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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

サムエル記上 18章

2025年01月31日 | サムエル記
サムエル記上18・12 主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので、サウルはダビデを恐れた。

ダビデが活躍する一方で、サウル王は恐れに支配されるようになりました。第18章は、サウルはダビデを恐れた」と三度記しています。

「サウルはダビデが大きなてがらを立てるのを見て彼を恐れた」(15)。「サウルは、ますますダビデを恐れた。こうしてサウルは絶えずダビデに敵した」(29)

ダビデは何ひとつサウルに危害を及ぼす行動も心もありませんでした。むしろ最後まで、サウル王に忠実であり続けました。なのに何故、サウルはこれほどにダビデを恐れたのでしょうか。

その原因は、主がサウルを離れて、ダビデと共におられたのでと記しています(18・12)。ポイントは「主がサウルを離れた」ことです。さかのぼって第16章にはこう記されています。

主の霊はサウルを離れ、主から来る悪霊が彼を悩ました(16・14)。サウル王が御言に不従順であったゆえに、「主の霊はサウルを離れた」のです。 ※「神から来る悪霊」については、次の19章で考察する。ここでは「主の霊が離れた」ことに注目しよう。

人は〝肉体〟という服を着た霊的存在です。人が生きるのは、肉体を養うパンだけで生きるのではなく、霊を活かす食物……つまり、神の御言によって生きるのが人間です。

「主の霊がサウルを離れた」とは、サウル王が霊的ないのちを失った状態であることを意味しています。

人は、霊的ないのちを失うと恐れるようになります。

先に私たちは、ダビデが霊的ないのちを持っていたので〝腐らなかった〟のを見ました。神の御言という霊的ないのちを持っている人は腐りません。霊的ないのちがあるので恐れに勝利します。

サウルが恐れるようになったのは、主の霊が彼を離れた結果、霊的ないのちを失ったからです。

(1)霊的ないのちを失うと、他者(ひと)を信頼できなくなります。

サウルはダビデを信頼できなくなりました。信頼できないので、人を恐れます。だますんじゃないか。裏切るんじゃないか……と恐れます。

もちろん、人は不完全で罪人ですから、だましたり、裏切ったりする要素を持っています。しかし、だからといって、いのちのある人は他者(ひと)を恐れません。

何故ですか。裏切らないお方を知っているからです。その方のまったき支配の中で平安を受けるからです。人はだますかも知れませんが、主イエスはそれ以上の大きな御手の中で守ってくださいます。

霊的ないのちを持っている人は、主の御手を信頼するがゆえに、人を信頼し大胆に愛することができます。しかし、いのちを失うと人を恐れるようになります。

(2) 霊的ないのちを失うと、己(おのれ)のいのちを失うことを恐れます。

サウル王は、自分の王位を失うのではないかと恐れました。しかし、思い出してください。そもそも王位は自分で得たのではありませんでした。神が任命してくださったのではありませんか。

すべては神が与え、神が取り去られるのです。

人の目には失いそうでも、神が与えたのであれば失いません。人の目には盤石の地位に見えても、神が取り去られるのであれば、私たちの手からすべり落ちるようにして失います。

今あるのは神によるのです。しかし、サウル王は自分で王位を守ろうと躍起になりました。自分で自分を救おうとしたわけです。霊的ないのちを失うと、人は自分で自分を救おうとします。いのちの源である神を忘れて、自分でいのちを守ろうとします。

しかし、いのちは主が与え、主が取り去られるものです。いのちだけでなく、すべてがそうです。それなのに、自分で救おうとします。自分で守ろうとします。自分で保とうとします。

だから、ますます失います。持っていない人は持っているものまでも失います。

主イエスは言われました。「自分で自分を救おうとする者は、いのちを失うのだ」(ルカ9・24)

神からの霊的ないのちを失ってはいませんか。神からの霊的ないのちの供給をいつも受けるべきです。そのためには、主イエスのために自分のいのちを失うことです。

自分で自分のいのちを救おうとする思いや考えを、十字架につけて葬ってしまうことです。いつも十字架は、永遠のいのちに至る門です。狭い門ですが、いのちにいたる確実な門です。

祈りましょう。神からの霊的ないのちで生かしてください。

サムエル記上 17章

2025年01月30日 | サムエル記
サムエル記上17・45 ダビデはペリシテびとに言った、「おまえは剣と槍と投げ槍を持って、私に向かってくるが、私は万軍の主の名、すなわち、お前がいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、お前に立ち向かう。

ペリシテ軍最強の兵士ゴリアテは身長280㎝もある巨人でした。彼は、「俺と一対一で対決せよ、負けた方が奴隷になろう」と挑発してきました。 ※ギネス記録ではローバート・ワドロー氏が274㎝で最高身長。

イスラエルの兵士たちは恐れて、だれも闘おうとしません。サウル王でさえも「だれかいないのか。褒美(ほうび)をやるぞ」と人頼みです。みな逃げ腰です。しかし、少年ダビデは果敢に立ち向かいました。

私たちの人生にも、このゴリアテのような困難や危機と出会う時があります。〝人生のゴリアテ〟と出会ったとき、どのように戦えばよいのでしょうか。

(1)今までの恵みを忘れない(17・34~37)

ダビデはかつて獅子や熊におそわれた時の恵みを忘れていませんでした。そのことをこう告白しています。

「しもべは父の羊を飼っていたのですが、獅子や熊がきて、群れの小羊を取った時、私はそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣が私に飛びかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました」。

あの時も助けてくださった主は、このゴリアテに対しても助けてくださるのです。人生のゴリアテと対決しなければならないとき、どうか思い出してください。今までイエス様が私にしてくださった数々の恵みと勝利を……。

悲しいことですが、私たちは、悪いことばかりを覚えている傾向あります。人からされた嫌なことはいつまでも覚えているのですが、人からされた親切は忘れています。これが、罪人の本性です。

しかし、だからこそ、意識的にでも恵みを数えよう。それは勇気の源泉です。ある人は、わが魂よ、主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何ひとつ忘れるな(詩篇103・2)と、自分に言い聞かせるようにして告白しました。

