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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

列王記下 25章

2025年05月16日 | 列王紀
列王紀下25・1 ゼデキヤの治世の第9年の10月10日に、バビロンの王ネブカデネザルはもろもろの軍勢を率い、エルサレムにきて、これにむかって陣を張り、周囲にとりでを築いてこれを攻めた。

ヨシア王の子(エホヤキンのおじ)ゼデキヤは、バビロンの傀儡(かいらい)政府の王としての立場を得ていましたが、ついに反旗を翻したため、バビロン軍はエルサレムを完全包囲しました。

この戦いの結果、ついにエルサレムは陥落し、人々はバビロンに捕囚として連れて行かれる事になります。これが第二次バビロン捕囚です。

聖書は軍隊に包囲された日を記録しています。ゼデキヤの治世の第9年の10月10日です。

神は、罪に対しては容赦なく滅ぼされますが、悔い改める者には驚くほどの恵みをもって報いてくださいます。この日を、神の慈愛を示す日として、人々は記録しました。

バビロンが自分たちを滅ぼすために街を包囲した日が、恵みの日になるとはどういう意味でしょうか。自分たちにとって最悪と思える日が恵みの日です。

この日のことは、預言者エゼキエルも重視しており、次のように記録しています。

第9年の10月10日に、主の言葉がわたしに臨んだ、『人の子よ、あなたはこの日すなわち今日の名を書きしるせ。バビロンの王は、この日エルサレムを包囲した』」エゼキエル24・1~2)。神ご自身が、この日を記録せよと命じておられます。

また、預言者エレミヤも「この日」を記録しています。重要な日付です。

ゼデキヤの治世の9年10月10日に、バビロンの王ネブカデレザルはその軍勢を率い、エルサレムにきて、これを包囲し、周囲に塁を築いてこれを攻めた。」(エレミヤ52・4)

聖書はなぜこんなにも「この日」に注目しているのでしょうか。それは、最悪の日でありますが、そこから神の恵みが始まった日でもあるからです。どのような恵みが始まったのでしょうか。

エレミヤはさらにこう預言しています。長くなりますが引用します。

「見よ、わたしは北の方のすべての種族と、わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この地とその民と、そのまわりの国々を攻め滅ぼさせ、これを忌みきらわれるものとし、人の笑いものとし、永遠のはずかしめとすると、主は言われる。

またわたしは喜びの声、楽しみの声、花婿の声、花嫁の声、ひきうすの音、ともしびの光を彼らの中に絶えさせる。この地はみな滅ぼされて荒れ地となる。そしてその国々は70年の間バビロンの王に仕える。

主は言われる、70年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデヤびとの地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする。」(25・9~12)

神は、ユダを見捨てられたかのようではありましたが、そうではありませんでした。神の御怒りは筆舌にし難いほどに激しいのですが、神の愛もそれと同じように深く偉大です。

バビロンによって滅ぼされたかに見えたユダヤ人でしたが、そこには70年の計画の始まりでもありました。悲しみの出来事にも70年の計画があることを忘れてはなりません。「70年の計画」を経て、神は素晴らしい出発を用意なさっているのです。

もちろん、新約の私たちにとって、それが文字通りの70年とは限りませんが、「70年の計画」に相当する期間を経て復活の出来事が用意されています。十字架の死という悲しみは、3日間の死を経て復活へと至るのが神の方法です。

では、ユダヤの民には、この日から70年を経て何があったのでしょうか。

ユダヤ人はバビロンへ奴隷として連れて行かれましたが、その後、ペルシャがバビロンを滅ぼしペルシャ帝国が誕生しました。そのペルシャの王クロスは神の不思議な導きを受けて、ユダヤ人を解放し、祖国に戻るように命じたのです。

