根をおろしたヘブル人クリスチャンたちが、各地の教会の核となって教会を支えていました。

しかし、折しも迫害はきびしさを増す時代、クリスチャンの中には棄教する者たちも出てきました。当時の迫害は次のようなデマや誤解が理由でした。

①聖餐式でイエスの肉と血を受けるクリスチャンたちは、人肉を食う恐ろしい連中だ。
②家族の中に信者と未信者がいる場合、そこに考え方や習慣の違いが生じるため、クリスチャンは家庭を破壊する者だ。
③クリスチャンはローマ皇帝(カイザル)を主と告白しないので、国賊であり反逆者だ。
④クリスチャンは、聖書の預言をもとに、終わりの日にこの世界は火で焼かれて滅びると語ったことから、クリスチャンは放火魔だと揶揄された。

……などがあげられます。

そうすると、ヘブル人クリスチャンの中には、自分たちは怪しげな新興宗教に踊らされているのではないかと疑う者も現れて、昔の旧約に基づくユダヤ教に逆戻りする者たちが出てきました。 ※ユダヤ教は当時、既にローマ帝国で公認された宗教であったので、ユダヤ教徒であることの方が安全であった。

そういうわけで、この手紙は、旧約と新約を比較しながら、イエス・キリストによる新約の確かさを論証する構成になっています。対象は旧約聖書に深く根を下ろしたヘブル人クリスチャンです。そのため随所に旧約聖書からの引用があります。でも、その旧約の記録は、イエス・キリストにあって完成しているのだという論述形式になっています。

異邦人クリスチャンである私たちがヘブル人への手紙を学ぶことは、新約の根っ子を探究することになり、根の張った土台を据える作業になります。

◆◆◆◆◆

さて、神はご自分を隠しておられるのではありません。人間が懸命に神を捜し出そうとしているのに、意地悪をして隠れておられるのではありません。神は常に私たちに語りかけておられます。

旧約聖書の時代、神は預言者たちを通して語られました(1・1)。つまり、直接、神が語られたのではありませんでした。ですから、神のことをすべて言い表すことはできませんでした。旧約で語られたことは部分的で限定的です。

しかし、終わりの時には―新約時代のことを〝終わりの時〟という―御子イエスによって語られました。この「語られた」とは、単にイエス様の口から出た言葉だけではなく、イエスご自身、その生涯すべてが神の〝語りかけ〟だという意味です。

神は、御子イエスを通してご自分のすべてを明らかになさいました。このイエスを知ることが神を知るこです。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのであるとはそういう意味です(1・3)

「わたしを見た者は父を見たのだ」とイエスが言われたように、父なる神の輝かしい栄光も、罪に対するきびしいさばきも、罪に苦しむ人間への愛も、尊い神の名も……、すべて御子イエスによって神は見せてくださいました。イエスご自身も弟子たちに「わたしの父から聞いたことをみな、あなた方に知らせた」と言われたとおりです(ヨハネ15・15)

ですから、この御子イエスを無視して神を知ることができません。イエスは〝門〟です。イエスを無視して神を知ろうとする者は、門を通らず、塀を乗り越えて入ってくる盗人のようなものです。

冒頭の御言は神は御子を万物の相続者と定め…と記されているように、被造界はすべて御子イエスのために創造され、御子が相続者です。このようにして、神は、ご自身の栄光を、御子イエスとその御子が相続すべき被造物によって表現なさいました。

このように神の御子イエスは、立場においても、また働きにおいても御使たちのそれとは違います。その違いを4節から論述しています。

(1)イエスは受け継いだ名がすぐれている。(4)

新約になって御子が受け継いだ名はイエスです。父から受けた名です(ヨハネ17・11)。かたや、御使が受けた神の名は「主」とかヤァウェという名です。旧約ではこの名が表されました。

しかし、罪をゆるし救う権威ある名はイエスです。この名の他に、天下のだれにも与えられていない権威ある名です(使徒4・12)。このように、イエスの名は御使たちの受け継いだ名よりすぐれています。

(2)イエスは神の御子だ。(5)

詩篇2篇7節の「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」を引用してイエスこそ神の御子だと説明します。この「生んだ」とは創造したという意味ではなく、あらわれたといったニュアンスです。御使は神が創造したのですが、イエスは父のふところにおられた御子が、見える姿であらわれたのです(ヨハ1・18)。御使は神のしもべの立場ですが、イエスは神の御子という立場であって、決定的な違いです。※この聖句から、イエスは創造された天使たちのひとりだと解釈し、イエスの神性を否定する異端がある。

(3) エスは礼拝を受けるお方だ。(6~7)

イエス様は礼拝の対象となるべきお方です。でも、御使は違います。使徒ヨハネは御使を拝もうとしたことがありましたが、御使は「そのようなことをしてはいけない。私はあなたと同じ僕仲間である」と述べて礼拝を拒絶しています(黙19・10)

(4)イエスは御国の支配者だ。(8~13)

御子イエスの「御座」とか「杖」について述べていますが、それは御国の支配を意味します。また、天地はやがて古くなった外套のようにして、それを脱いで新しい世界を着るようにして、イエスは万物を支配なさると表現されています。このような立場は御使には与えられていません。

(5)御使は仕える霊だ。(14)

要するに御使(天使)は神の御子に仕える立場に過ぎません。神の子でもありませんし、礼拝の対象でもありませんし、支配者でもありません。旧約は御使たちが活躍した時代だったので、御使はすばらしく輝いて見えたでしょう。しかし、御子イエスの栄光の輝きとは比較になりません。太陽の光の前で輝きを失った蝋燭の光のようです。

さて、その御使は御子イエスに仕えるだけでなく、救いを受けた私たちにも仕える存在です。序列でいえば、御子イエス、次に御使たち、その次に人間というイメージでしたが、正しくは、御使は人間に仕えるしもべの立場です。

それは人間が、神の創造の意図の中でどのような意味をもつのかに関わっています。神は、私たち人間を特別な存在として創造なさったことを忘れてはなりません。それは、神が、私たちを神に似せて創造なさったことです。突きつめて言うなら、人間は御子イエスに似せて創造された存在です。

人間は、今は肉体を持つ存在であり、同じ被造者である御使(天使)からすれば低い立場のようです。しかし、御子イエスも人間と同じ肉体をとって来られ、御使たちよりも低い姿になられました(2・9)

肉体は弱い存在です。かたや御使には肉体がないので―彼らは〝霊の体〟を持っている―パンを食べなくても働けるし※睡眠をとる必要もありません。肉体の制限がないので、地と天を行き来することもできます。※御使の食物とは神の御言(命令)だ。神の御言に従うことが生きるための食物である。この点では人間も同じ。

しかし、肉体を着た私たち人間は―そして御子イエスは―御使より低い姿として世に遣わされました。そんな肉体という弱さを持つ「神の子」ではありますが、「御使」とは決定的に身分が違うのです。