(2)自分の持っているもので戦う(38~40)

ダビデはサウル王から鎧(よろい)を受け取りましたが、自分の体には合いませんでした。少年ダビデには、大人が着ける鎧は大きすぎたのです。それに、鎧を着ることにも慣れていませんでした。

そこで、ダビデは鎧を捨てて石投げを手にして立ち向かいました。普段から石投げで獣を撃退しているダビデにとって、鎧や剣より使いやすかったのです。鎧や剣は強力な武器ではありますが、羊飼いのダビデにとって所詮は借り物です。

〝人生のゴリアテ〟と戦うには、借り物では駄目なのです。急ごしらえの何かでは歯が立ちません。今の自分が持っているもので戦うことです。

自分にあるものはゴリアテに比べれば非力です。しかし、大切なのはこんな非力なものも主がご支配なさっていることです。大男のゴリアテと比較すれば、少年ダビデはちっぽけな存在です。でも、そんな小さな存在を主が用いられるのです。

あの5つのパンと2匹の魚も少年の手にあれば、彼一人を満腹させることで終わったことでしょう。しかし、それをイエスの手に差し出したとき、5千人を満腹させました。

人は量を問題にします。ゴリアテと自分の量を比較します。身長差がこれだけあるとか、武器をどれだけ持ってるとか……。しかし、量が問題なのではなく、それが誰の手にあるかが重要です。肉の感覚はいつも量や大きさを気にしますが、霊の感覚は神の御手にあることに集中します。

自分の持っているもの……それが小さくても、少なくても、それを主の御手にゆだねて戦おう。

(3)これは主の戦いである(17・45~47)

イスラエルに対するゴリアテの挑戦は、主なる神への挑戦です。イスラエルを侮辱するゴリアテの言葉は、神への冒涜です。 ですから、この戦いは単なる人間同士の戦いではありません。主の戦いです。

使徒行伝の記録ですが、教会を迫害するパウロに対してイエス様は、「なぜわたしを迫害するのか」と言われました(使徒9・4)パウロはクリスチャンと闘っていたのではなく、主イエスと闘っていたのです。

同様に、ゴリアテがイスラエルの民を侮辱することは、主なる神への侮辱です。だから、それに対して主が戦われます。〝人生のゴリアテ〟との戦いは、主の戦いです。主が共に戦われます。

これは主の戦いなのですから、ダビデは主の御名によって戦いました。聖書も命令しています。言葉によると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってしなさい」と(コロサイ3・17)。どんなことでもイエスの名によって祈れということです。どんな場面でもイエス様の御名を呼べということです。言い換えれば、どこに行くにもイエスにご一緒して頂きなさいということです。イエスがご一緒くださるとまずいような所へは行かないことです。

〝人生のゴリアテ〟は、山のような大きな問題です。梃子(てこ)でも動かない山のように見えます。しかしイエスは、「からし種一粒の信仰があれば山は動く」と約束なさいました。

大きな信仰でなくてもよいのです。からし種ほどの信仰でよいと言われました。ここでも肉なる人は、信仰が大きいか小さいかを問題にします。

からし種は小さいですが、そこには種としてのいのちがあります。たった一粒でもそこから結果を生み出します。神を信頼し、人にはできなくても神にはできると信じる信仰は、いのちのある信仰です。小さくてもいのちがある信仰です。

これは主の戦いですから、主が戦われます。その主をまったく信頼する信仰が、からし種の信仰です。小さな信仰のようですが、種に命があるように、その小さな信仰から確実に芽が出始めます。

主イエスを信頼して、人生のゴリアテに立ち向かう者に勝利と祝福を祈ります。


サムエル記上 16章

2025年01月29日 | サムエル記
サムエル記上16・7  わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る。

御言に不従順なサウル王を、神は退けられました。軍事的あるいは政治的に長けた王であっても、神の御言に不従順であれば、神にとっては無用の王です。神は、御言に従順な者を求められます。

そこで、次の王となるべく人物に油を注いで聖別せよと、神はサムエルに命じられました。

預言者サムエルには、次期王となる人物はエッサイの息子であるという事までしか知らされていません。とりあえずベツレヘムのエッサイの家に赴き、彼の息子たちを集めました。

その息子たちの中でエリアブは見るからに王に相応(ふさわ)しいと思える人物でした。

「息子たちがきた時、サムエルはエリアブを見て、『自分の前にいるこの人こそ、主が油をそそがれる人だ』と思った。(16・6)

エリアブは凛々(りり)しく立派な青年でしたが、神が選ばれた人物ではありませんでした。人が見るところと、神がご覧になるところとは違うのです。主はサムエルに言われました。

「顔かたちや身のたけを見てはならない。私はすでにその人を捨てた。私が見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(16・7)

人は外見を見るが、主は心をご覧になります。そして、父親から忘れられたような少年ダビデが選ばれました。いったい、神は、ダビデのどのような心をご覧になったのでしょうか。

(1)忠実な心をご覧になる。

ダビデは誰もいなくても忠実に羊飼いをしていました。熊や獅子が襲ってきても闘いました。7人の兄たちが呼ばれたということで留守の間も、ダビデは野で忠実に羊の番をしていたのです。

私たちも小さなことに忠実でありましょう。日々同じことの繰り返しのように感じる目の前の子育て、家事、仕事、奉仕に忠実でありましょう。

主イエスはこう言われました。小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」。神は才能豊かな人ではなく、忠実な心の持ち主を用いられます。

(2)仕える心をご覧になる。

この日、ダビデは油を注がれて王として任命されたのですが、その後も、時が満ちるまで羊飼いとして働きました。父に仕え、兄たちに仕えました。

自分は王になる人間なのだからといって、父や兄たちに横柄な態度をとったり、相応しい待遇を要求したりしませんでした。

また、その後も、ダビデは気難しいサウル王に最後まで仕えました。神が油を注いだ王であるから、というのがその理由です。つまり、神の権威を認めるがゆえに仕えたのです。

仕えるに相応しいと思える人物に仕えるのは心地よいことです。しかし、気にくわない夫や上司や王には仕えたくないというのは、正しい仕え方ではありません。ダビデは神の権威を畏れて仕えました。

