サムエル記上18・12 主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので、サウルはダビデを恐れた。
ダビデが活躍する一方で、サウル王は恐れに支配されるようになりました。第18章は、「サウルはダビデを恐れた」と三度記しています。
「サウルはダビデが大きなてがらを立てるのを見て彼を恐れた」(15)。「サウルは、ますますダビデを恐れた。こうしてサウルは絶えずダビデに敵した」(29)。
ダビデは何ひとつサウルに危害を及ぼす行動も心もありませんでした。むしろ最後まで、サウル王に忠実であり続けました。なのに何故、サウルはこれほどにダビデを恐れたのでしょうか。
その原因は、「主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので」と記しています(18・12)。ポイントは「主がサウルを離れた」ことです。さかのぼって第16章にはこう記されています。
「主の霊はサウルを離れ、主から来る悪霊が彼を悩ました」(16・14)。サウル王が御言に不従順であったゆえに、「主の霊はサウルを離れた」のです。 ※「神から来る悪霊」については、次の19章で考察する。ここでは「主の霊が離れた」ことに注目しよう。
人は〝肉体〟という服を着た霊的存在です。人が生きるのは、肉体を養うパンだけで生きるのではなく、霊を活かす食物……つまり、神の御言によって生きるのが人間です。
「主の霊がサウルを離れた」とは、サウル王が霊的ないのちを失った状態であることを意味しています。
人は、霊的ないのちを失うと恐れるようになります。
先に私たちは、ダビデが霊的ないのちを持っていたので〝腐らなかった〟のを見ました。神の御言という霊的ないのちを持っている人は腐りません。霊的ないのちがあるので恐れに勝利します。
サウルが恐れるようになったのは、主の霊が彼を離れた結果、霊的ないのちを失ったからです。
(1)霊的ないのちを失うと、他者(ひと)を信頼できなくなります。
サウルはダビデを信頼できなくなりました。信頼できないので、人を恐れます。だますんじゃないか。裏切るんじゃないか……と恐れます。
もちろん、人は不完全で罪人ですから、だましたり、裏切ったりする要素を持っています。しかし、だからといって、いのちのある人は他者(ひと)を恐れません。
何故ですか。裏切らないお方を知っているからです。その方のまったき支配の中で平安を受けるからです。人はだますかも知れませんが、主イエスはそれ以上の大きな御手の中で守ってくださいます。
霊的ないのちを持っている人は、主の御手を信頼するがゆえに、人を信頼し大胆に愛することができます。しかし、いのちを失うと人を恐れるようになります。
(2) 霊的ないのちを失うと、己(おのれ)のいのちを失うことを恐れます。
サウル王は、自分の王位を失うのではないかと恐れました。しかし、思い出してください。そもそも王位は自分で得たのではありませんでした。神が任命してくださったのではありませんか。
すべては神が与え、神が取り去られるのです。
人の目には失いそうでも、神が与えたのであれば失いません。人の目には盤石の地位に見えても、神が取り去られるのであれば、私たちの手からすべり落ちるようにして失います。
今あるのは神によるのです。しかし、サウル王は自分で王位を守ろうと躍起になりました。自分で自分を救おうとしたわけです。霊的ないのちを失うと、人は自分で自分を救おうとします。いのちの源である神を忘れて、自分でいのちを守ろうとします。
しかし、いのちは主が与え、主が取り去られるものです。いのちだけでなく、すべてがそうです。それなのに、自分で救おうとします。自分で守ろうとします。自分で保とうとします。
だから、ますます失います。持っていない人は持っているものまでも失います。
主イエスは言われました。「自分で自分を救おうとする者は、いのちを失うのだ」(ルカ9・24)。
神からの霊的ないのちを失ってはいませんか。神からの霊的ないのちの供給をいつも受けるべきです。そのためには、「主イエスのために自分のいのちを失う」ことです。
自分で自分のいのちを救おうとする思いや考えを、十字架につけて葬ってしまうことです。いつも十字架は、永遠のいのちに至る門です。狭い門ですが、いのちにいたる確実な門です。
祈りましょう。神からの霊的ないのちで生かしてください。
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