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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

伝道の書 12章

2016年01月01日 | 伝道の書
伝道12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。

伝道者はこの書をまとめるにあたって結論を述べています。

人とは霊的存在です。肉体が健康で長生きしたから良い人生であったというのではなく、私たちの内なる霊魂が、神との交わりを得て、満たされ、きよめられていく人生に意味を見出しています。

ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る(伝12:7)

人の肉体は土の塵(ちり)で出来ています(創2:7)。ですから、この肉体は死ねば土に帰って行きます。しかし、人の霊は、神が息(霊)を吹きかけて与えられたものであって、肉体が朽ちた後に神のもとに帰ります。

人の霊が神のもとに帰るというのは、さばきを受けるという意味です。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである(伝12:14)と記されているとおりです。

このことを知って、神との関わりの中で生きること。これが人の生き方です。人は肉体だけの存在ではないので。単に動物的に食べて満腹し、子孫を残して死んで行くだけの人生では空しいのです。

人とは何ものなのでしょうか?。人とは、肉体という“服”を着た霊的存在です。

工場で働く人は作業着を着て仕事をします。仕事を終えて家に帰れば作業着を脱いで安息します。人は肉体という服を着て、神の働きのために地上につかわされた者です。その働きを終えれば、肉体という服を脱いで神のもとに帰ります。

だから、今日の冒頭の御言がいうように、「神を畏れ、その命令を守れ。これがすべての人の本分である」のです(12:3)。人とは「神と共に生きる存在」として、神によって創造されたのです。

そのために、神に似せて創造され、神のかたちに創造されたのです。人は神と共に生きる存在なので、神は人の肉体に「息(霊)」をそそぎ、そこで人は生きる者になったのです。

私たちに与えられた本分を受け取ろうではありませんか。(Ω)






 

伝道の書 11章

2015年12月31日 | 伝道の書
伝道11:1 あなたのパンを水の上に投げよ。多くの日の後、あなたはそれを得るからである。

パンを水の上に投げたらどうなるでしょうか。なくなってしまいます。もったいないと思います。無駄になったと思います。しかし、今日の御言は、そのような無駄と思えるような献身の勧めです。

「献身」といっても、牧師や伝道者として献身することに限りません。福音のための奉仕であったり、献品や献金をささげることも含まれています。

私たちは、自分の手ににぎっている限り「失わない」と思っていますが、この肉の手が持っているものは、やがて失います。人は手に入れたものを、やがてみな手放して、裸で神のもとに帰って行かなければなりません。

しかし、神のためにささげたものは永遠に残ります。福音のために水の上に投げ出したパンは、無駄になるどころか、必ず豊かな収穫となるのです。

ただし、すぐに結果は出ません。多くの日の後なのです。

私にとって(あなたにとって)水の上に投げ出す「パン」とは、何でしょうか。でしょうか。奉仕でしょうか。ゆるしでしょうか。能力でしょうか。時間でしょうか。ある時にはいのちそのものかもしれません。

聖霊なる神が、私たちの心に示してくださるものを大胆にささげることが出来ますように祈ります。

さて、ひとりの青年がおりました。彼は京都の某教会の牧師のもとで、神学生として修行に励んでいました。

ある日、路傍伝道に同行したのですが、立ち止まって話を聞く人などいません。それどころか、ひとりの小学生には「アーメン、ソーメン、冷やソーメン」と始末。小憎たらしい少年に腹が立ってしょうがなかったのです。

青年神学生は「こんな無駄なことをして何になるのか」と思いながら教会に戻ると、牧師が「感謝しましょう」といって賛美を歌い出すのを聞いていると、ますます腹が立ったというのです。

やがて数年が経ち、自分が牧師となって仕えている教会に、ある青年神学生が派遣されてきました。その青年が救いを受けた教会を聞くと、自分がかつて神学生の時に仕えていた京都の某教会であるというのです。

当時の路傍伝道のことを話すと、何とその時、「アーメン、ソーメン、冷やソーメン」とはやし立てたのは彼であったというのです。あれから彼は教会に行くようになり、救われ、牧師としての道を目指すようになったというわけです。

まさに今日の御言のように、水の上にパンを投げるようにして奉仕した路傍伝道が、多くの日の後に、すばらしい収穫となって得られたのです。

神のなさることは何とすばらしいことでしょうか。主イエスの御名を讃美します。(Ω)





 