神は才能豊かな者ではなく、神の御心に仕える者を用いられるのです。

(3)神の御言に信頼する心をご覧になる。

ダビデは少年の時(10~15才か?定かではない)王としての任命を受けました。しかし、実際に王として即位したのは30才の時でした。この間、随分と忍耐をしいられたと思います。

あの油注ぎは嘘だったのかと思えるほどに、彼はサウル王から命を狙われ続けたのですが、20年近くもダビデは御言を信頼し続けました。

約束を待てずに腐ってしまう人がいます。しかし、ダビデは腐りませんでした。

「腐る」とは、思い通りにならなくて、やけを起こしてしまったり、自暴自棄になることです。腐るのはいのちがないからです。いのちがないものは何でも腐って行きます。

しかし、神の御言にはいのちがあります。いのちがあるので確実に実を結びます。いのちの御言を持っている人は腐らないのです。人の言葉や人の信念は腐ります。だから腐ることも朽ちることもない御言に信頼するのです。

ダビデは、王就任という事実をまだ手にしていませんでしたが、神の約束、神の御言を信頼し続けました。これが信仰です。神は才能豊かな者ではなく、神の御言を信頼する者をお用いになります。

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サムエル記上 15章

2025年01月28日 | サムエル記
サムエル記上15・23 あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた。

サウル王に与えられた次なる課題は、アマレク人を聖絶せよという命令でした。アマレク人は、かつて出エジプトしたイスラエルの行く手を阻み、イスラエルに甚大な被害をもたらした民族です。

聖書は、その時の様子をこう書き残しています。

「彼ら(アマレク人)は道であなたに出会い、あなたがうみ疲れている時、うしろについてきていたすべての弱っている者を攻め撃った。このように彼らは神を恐れなかった。」(申命25・18)

当時のイスラエルは武器も持たず、荒野を旅する民でした。そこへ、武装したアマレクが進撃したわけです。今で言うなら、軍人が民間人を無差別に殺戮するわけで、国際法違反です。しかも、逃げ惑う民の中でも「うしろの者(落伍者)」を狙い撃ちしたのですから、神の御怒りをかったわけです。

そこで、主なる神は、その報いを必ずアマレクにもたらすのだと予告なさいました申命25・19)。そしてついに、神は、サウル王を用いてご自分の御言を実現しようとなさったわけです。

ところで、「聖絶(滅ぼし絶やす)」のことで、神に対してつまずきを覚える人もおられるでしょう。

さばきは神の領域です。私たちの理解をはるかに超えています。絶対者であり、全知であり、義なる方である神だけが正しくさばかれます。

神は、ノアの時代に全人類を洪水でさばかれました。また、淫乱に満ちたソドムとゴモラを硫黄の火でさばかれました。そして、偶像礼拝で腐敗したカナン人をイスラエルの民を用いてさばかれました。

私たちは、神のさばきの権威を認めなければなりません。神は、必ず罪をさばかれます。そして、そのさばきは正しいのです。

しかし、その神が私たちに下すべきさばきを、十字架の御子イエスに下されたことを知らなければなりません。ここに神の慈愛と峻厳とがあります。

神のさばきにつまずかない人は幸いです。神のさばきの権威の前にひれ伏し、十字架のさばきを受け入れる人は幸いです。ヒューマニズム(人間中心・人本主義)で受け止めるのではなく、神本主義で神のさばきの権威を認めることです。

さて、アマレクに対するさばきは神の権威によってなされたことです。しかし、サウル王は神の御言に従わず、アマレクの王アガグと、アマレクの家畜や財宝を滅ぼさずに残しておきました。

サウル王は、敵から奪った動物を神に奉納しようと考えました。これは神を喜ばせるためのグッドアイデアだと思ったのです。しかし、神が喜ばれるのは、そのような奉納物ではなく御言への従順です。

主はその御言に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさるのです(サム上15・22)。「こうしたら神は喜ばれるだろう」といった人間の勝手な考えや憶測ではなく、御言に従うことを喜ばれます。

神を信じるとは、神の御言を信じることです。神を受け入れるとは、神の御言を受け入れることです。逆に、神の御言を捨てることは、神を捨てることです。

サウル王は、神の御言を捨てました。つまり、神を捨てました。から、神もサウル王を捨てて王位から退けると言われたのです15・23)

旧約における神の対応は厳しいのです。これが神の本来の厳しさです。だれが、このような神の御前に立つことができるでしょうか。イエス・キリストがご自身の血で私たちをおおって下されなければ、だれも立つことができません。

このイエス・キリストの中にとどまりつづけてください。主イエスは言われました。「私の愛の中にとどまっていなさい」(ヨハネ15・9)
 

サムエル記上 14章

2025年01月27日 | サムエル記
サムエル記上14・6  ヨナタンはその武器を執る若者に言った、「さあ、我々は、この割礼なき者どもの先陣へ渡って行こう。主が我々のために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては何の妨げもないからである」。

ペリシテとの戦いは膠着状態(こうちゃくじょうたい)におちいっていました。それを打ち破ったのは、サウル王の息子ヨナタンとその従者のふたりでした。ヨナタンは大胆な信仰の持ち主です。今日の聖句は、彼が敵陣を偵察したときの言葉です。


(1)先陣へ渡って行こう。主が我々のために何か行われるであろう。

信仰とは、「棚から牡丹餅(ぼたもち)」式に、自分は何もせず、神が一方的に与えてくださるのを、口を開けて待っていることではありません。

もちろん、時に神は、紅海を前にあわてふためく民に向かって、「主が戦われる。あなた方は黙していよ」と命じられることもあります。その場合は、肉の力で働くのをやめよという意味であって、「棚から牡丹餅」を推奨しているわけではありません。

