マルコ11:28 何の権威によってこれらのことをするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか。
受難週の火曜日は、「論争の火曜日」と呼ばれています。律法学者たちが、イエスを殺す口実を得ようと論争をけしかけてきたことに由来します。マルコ11章20節から13章までが火曜日の出来事です。
さて、先に、神殿で売り買いをしていた商売人たちをイエス様が追い出されたわけですが、このことで、神殿のおもだった人々は文句をつけにやって来ました。
「何の権威でこんなことをするのか」。
彼らはイエス様の権威を認めていませんでした。ナザレ出身の大工の息子のくせに……という苦々しい思いに満ちていました。人間的な権威を拠り頼んでいる人は、神の霊的な権威を認めたがりません。
文句をつけてきた祭司たちは、レビ族のしかもアロンの家系の人々です。彼らにとって、先祖代々守ってきた「伝統」こそが権威の拠り所でした。
また、律法学者たちにとっては、どの学派に属しているのか、どのラビ(先生)に師事したのかが権威の拠り所でした。しかし、そのような人間的な拠り所が、かえって神からの真の権威を見失わせます。
イエス様は、人としてはアロンの家系の出ではありませんでした。そのため、祭司たちから見れば「どこの馬の骨か分からない者」です。
しかし、イエス様こそ、天の父のふところから来られた神のひとり子です(ヨハネ1:18)。
イエス様は有名なラビに師事したわけではありませんでした。そのため、律法学者から見れば無学で権威のない人物でした。しかし、イエスは律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えられました(マタイ7:29)。イエスの語られる言葉は、いつも聖霊によって導かれた言葉でした。聖霊による言葉には権威があるのです。このことは、聞く側も聖霊によって聞かなければわかりません。
イエスを信じるとは、イエス様に神の権威を認めることです。イエスの言葉は単なる人の言葉ではなく、神の御言だと認めます。そう認めた人は、イエス様の御言を通して恵みを受けることができます。
「沖に出て網をおろしなさい」とイエス様に言われて、ペテロはすぐさまその言葉を素直に聞くことが出来ませんでした。なぜなら、大工の語る言葉として聞いたからです。ペテロにとって、漁の専門家だという「自分の経験」が権威だったからです。
しかし思い直して、イエスの御言に権威を認めて従いました。すると網が破れるほどの大漁でした。この出来事はペテロにとって、イエスの語る言葉が「神の御言」であると理解する転機となったことでしょう。
ですから、ガリラヤ湖上を歩かれるイエスに向かって、「主よ、私に来るように命じてください」と求めました。「湖の上を歩いて来なさい」というイエスの言葉があれば歩けるのだと信じたからです。
こうして、ペテロはイエス様の言葉が自然界をも従わせる権威ある神の御言だと信じたのです。事実、イエスが嵐に向かって「しずまれ」と命じられると、大波はおさまりました。悪霊に向かって「この人から出て行け」と命じられると、悪霊は出て行きました。
何故ですか。イエス様の御言には自然界も霊界をも従わせ得る権威があるからです。イエス様の御言には、このような真の権威があると認め従う人に、神の御言は力を表します。
その真の権威をお持ちであるイエス様が言われるのです。「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされた」。何とすばらしい宣言でしょうか。イエス様には罪をゆるす権威があることを認める人に、罪のゆるしは現実となるのです。
このようにして始まった「論争の火曜日」ですが、火曜日だけに終わらず受難日に至るまで、訴えるべき欠点はないかと調査が続きます。それは丁度、過越しに屠られる小羊に欠陥はないか、入念に観察するかのようです。
律法によれば、「小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。そしてこの月の十四日まで、これを守って置き……」とあります(出エジ12:5-6)。
これは犠牲となる小羊に問題があってはならないからです。民の身代わりになるのですから、完璧な小羊でなければなりません。そのために、取り分けてから5日間は病気や怪我はないかを観察したのです。
神の小羊であるイエス様に何の欠陥もないことを確認するかのように、ユダヤ当局の調査は続きます。最後にはユダヤの裁判でも、ローマの法廷でも、イエスの罪を発見できなかったのです。
結果的にはイエスは「傷のない完璧な小羊」であることが明らかにされたのです。このお方こそ、私たちのの身代わりとなるに相応しい完璧なお方です
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