さあ、何のために人間は御使よりも低い者として創造されたのか。それは、なぜ御子イエスが肉体をとって世に来られたのかという疑問と密接に関わっています。次の2章のテーマです。

~~~~~~~~~~~~

ピレモンへの手紙

2023年02月27日 | ピレモン書
ピレモンへの手紙
もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。
(1・18)


ピレモンはコロサイ教会の中心的な人物で、家族を挙げて福音のために仕えていました。2節のアビヤはピレモンの妻、戦友アルキポはピレモンの息子です。

そんなピレモン家にオネシモという奴隷が仕えていたのですが、役に立たない者(11節)と記されているように、何かと問題の多い奴隷だったようです。

そんなオネシモがピレモン家の金品を盗んで逃亡したようです。そして、流れ流れてついにローマで投獄中のパウロと出会うことができたわけです。その経緯は記されていませんが、神の不思議な導きです。

獄中のパウロと出会ったオネシモは、パウロの指導を受けてキリストを受け入れるようになり、彼は新しく造り変えられました。そして、役に立つ者・有益な者になって、パウロに仕える者になりました。

手紙ではこう記されています。オネシモは以前は、あなたにとって無益な者であったが、今は、あなたにも、わたしにも、有益な者になったのです(11)

しかし、いつまでもこのままで良いわけがなく、オネシモの主人であるピレモンに彼を送り返すことになり、そのための手紙がこの「ピレモンへの手紙」というわけです。

さて、オネシモとは「有益な者」という意味の名です。以前は「無益な者」と言われるほどの問題児が、いかにして、名の如く本物の〝オネシモ〟に変えられたのか。二つの要素を考えてみましょう。

(1)オネシモを見出してくれる人物と出会えた。

オネシモはパウロによって見出されました。人々からは役立たずと評価されていたオネシモでしたが、パウロは彼の中にキラッと光るダイヤの原石のような輝きを見つけたのです。そんなパウロに出会えたことは何と幸いでしょうか。

まさに、そのようにして私たちの神は、私を見出してくださったのです。多くの場合、人は表面的な部分を見て評価します。しかし、神は内面をご覧になります。私たちの内側にある原石のような輝きを見つけ出してくださるのです。そのような神と出会うことは、なんと幸いなことでしょう。

アダムがエデンで罪を犯し神を離れたときも、「あなたは何処にいるのか」と、神は私たちを探し出そうとなさる方です。ザアカイを訪ねられたイエスも、私は失われた者を探し出して救うために来たのだと言われました。

私がイエスを発見したのではありません。自分が発見したと思っているとやがて見失うでしょう。イエス様の方が先に、しかも世の始まる前から、ザアカイを見つけだし、私にさえ目をとめ、そしてあなたを見出してくださったのです。

オネシモもそうだったのです。「あなた方が私を選んだのではない。わたしがあなた方を選んだのだ」と言われるイエスの御言は真理です。オネシモは、自分の主人であるピレモンのもとから逃げ出し、ピレモンが仕えるキリストからも離れたのです。でも、そんなオネシモを主はローマで探し出してくださいました。それが投獄中のパウロとの出会いです。

かくまでして、探し出してくださるキリストとの出会いを大切にしましょう。主は罪人である私の内面を見てくださいます。悔いし砕けた魂を育ててくださいます。そのようにして、オネシモもパウロとの出会いの中で育てられました。役に立たない逃亡者が、本来あるべき姿に立ち戻ったのです。

(2)パウロはオネシモの保証人になってくれた。

パウロはオネシモを主人ピレモンのもとに返すにあたり、もし、彼があなたに何か不都合なことをしたか、あるいは、何か負債があれば、それを私の借りにしておいてほしいと手紙に記しました(18)

新改訳ではその請求は私にしてくださいと述べています。つまり、パウロが保証人になってくれたのです。この返済がなければオネシモは主人のもとに帰れなかったのです。

私たちも同様です。まさに、イエス様は私たちの保証人となって、こう言われるのです。「彼の〝罪〟という名の借金の請求はわたしにしてくださいこうして、主なる神に背を向け、逃亡奴隷のようになっていた私たちを、イエスは天の御父のもとへと送り返してくださったわけです。

さらに、イエスはこうも言われると信じています。「あなたの失敗の責任はわたしが負ってあげるから、さあ、大胆に生きて行きなさい」と勇気づけて、私たちを世の荒波の中に送り出してくださいます。このような後ろ盾があるので、無益な者が有益な者へと変えられるのです。

パウロがオネシモにこのようにできたのも、パウロ自身もイエス・キリストからそのように扱っていただいたからです。パウロを取りまく人々の関わりも、まさにそうでした。

実は、パウロがイエスを信じた当時、多くのクリスチャンは彼を信用しませんでした。かつては教会の迫害者であり、その急先鋒であったパウロが回心したといっても、にわかには信用できません。何かの罠かもしれません。そんなとき、バルナバがパウロの保証人になってくれたことで、パウロはキリスト教会に受け入れられたわけです(使徒9・26~27)。

それから数年が経過し、バルナバがアンテオケ教会を牧会するようになったとき、協力者としてパウロを推薦したのです(使徒11・19~26)。このように、バルナバがパウロを見出してくれなかったら、今日のパウロはなったでしょう。

そんなパウロでしたが、初期の血気盛んな頃は、第1回伝道旅行でリタイアしたマルコを、第2回伝道旅行では連れて行かないと主張し、バルナバと大激論になりました(使徒15・36~)。こうして、パウロと決裂したバルナバは、マルコを引き受けて育てました。

パウロは福音宣教(外向き)のタイプで、バルナバは人を育てる(内向き)タイプの人だと私は思っています。このタイプの違いは優劣ではありません。どちらも大切です。

結果どうなったかというと、パウロから「無益な者」と思われたマルコは、今ではパウロのもとで仕えていたのです(ピレモン24)。人が織りなす何とすばらしいハーモニーでしょうか。

パウロもそんなバルナバの働きに教えられ、オネシモを見出し養う人になったのでしょう。

主イエスは絶妙なご配在のものとで、私たちを見出し、養い、ダイヤの原石を研ぐように取り扱われるのです。感謝しましょう。あなたはその御手の中にあるのですから……。

朗読配信_Spotifyhttps://open.spotify.com/episode/1MLLEvePySJ21aaBONttEK?si=k_yxWtUIREOWxnEyxPIg6g
You Tubehttps://youtu.be/mG3pz55lodk

~~~~~~~~~~~~

テトスへの手紙 3章

2023年02月25日 | テトス書
テトスへの手紙 3章
これは、私たちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。
(3・7)


キリストにある救いには幾つもの〝面〟があります。冒頭の聖句は、その3つを表しています。

(1)キリストの恵みによって義とされた。

「義とされる」とは、罪のない者とみなされるという意味です。一般的には、罪のない者になるために、自分の良い行いで義を追及するわけです。でも、実際は不可能なことです。

だから聖書は、私たちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、私たちは救われたのであると述べています(3・5)。キリストによって義とされるのは、神のあわれみなのです。でも、「あわれみを受けるほど落ちぶれてはいない」と頑張る人は、力尽き矢折れるまで「自分の行った義のわざ」を追及し続けます。

行いを軽視しするのではありません。人の頑張りではなく、聖霊の助けを得て行うのです。「聖霊は、私たちの救主イエス・キリストをとおして、私たちの上に豊かに注がれた」からです(3・6)。頼るべきは聖霊です。聖霊が〝行い〟の原動力です。〝義とされること〟も〝行い〟もすべて恵みによるのです。

(2)永遠のいのちを与えられた。

永遠のいのちを単に時間的な長さだと勘違いしてはなりません。永遠のいのちとは「死なないいのち」のことです。失敗して凹んでしまいますか。もう死にたいと嘆きますか。それは肉のいのちで生きているからです。でも「死なないいのち」は困難があっても乗り越えようとするエネルギーです。

また、永遠のいのちとは「腐らないいのち」のことです。不当な扱いを受けてふて腐れていますか。それは肉のいのちだからです。有限ないのちなので腐ってしまいます。朽ちるいのちなので〝クサル〟のです。でも「腐らないいのち」は不条理な環境にあっても腐らずに前を向きます。

つきるところ、永遠のいのちとはイエスのいのちなのです。イエス様がお持ちであるいのちと同じいのちを、私たちにも与えてくださったのです。だから、イエスのように死んでも生きるのです。イエスのように愛するエネルギーを持っているのです。イエスのようにゆるす力をもっているのです。

(3)御国の相続人とされた。

口語訳では「御国をつぐ者」と訳していますが、新改訳では「相続人」です。

地上のわずかな土地や金銭の相続でもめている場合ではありません。価値が変動してしまう地上の富の相続など小さなことです。何と、私たちは御国の世継ぎなのです。単に天国に入れていただく程度の救いではありません。御国の王であるイエス・キリストとの共同相続人であるとも記されています。

私のような罪人を義と認め、永遠のいのちを与えてくださるばかりか、御国の相続者となさったというのです。かくも恵み深いイエス・キリストの神に栄光が永遠にありますように。

人は、自分が何者なのかという自覚によって生き方が決まります。つまりアイデンティティです。冒頭の御言はまさにそれです。この自覚と誇りが、私たちの生き方を決めます。

しかし、自分は猿から進化した者だ、動物よりちょっとましな程度の存在だと思っているなら、動物のように生活します。しょせん人間は罪人だ、どうしようもない者だと思っている人は、罪に身をまかせる生き方をします。

偶然に生きるようになったと思っている人は、理由も目的も無く、ただ生存するだけの生き方をします。自死に至ったある青年の遺書には、こう記されていたそうです。「死ぬ理由はありません。でも、生きる理由も無いのです」。