人類史上、このようなことがあったでしょうか。前代未聞の出来事です。神がクロス王の霊を奮い立たせ、ユダヤ人解放の志しを起こさせ、かつ実現に至らせたのです。

ユダヤの民は祖国に戻って、まず何をしたかご存知ですか。彼らが最初に手がけたことは神殿の建設でした。神への礼拝を第一にしたのです。

もちろん、神殿の建設はスムーズに進んだわけではありませんでした。挫折あり、妨害あり、民の心がくじけたこともありました。しかし、ついに、民は神殿建築に着手し、神殿の基礎工事を始めた日のことが、ハガイ書に記録されています。

「あなた方はこの日より後、すなわち、9月24日よりの事を思うがよい。また主の宮の基をすえた日から後の事を心にとめるがよい。種はなお、納屋にあるか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリブの木もまだ実を結ばない。しかし、わたしはこの日から、あなた方に恵みを与える。」(2・18~19)

バビロンがエルサレムを包囲した「日から70年後が、この神殿建築の基礎工事を開始したに相当するのです。

何と意義深い日ではありませんか。最悪と思える「日」に、70年後のこんな恵み深い再出発の「日」が定められていたのです。

先のエレミヤも、神が計画なさっているのは、単なる災いを与える計画ではない。希望と将来を与える計画だと預言したとおりです。

ですから、どんな困難な日の中にも、神の恵みが盛り込まれていることを信じて乗り越えます。主を信頼しよう。


列王記下 24章

2025年05月15日 | 列王紀
列王紀下24・12 ユダの王エホヤキンはその母、その家来、そのつかさたち、および侍従たちと共に出て、バビロンの王に降服したので、バビロンの王は彼を捕虜とした。これはネブカデネザルの治世の第八年であった。

ヨシア王によって大胆な改革がなされたのですが、ヨシヤ王の死後、エホアハズが王となると、再び偶像礼拝の方向に大きく舵(かじ)を切りました。一体どうしたことなのでしょう。ヨシヤ王の改革が不徹底だったからでしょうか。

いいえ。ヨシヤ王は持てる力の限りをつくしました。偶像礼拝の様式を排除し、まことの神への礼拝形式へと改革しました。しかし、外側の改革は徹底しましたが、民の心の中身までは改革できませんでした。そこに旧約の限界があります。

民の心の中身まで造りかえることのできるのは、聖霊が内住してくださる時代を待つしかありません。それは新しい契約の時代です。聖霊が内住されて、神の律法をその心に書き記してくださる時代です(エレミヤ31・31/エゼキエル36・26)

旧約の預言者たちは、この素晴らしい約束を預言し、自分の時代には成就するのを見ることなく死んで行きました。それが今や、イエス・キリストを信じる私たちに実現しています。

さて、大国の狭間で翻弄される小国ユダにとって、現実派の人々はヨシア王の改革に不満をいだいていたことでしょう。

「信仰を第一にしても、現実はそんなに甘くない」。「近隣諸国との同盟関係を重視すべきだ」。「宗教的にも解放路線を取れ。そうすれば経済交流も盛んになり、商売繁盛にもつながるではないか」。

近隣諸国と交易を盛んにすることで経済的に豊かになれる。その為には、近隣諸国の偶像礼拝も受け入れて、人やお金の流れを盛んにすべきだ。そう考える現実主義者も多くいたのです。実際にヒゼキヤ王の宗教改革をひるがえしたマナセの時代は、解放路線に変更したことで、あの55年に及ぶ安定政権が生まれたではないか……というわけです。

そんな現実派の人々からすれば、信仰を第一とする純粋派の生き方は愚かに見えたことでしょう。

このような対立は昔も今もくり返されています。イエスを信じることは、まさに愚かなことです。クリスチャンはその愚かさを承知の上でイエスに従います。十字架の言葉は滅び行く者には愚かですが、救いにあずかる者には神の力です。

さて、そのようなわけですから、ヨシア王亡き後は、現実派の人々によって舵が大きく逆に切られてしまいました。こうして、ヨシアの子エホアハズ以降、南ユダは急速に堕落して行きました。