ヨナタンと従者のふたりは、信仰をもって敵陣に乗り込みました。彼らは、主が何かをなさるに違いないと信じて踏み出したのです。

信仰によって動き出すとき、何かが動き出すのです。それは目に見える何かではなく、霊的な世界での変化です。霊的な世界が動き出すことで、目に見える世界も動き出します。

私たちは目に見える現実を何とかしようと躍起になりますが、大切なことは目に見えない世界を、つまり霊的世界を動かすことです。

私たちは信仰によって、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを悟るのです(ヘブル11・3)

神の御言は見えません。でも、見えない神の御言によって、この見える世界が創造されました。ならば、見えない神の御言によって、見える世界も動き出すのです。

見えるものが世界を動かしているのではありません。見えないもの ――それは神の御言、それを信じる信仰―― が見える世界を動かします。

ヨナタンはそんな神の見えない力を信じて動き出しました。すると、ヨナタンたちの侵入に敵陣は驚きふためき、同志打ちをするようになりました。この機会に乗じてイスラエルは大勝しました。

(2)多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては何の妨げもないからである。

ヨナタンは目に見える数を問題にしませんでした。目に見える数は、私たちを不安にさせるだけでなく、傲慢にもさせます。

これは、数の問題ではなく、信仰の問題です。

肉の感覚は数を問題にします。しかし、霊の感覚は目に見えない神への信頼を問題にします。

アダムとイブが罪をおかして以来、人間は霊の感覚が麻痺して、肉の感覚が異常に鋭くなっています。だから、肉の感覚で安心を得ようとします。信仰の世界は霊の領域です。

神の御言を信じることによって、霊の感覚が鋭くなるように祈りましょう。聖霊の働きによって、霊の感覚を取り戻すことができるように祈りましょう。

そして、数の多少は、主にとって何の妨げにもならないことを知ることができますように……。
 
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サムエル記上 13章

2025年01月25日 | サムエル記
サムエル記上13・13 サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった」。

アンモン人との戦いで大勝利をおさめ、華々しくデビューしたサウル王でしたが(11章)今度はペリシテ人との戦いの場面です。

ペリシテ人は最新の鉄工技術を持っており、イスラエルにその技術を持たせないことで支配を強めていました。農具の鉄工さえもペリシテに外注しなければならない状態でした13・19~21)

ですから、最新鋭である鉄製の武器もないイスラエルがここまで善戦できたのは、主なる神が共におられたからに他ありません。彼らの勝利は、主への信仰によってもたらされました。

ところが今回の戦いはあまりにも劣勢です。差があり過ぎます13・6~7)。そこでサウル王は、神にいけにえをささげて民の志気を高めるしかないと考え、自分の手でいけにえをささげ、祭儀を執り行いました(13・8~9)

実は、サムエルが戦地に赴(おもむ)いてからこの祭儀は実施されることになっていたのですが、それを待ちきれず、サウル王自らが執行したわけです。

そのことで、「あなたは愚かなことをした」とサムエルから叱責を受けました。なぜ、このことが「愚かなこと」なのでしょうか。自分で勝手に祈ってはいけないとか、各自の個人的な礼拝やディボーションタイムを否定する意味ではありません。

また、「あなたの王国は続かない」とまで宣告されたわけですが13・14)、これは「救いを失う」という意味ではありません。旧約の出来事はいつも新約の光の中で読まなければなりません。

サウル王の問題は、救いの問題ではなく、職務に対する忠実の問題です。新約でも「救い」と「職務」を区別すべきです。

神への祭儀は王の職分ではありませんでした。サウル王は分を超えてそれを行いました。

先にも確認したように、イスラエルの国は王の独裁ではなく、王と祭司と預言者が三権分立のようにして相互補完の関係で成り立っていました。

まことの王であり大祭司であり預言者。つまり、三つの職務を同時に実現なさるのはキリストであるイエス様だけです。

新約の教会においても同じようなことが言えます。神は、私たちを救い、各自に職務を与えられます。各自が異なる働きをしますが、全体が組み合わさってキリストの体を構成するのです。

「ひとつの体にたくさんの肢体(器官)があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、私たちも数は多いが、キリストにあってひとつの体であり、また各自は互に肢体だからである。」(ローマ12・4~5)

ですから……

「私たちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物(たまもの)を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし……、

また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。」(ローマ12・6~8)

各自に与えられた分に応じて働くことによって、互いを尊重しあい、互いが機能しあい、キリストの御体を現すことが神の御心です。それは、だれも誇ることがないようにするためです。皆が共通して同じ神である主イエスをあがめるためです。

この場合に大切なことは忠実です。

救いのためには信仰がなければなりませんが、救われた私が職務をはたすためには、忠実が必要です。

職務に忠実であるために、聖書は次のように教えています。

「思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」(ローマ12・3)

サウル王の逸脱は、この神の方法に反することだったのです。
 
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サムエル記上 12章

2025年01月24日 | サムエル記
サムエル記上12・24 あなた方は、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。そして主がどんなに大きいことをあなた方のためにされたかを考えなければならない。

第12章には、預言者サムエルがイスラエルの人々に語った言葉が記録されています。

(1)神がなさった偉大な御業(みわざ)を忘れてはならない。

イスラエルは、神の働きのために特別に召された神の民です。だから、神はモーセの時代から今に至るまで、様々な危機を乗り越えさせてくださった。そのことを忘れてはならないと教えています。

私たちは覚えているでしょうか。

私たちに成してくださった神の偉大な働きは何ですか。神が、御子イエスを十字架につけて、私の罪を完全にゆるしてくださったことです。イエスの十字架の死と復活を忘れてはなりません。

また、イエス様が私にしてくださった個人的な御業も忘れてはいけません。私は、背負っていた借金の返済を不思議な方法で完済してくださった神の御業を忘れません。また、30年以上も苦しんだ鼻づまりを、神がいやしてくださったことを忘れません。不妊であった私たち夫婦に、ひとり息子を授けてくださった神の御業を忘れません。