自分が何者なのかも分からないのに、ただ、「立派に生活しなさい」「真面目にやりなさい」といわれても、それは息苦しく、空しい命令です。

私は神の子とされた者であり、天の御国の相続者です。空虚な戯言ではありません。「信頼すべき言葉だ」と聖書は記しています(3・8)。その自覚と誇りによって、「良いわざに励むことを心がけるように」なります。「これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。」(3・8)

~~~~~~~~~~~~

テトスへの手紙 2章

2023年02月24日 | テトス書
テトスへの手紙 2章
キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。
(2・14)


この手紙の受取人は、パウロが手塩にかけて育てた愛弟子のテトスです。パウロはこのテトスを、クレテの教会を立て直すために派遣しました。

地中海のクレテ島は、日本の四国よりすこし小さい島で、エーゲ海の南に位置します。当時のクレテ人は粗野で道徳的にも退廃的であった様子がうかがわれます(1・12~16)。 ※1章12節は、紀元前600年頃のクレテ出身の哲学者エピメニデスの言葉とされる。

そのようなわけで、この手紙には、きびしい命令が記されています。教会指導者である長老や監督の選任には、責められる点がなく、慎み深く、自制する者と、その水準は高いものです(1・5~9)

2章からは、老人、婦人、青年、奴隷などの人々に、慎み深く(思慮深く)、善良で従順な生き方をするようとも命じています。

このように命ぜざるを得ないほど、クレテ教会の信仰生活は、信じていることと実際の生活が食い違っていました。つまり、神を信じると口では言うが、行いではそれを否定する状態でした(1・16)

それを是正するようにと、手紙はつづられています。なぜなら神のことばがそしられないためであり、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです(2・5、2・10)

神の御言は、私たちがどう生きようが微動だにせず真理です。しかし、信じた私の生活が、信じていることと食い違うなら誹りを受けます。救われた私はそれで良くても、これから救われるべき人々にとって躓きとなってはなりません。

また、クリスチャンがどんな生き方をしようが、キリストの栄光の輝きが陰ることはありません。しかし、キリストを信じた者たちが、それを生き様に現すことで、神の教えを〝飾ることになる〟のです。

信仰という見えない世界を、日常生活という見える世界に表すことが敬虔ということですが、この敬虔はテモテへの手紙で取り上げられ、テトスへの手紙でも大切なこととして語られています。

退廃した社会だからこそ、なおさら敬虔は大切でした。今日の私たちも同じ立場です。

しかし、どうぞこれを肉の力でやろうとしないでください。肉の力でやろうとする人は、神の御言を律法として受け取る人です。そうではなく、恵みによって受け止めるのがキリスト信仰です。

「福音」が記されている新約聖書でさえも、受け取りようによっては「律法」になります。肉で受け取り、肉でなそうとしたら、律法の世界に引きずり込まれてしまいます。きびしく思える命令でも、恵みの中で受け取ってください。

今日の御言は、私たちが良いわざに熱心な者となるように、神は私たちを聖別してくださったと言っています。

これは、「良いわざをしなければならない」という律法ではありません。神は、私たちを、良いわざをするように〝すでに〟してくださっているのだと宣言しているのです。イエス様を信じて新しく生まれた人は、良いわざに熱心になるように〝すでに〟なっているのです……という意味です。

イエス様を信じて新しく生まれたご自分の霊の声を聞いてみてください。内なる声です。どうですか。良いわざをしたいという声が聞こえますよね。その心に素直に応じればよいのです。それが「敬虔の奥義」の始まりです。

新生した霊にこそ私の本心があります。父のもとを離れて財産を使い果たした放蕩息子は、本心に立ち返って、父の家に戻ったように、神が私の内に与えてくださった本心に従うことです。 ※新改訳では「我にかえって」と翻訳。口語訳では「本心に立ち返って」。

神は、そうできるように、すでに永遠の昔に約束しておられるのだと、先の第1章で見たとおりです。

先の1章から2章にかけて健全なおしえとか健全な言葉など、健全について述べられています。

それは、本来あるべき姿のことです。冒頭の聖句にあるように、私たちはキリストの血で「不法からあがない出された」ことで、私たちは本来あるべき「神のもの」となったという意味です。それ以前の私は不法でした。

かつては、神のものであるのに罪の支配下にいました。神のものとして健全に生きるはずの者が、罪の奴隷となっていました。そのような状態は神の目には不法です。そこから、神はキリストの血を代価として支払って「神のもの」として取り戻されたのです。これが健全な姿です。こうして良いわざをする人間として、本来あるべき姿に戻されたのです。

朗読配信_Spotify テトスへの手紙 2章 • 朝マナPodcast (spotify.com)
You Tube
朝マナ テトスへの手紙 2章 - YouTube
~~~~~~~~~~~~

テトスへの手紙 1章

2023年02月23日 | テトス書
テトスへの手紙 1章
偽りのない神が、永遠の昔に約束された、永遠のいのちの望みに基づくのである。
(1・2)


あなたは何に基づいて生きていますか。こんな質問をされたら、応えにとまどってしまうかも知れません。でも、今日は考えてみましょう。

ある日、背広のポケットに手を入れたら1万円札が入っていた。入れた覚えはないのだが、自分のポケットに入っているのだから自分の物だろうと思って使ってしまう……。

人生もそんなふうに、ある日、気がついたら人生というものがあって、あぁこれは自分の物だと思って何となしに生きています。

何に基づいて生きているのだろうか。多感な青年期には考えてもみたのですが、日々の労働や食べたり着ることで明け暮れる内に今日まで来てしまったという人も多いことでしょう。

今日の聖句は、偽りのない神が、永遠の昔に約束された、永遠のいのちの望みに基づくのであると言っています。私たちの人生は、永遠の昔に約束された、永遠のいのちに基づいています。偶然のいのちに基づいているのではありません。

私は聖書と出会うまでは根っからの進化論者でした。大学では生物学の教師を目指して理系の学部を専攻しましたが、そこでクリスチャンと出会い、聖書を読みました。聖書には、創造主なる神が万物を創造なさったと記されていました。

進化論は神の創造を認めません。偶然に生命が誕生して、偶然に人類までたどりついたことになっています。つまり、私たちの存在の根拠はすべてが〝偶然〟だと言っているわけです。

ですから、「何に基づいて生きていますか」と質問されるなら、私は「偶然に基づいて生きています」と応えるしかありませんでした。しかし恐ろしいことに、偶然には目的ながないのです。

4月1日の午後、教会で会いましょうと約束してお会いした相手に、「いや~こんなところで会えるなんて偶然ですね」とは言いません。何の計画も目的もなく出会ったら「偶然ですね~」と言えますが、この場合は、お会いして聖書を読んで祈るという目的があったのです。しかし、偶然には目的がありません。空しいことです。

進化論に基づいて人間存在を教えている教育は、何を教えるのでしょうか。人生の目的は何だと教えるのでしょうか。人生は何に基づいていると教えるのでしょうか。

聖書は偽りのない神が、永遠の昔に約束された、永遠のいのちの望みに基づくのであると教えています。永遠のいのちに基づいています。永遠前からの神のご計画に基づいています。

永遠のさらに昔……永遠前からある計画に基づいています。つまり、初めから神は、私たち人間の創造を計画なさっていたということです。

神が粘土をこねているうちに、人間ができちゃったのですか。そんなことではありません。私たち人間でさえも、目的をもって小麦粉を練ってパンを作ります。ましてや、神のお造りになった万物が、偶然の産物であるはずがありません。

また、人間が罪を犯したので、神はあわてて御子イエスを十字架につけることにしたのですか。そんな行き当たりばったりの神ではありません。永遠の昔に約束されたことに基づいているのです。

神が、私たちに永遠のいのちを与えようとなさるのは、はじめからのご計画です。永遠前からのご計画です。こんなすごい計画なのですから、私たちのちょっとした失敗ごときで、この計画が頓挫するはずがありません。

もちろん、神のご計画の深さ広さを私たちは理解し切れません。ただ、その神に信頼するのみです。御子イエスをくださるほどに愛してくださったことを認めて信頼するだけです。

朗読配信_Spotify テトスへの手紙 1章 • 朝マナPodcast (spotify.com)
You Tube
朝マナ テトスへの手紙 1章 - YouTube
~~~~~~~~~~~~

テモテへの第二の手紙 4章

2023年02月22日 | テモテ書
テモテへの第二の手紙 4章
神の御前と、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスの御前で、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
(4・1)


テモテへの手紙は「命じる手紙」です。随所に「命じる」とか「命じなさい」と記されています。そして、第二の手紙の最後も「命じる」で終わっています。

しかも、おごそかに命じています。正式な重みのある命令です。

その命令は、①神の御前と、②さばき主であるキリスト・イエスの御前で成されています。そして、その命令の視線の向こうには、キリストの出現(再臨)と御国がしっかりと描かれています。

私たちは今だけを見ているのではありません。未来を見据えています。それはキリストの出現という未来を見据えています。キリストが再臨されて実現する御国という未来です。このように未来を視点にして今を見ます。これが私たちの物事の見方です。

しかし逆に、今を視点にして未来を見ようとすると、物事を見誤ります。それは、現実を通して神を見ようとするのと同じです。現実があまりに大きく見えるので、神は小さく見えます。神は何もできない弱々しいお方のように見えます。大きな現実に神は覆われているように見えます。

そうではなく、神の視点から現実を見なければなりません。それと同じように、キリストの来臨という未来から今を見ます。

2千年前に来られた時の主イエスは「救い主」として来られました。そして、再臨の時のイエスは「さばき主」として来られます。すべてに結論を出されるのは主イエスです。このお方を愛し、このお方を信頼して今を生きるのです。

パウロはその〝未来〟をしっかりと見据えて、今や義の冠が私を待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けてくださるであろうと告白しています(4・8)。しかし、パウロの〝今〟は投獄の身です。処刑の日も近いのを感じ取っています(4・6)

でも、パウロの視点は再臨の主イエスが義の冠を授けてくださることに当てられています。そこから逆算しています。すると、今は福音を伝えることだ。御言を教えるべき今が導き出されます。

だから、パウロはおごそかに命じています。その命令とは、御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさいです(4・2)

先の第3章では、神からゆだねられた御言(福音)を「守りなさい」と命じられていましたが、手紙の最後には、それを「宣べ伝えなさい」と命じられています。

「攻撃は最大の防御だ」という言葉を思い出します。福音が紛失しないように守ることも大切です。福音がゆがまないようにすることも大切です。また、福音が汚されないようにすることも大切です。

しかし、守ろうとするあまり金庫にしまい込んではなりません。

最も大切なことは、その福音(神の御言)を宣べ伝えることです。これは、おごそかな命令です。重要なな命令です。ですから、各自の人生の中心となる課題です。御言を伝えることを軸にして人生設計を立てることです。

方法は各自様々です。文字通り〝語ること〟で伝えることができます。生き様や生活で語ることもあります。文書を書き残すこともあります。インターネットで伝えることもあるでしょう。それぞれの立場で「自分の務めを全うする」ことです(4・5)

祈りましょう。宣べ伝える勇気を受けることができますように。また、宣べ伝えるチャンスを得ることができるように。そして、宣べ伝える言葉と生活を持つことができるように。