神は、ついに、ユダ王国さえも滅ぼすことになさったのです。

ことの経緯を整理しておきましょう。ヨシア王の子エホアハズはエジプトに幽閉され、エジプトは、ヨシアの子エホヤキムを王として立てて間接的に支配しました。その後バビロンの勢力下に移り、エホヤキムの子のエホヤキンが王となったのですが、エホヤキンの時代に、バビロンの王ネブガデネザルはエホヤキン王とその侍従たちを捕囚としてバビロンに連れて行きました(列王下24・12~16)

これが第1回目のバビロン捕囚です。

バビロンは、エホヤキンの代わりに叔父のゼデキヤを王に立てて間接的な支配を続けます(24・17)。しかしその後ゼデキヤが裏切ったために、バビロンはユダを徹底的に滅ぼし、その住民たちをバビロンへ捕囚として連れて行きました(25・1~12)

これが第2回目のバビロン捕囚です。

聖書は、厳しい宣告をしています。これは全く主の命(めい)によってユダに臨んだもので、ユダを主の目の前から払い除くためであった。主はその罪をゆるそうとはされなかった。」(24・3~4)

エルサレムとユダにこのような事の起ったのは主の怒りによるので、主はついに彼らを御前から払い捨てられた。(24・20)

何という厳しい宣告でしょうか。ヨシヤ王があんなに頑張ったのに、神は顧みてくださらなかったのだろうかと、神の愛を疑問視する人もいることでしょう。

でも、間違わないでください。神の愛は薄っぺらいものではありません。人間が少しばかり熱心に悔い改めたから、可哀想に思って良くしてあげる……。私たちの罪はそんな生半可な重さではありません。

神のひとり子が十字架で壮絶な死をとげなければならなかったほどに、人類の罪は深く、重く、広く、大きいのです。神は、人類の罪がいかに重いものであるかを示すために、神の愛するイスラエルの民さえも、このように滅ぼしてしまわれました。

そのような激しく厳しいさばきがあるが故に、神のゆるしの大きさ、神の愛の広さ、高さ、深さが意味をもつのです。

神は、この後、ユダヤ人を約束の地に再び帰還させられました。その記録がエズラ記、ネヘミヤ記に記されている次第です。

神は滅ぼされますが、そこから新しいいのちを得るようになさいます。これは神の法則です。死を通していのちを得る……これは神の法則です。

あのノアの洪水の時にすべてを滅ぼされましたが、ノアの家族から新しいいのちを始められました。ユダヤ人をバビロンによって滅ぼされましたが、そこから新しいいのちを始められました。

十字架で全人類の罪を滅ぼして、新しいいのちを始めるのは神の法則です。つまり、イエス・キリストを信じるとは、あの十字架で「過去の古い自分」はキリストと共に滅んだことを受け入れることです。そして「新しくされた自分」がキリストと共に復活したことを認めることです。

私たちは、神の懲らしめの下で滅びるかのような試練にあったとき、この法則を忘れないでください。主にあっては、死はいのちに至る道であることを。十字架を負うことはいのちへの道であることを。

列王記下 23章

2025年05月14日 | 列王紀
列王紀下23・25 ヨシヤのように心をつくし、精神をつくし、力をつくしてモーセのすべての律法に従い、主に寄り頼んだ王はヨシヤの先にはなく、またその後にも彼のような者は起らなかった。

神殿で発見された「律法の書」を読んだヨシヤ王は胸が引き裂かれる思いでした。それは、自分たちがあまりにも聖書に反する生き方をしていることが分かったからです。

そこで、王は改革に乗り出しました。それは聖書に帰る運動でした。聖書の通りにやろうと決断し、それをユダヤの民にも知らせ、断行しました。

最初に手を付けるべきことは神殿の回復でした。

神殿とは「神の家」と呼ばれ、神が住まわれる所です。といっても、天(宇宙)にも諸天の天(霊界の天)にも入れることのできない神は、この神殿にご自身の御名を置かれました(列王上8章)

神の御名があるところ……そこは神が共におられるのと同じです。イエスは、わたしの名で二人、三人が集まるところに、わたしも共にいると言われたとおりです。

神を信じるとは、神の御名を受け入れることです。神を愛するとは、神の御名を大切にすることです。神に仕えるとは、神の御名を讃美し礼拝することです。「イエスを信じる者、すなわちその名を信じた者たち」とある通りです(ヨハネ1・12)