皆さんにも、そのような神が成してくださった恵みの御業があるはずです。思い起こし、心に刻みつづけることは大切なことです。私たちが勇気をもって立ち上がることのできる証しなのですから……。

(2)誠実に主に仕えなければならない。

イスラエルにとってまことの王であるお方は、主なる神です。ところが、民は他国のような王を要求しました。そこで神は、その願いを聞き入れ、王を立てられました。それは、神からの油(聖霊)が注がれた王……即ちキリストが世に遣わされるまでの暫(ざん)定的な処置です。

イスラエルに王が立てられたとしても、世俗の王国のようにならないために、誠実に神に仕えよと命じました。王でさえ、まことの神の前ではしもべとなって仕えなければならないのです。

世俗の王国では、王は専制君主であり絶対者です。だから、その傲(おご)りゆえに王も国民も道を踏みはずすのです。

このことから、イスラエルには「王」の他に、「預言者」が立てられ、彼は神の御言を取り次ぎ、神の御心を王に進言する役割を担います。ある時には、王に代る権威をもって活躍します。

また、王とは別に「祭司」が立てられ、民の執り成し役として用いられます。このように、イスラエルの国は、王と預言者と祭司が、三権分立するような仕組みで成り立ってゆきます。

それはひとえに、王も民も、神に誠実に仕えるためです。心をつくして神に仕えることこそ、神が目指される神の御国の基本です。 


サムエル記上 11章

2025年01月23日 | サムエル記
サムエル記上11・6 神の霊が激しく彼の上に臨んだので……

王に就任早々のサウルに、最初の試練がやってきました。アンモン人の軍団がヤベシ・ギリアデの町を取り囲んだのです。

ヤベシ・ギリアデの人々は和平工作の道を探るのですが、アンモン軍の条件は、「右目を差し出せ」というもので、とても飲むことのできない要求です。

これを聞いたサウル王に、神の霊が激しく臨んだと、聖書は記しています(11・6)。弱気な王サウルが、アンモン人襲撃の危機を乗り越えるためには、聖霊の働きが不可欠でした。

聖霊によって、サウル王は奮い立ちました。そして、彼が兵を召集するや33万人が集結し、アンモンとの戦いはイスラエルの圧勝で幕を閉じました(11・11

このように、いつの時代も聖霊の働きによって、神のわざは成されます。

サウルより後の時代のことですが、バビロンで捕囚の身であったユダヤ人を解放したペルシャの王クロスは、聖霊によって自身の霊を奮い立たせて、ユダヤ人帰還命令を発布しました(歴代下36・22)

また、帰還しようと決心したユダヤ人も同様に、霊を奮い立たせられて、困難なエルサレム神殿再建と祖国復興事業に挑みましたエズラ1・5)

こうして帰還したユダヤ人は、貧苦と外敵の妨害の中で神殿再建に着手しなければなりませんでした。その時、民を率いるゼルバベルに、神は次のように告げて励ましてくださいました。「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」(ゼカリヤ4・6)

〝わたしの霊〟とは聖霊のことです。

このように、いつも、神の御業(みわざ)は聖霊によってなされます。だから、私たちがすべきことは、人間的な力や能力に頼ることではなく、聖霊に満たされるように祈ることです。

新約においても同じです。罪と誘惑に満ちた世界で、一生涯イエス様を信じ続けることは、人間の業(わざ)では不可能です。それは神の御業です。聖霊の働きなくして成し遂げられません。

祈りましょう。今日も、聖霊の満たしを与えてください。 
 

サムエル記上 10章

2025年01月22日 | サムエル記
サムエル記上10・9 神は彼に新しい心を与えられた。

神の啓示に従って、サムエルはサウルに油を注いで王に任命しました(10・1)。この時から、王となる者には〝油が注がれる〟ようになり、イスラエルの歴代の王は、油を注いで任命するようになりました。 ※「油を注がれた者」とはヘブル語でメシヤ、ギリシャ語でキリスト。

サウルとしては、迷い出たロバを探しに出ただけなのに、そこでサムエルと出会い、イスラエルの王に任命されるという急展開に、驚きと動揺の色を隠すことができませんでした。

この重責をどうやって担うことができるでしょうか。サウルの動揺ぶりは、彼の言動にも表れています。

家に戻ったとき、彼は旅先で自分が王に任命されたことを誰にも言えませんでした。帰宅後、「サムエルが言った王国のことについて、おじには何も告げなかった」のです(10・16)。とても人に言える気分ではなかったようです。

その後、サムエルが各部族の責任者たちを召集して、王の就任式を開催したわけですが、当のサウルは荷物の間に隠れる始末です(10・22)。王の就任式に、身を隠す王など前代未聞です。

また、サウルの就任に異を唱える人もいました。こう記されています。

「よこしまな人々は『この男がどうして我々を救うことができよう』と言って、彼を軽んじ、贈り物をしなかった。しかしサウルは黙っていた。」(10・27)

こんな無礼な物言いに対して、黙っている王がいるでしょうか。

謙遜を通り越して弱腰なサウルです。神がこのようなサウルを王として選ばれたのは、彼自身の能力のゆえではありませんでした。神は、生まれつきの能力を用いようとはなさいません。神が与えてくださる能力があります。

ですから、神はサウル王に新しい心をお与えになりました。冒頭の聖句はそのことです(10・9)

どんな優秀な人間でも、生まれつきのままの能力で神のご用はつとまりません。ましてや弱気なサウルはなおさらです。かつては罪の奴隷であった私たちもまた同じです。

神がくださる新しい心が必要です。それは、聖霊によって与えられます。サウルにも聖霊がくだって、新しい心、新しい力を得ました。その時の様子を聖書はこう記しています。

神の霊が、はげしくサウルの上にくだり、彼は彼らのうちにいて預言した(10・10)。サウルにくだった「神の霊」とは聖霊です。

ただ、この場合は、聖霊が内住されたのではなく、聖霊がサウルを覆(おお)うようになさったという意味です。聖霊の内住は、新約に入ってペンテコステの日まで待たなければなりません。