~~~~~~~~~~~~

テモテへの第二の手紙 3章

2023年02月21日 | テモテ書
テモテへの第二の手紙 3章
終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。
(3・1 新改訳)


イエス・キリストの福音はバラ色の未来を約束しているのか。答えはYESあり、NOでもあります。今日の御言は終わりの日には困難な時代がやって来ると言っています。

イエス様を信じてもいいことばかりとは限りません。困難な時代がやって来ます。でも、大丈夫です。その困難の向こう側にある〝永遠〟にフォーカスを合わせるとき、答えは「YES」です。

テモテへの第二の手紙は、「ゆだねられた福音を守りなさい」と命令しています(1・14)。これは先の第1章で見ました。福音はイエス・キリストから始まり、パウロをはじめ使徒たちにゆだねられ、そして、テモテにもゆだねられました。今や、2千年の時を経て私たちにもゆだねられています。

いわばこの福音は〝神からの手紙〟です。神の国の王であるイエスから、世界中の人々に届けられるべき手紙……それが福音です。その内容は、イエス・キリストにある罪のゆるしとサタンに対する刑罰からの救いが記されています。

この手紙が世界の隅々にまで届けられたら、終わりの日が来ます。つまり、神の御国の完成と悪魔の滅びの時です。ですから、それを阻止するために、悪魔(サタン)とその仲間たちは躍起になって妨害します。その妨害に屈することなく、ゆだねられた福音を守らなければなりません。守るだけでなく、全世界に届けなければなりません。

テモテへの第二の手紙は、この福音という神からの親書(手紙)を守り抜くように命じているのです。

どうか、皆さんもこの親書を守ってください。そして、人々の手に届くようになさってください。あえて「親書」と申し上げたのは、権威あるお方からの公式で重要な手紙だからです。そんな手紙が「福音」なのです。

さらに踏み込んで申し上げます。私たち自身が手紙です。神の御言(福音)が書き記された手紙です。

悪魔はこの手紙を人々に読ませたくないので、破り捨てようとします。それは、暴力をもってなす迫害です。ローマ帝国のもとに多くのクリスチャンが殉教しました。まるで神からの親書を奪い取り、破り捨てるかのように彼らを殺害したのです。

また、悪魔はその手紙を書き換えようとします。内容を改竄して、福音をゆがめたり、信仰の目的をそらすのです。中世の時代、堕落したキリスト教会でこのことが著しく行われました。

罪のゆるしのために免罪符を買わなければならないとか、修行が必要であるとか、一般信徒が神に直接祈ることは不可能なので聖母や聖人に願うとか。たくさんの改竄と逸脱がありました。

また悪魔は、人々が手紙を読めないように、手紙をよごしてしまいます。人々が読む気にならないように、手紙の価値を卑しめてしまいます。それはクリスチャンの堕落を通してです。

本書の3章2~5節の記録は、そのような悪魔の手口です。次のように記されています。

「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。」

こんな状態の手紙(クリスチャン)を、未信者の人は読む気になれません。

もう一度、敬虔の奥義からこのことを整理してみましょう。神は私たちに福音という神の御言をゆだねてくださいました。その福音は目に見えません。だから、私自身を通して見えるようにします。そうすることで、私たちは福音を伝える神からの手紙たり得るのです。

それが敬虔の奥義です。

でも、悪魔はそれをさせまいとして、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」に堕落させます(3・5)。 ※口語訳は「信心深い様子をしながら」。新改訳を参照。

こうして、悪魔は敬虔であることを妨害します。つまり、神の手紙である私たちを殺したり、歪めたり、よごしたりするのです。ですから、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます(3・12)

終わりの時代につまり困難な時代に、私たちは神からゆだねられた福音を守らなければなりません。どのようにして守ることができるのでしょうか。

手紙は1章14節で、あなた方の内に宿っておられる聖霊によって守りなさいと教えています。聖霊なる神にいつも助けを祈ってください。

そして、3章15~17節で、聖書によって教えられなさいと勧めています。聖書を学ぶ事が福音を守ることになります。なぜなら、聖書は神の霊感を受けて記録されたものであるから、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益だからです(3・16)

ですから、聖書を読み続けます。そして、聖霊の助けをいつも求めます。それが、終わりの日の困難な時代にあっても、ゆだねられた福音を守り切る唯一の方法なのです。

 
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。

~~~~~~~~~~~~

テモテへの第二の手紙 2章

2023年02月20日 | テモテ書
テモテへの第二の手紙 2章 
そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。
(2・1)


手紙の受取人であるテモテは大きなストレスを抱えていました。その事情はすでに申し上げたとおりです。胃腸も患っていたようで、先の手紙では、少量のブドウ酒を飲むように勧められるほどでした(第一5・23)

現代人もストレス社会で重荷を背負っています。文明が進み、便利で快適な社会、社会制度も充実しているにもかかわらず、ストレスが減るどころか、かえって増えるばかりです。

職場ではノルマを課せられ、常に批判と評価の中にさらされています。そんな中で強くあろうとして、最大限の努力を強いられています。まるで現代版・律法の世界です。

律法はいつも努力を要求します。ノルマを課し、批判と評価を容赦なく浴びせるのが律法です。地上の世界はまさに律法の世界です。そのような社会の仕組みは、自転車操業みたいなもので、〝努力〟とうペダルをこぐのをやめてしまったら倒れてしまいます。だから、みな追い立てられるようにしてペダルをこぎ続けています。実につらい世界です。

律法に無くて福音にあるもの。それは恵みです。努力を軽んじるつもりはありません。ただその努力という「力」が、律法から追い立てられるようにして出ているのか。それとも恵みから出ているのか。それが肝心です。今日の御言はキリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさいと勧めています(2・1)。律法の世界ではなく、恵みの世界に生きるようにと聖書は命じています。

とはいえ、律法が無くなるわけではありません。キリストは律法を廃止するために来られたのではなく、私たちが恵みの世界に生きることができるようにするために来てくださいました。

律法は無くなったのではなく、私が律法に対して死んだのです。ですから、もし、私が古い自分で生きようとしたら、あいかわらず律法の下で苦しむことになります。

私たちの住むこの世界は、今後も能力主義で進んで行きます。相変わらず弱肉強食の価値観が支配しています。そして、自己責任という名の鞭で追い立てる世界です。しかし、イエスを信じる者は、その世界に対して死んで、恵みの世界で生きる者です。

(1)恵みとは〝一方的に〟の世界です。

イエスがくださる救いは、私の状態とは無関係に、一方的にくださる救いです。私がまだ罪人であったときに、まだ神に敵対しているときに、イエスは十字架で死んでくださいました。

だれが死んでくれって頼んだんだ!なんてうそぶく人がいます。でも、自分のために死んでくださる方が必要なことさえも分からない私でした。自分が永遠の滅びに突き進んでいる現状も気づかない愚か者のために、神が一方的に、先手を打って、罪の代価を支払ってくださいました。

某テレビニュースで、地下鉄のホームに転落した幼児を救出する青年の映像が放送されました。あと数秒で電車が入ってくるという緊迫した状況でした。幼児は死の危険が迫っていることに気づいていません。気づいたのは助けた青年でした。彼は飛び降りて、電車の来ない反対側のホームに幼児を逃がしました。

幼児は何が起きたのか、まだ十分に理解できていないでしょう。齢を経てこの映像を見たなら、その恵みの大きさを知るはずです。

私たちも歳をとり、自分の罪の深さを知るようになるにつれて、恵みを感謝するに違いありません。

(2)恵みとは〝すでに〟の世界です。

イエスがくださる祝福は〝すでに〟与えられています。すでに100%くださいました。

救いを受け取るためには、神の一方的な恵みであることは分かりました。しかし、その後の祝福は、自分の努力次第だと思っていませんか。私の努力や立派な生活に応じて、神が小出しに祝福してくださると思っていませんか。私の良い行いが、神の祝福を引き出す条件のように勘違いしていませんか。どれもこもれも間違っています。

神は、御子イエスを私にくださった時点で〝すでに〟すべてを与えてくださいました。「神はそのひとり子を与えるほどに世(私たち)を愛された」のです(ヨハネ3・16)

そのイエス・キリストの中に神の祝福はすでに充満しています。

ある人が広大な土地を購入して農場を始めました。しかし、経営はうまく行かず借金がかさなり破綻寸前です。ところが、ある石油会社が彼の土地を調べたところ、膨大な油田を発見しました。

彼は、油田を発見した時点で億万長者になったのではありません。その土地を所有した時点で、すでに彼は億万長者になっていたのです。ただ、それを知らなかっただけです。

このように、イエスの恵みは〝すでに〟の世界です。私はこれを知って随分と楽になりました。神はすでに用意なさっています。あとは、それを信じて、恵みを発見するだけです。

(3)恵みとは〝安息〟の世界です。

神はイスラエルの民に、6日間働いて7日目は安息せよと命じられました。つまり、働くなと言われたのです。

この安息はイエスの中で完成しています。救いのために何もしない。祝福のために努力しない。ただ、神が用意なさったものを謙遜に受け取る世界……これが安息です。

何かしてないと落ち着かないほど、私たちは何かに追い立てられています。何もしないでいると、責められるような気がするのです。ですから、何かをしているフリさえもやろうとします。

これは律法の世界特有の病気です。パフォーマンス症候群です。

何もしなくてもよい世界。何も要求されない世界。そのままを受け止めてもらえる世界。それを「甘えだ」という人もいます。しかし、人間はそれほど強くありません。人にはこのような神の恵みが絶対に必要なのです。何もしなくても神によって義と認められる安息が必要なのです。

自分の弱さを認めて、神の恵みの世界で安息する道を確保してください。神の恵みを受け取ってください。ゆったりとした気分で安息を味わってください。

そこから湧き出る力こそ、世に勝つ力です。人の努力をはるかに超える力です。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい(2・1)

朗読配信_Spotifyhttps://open.spotify.com/episode/2qpHugZbYrcaE5ND6e4DXY?si=mD9PIahORRaXxbB9wCynuw
You Tubehttps://youtu.be/dYaYqFj3eyM