伝道の書 10章

2015年12月30日 | 伝道の書
伝道10:1 死んだハエは、香料を造る者の油を臭くし、少しの愚痴は知恵と誉よりも重い。

当時の香油はとても高価なものでした。マリヤがイエス様の頭にそそいだと伝えられるナルドの香油も300デナリの価値があったとされています。

それだけ、香油の製造には手間暇がかかるのですが、そんな作業工程の中でハエの死骸が混入するや、その香油の価値は台無しです。腐ってしまい、あのかぐわしい香りも臭くなってしまいます。

この時代の花嫁は、嫁入りのために香油を用意するのが習慣だと言われています。自分でこつこつと準備する女性もいたことでしょう。そんな花嫁にとって、ハエの死骸で香油が駄目になってしまうことは、悔やみきれないことであったに違いありません。

ハエの死骸の混入で香油が台無しになってしまうように、「少しの愚痴は知恵と誉れよりも重い」と語っています。 ※新共同訳では、知恵と誉れより「高くつく」と翻訳。

つまり「愚痴が私たちの人生ではぐくむはずの香りを腐らせてしまうことになるのです。その代償は高くつくのだと教えています。

まさに、私たちクリスチャンはキリストの花嫁として準備中です。私たちの地上におけるの旅路は、天でもたれる婚宴の席で聖なる香りを放つことが出来るための準備です。

神への感謝という香り。神への賛美という香り。他者への思いやりという香り。自分自身を花嫁としてきよく保つことで生まれる香り。そのような霊的な香りが相まって、天をうるわしく満たす香りになるに違いありません。

ですから、その聖なる香りを台無しにするような「不平」「愚痴」「憎しみ」「うらみ」など……それは香油を腐らせてしまうハエの死骸です。それらが混ざることがないよう、祈りつつ自戒しようと思います。(Ω)






 

伝道の書 9章

2015年12月29日 | 伝道の書
伝道9:2 すべての人に臨むところは、みな同様である。

先の8章では、悪人が繁栄し、善人はしいたげられる理不尽さが取り上げられていました。そして第9章では、正しい者にも正しくない者にも、みな同様に臨むところの悪について述べています。

その同様に臨むものとは何でしょうか。それは罪と死です。

すべての人に同一に臨むのは、日の下に行われるすべての事のうちの悪事である。また人の心は悪に満ち、その生きている間は、狂気がその心のうちにあり、その後は死者のもとに行くのである(9:3)

新改訳では次のように翻訳ています。

同じ結末がすべての人に来るという事、これは日の下で行なわれるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く」。

どんな悪人も、また善人であっても、この「罪と死」の前に打ちのめされてしまいます。どんなに善良に生きようとしても、罪から逃れることが出来ず、そして、罪の結果である死の問題を乗り越えることが出来ないのです。

だったら、やりたい放題にすれば良いではないか。そんな空しさにおそわれます。

だれも、この罪と死の法則から自由になることが出来ません。義人は居ない。ひとりも居ないのです。すべての人が「罪と死」という牢獄の中に閉じ込められてしまっています。この牢獄の中にあって労するどんな善行も空しいのです。

この問題の真の解決は、イエス・キリストが来られるまで、時を待たなければなりません。しかし、新約の時代の私たちは感謝すべきかな。主イエス・キリストは私たちの内に来られました。(Ω)





 

伝道の書 8章

2015年12月28日 | 伝道の書
伝道8:6 人の悪が彼の上に重くても、すべてのわざには時と方法がある。

世にある諸々の出来事は不可解で理不尽なことばかりです。残念なことに、そのことを説き明かす知恵は、私たちにはありません。

何が理不尽かといえば、「私は悪人の葬られるのを見た。彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である」と語っています(8:10)

「聖所に出入りしていた」とあるので、その悪人は神を信じ礼拝する人でありました。表面的には信心深い出で立ちなので、人々からはほめられたというのです。

※註:新改訳では「私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行ないの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい」と翻訳が異なる。

また、こんな理不尽もあります。「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている」のです(8:11)

正しい判決がなされない社会では腐敗が広がります。これぐらいの悪であれば大丈夫なんだという慢心が、悪を助長して行きます。このような理不尽が蔓延すると……、

義人であって、悪人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。また、悪人であって、義人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。わたしは言った、これもまた空であると(8:14)

そうであるなら、真実に生きることは無駄なのであろうか。正直者は馬鹿を見るのであろうか。神を畏れ、神に従って生きることは空しいことなのか。そうではありません。なげやりになってはなりません。