今、私たちは新約の時代を迎えています。聖霊が内住なさる時代です。人間的な能力によってではなく、聖霊のくださる能力によって働き、聖霊がくださる新しい心によって生きる時代です。聖霊の満たしを祈ろう。

サムエル記上 9章

2025年01月21日 | サムエル記
サムエル記上9・24 この時まで、あなたのために取っておいたものです。

第9章から、イスラエル初代の王として立てられるサウルについての物語が始まります。サウルが王として召されたことの次第は、不思議な導きと出会いによりました。

ベニヤミン族に属するキシの子サウルは、迷い出たロバを捜すために山路を行くのですが見あたらず、フツという町にまで足を伸ばすことになった。

サウルはあきらめて帰ろうとするが、同伴のしもべが、「この近くに先見者サムエルが住んでいるから訪ねてみよう」と提案。そこで道で出会った娘にたずねると、何とグッドタイミング。彼女の住む町にサムエルが来訪していることを知った。タイミングが良いだけでなく、サムエルの方でも、事前にサウルという男がたずねてくることを神からの御告げを受けており、食事も用意して出迎えたのです。

その時の出迎えの言葉が、「(食事は)この時まで、あなたのために取っておいたものですでした(9・24)今日の冒頭の聖句です。

サウルは意図して行動したのではないのですが、ひとつひとつの出来事が、神の御手の中で、ちょうど縦糸と横糸が織り合わされるように、一枚の図柄としてつながって行きます。

人の目には、ロバがいなくなったのは偶然です。また、しもべが「先見者をたずねよう」といったのは思いつきです。しかし、どんなことにも偶然はありません。すべては神の御手の中にあります。

蟻のような小さな私には、今の自分が大地のどこを歩いているのか分かりません。しかし、すべてをご支配なさる神の御手を信頼しよう。ほんの些細な出来事さえも、神は職人技のような御手で一枚の絵を仕上げられるのです。

そして、この時まで、あなたのために取っておいたのだと言われる〝結果や出会い〟を用意なさっているのです。

偉大なアーティストである神は、私たちを筆のように用いて、一幅(いっぷく)の絵を仕上げられます。あなたは何色の筆だろうか。私の筆はキャンバスのどの辺を描いているのだろうか。天に凱旋(がいせん)したとき、その絵を俯瞰(ふかん)して、あまりの素晴らしさに驚嘆するに違いない。良いものを、神の時まで取っておかれる主に期待しよう。


サムエル記上 8章

2025年01月20日 | サムエル記
サムエル記上8・5 今ほかの国々のように、我々をさばく王を、我々のために立ててください。

士師記の時代からサムエルに至るまで、イスラエルには王と呼べる支配者はいませんでした。

士師(さばきつかさ)と呼ばれる人々は、支配者としてではなく、危急の時の軍事的リーダーであったり、霊的なリーダーとして働きました。特に預言者サムエルは後者の立場の人です。

ところが、イスラエルの人々はそのような体制に不満でした。自分たちが近隣諸国から攻撃を受けるのは、自分たちに王がいないからだと考えたのです。

そこで民は、「他の国々のように、我々をさばく王を、我々のために立ててください」と、サムエルに要求したのです。 ※「我々をさばく王」の〝さばく〟とは、民の諸問題を裁判上で〝さばく〟という意味だけでなく、政治をつかさどること全般を言う。

創造主なる神こそ、まことの神であり、真の支配者、王の王であるお方です。ですから、今までの士師と呼ばれる人々は、王なる神の代理人であり、取り次ぎ役でした。

しかし、イスラエルの民としては、いちいち神の御心を問い、神の啓示を待って決断していたのでは、外敵に対して迅速に対応できないと考えたのです。

他の国々は王がいて、王の即決即断で迅速に行動するのに、我々イスラエルは時代遅れだと思ったのです。そんなジレンマは、新約時代のクリスチャンにも生じます。

ある人は、民主主義が定着した現代に、イエスを御国の王として拝することは時代遅れだと考えます。また、科学の進んだ時代や、生き馬の目を抜くようなビジネス社会で、イエスを信じることは妨げになると考える人もいます。果たしてそうなのでしょうか。

神の御心をたずねつつ生きることは、効率を優先する社会では迅速な対応とは言えないでしょう。しかし、迅速であることや効率の良いことが正しいことなのでしょうか。

私たちは神の国と神の義を求める者たちです。時には時間がかかっても、神の御心をたずね求め、御国の王であるイエスに従います。

現代は、まことの王を見失った時代です。自由であるがゆえに神の御心を失った時代です。そして、平等という名のもとに絶対者である神の権威を失った時代です。そんな時代にあって、クリスチャンは時代の流れに逆らう者です。

イスラエルの人々は、他の国のようになりたいと欲しました。しかし、それは神の民としてのアイデンティティーを失うことになります。クリスチャンが世の人と同じであろうとするなら同様です。

私たちのまことの王は神です。イエス・キリスト以外に王はあり得ません。それなのに、イスラエルの人々は神を退けて、世俗的な王を要求しました。

ところが、神はあえて民の要求を聞き入れられました。それは世俗的な王の限界を知らせるためです。そして、まことの王であるキリストの登場を待ち望む民へと導くためです。

こうして、イスラエルに王が誕生し、その歴史はキリストの来臨まで続くのですが、キリストが王として来られた時の人々の対応は、皮肉にも再びまことの王に対する拒絶でした。こう記されています

ピラトはユダヤ人に言った、「見よ、これが(イエスが)あなた方の王だ」。すると彼らは叫んだ、「殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなた方の王を、私が十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「私たちにはカイザル(ローマ皇帝)以外に王はありません」(ヨハネ19・14~15)

イスラエルと同じ轍(わだち)を踏んではなりません。告白しましょう。イエスこそ私たちの王であると……。 

サムエル記上 7章

2025年01月18日 | サムエル記
サムエル記上7・3 あなた方が一心に主に立ち返るのであれば、他の神々とアシタロテを、あなた方のうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。