~~~~~~~~~~~~

テモテへの第二の手紙 1章

2023年02月18日 | テモテ書
テモテへの第二の手紙 1章
あなたにゆだねられている尊いものを、私たちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。
(1・14)


初代教会といえども、常に右肩上がりの成長をとげたわけではありませんでした。テモテへの第一および第二の手紙から、当時のキリスト教会に衰退の陰が忍び寄るのを感じます。

①信仰の破船にあった人(第一1・19)
②良心に焼き印をおされて道をそれた人(第一4・1~3)
③富に魅せられて信仰から迷い出た人(第一6・10)
④パウロを見捨てた人(第二1・15)
⑤偽りの言葉をガンのように腐れ広げる人(第二2・17)
⑥欲心に心を奪われ罪を重ねる人(第二3・6)
⑦知性が腐って信仰の失格者になった人(第二3・8)等々……。

暗い話しで申しわけありませんが、これらは皆クリスチャンの話です。イエスを信じて救いを受けた後の話です。教会はそのような負の部分も抱えながら今日まで歩んできたのです。

特に、パウロの投獄を恥じて多くの信者がパウロから離れてしまったことは、テモテにとって悲しみと落胆と恐れをもたらしました。アジヤにいる者たちは、皆わたしから離れて行ったと記されているように(第二1・15)、アジア州(現在のトルコ半島)のキリスト教会はパウロを見捨てるようにして関係を断ってしまったのです。

パウロの逮捕と投獄は、当時のローマ社会からは犯罪者とか異常者扱いを受けました。だから、アジアの諸教会はそれを恥じて、パウロと無関係を装ったわけです。もちろん、そのような中でも私の鎖を恥とも思わないでパウロを支援した人々もいました(第二1・16)

そのアジア州の州都がエペソであり、そのエペソ教会の牧師であるテモテの心中は如何につらかったことでしょうか。パウロはそんなテモテを励ますために、この第二の手紙を記しました。

神が私たちにくださった霊は、臆する霊ではなく、力と愛と慎みの聖霊を受けたのではありませんか。あなたが受けた神の賜物を再び燃え立たせなさい……と勧めています(1・6~7)

つまり、あなたの内に住まわれる〝聖霊に期待せよ〟というのです。

そうです。私たちの望みはいつも私自身ではなく、私の中に住まわれる聖霊です。私の中のキリストです。自分の能力とか、自分の頑張りとか、性格や性質を見ていると落胆する他ありません。

私たちの内に宿っている聖霊によって……です。

今日の聖句は、あなたにゆだねられた尊いものを、私たちの内に宿っている聖霊によって守りなさいとありますが、ゆだねられた尊いものとはキリストの福音です。神の御言です。

はじめに神はパウロにそれをゆだね、次にパウロは弟子のテモテへゆだねました。そして、更にそれを忠実な人々にゆだねよと命じています(第二2・2)。このようにして、キリストの福音は今日の私たちにも伝えられてきました。はたして私は、そしてあなたは忠実な者だろうか。こんな尊い宝物を腐らせてはいないだろうか。福音を恥ずかしく思って、地に埋めてしまっていないだろうか。委ねられた自分としては問われるところです。

だからこそ、私たちの内におられる聖霊によって守るのです。聖霊が、私たちにゆだねられた尊い福音を守ってくださいます。

日本にも昔ながらの伝統があります。それを守るために、無形・有形文化財とか人間国宝などと指定して守って来ました。しかし、時代の流れにおされて、少しずつ変質して行きます。

しかし、神が私たちにゆだねてくださった福音(神の御言)は、聖霊によって守られます。2千年前にイエス様が語られたのとまったく同じ水準で、同じ濃さで、聖霊が保存し、聖霊が今の私たちにも現してくださいます。

福音は時代の変化によって変質したり、変更するものではありません。神が「罪をゆるす」と言われたら、ゆるされるのです。愛すると言われたら、最後まで変わることなく愛されるのです。

その変わることのない神の御言……福音は、今日も聖霊によって、生きた神の言葉として受け、私たちの中で実現する言葉です。2千年前と同じように再現する言葉です。それは、聖霊によってです。

さあ、祈りましょう。

聖霊によって、神が私たちにゆだねてくださった尊いもの、すなわち神の御言を、最後まで守り、生かし、伝える者とならせてください。

~~~~~~~~~~~~

テモテへの第一の手紙 6章

2023年02月17日 | テモテ書
テモテへの第一の手紙 6章
満ち足りる心をともなう敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(6・6 新改訳)

キリスト信仰は御利益信仰ではないと言われますが、見方を変えれば、キリスト信仰こそ最大の御利益信仰です。今日の御言も満ち足りる心を伴う敬虔こそ大きな利益だと言っています。要は何をもって〝利益〟とするかです。地上的な価値観で量る利益もあれば、神の国の価値観で量る利益もあります。

では、満ち足りる心を伴う敬虔とは、どんな状態のことでしょうか。口語訳では「信心があって足ることを知る」です。つまり、「敬虔な信仰によって心が満ち足りている」という状態のことです。それは大きな利益です。

しかし、そんなことでは物足りない人もいることでしょう。ある人は、経済的に豊かになりたくて神を信じます。また、当面の問題を解決したくて信じる人もいます。

聖書はそのような人々のことを敬虔を利得の手段と考えている人たちと評しています(6・5)。地上で成功するために信じるとか、地上の富を得たり安楽な生活のために信じる人々のことです。つまり、地上の価値観で生きる人です。

地上の価値観で生きようとするなら、争いが絶えません。だから、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです(6・5)。さらに御言は告げます。

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(6・9~10)

ここで、この手紙が記された背景を理解しておきましょう。

この手紙は、晩年のパウロがエペソ教会の牧師テモテに宛てたものです。時は、教会が誕生した頃のピュアな信仰がうすれ、世俗化の波が押し寄せている時代でした。

そんな中、クリスチャンでありながら信仰の破船にあう人々も出てきました。敬虔のともなう信仰から、世俗的な信仰へと変質しつつある時代にさしかかっていました。

世の迫害は、なにも暴力による迫害だけではありません。世俗化や人本主義(ヒューマニズム)によって信仰を無力化させる働きもあります。晩年のパウロは、そのような危機を先取りして、この手紙で警告しているのです。

話しをもどしましょう。

正しい良心から生じる敬虔は天上の価値観で生きることです。しかし、地上の価値観で生きようとして、地上の富を得ようと敬虔を利得の手段とするのは、それは敬虔なふりをするだけで、正しい良心を捨ててしまった者です。良心が麻痺しています。

地上の富は手で触れることができ、目で見ることのができるので、肉の感覚ではとても魅力的です。でも、そのような地上の価値観が良心を麻痺させます。

無理に我慢することではありません。禁欲的になれというのでもありません。神が私たちにくださった新しい霊、新しい心の感覚で生きようとするなら、無理なくそうすることができます。

聖書は言います。私たちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである(6・7~8)

地上の富は、地上で生きる分だけあればよいのです。なぜなら、地上の富は地上で通用するだけであり、天では通用しないからです。天に持って行くこともできません。天に持って行けない物のために全生涯を費やすのは勿体ないです。

神が私たちに賜った宝は、地上だけでなく、天においても通用する値打ちのものです。永遠に朽ちない宝です。地上の宝は人を誇らせ、争い事を起こします。しかし、天上の宝は、私たちに、謙遜と分かち合うことのできる愛とゆとりを起こさせます。

地上の価値観から天上の価値観へと変われば、キリスト信仰こそ最大の御利益信仰だと分かります。信仰を得ている……言いかえればキリストが私の内におられることこそ最高の利益です。