今日の御言は何と言っていますか。「人の悪が彼の上に重くても、すべてのわざには時と方法がある」のです。この方法とはさばきとも訳されています(新改訳)

聖書の民は、悪人の繁栄にまどわされることなく、ただ神を畏れ、神に対して正直に生きる者です。他者の悪に脇目もふれず、正しくさばかれる神に焦点を合わせて生きる者です。

他者の悪に脇目をふっていると危険です。人生の、脇見運転、事故のもと」。それはつまずきのもと。神に向かってまっすぐに目を向けることが大切です。 

私たちの神である主は、すべてのわざの時とさばきを司られる方だからです。(Ω)




 

伝道の書 7章

2015年12月19日 | 伝道の書
伝道7:14 順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 
今日の箇所は新改訳聖書では、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」と翻訳されています。
 
順境の日もあれば逆境の日もります。神がそうなさるのです。
 
しかし、一般的な宗教は順境の日々を願い求めます。順境のために神仏に祈り拝むわけです。これが一般宗教です。多くの神社仏閣で願われることは、家内安全無事息災、交通安全、合格祈願に安産祈願のたぐいです。みな、順境の願いです。どれも、自分中心、人間中心の願い事ばかりです。
 
とはいえ、そのように願うことを、創造主なる神も認めておられます。しかし、ただ、順境のためだけに祈り礼拝するなら、神の御心について余りにも無知です。
 
子どもが幼いときは親に向かって、あれをし欲しい、これをして欲しいと願いますが、子も長ずるにおよんで、「お父さん、何か手伝おうか」と言ってくれるようになるのが成長です。
 
イエスを信じて神の子どもとされたクリスチャンが、一般宗教のような願い事ばかりであれば、それは霊的な成長がとまったままのクリスチャンです。
 
父なる神は、私たちが成長することを願っておられます。神の御心を知って、共に労苦するクリスチャンを求めておられます。
 
さて、今日の御言は何といっていますか。順境も逆境も、神がお造りになったと言っています。神が創造なさったのであれば、何ひとつ無意味なものはありません。
 
順境は良いことであって、逆境は無意味で悪なることだとは言えません。ですからこう言われています。
 
悲しみの家(喪中の家)に入るのは、宴会の家にはいるのにまさる。死はすべての人の終りだからである。生きている者は、これを心にとめる。悲しみは笑いにまさる。顔に憂いをもつことによって、心は良くなるからである。賢い者の心は悲しみの家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある」。
 
おもしろく楽しいことばかりがよいわけではありません。喪中の家に行き、悲しみと向き合うとき、人は人生の意味を考えます。憂いをもつとき、人の心は掘り下げられ、その心は鍛えられ、きよめられます。
 
愚か者は、ただ単に面白おかしいことばかりを探し求めるが、賢い者とは、悲しみや苦難を通して学び成長するのです。
 
ですから、順境を通して神への賛美をまなび、逆境を通して神への悔い改めを学びます。私たちの霊魂は、順境と逆境によって鍛えられ、きよめられ、霊とまことをもって礼拝する、真の礼拝者となるようにと導かれます。
 
特に、逆境の日は「考えよ」「反省せよ」と教えています。人は順境の日ばかりを願いますが、それでは人は考えなくなります。反省もせず、やがて高慢と堕落の道に進みます。
 
だから、神は順境と逆境を創造なさいました。
 
このような神のお取り扱いを無視して、宗教人のように順境ばかりを求める人になりますか。このような神の深い御心を無視して、逆境から逃げ回るばかりでしっかりと対面せずに、未成熟なクリスチャンになりますか。
 
もうひとつ。今日の御言は何といっていますか。神は順境と逆境とを等しく造られたと語っています。その理由は、後の事を人にわからせないためだと言っています。
 
私たちの神は、占い師のように、私たちの将来についておっしゃいません。占い師のように、「これから良いことがある」とつげて喜ばせたり、「これから不幸が起こる」と告げて怖がらせたりもなさいません。
 
ただ、神は、私たちの将来に計画されていることは「わざわいではなく将来と希望だ」(エレミヤ29:11)と言われるだけで、その過程でどのような順境があり逆境があるかは語られません。
 
なぜですか。それは、私たち人間に、神への信頼を学ばせるためです。順調な兆(きざ)しがあれば神を信じ、逆境になれば神をうらむような神の子を、天の父は願っておられません。
 