神の箱はベテシメシからキリアテ・ヤリムの町に移されました。神の箱が無事にイスラエルに戻って来たものの、依然としてイスラエルはペリシテの圧政のもとで苦しんでいました。

「イスラエルの全家は主を慕って嘆いた」(7・2)ので、サムエルがイスラエルの人々に告げた言葉が今日の聖句です。

先にも述べたように、第4~6章は神に対する誤った態度について記されていました。そして第7章で、どのように神に仕えるのかが語られています。ポイントはひとつです。

他の神々を捨て去り、主にのみ仕えることです。

分厚い聖書に一貫して流れているテーマは、創造主なる神に対する礼拝の回復です。そのために、神はイスラエル民族を選ばれました。そのために、イスラエルの子孫からキリストを世に送られ、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからであると語られたのです(ヨハネ4・23)

神のご計画は、人間を救うことが最終目的ではありません。人間を罪の中から救って、真の礼拝者とするためです。そして、真の礼拝が回復された世界を建て上げることにあります。

この軸をずらしたら、福音は人本主義(ヒューマニズム)に引きずられて行きます。

さて、私たちが霊とまことをもって神を礼拝するためには、私たちの中から他の神々を捨て去りなさいと、今日の聖句は述べています。

そのように命じられたイスラエルの人々は、バアルとアシタロテを捨て去りました(7・4)。ということは、この時点で、彼らは異教の神々の偶像を所持していたわけです。 ※バアルはカナン全域で信奉された異教の神(男神)であり、幼児犠牲を習慣にしていた。また、アシタロテ(女神)はバアルの妻とも言われ、共に豊穣と多産の神とされ、そのため神殿内売春の温床になった。

「他の神々を捨て去る」とはどういうことでしょうか。ひとつは、イスラエルの人々がしたように、木や石で刻まれた偶像を捨てることです。

エペソ教会のクリスチャンたちもそうしました。彼らはイエス様を信じてはいましたが、それまでの異教の神々や魔術の習慣を持ち込んでいました。聖書はその時の状況をこう記しています。

「それから、魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨てた。その値段を総計したところ、銀五万にも上ることがわかった。」(使徒19・19)

もうひとつは、異教の神そのものではないにしても、神のように信頼し、依存し、崇拝している存在があれば、それは「他の神々」と呼ぶべきものです。

富が〝神の地位〟を占めていないだろうか。もしそうなら、富をその地位から引きずり降ろさなければなりません。会社、身分、夫(妻)、恋人など、いずれも神の身分にふさわしくありません。

その他にも、人の目や言葉が気になってそれに支配されているなら、それは他の神々かも知れません。私を支配すべきは神の視線であり、神の御言です。私は神の御言に動かされたいのに、人の言葉に支配され動かされているなら、そんな「他の神々」を捨て去って自由になるべきです。

神ならぬ神が、神の地位を占領するとき、人生にも社会にも混乱が生じます。まことの神、父と子と聖霊なる神にだけに礼拝がささげられますように。 

サムエル記上 6章

2025年01月17日 | サムエル記
 サムエル記上6・20 ベテシメシの人々は言った、だれが、この聖なる神、主の前に立つことができようか。主は我々を離れてだれの所へ上って行かれたらよいのか

アシドドで起きた災難のため、人々は神の箱を恐れ、それをガテに移動するも、そこでも腫れ物が蔓延しました。災いを受けたくない人々は、別の町へと神の箱を移すのですが、その行く先々で災難が起こるため、ペリシテの町々はパニック状態です。町々の叫び声は天にまで上ったと記されています(5・12)。ここまでが先の5章の出来事です。

そして6章です。自分たちに多大な被害を及ぼしたのは、神の箱が原因であると理解したペリシテ人は、丁重な贈り物をそえて、神の箱を牛車にひかせてイスラエルに送り返すことにしました。

神の箱の処遇を検討する中で、かつて神がエジプトに下されたわざわいを教訓にしている点は興味深いものがあります(6・6)。数百年を経て、ペリシテ人にも出エジプトの事件は伝承されていたのです。

送り返された神の箱を乗せた牛車は、東の方向へ進み、ついにイスラエルのベテシメシ(ベト・シェメシュ)の町でとどまりました。ところが、ベテシメシの人々は不信仰な態度で神の箱を迎えました。

ベテシメシの人々で主の箱の中を見たものがあったので、主はこれを撃たれた。すなわち民のうち70人を撃たれた。主が民を撃って多くの者を殺されたので、民はなげき悲しんだ(6・19)。 ※新改訳はこの死者を「5万70人」と記録。新共同訳は、「5万のうちの70人の民」と翻訳。

その結果、ベテシメシの人々は、自分たちの町で神の箱を管理するなど到底できないと考えました。あまりにも恐れ多くて、だれが、この聖なる神、主の前に立つことができようかと告白しました。

第4~6章は、神の箱の取扱いをめぐる一連の事件が記されています。それは、神に対する誤った態度の記録です。

自分たちの勝利のために神を利用しようとしたイスラエルの人々(4章)、偶像のようにして神を拝もうとしたペリシテの人々(5章)、そして興味本位で神を知ろうとしたベテシメシの人々です(6章)。これらはみな神に対する誤った態度です。

すでにご存知のように、神の箱には、①十戒の石板、②マナの入った金の壺、③芽を出したアロンの杖が納められており、神の箱は神を象徴していました。

この神の箱には「あがないのふた」と呼ばれるふたが被せてありました。 ※口語訳では「贖罪所(しょくざいしょ)」と訳されているが、あがないのふた(新改訳)と訳した方が意味が明確である。

神の箱にあがないのふたが被せてあるのは、何を意味するのでしょうか。それは、あがないがなければ、神の箱に近づくことも、見ることもできないことを意味しています。

「あがない」とは、罪の代価の血が流されることです。つまり、罪の代価の支払いなしに、神に近づくことができないことを意味しています。

このように旧約の時代は、だれも神の箱に近づくことはできませんでした。ましてや興味本位で神の箱を覗(のぞ)いたり触れるなら、その人は死にました。

ところが、新約の時代に至って、イエス様がご自分の血を流して私たちの罪をあがなってくださいました。この血のゆえに、私たちは神に近づき、神を拝することができるようになりました。