~~~~~~~~~~~~

テモテへの第一の手紙 5章

2023年02月16日 | テモテ書
テモテへの第一の手紙 5章
それと同じく、良いわざもすぐ明らかになり、そうならない場合でも、隠れていることはあり得ない。
(5・25)


5章からは対人関係についての教えです。

年配の人には父母に接するような関わり方。若い男性には兄弟のように、若い女性には純潔な思いで姉妹に接するような関わり方。どれも〝神の家族〟を意識した関わり方です(5・1~2)

次の3~16節は、やもめ(寡婦)との関わり方です。夫を亡くした女性は弱い立場にありましたが、身寄りがある場合は、その親族で扶養するように勧めています。それができない場合は、教会という神の家族の中で助けるようにと命じられています。

ここでも家族としての関わりが述べられています。

人が最初に経験する人間関係は家族です人間関係の基礎は家族の中で養われます。ただ、その家族関係が傷つき壊れてしまうと、社会の人間関係までも壊れてしまいます。そして今や、その負の連鎖は深まり加速しているのが現代社会です。

そのような中で、キリスト教会が神の家族としての人間関係を保つことは地の塩としての働きです。ここから各家庭の回復につながります。さらに、社会の人間関係回復に展開します。だから、祈らなければなりません。キリストの教会が神の家族として、健康的な人間関係を現して行けるように……と。

この教会のあり方にも、目に見えない神との交わりを、目に見える人間関係で現して行くという〝敬虔の奥義〟があります。

ここ数年、自助・共助・公助が話題になっています。「公助」とは国の仕組みの中で助け合うことです。各種年金とか社会福祉制度のことです。しかし、聖書が記された時代は公助のない時代です。そういう中で共助に相当するのが、教会の交わりの中でなされた助け合いです。

基本理念は家族としての人間関係です。それは公助においても同じです。ところが、国という大きな枠組みではシステム化されてしまい、家族という理念が置き去りにされているように思います。

本来、神はご自身の愛を表現するために〝家族〟という人間関係をお定めになりました。目で見ることのできない神の愛を、教会という神の家族の中で現すのです。各家庭の家族の中で現します。そして、大きな国としての人間関係の中でも現すのです。

さて話しが長くなりました。冒頭の聖句に戻ることにしましょう。

聖書は、隠れているもので、明らかにされないものはないと教えています。良いことでも、悪いことでも、必ず、遅かれ早かれ明らかにされます。神の目には、すべてが明かであることを知るべきです。

私たちの神は、全知全能のお方であることを知って、その方の御前に正直に生きること……これが敬虔のもうひとつの意味です敬虔のギリシャ語の原意は「正しく畏れる」という意味です。前章までで、敬虔とは目に見えない生活を見える生き方に現すことだと学んできましたが、さらに次なる側面は、神を畏れて正直に生きることを意味します。

人の肉なる感覚では、良い行いはアピールしたいが、悪い行いは隠しておきたいのです。つまり、肉なる思いのフォーカス(焦点)は人に向かっています。

敬虔な信仰とは〝人〟ではなく〝神〟にフォーカスを合わせることです。人にフォーカスを合わせると、肉の思いが活気づきます。自分の良い行いを人に認めてもらおうとします。

主イエスは、「右の手のしたことを左の手に知らせるな」と言われました(マタイ6・3)。これはフォーカスの問題です。

私たちの生活は人に向かっているようですが、実は、主イエスに対して成しています。「この小さい者にしたことは、私にしてくれたことだ」とイエスは言われます。

良い行いは、人に対してであれば誇り得ることもあるでしょう。でも、主イエスに対して行っているのであれば、誇ることは何もありません。主に対してはただひたすら、「私はふつつかなしもべです。すべきことをしたに過ぎません」と申し上げる他ありません(ルカ17・10)

ところが、人にフォーカスを合わせるので誇りたくなります。人前に明らかにしたくなります。右の手のしたことを左の手にも知らせたくなります。そこで、肉なる誇りが満足しないと、「誰も私を認めてくれない」といって不平が出てきます。

だから主イエスにフォーカス(焦点を合わせます。それが敬虔です。良い働きは、たとえ人の目には隠れていても、神の目には明かです。そして、その良い行いは必ず明らかになります。それを明らかにされるのは主です。主が明らかにされるので、最も良いタイミングでなさいます。

なのに、自分で明らかにしようとするなら、その報いを地上で受けてしまいます。主イエスからの報いこそ本当の報い……つまり、永遠に残る報いです。これを逃してはなりません。こんなすてきな報酬を奪われてはなりません。

悪い行いについても同じことが言えます。

良い行いの場合とは逆で、悪いことは隠しておきたいものです。人の目には、自分は良い人間だと思われていたいからです。これも、フォーカスが人に向かっています。

悪いことについても、全てをお見通しである主イエスにフォーカスを合わせるべきです。主の御前には、良いことも悪いことも隠すことができません。そのような主イエスの御前に、私たちは正直になるしかありません。

悪いことも、主の目には隠すことができないと知ったなら、主イエスにすべてを申し上げて、主の安息の中に憩うことにしよう。

このように、悪いことも良いことも、隠されていて明らかにされないものはありません。しかし、今、隠されているとしたら、それは主が隠しておられるのです。明らかにされたとしたら、それは主が明らかにされたからです。