順境の日でも逆境の日でも、神を信頼し、神を愛するまことの礼拝者になってください。
 
神が、順境と逆境を創造なさったように、神は天地を創造なさるとき、朝と夕を創造なさいました。朝は明るくて希望に満ちていますが、夕はくらくて失望や恐れがあります。でも、両方を神は創造なさいました。
 
しかし感謝すべきことは、次のように記されていることです。「夕となり、朝となった。第一日である(創世記1:5)
 
この記述から、聖書的な一日の概念は、夕方から一日が始まり、朝になって陽が沈むまでが一日です。夕があって朝になって一日です。必ず朝で終わります。
 
私たちの人生に神が用意なさっていることも、これと同じです。創造主である神の御心を信頼してください。(Ω)
 
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。

伝道の書 6章

2015年12月18日 | 伝道の書
伝道6:6 たとい彼は千年に倍するほど生きても幸福を見ない。みな一つ所に行くのではないか。
 
生きている間の苦労に何の意味があるのか。結局は死んでしまうではないか……。伝道者は問いかけています。「日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか」と(1:3)
 
賢い者が真面目に生きて、苦労して富を蓄えたとしても、死んでしまえば、それは他者の手に渡ってしまう。逆に、愚かに生きたとしても、結局は同じところ(死)に行くだけだ。それが何の益になるのかとも問いかけています。
 
肉体的ないのちだけがすべてであるなら、地上で労苦するよりは、楽をして、おもしろおかしく生きた方が得ではないか思えます。どうせ、同じ死をもって無に帰すのだから……。
 
しかし、私たちは創造主である神を知る者です。創造主が目的をもって私を世におかれたことを知っている者です。人とは、肉体に宿る霊的存在であることを知っている者です。
 
肉体を宿としている間の苦労は……地上の労苦は……内なる霊魂を養うためのものです。労苦を通して、私たちの内なる人はきよめられ、聖なる者とされて、創造主のみもとに帰って行くのです。地上における労苦とか死の意味を悟った者は幸いです。
 
だから次の7章では、「悲しみの家にはいるのは、宴会の家にはいるのにまさる。死はすべての人の終りだからである。生きている者は、これを心にとめる。悲しみは笑いにまさる。顔に憂いをもつことによって、心は良くなるからである」と勧めています(7:2-3)。
 
悲しみの家とは「喪中の家」(新改訳)のこと。だれかが亡くなったのです。死を最も意識し、いのちとは何ぞやと考えさせる場所です。すべてを無に帰してしまう死を目の前にして、私たちは本当の豊かさとは何かを考えさせられるのです。
 
死を考えることは「顔に憂い」をもたらすことですが、しかし、その取り組みによって「心が良くなる」と教えているのです。それは、肉体的ないのちが象徴する「物質的な豊かさ」ではなく、「神の御前で富む」という豊かさを考えさせるからです。
 
死という空しさに向き合うことで、神の御前に富む者になれと教えられています(Ω)






 

伝道の書 5章

2015年12月18日 | 伝道の書
伝道5:20 こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。
 
「こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない」……良い生き方ですね。どんな人でしょうか。
 
人生を達観している人です。伝道者が言うように、彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができないということを分かっている人です(5:15)
 
人は裸で生まれ、裸で神のもとへ帰って行きます。何も持たずに生まれ、何も持たずに死んで行くわけです。物質的な富は1円たりとも、天に持って行くことはできません。
 
富とは、地上で生きている間に使うものです。なのに、欲張って富を得ようとして、逆に富からしっぺ返しを喰らうことになります。
 
財産が増せば、これを食う者も増す。その持ち主は目にそれを見るだけで、なんの益があるか。働く者は食べることが少なくても多くても、快く眠る。しかし飽き足りるほどの富は、彼に眠ることをゆるさない。私は日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。すなわち、富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである(5:11-13)
 
むしろ、神が自分に与えられた分をもって楽しめと語っています。
 
見よ、私が見たところの善かつ美なる事は、神から賜わった短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである(5:18)
 
神は、人が「富の奴隷」になることを喜ばれません。本当の主人は創造主なる神であると知って、その方のもとで(ぶん)をわきまえることを願っておられます。 ※分をわきまえるとは、否定的・消極的な意味ではない。神の御前での謙遜のこと。私は神ではない。造られた存在としての「分」のこと。
 
神は、人に禁欲的に生きよと命じておられるのではありません。分をわきまえよと言われるのです。御言はこう告げています。
 
また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である(5:19)
 
富を主人として働く労苦は空しいものです。しかし、まことの神を主人として生きるなら、そして、そのお方が御心のままに与え、取り去られる権威のある方であることを知って仕えるとき、人生の労苦には喜びがあります。
 