さあ、イエスの血をたずさえて、大胆に神の御前に近づこうではありませんか。イエスの血をたずさえて、神の恵みの中に入ろうではありませんか。

サムエル記上 5章

2025年01月16日 | サムエル記
サムエル記上5・4 その次の朝また早く起きて見ると、ダゴンはまた、主の箱の前に、うつむきに地に倒れていた。そしてダゴンの頭と両手とは切れて離れ、しきいの上にあり、ダゴンはただ胴体だけとなっていた。

イスラエルから神の箱を奪い取ったペリシテ人は、それをアシドド(アシュドデ)の町にあるダゴンの神殿に安置しました。 ※「ダゴン」とはペリシテ人が信奉していた神。魚の頭をもつ海神と考えられてきたが、近年の研究では農耕神であった可能性も強い。ガザとアシドドに大きな神殿があった。

ペリシテの人々は、ダゴンの神にイスラエルの神も加わったのだから、御利益倍増!と期待したのでしょう。何でもかんでも、数多く拝めば御利益があると考えます。偶像礼拝者の基準は、いつも人間中心です。自分の都合に神を従わせようとします。

偶像礼拝とは、自分の利益のために神を仕えさせることです。熱心に拝んでいるようですが、それは自分の都合に神をあわせるためです。敬虔(けいけん)なようですが、それは自分の利益のためです。これが、敬虔を利得の手段とする人々(Iテモテ6・5)の発想です。

自分のために神を拝む。これが偶像礼拝者の特徴です。一般宗教はこの類(たぐい)です。

ところが、ペリシテの人々の宗教熱心はもろくも裏切られます。神の箱を安置した神殿では、ダゴンの像が、頭部と両手部が切り落とされた状態で倒れていたのです。誰がこんなことをしたのか。アシドドの人々には心当たりのないことです。まことの神は誰なのかを見せつけるような出来事です。さらに、神の箱を迎え入れたアシドドの町には腫れ物が蔓延して、人々を苦しめました。こうして、御利益倍増計画はもろくも破綻したのです。

まことの神は、人間の御利益(ごりやく)のために利用する対象ではないことを、まざまざと見せつけた事件です。

偶像礼拝は、自分の都合に神を利用することです。しかし、聖書が教える信仰は、創られた者が、創ってくださった方を礼拝し、仕えることです。創ったお方の御心に従って生きることです。

祈りましょう。被造物である私の立場と、創造主である神の立場とを逆転させることがないように、私がいつも真の礼拝者であることができますように……、わが霊魂をいつも目覚めさせてください。


サムエル記上 4章

2025年01月15日 | サムエル記
サムエル記上4・3 イスラエルの長老たちは言った、なにゆえ、主は今日、ペリシテ人の前に我々を敗られたのか。シロへ行って主の契約の箱をここへ携えてくることにしよう。そして主を我々のうちに迎えて、敵の手から救っていただこう

士師記の時代からそうでしたが、イスラエルの民はカナンの地において異邦人たちと一進一退をくり返してきました。その中でも、特に手強(てごわ)い民がペリシテ人でした。

ペリシテ人は地中海側の地域を拠点に活動する海洋民族でした。そのため、海外の最先端の文明と軍事力をいちはやく取り入れており、イスラエルを脅かす存在でした。

ある日のペリシテ人との戦いにおいて、イスラエルは劣勢を強いられ、4千人の戦死者を出してしまいました。そこで、敗因は何だっのか……民の長老たちは話し合いました。その結論は、シロへ行って主の契約の箱をここへ携えてくることにしよう。そして主を我々のうちに迎えて、敵の手から救っていただこう。(4・3)

契約の箱とは、神の箱とも呼ばれるもので、その中には、
 ① 十戒の石板
 ② マナの入った金の壺
 ③ 芽を出したアロンの杖
が納めてあり、神の臨在を象徴するものでした。

普段はシロの町の幕屋におかれていたのですが、神の不在が敗因だったと人々は考えたのです。そこで、この箱をかつぎ上ればペリシテとの戦いに勝利できると考えたのです。はたして結果はいかに。

「こうしてペリシテ人が戦ったので、イスラエル人は敗れて、おのおのその家に逃げて帰った。戦死者は非常に多く、イスラエルの歩兵で倒れたものは三万であった」(4・10)。しかも、「神の箱」はペリシテに奪われてしまいました(4・11)

さすがの主も、ペリシテ人にはかなわなかったのでしょうか。

そんなはずはありません。イスラエルの人々は、自分の都合の良いように神を担ぎ出しただけで、心からの信仰によらなかったのです。

神の箱を持ち出せば勝利できる……これは迷信です。イスラエルの人々は迷信に陥っていました。自分の都合に合わせて神を利用する。これは迷信です。本来の信仰からかけ離れています。

イエスの弟子のペテロが水の上を歩いたのだから、自分も水の上を歩けるはずだと都合良く信じるのは迷信です。ペテロは、「来なさい」と言われたイエスの〝御言に従って〟歩いたのです。これが信仰です。

迷信と信仰は違います。

自分の都合の良いように神を従わせようとするのは、どんなに熱心なようでも、それは迷信です。信仰ではありません。水の上を歩きたいという自分の都合のために神を担ぎ出すのは、信仰ではなく迷信です。

神の御言に自分の都合をあわせるのが信仰です。

神の御言が「来なさい」と言われたら、恐れる心をゆだねて、神の御言にあわせて水の上に一歩足を入れます。これが信仰です。

イスラエルの人々は、自分たちの勝利のために神を利用し、神を自分たちの都合にあわせようとしたのです。これは迷信です。

もう一度申し上げます。信仰とは、神の都合に自分を合わせることです。神の御言に自分を合わせることが信仰です。