ですから、侮ってははいけません。また、気をもむ必要もありません。すべては主の御手の中にあります。今日も、この主イエス様にフォーカスを合わせてください。

~~~~~~~~~~~~

テモテへの第一の手紙 4章

2023年02月15日 | テモテ書
テモテへの第一の手紙 4章
敬虔のために自分を鍛練しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。
(4・7~8 新改訳)


テモテへの手紙では「敬虔」について学んでいます。口語訳では「信心」と訳されていますが、そこを「敬虔」と読み替えてください。

先の第3章では、敬虔が信仰の奥義であると語られていましたが、第4章では、敬虔のために自分を鍛えなさいと勧めています。信仰の破船にあわないために、敬虔のための訓練が有益であると説いています。

日本語の「敬虔」は「信心深い」といったイメージです。しかし、テモテ書でいう敬虔とは、信心深げなふりをすることではありません。もう一度整理しておきましょう。敬虔とは〝見えない信仰を見える生活で現すこと〟です。

ひと言でいえば信仰の生活化です。

私の霊にある信仰は見えません。それが、私の心に表現され、そして生活にも表現されて行きます。内側からだんだんと現れて行き、霊から心へ、心から肉体へと信仰がまっすぐにつながって行くイメージです。つまり、霊と心と肉体(生活)が信仰という一本の筋でしっかりと貫かれて行きます。

イエスを信じた人の霊には、神の聖霊が住んでおられます。聖霊は、私の内側から……つまり、霊の領域から影響を与えて、イエスの御姿を現そうと願っておられます。

まず、私の心にイエスの心を現そうとなさいます。そして、イエスの心をもって、肉体による実際の行動にも、イエスの働きを現そうとなさいます。

」→「)」→「肉体とイエス様のご性質と生き様が現れるようになさいます。それをなさるのは、私の内に住まわれる聖霊です。

さあ、本題に進みましょう。

「敬虔のために訓練しなさい」と言われていますが、表面上、信仰深いふりをするための訓練ではありません。それは長続きしません。それをやると、どうしても肉の頑張りになってしまうので、律法的な生活になります。つまり信仰生活ではなく宗教生活になるのです。かつての私はそうでした。規則や規律を重んじることで訓練していました。でも、それは律法によって窮屈な生活へ追いやるばかりで、「敬虔のための訓練」にはなりませんでした。

事実、テモテへの手紙は、表面上だけ立派なふりをする間違った教えを警戒せよ指摘しています(4・1~5)。このような宗教生活は「良心が麻痺」していて、正しい良心をもたらす聖霊の働きではありません。 ※「良心の麻痺」とは「良心に焼き印をおされている」。

キリスト信仰は「宗教」ではなく「信仰」です。キリスト教という宗教を信じるのではなく、キリストを信じるのです。私の中に聖霊によって住まわれるキリストに正直になることです。「~しなければ」というのは宗教の世界です。しかし、私の内なる霊は、主にお会いしたい、主のようになりたい、ささげたい……と「~したい」という霊の思いに導きます。

宗教は律法によって動きますが、信仰は聖霊によって導かれます。

こうして、聖霊の助けによって、見えない信仰を見える生活に現すことができるように祈ります。それが、敬虔のための訓練です。目に見えないイエスを信じた私が、生活を通してイエス様を現すことができるように祈ります。

御言も見えません。しかし、見えない御言は、信じた私たちの生活を通して見えるようになります。イエス様も、見えない御言を、ご自身の体をもって見せてくださいました。

未信者の方が教会に来られたら、教会で神の御言を聞くのは勿論ですが、さらに〝見ることができる〟ようになってほしい……。そんな敬虔な教会になりたいと私は祈っています。

一朝一夕にできることではありません。忍耐が必要です。敬虔の訓練は、今のいのちと未来のいのちとに有益なのです。肉体の死後の永遠のいのちはもちろんのこと、〝今の生活がいのちに溢れた生活になる〟ために有益です。

さあ、いよいよ訓練の具体的な内容に入らねばなりませんね。敬虔のための訓練についてはパウロ自身も「労し苦しんで」います(4・10)。順を追って見て行きましょう。

①模範になろうとする(12)

信仰とはこういうことだと、見せてあげられるような生き方を目指すことです。でも、ここで人を意識しすぎてはなりません。人ではなく、神の歓心を買おうとすることです(ガラ1・10)

②聖書朗読と教えに専念する(13)

日々の聖書朗読は力になります。この「朝マナ」の取り組みもそのひとつです。聖書を読み、そこから教えを汲み取り実践のために祈る生活を重ねます。

③聖霊の賜物を軽んじてはならない(14)

人の努力はわずかです。聖霊の助けが絶対に必要です。それは不思議な力です。実感できてもできなくても、いつも聖霊の助けを祈り求めます。

④自分のやっていることと教えていることに食い違いはないか気をつける(16)

まさにその通りです。それこそが敬虔の本質です。

祈りましょう。聖霊の思いと私の思いがひとつになりますように。聖霊の願いと私の願いが同じになりますように。聖霊の思いが、私の生活に現されますように。こんな生活にいのちがあります。

朗読配信_Spotify テモテへの手紙第Ⅰ 4章 • 朝マナPodcast (spotify.com)
You Tube
朝マナ テモテへの手紙Ⅰ 4章 - YouTube
~~~~~~~~~~~~

テモテへの第一の手紙 3章

2023年02月14日 | テモテ書
テモテへの第一の手紙 3章
確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」
(3・16 新改訳)


敬虔の奥義とはどんな奥義なのでしょうか。奥義といわれているからには、大切な意味が込められているはずです。 ※口語訳・新共同訳では「信心」と翻訳。〝信心〟を〝敬虔と読みかえてください。

敬虔とは一般的に信仰深い生活のことを言いますが、正確には、「信じている内容が実際の生活に現れていること」です。

先の第1章で、正しい良心について考えました。信じていても、正しい良心を捨てるなら、信じている内容と実際の生活が食い違います。それがやがて「信仰の破船」になるのだと学びました。

イエス・キリストを信じることによって救われます。そして、その救いは「霊の救い」です。確実な救いです。でも、「救われているから、私の心がどうであってもかまわない」とか「生活が乱れていても私の霊は救われているから気にしない」と考えるなら、正しい良心を疎かにすることになります。それが信仰の破船につながるわけです。

この正しい良心は敬虔へとつながって行きます。

信仰は目に見えません。だからといって生活に現さないでいられるでしょうか。現さないでいるとしたら、それは正しい良心ではありません。良心に焼き印をおされています。麻痺しています。

目に見えない信仰を目に見える生活に現すこと……これが敬虔といわれる内容です

そこで、今日の聖句です。「キリストが肉体において現れた」。このことは敬虔の奥義だというのです。キリストが肉体をとって来られたことが敬虔とどのように関係するのでしょうか。

信仰が目に見えないように、神も、そして神の御言も目に見えません。しかし、神はご自身を、キリストの肉体を通して見せてくださいました。キリストとは、まさに見えない神の御言が、肉体をとって、見える姿で来られたのです。

キリストが肉体をとって来られなければ、神は十字架で血を流すことができませんでした。この十字架を通して、私たちは、見ることのできなかった神の愛を知りました。また、十字架の死を通して、私たちは見ることのできなかった神の聖なることを知りました。こうして、目に見えなかった神や、神の御言を見ることができたのです。

キリストが肉体をとって世に来られたので、ヨハネは「私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について」と書き表しました(Ⅰヨハネ1・1)

つまり、キリストが肉体をとって来られたので、私たちは、見ることのできない神を知り、神の御言を見てさわることができたのです。

キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられたという短い詩歌は、当時の教会でだれもが知っている賛美の歌でした。

要約すれば、キリストが肉体をとって来られたことによって、神の義が見える姿で現わされ、それを天使たちも見、人々も見て、栄光となった……ということです。これが敬虔の奥義です。

つまり、キリストが肉体を通して、見えない神をあらわしたように、見えない信仰も、私たちの肉体を通してあらわして行きますこれが敬虔の奥義だと説明しているのです。

神の御言も見ることができません。それを私が信じていても、他の人々はそれを見ることができません。しかし、その御言を私の生き様で現すなら、人々は見ることができます。

見えないキリストを私の体をもってあらわす生活が敬虔の奥義です。見えない御言を、私の生き様であらわすことが敬虔の奥義です。見えない信仰を、私の肉体であらわす生活が敬虔の奥義です。
 
私たちの肉の体は脆くて弱いものです。体温が2~3度上がるだけで動かなくなる肉体です。1日ご飯を食べなければ、苛々したり不平が出てくる肉体です。怪我をすれば痛くてしんどくなる肉体です。

でも、神はそんな弱さのある肉体を通して、見えない神のご性質を表現なさるのです。イエス様は、見えない神のご性質をその弱い肉体を通して見せてくださいました。

信仰正しい良心敬虔」。これが真っ直ぐにつながることを祈りましょう。「信仰→正しい良心→敬虔」が、歪んだり捻れないで一本線の上にストーンとつながっている。そんなイメージです。