そういう人は……と述べているのです。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ」。神のくださる喜びの分を感謝しよう。(Ω)






 

伝道の書 4章

2015年12月16日 | 伝道の書
伝道4:9 ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。
 
私たちは本書を通して、神のなき人生観の空しさを見てきました。人生の労苦は何のためなのか。ましてや、しいたげられたままの人々の労苦は尚更(なおさら)ではないかと語っています(4:1-3)
 
また、その労苦によって富を得たとしても、他者との関わりを持とうとしない人の空しさも取り上げています。
 
ここに人がある。ひとりであって、仲間もなく、子もなく、兄弟もない。それでも彼の労苦は窮まりなく、その目は富に飽くことがない。また彼は言わない、私はだれのために労するのか、どうして自分を楽しませないのかと。これもまた空であって、苦しいわざである(4:8)
 
人生の労苦が“だれかのために”であれば、その労苦にも張り合いがあるというものです。しかし上記の場合は、自分のために、自分を楽しませるために生きている人のことです。
 
彼はひとりぼっちの人です。もちろん家族も隣人もいるはずでしょうが、そのような人間関係も疎(うと)ましく、自ら他者との関わりを閉ざしている人のことです。
 
取税人のザアカイもそんな人でした。ひたすら自分のために働き、富をたくわえ、神ではなく富を愛してきた人でした。だれも彼と関わろうとはしませんでした。だから、ザアカイがイエスをひと目見ようと近づいても、人々は人垣を空けようとはしませんでした。
 
ザアカイは空しさを感じていました。今までの生き方を変えたいと願っていました。だからこそ、イチジク桑の木に登ってまでもして、イエスに出会ってみたいと思ったのです。
 
さあ、今日の御言に戻りましょう。御言は「ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである」と語っています。「他者のために」という労苦には報いがあるのです。
 
もちろん「自分のために」も大切です。それが基本です。いつも「他者のために」というわけには行きません。
 
しかし、神は、人を他者のために労することに喜びを感じる存在として造られました。人はひとりぼっちで生きる存在ではなく、他者との関わりの中で生きるように創造されています。
 
他者と関わりの中で、ひいてはイエス様との関わりの中で、私たちは人生の労苦の空しさから解き放たれ、「良い報い」を得るようになっています。
 
イエスがふたりまたは三人が私の名によって集まるところに、私も共に居ると言われた約束を思い出してください。もちろん、ひとりの私にも、主は共に居られるはずですが、他者との関わりの中に色濃く主は居られるという意味です。
 
そのような、他者との交わりの中にイエスが共に居られる生活を今日も祈りましょう。(Ω)





 

伝道の書 3章

2015年12月15日 | 伝道の書
伝道3:11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
 
伝道者は「神を無視した世界観の空しさ」を語っています。
 
しかし、創造主であり、人知をはるかに超えた知恵の中ですべてをご計画なさっている神の御手を知るとき、私たちは、少しずつではあるのですが“腑に落ちる”という経験をするのです。
 
空しく、空っぽであった“腑”に神の深遠なる真理が落ちることで、安堵感を受けます。 ※「腑」とは五臓六腑の「腑」。腹の奥深い領域のことですが、単なる肉体の「腑」ではなく霊の領域と言えるでしょう。
 
神なき世界観では、すべてが偶然です。自分がいま生きているのも偶然です。人生の出会いも偶然、死んで行くのも偶然です。そして偶然には意味がありません。偶然には目的がありません。
 
意味のない人生、目的のない労苦……だからそれは空しいのです。しかし伝道者は「すべてに時があるのだ」と語っています。
 
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり……」と語ります(3:1-8)
 
それは、神が意図をもって定めたがあるというのです。神が目的をもって定めた「時」があるのです。
 
私たち人間でさえも、タイミングを考えます。友人に忠告しなければならない時も、相手の状態をよく考えて時を選びます。プレゼントするときも、感動的な場面設定を考えます。
 
ましてや、神はもっと深く、高く、長く、広く、そのタイミングを考えておられます。その神のタイミング(時)は、人間の浅はかな知恵でははかり知ることが出来ません。
 
無理をして知る必要はないのです。占いによって未来を知ったところで何になるのでしょうか。それよりも、万事を益として仕上げられる神を信頼することこそ必要なことです。
 
神を信頼しよう。神のなさることは時にかなってみな美しいからです。この真理を知っているので、私たちは空しさから解放され、信頼と希望をもって労苦を受け入れることが出来ます。
 
