伝道7:14 順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
今日の箇所は新改訳聖書では、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」と翻訳されています。
順境の日もあれば逆境の日もります。神がそうなさるのです。
しかし、一般的な宗教は順境の日々を願い求めます。順境のために神仏に祈り拝むわけです。これが一般宗教です。多くの神社仏閣で願われることは、家内安全無事息災、交通安全、合格祈願に安産祈願のたぐいです。みな、順境の願いです。どれも、自分中心、人間中心の願い事ばかりです。
とはいえ、そのように願うことを、創造主なる神も認めておられます。しかし、ただ、順境のためだけに祈り礼拝するなら、神の御心について余りにも無知です。
子どもが幼いときは親に向かって、あれをし欲しい、これをして欲しいと願いますが、子も長ずるにおよんで、「お父さん、何か手伝おうか」と言ってくれるようになるのが成長です。
イエスを信じて神の子どもとされたクリスチャンが、一般宗教のような願い事ばかりであれば、それは霊的な成長がとまったままのクリスチャンです。
父なる神は、私たちが成長することを願っておられます。神の御心を知って、共に労苦するクリスチャンを求めておられます。
さて、今日の御言は何といっていますか。順境も逆境も、神がお造りになったと言っています。神が創造なさったのであれば、何ひとつ無意味なものはありません。
順境は良いことであって、逆境は無意味で悪なることだとは言えません。ですからこう言われています。
「悲しみの家(喪中の家)に入るのは、宴会の家にはいるのにまさる。死はすべての人の終りだからである。生きている者は、これを心にとめる。悲しみは笑いにまさる。顔に憂いをもつことによって、心は良くなるからである。賢い者の心は悲しみの家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある」。
おもしろく楽しいことばかりがよいわけではありません。喪中の家に行き、悲しみと向き合うとき、人は人生の意味を考えます。憂いをもつとき、人の心は掘り下げられ、その心は鍛えられ、きよめられます。
愚か者は、ただ単に面白おかしいことばかりを探し求めるが、賢い者とは、悲しみや苦難を通して学び成長するのです。
ですから、順境を通して神への賛美をまなび、逆境を通して神への悔い改めを学びます。私たちの霊魂は、順境と逆境によって鍛えられ、きよめられ、霊とまことをもって礼拝する、真の礼拝者となるようにと導かれます。
特に、逆境の日は「考えよ」「反省せよ」と教えています。人は順境の日ばかりを願いますが、それでは人は考えなくなります。反省もせず、やがて高慢と堕落の道に進みます。
だから、神は順境と逆境を創造なさいました。
このような神のお取り扱いを無視して、宗教人のように順境ばかりを求める人になりますか。このような神の深い御心を無視して、逆境から逃げ回るばかりでしっかりと対面せずに、未成熟なクリスチャンになりますか。
もうひとつ。今日の御言は何といっていますか。神は順境と逆境とを等しく造られたと語っています。その理由は、「後の事を人にわからせないためだ」と言っています。
私たちの神は、占い師のように、私たちの将来についておっしゃいません。占い師のように、「これから良いことがある」とつげて喜ばせたり、「これから不幸が起こる」と告げて怖がらせたりもなさいません。
ただ、神は、私たちの将来に計画されていることは「わざわいではなく将来と希望だ」(エレミヤ29:11)と言われるだけで、その過程でどのような順境があり逆境があるかは語られません。
なぜですか。それは、私たち人間に、神への信頼を学ばせるためです。順調な兆(きざ)しがあれば神を信じ、逆境になれば神をうらむような神の子を、天の父は願っておられません。
順境の日でも逆境の日でも、神を信頼し、神を愛するまことの礼拝者になってください。
神が、順境と逆境を創造なさったように、神は天地を創造なさるとき、朝と夕を創造なさいました。朝は明るくて希望に満ちていますが、夕はくらくて失望や恐れがあります。でも、両方を神は創造なさいました。
しかし感謝すべきことは、次のように記されていることです。「夕となり、朝となった。第一日である」(創世記1:5)。
この記述から、聖書的な一日の概念は、夕方から一日が始まり、朝になって陽が沈むまでが一日です。夕があって朝になって一日です。必ず朝で終わります。
私たちの人生に神が用意なさっていることも、これと同じです。創造主である神の御心を信頼してください。(Ω)
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
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