この敬虔の奥義を、肉の力でなすのは不可能です。肉の力でやろうとすれば、敬虔な〝ふり〟をするだけです。そんな偽善的な生活はやがて疲れ果ててしまいます。

祈りましょう。主よ、私の肉体を、見えない神のご性質をあらわす器として使ってください。信じた御言が、私の心を住まいとし、私の肉体を道具として、目に見える姿で現れるようにしてください。

~~~~~~~~~~~~

テモテへの第一の手紙 2章

2023年02月13日 | テモテ書
テモテへの第一の手紙 2章
そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。
(2・1)


今日の御言は、すべての人のために祈れと命じています。〝すべての人〟ですか……。そうです。なぜなら、神は〝すべての人〟が救われて、真理を知るように願っているからです(2・4)。そして、イエス・キリストが十字架で死なれたのも、すべての人のためだからです(2・6)
 
神は私たちに祭司としての任務を命じています。

祭司とは「橋渡し」の意味です。人々のために、神に執り成しの祈りをして、人と神との間の〝橋渡し〟をするわけです。この祭司の務めは、旧約の時代は限られた特別な人によってなされていました。律法で定められた祭司だけが神殿の中に入り、民を代表していけにえをささげ、祈りをささげました。

しかし、その祭司の働きはイエス・キリストによって完成しました。イエス様は、神へのいけにえとしてご自分のいのちをささげ、人類の罪のゆるしと和解のために執り成してくださいました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか分からないのです」という主イエスの祈りは、まさに祭司の祈りであり働きでした。

こうして、新約時代の祭司の務めは、イエスを信じたクリスチャンに受け継がれています。しかし、この務めは充分になされているでしょうか。

ルターの宗教改革は3つの課題があげられました。

信仰義認……信仰によってのみ救われる。
聖書主義……信仰の規範は聖書のみである。
万人祭司……すべてのクリスチャンが祭司として神に祈ることができる。

その中で、③の「万人祭司」の課題はいまだに不充分な改革です。なぜなら、「祈り」「執り成し」「伝道」といった、人々を神へ橋渡しする役割は牧師や伝道師の働きだと思っている人が多いからです。

そうではなく、私たち一人びとりに与えられた、重要な務めです。私たちは、救われて、その後は自分のためにだけに生きるのではありません。

とは言うものの何か大きな事をせよというではありません。小さな事に忠実でありましょう。それは、祭司として人々のために祈ることです。小事に忠実な者は大事にも忠実なのですから……。

今日の聖句は、すべての人のために、特に、王たちと上に立つ人々のために祈りなさいと勧めています。具体的には、日本の国の指導者たちのために祈ることです。また、地域の長として立てられている人々のために祈ることです。

さて、「主の祈り」で〝御国が来ますように〟と祈りますが、それは世俗の国のことではありません。今ある国を倒して、キリスト教に基づいた国を建国しようというのではありません。過去、キリスト教を国教としたローマ帝国を始め、歴代のキリスト教国と呼ばれる国々が目指した御国は、主の祈りでいう「御国」とは異質のものでした。

イエス様は「わたしの国はこの世のものではない」と言われました。ですから、初代教会のクリスチャンは、ローマ帝国を倒すために活動したのではありませんでした。むしろ、祈ったのです。王や指導者たちが正しい政治を成すことができるようにと、祭司職の立場に立って祈りました。

皇帝を神とする偶像礼拝を強いるローマ帝国に対して、クリスチャンは武力で抵抗しませんでした。むしろ、殉教によっていのちをさしだして、偶像礼拝の誤りを訴えたのです。こうして、祭司としての究極の務めをささげました。

イエス様は弟子たちを派遣するにあたり、「天の父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」と言われました。イエスが十字架で祭司としての務めを全うなさったように、私たちも祈るために派遣されています。

さて、テモテへの第一の手紙の1章では、霊と心と体のうちの心の救いについて論じました。新生した霊の救いが、心の領域にも現されることで「心の救い」が完成して行きます。

その心の救い……つまり聖化の過程で〝正しい良心〟を捨ててはならないと述べられていました。正しい良心を保つことと心の領域が救われて行くこととは深く関わっているのです。

そのように論じた後で、2章に入って「すべての人のために祈りなさい」という教えとどのようにつながるのでしょうか。

心とか魂という〝考え方の領域〟が救われて行くとは、神の御言に基づいた考え方に変えられて行くことです。そして、その考え方は生き方となって現れます。〝見えない御言〟の世界が、私の考え方や生き方として〝見える姿〟に現れてきます。これが次の3章で取り上げる敬虔の奥義です。 ※口語訳・新共同訳では「信心の奥義」。新改訳・共同訳を参照。

つまり、すべての人と神との橋渡し役としての生き様。ここに、心が救われて生き方が変えられた者の基本姿勢が現れているのです。イエス・キリストが地上でなさった生き方そのものです。これは、イエス・キリストという見えないお方を、私の生き様を通して見えるようにする生活なのです。

以上の視点で、2章の後半から3章13節を読み解くと良いでしょう。

男たる者は祈る者であること(2・8)。婦人は行いをもって身を飾るようにせよ(2・8~10)。11節以降の「女性は慎み深くあるように」という教えは、当時の文化的背景で言われていることであって、女性蔑視を助長するものではありません。

そして、3章に入って「教会の指導的な立場にある者への教え」と話題が展開します。指導者たる者……それは、心の救いに勉めている者がふさわしいのだと論旨はすすみます。

もちろんイエスを信じて救われたのですが、指導者たる者は霊の救いで終わるのではなく、心の領域も救われ、その生活やふるまいに、救いが現れている人がふさわしいです。

霊で受けた救い……。これが心のあり方へと展開します。そして、キリストに似た考え方へと変えられます。それが生き方にも現れて行きます。目に見えない救いが、目に見える救いの姿となって現れて行くわけです。これが救われた者がたどる展開です。ここに「敬虔の奥義」があります。

もし、霊の救いの段階で満足し、心の部分をおろそかにするなら、その人は〝正しい良心〟を捨てることになるのです。そして、信仰の破船へとつながって行きます。

朗読配信_Spotifyhttps://open.spotify.com/episode/7hO0oekPljrUnf52GKDUGq?si=RTOcufMnR6ebF38xQz5U0A
You Tubehttps://youtu.be/ya9l_mXeS3g

~~~~~~~~~~~~

テモテへの第一の手紙 1章

2023年02月11日 | テモテ書
テモテへの第一の手紙 1章
信仰と正しい良心とを保ちながら、立派に戦いぬきなさい。
(1・18)


テモテはエペソ教会の牧師でした。教会にはいつの時代にも様々な問題が山積しています。そこで、晩年を迎えていたパウロは、遺言を残すようにして若き牧師テモテにこの手紙を記しました。

テモテへの手紙の第一も第二も、命じるという語句が多く記されていますが、今日の聖句もりっぱに戦いぬきなさいと命じています。とはいえ難行苦行をして戦いぬくのではありません。それは肉の力であって、霊的な戦いのためには無力です。

私たちは悪魔(サタン)の支配から救い出された者です。コロサイ書にこう記されています。「神は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった」のです(コロ1・13)

エペソ書でもこう記しています。「私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペ6・12)

このような霊的な戦いですから、信仰をしっかりと保たなければなりません。ところが、今日の聖句は不思議です。信仰正しい良心を保って……と記しています。「信じる」ことに加えて、正しい良心を保つことが大切だと教えているのです。

信仰は保っていても、正しい良心を捨ててしまうと、信仰の破船に遭ってしまうと言うのです(Ⅰテモ1・19)。そのような人たちは「良心に焼き印をおされた人」なのです(Ⅰテモ4・2)。 ※新改訳では「良心が麻痺している」と翻訳。原語では「焼き印をおす」の意。

信仰の円熟味を増したパウロが、重要なこととして、この正しい良心を取り上げていることに学びたいと思います。

「良心」に正しいも悪いもないと思うのですが、聖書はわざわざ〝正しい良心〟と説明しています。ですから逆に〝悪い(邪悪な)良心〟もあるわけです(ヘブル10・22・新改訳)。

人間が見るに、良心は良いものに決まっていると思うのですが、神がご覧になるには、正しい良心と悪い良心があるのです。なぜなら、アダムが罪を犯して以来、人間の良心はゆがんでいるからです。

人類の根っ子の罪は、善悪を知る木の実を食べたときから全人類の中に入ってきました。「善悪を知る木の実を食べた」ことの意味するところは、善悪を神に聞くのではなく、自分で判断するようになったことです。自分なりの良心で判断するのです。

ですから、人や民族によって良心の水準が違います。私には悪いことだと思えても、他の人は良心の呵責を感じません。また、逆に、良心の呵責を受け過ぎる人もいます。

イエス・キリストを信じることで、私の霊は完全な救いを受けました。しかし、この救いが完成するために、神は、私の心の領域を取り扱われます。 ※第一テサロニケ5章で霊と心と体について取り上げた。救いは霊から始まり、心(魂)の救い、体の救いへと至る。

イエスを信じて罪がゆるされたとはいえ、私の心はゆがんでいるので、罪責感に打ちひしがれたり、逆に罪の思いがわき出てきたりもします。高慢な心もあれば、ひがみ根性や自己憐憫の心もあります。このような心のままでも、イエスを信じて救いを得ています。これは確かなことです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものです(1・15)。ここにしっかり立ってください。

しかし、それは1億円を持っているのに、使わずにいるようなものです。救いを受けたのに、救いの実感のないままです。 ※救いは1億円どころのものではない。換算不能なほど大きい。

これでは信じている内容心の実際が食い違ったままです。「聖書はそう言うけど、実際はそうは行かないんだよ」という理屈です。信じた内容に自分の心が追いついていない状態です。 ※この「信じている内容」と「心の実際」が一致する姿を「敬虔」という。テモテ書の重要なテーマである。

霊の救いは一瞬です。イエスを信じたときに、その人の霊は新しく生まれます。これを新生といいます。しかし、心の救いのためには時間を要します。地上で生きている期間、神の御言を通して心が変えられ、養われ、きよめられるのです。これが聖化です。これには生涯の時間を要します。そして、肉体の救いは、朽ちない体に復活することによって一瞬にして実現します。これを栄化と呼びます。

イエスを信じて救われたら、つまり新生したら次に心の救いです。すなわち聖化のために主は取りかかられます。それは時間のかかる作業ですが、あきらめてはなりません。霊の救いも神の主権のもとであったように、心(魂)の救いも同様です。

神は、御言をもって私の心を養い、造りかえてくださいます。なぜなら、神の御言には魂(心)を救う力があるからです(ヤコブ1・21)

ですから、御言を受けたら、その御言に似た心になるようにと心を明け渡します。我力で自分の心を変えることは不可能です。御言が私の心をご支配なさるように祈るのです。このような地道な作業を積み重ねるのは、正しい良心を捨ててしまわないためです。


朗読配信_Spotify テモテへの手紙第Ⅰ 1章 • 朝マナPodcast (spotify.com)
You Tube
朝マナ テモテへの手紙Ⅰ 1章 - YouTube
~~~~~~~~~~~~