人生には理不尽なことが多くあります。しかし、神は、ばらばらになったような破片(ピース)を組み合わせて、一枚の絵に仕上げられるに違いありません。しかも絶妙なタイミングで……。
 
えっ!このピースはここなんだ!と、神のなさる御業を知って驚くに違いありません。(Ω)





 
 

伝道の書 2章

2015年12月14日 | 伝道の書
伝道2:11 私はわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。
 
伝道者は人生の空しさについて語ります。「空しさ」という空洞を満たそうと快楽を追求したが、これもまた空であった。酒でその空洞を満たそうとしたが、これもまた空であった。
 
大きな事業もしてみた。豪奢な家を建て庭園をもうけ、財宝、芸術、女性……ありとあらゆる富でその空洞を満たそうとしたが、これもまた空であったと語っています。
 
私はわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである(2:11)
 
この空洞は地上のどんな種類のどんな形をもってしても満たすことが出来ません。その形は特別な形状をしているからです。
 
その空洞は神のかたちをしています。
 
神は、私たち人間を創造するとき「神のかたちに」創造なさいました。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とあるとおりです(創世記1:27)
 
人が空しいと感じている空洞は「神のかたち」にポッカリとあいています。神に背を向け、罪の中を生きるようになった人類は、この「神のかたち」を見失ってしまいました。
 
そこで「神のかたち」に当てはまるものを求めて、快楽・お酒・事業・富・芸術・異性など、ありとあらゆるものをもって満たそうとしたのですが、当てはまりません。かたちが合わないのです。
 
人には、神によるほかに埋めることの出来ない空洞があるのです。それが「神のかたち」です。
 
そのかたちを埋めるかのようにして来られたのが御子イエスです。御子とはどのようなお方でしょうか。御子こそ、見えない神の“かたち”であるお方です(コロサイ1:15)
 
御子イエス・キリストによるほか何ものも埋めることが出来ません。イエスを信じ受け入れたとき、私たちは、今まで何をもってしても埋めることの出来ない空洞を満たしていただくことができます。(Ω)






 

伝道の書 1章

2015年12月12日 | 伝道の書
伝道1:2 伝道者は言う、空(くう)の空(くう)空の空、いっさいは空である。
 
今日から「伝道の書」です。新共同訳聖書では題名が「コヘレトの言葉」となっています。ヘブル語の「コヘレト」とは「伝道者」の意味です。本書の著者はソロモンであると伝えられています。
 
さて、「伝道の書」は聖書の中でもユニークな書物です。それは、今日の聖句でもお分かりのように、いきなり「空の空、空の空、いっさいは空である」という宣言から始まるからです。
 
いっさいは空(むな)しいと語っています。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるかと続きます(1:3)
 
空しいとは、文字のごとく「空っぽ」ということです。頑張って生きたからといって、満たされない。何か心に大きな穴があいていて、それを満たすものが見つからない……空っぽだ、という感覚です。
 
そこで、その空洞を満たそうと色々とチャレンジしたり、手に入れてみるのですが、何も新しいものは見つからないというのです。
 
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。見よ、これは新しいものだと言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである(1:9-10)
 
「空しい」という感覚はすばらしい感覚です。他の動物にはない、人間だからこそ与えられている、神からの霊的な本能です。
 
人は霊的な存在であって、肉体は、人が地上で働くための宿のようです。肉体はパンによって生きますが、内なる霊魂は神の御言によって生きるようになっています。神がそのように人を創造なさいました。
 
人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る御言によって生きる存在です。
 
ですから、肉体はパンで満たされていても、霊魂が“空っぽ”であるとき、人は“空しい”と感じます。パンがないと肉体が“空っぽ”であると感じるように、神の御言がないとき、私たちの霊魂は“空っぽ”だと感じます。
 
神の御言を食べることによって、人の霊魂は満たしを感じます。つまり、御言を通して、人は神との交わりの中で満足を得ます。この霊的な交わりがないので、霊魂が“空っぽ”なのです。
 
伝道の書の第1章だけを読むと、仏教の「無」「諦観論」の世界のようにも読めます。
 
仏教は、すべては無であり空であることを悟って、生とか世に対して執着するなと教えます。しかし、聖書は、創造主である神を認めない世界が「空」だと語り、創造主を知れと勧めます。
 
あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ(12:1)。「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である(12:13)。これが伝道の書の結論であり、私たちの行くべき所です。(Ω)