旧約の時代は石造りの神殿に神の御名が置かれましたが、新約の時代は、イエスを信じる者たちの霊魂にイエスの御名が置かれています。

ところが、ヨシヤ王の時代の神殿は、神の御名を置くべき所にバアル像やアシラ像やそれに関わる祭壇が同居するという醜態をさらしていました。

日本の状況はどうでしょうか。同じ家の中に神棚も仏壇があり、結婚式はキリスト教式、子どもが生まれたら神道式、葬式は仏教式。年末にはクリスマスを祝い、年始には複数の神社をはしごして初詣。たくさん拝むほど御利益があると思っているのです。

こんな日本人の姿は、神の御言に照らし合わせれば狂気の沙汰です。ヨシア王は、このような神殿の姿を見て服を引き裂いて悲しみ、悔い改めました。果たして日本に住む私たちはどうだろうか。

私たちの心の中心にイエスの御名が置かれているでしょうか。イエスの御名を汚すものが私の家から、私の心から取り除かれているでしょうか。憎しみや恨みの思い、盗み・姦淫・殺人などの思い……これらが、かつてのエルサレム神殿を汚していたように、私自身を汚していないでしょうか。

次に取り組んだことは礼拝の回復でした。

旧約における礼拝は「祭」と呼ばれる形態でした。これは日本人が持っている祭のイメージとはずいぶん違います。律法では7つの祭が定められているのですが、歴史的な出来事に端を発し、神のなさった御業を思い起こし、子々孫々に語り継ぐものです。

この祭の中に神の壮大な計画が予告されています。神の御心をコンパクトに、しかも印象深く語り継ぎます。ユダヤ人をユダヤ人たらしめているのは、この祭があるからです。

その祭の中で第一かつ最も重要な祭が「過越(すぎこし)の祭」です。ところが、ユダヤではその祭が長年なされていなかったというのです。聖書はこう記しています。

「さばきづかさがイスラエルをさばいた日からこのかた、またイスラエルの王たちとユダの王たちの世にも、このような過越の祭を執り行ったことはなかった」というのです(23・22)。「さばきづかさ」の時代からとは、聖書の「士師記」以後からです。

ユダヤ民族の原点である「過越の祭」をこんなにも長い間おろそかにしていたのです。これでは迷走するわけです。 ※捕囚の地バビロンから帰還して後、ユダヤ人は律法に厳密に従うようになり、その頃に、ユダヤ教として体系化されたといわれる。

過越祭とは、民族がエジプトから救い出されたことを覚える祭です。ユダヤ人のアイデンティティーとなる出来事です。

新約の時代のクリスチャンにとって、それはイエスの十字架の死と復活の出来事です。礼拝ではいつもこの十字架の死と復活を記念します。その時のイエスの引き裂かれた肉と流された血を記念して「パンと杯」を受けます。

これが、クリスチャンとしてのアイデンティティーです。これを疎かにするなら、クリスチャンをクリスチャンたらしめるものを失います。

ヨシア王によってなされた聖書に帰る運動が、① 神殿の回復と、② (礼拝)の回復であったように、今日の私たちも同じことが言えます。イエスの御名が置かれている私たちの心から偶像を取り除くこと ――神殿の回復――と、霊と真実によってなされる礼拝の回復がなされることです。

列王記下 22章

2025年05月13日 | 列王紀
列王紀下22・8 そのとき大祭司ヒルキヤは書記官シャパンに言った、「私は主の宮で律法の書を見つけました」。そしてヒルキヤがその書物をシャパンに渡したので、彼はそれを読んだ。

主の目の前に悪を行ったマナセの治世は55年に及びました。その子アモンも引き続き2年間、父と同じ道を歩んだので、合計57年に及ぶ神殿荒廃と霊的堕落が続きました。

57年という年月は、ユダヤの敬虔な信者たちには暗黒時代でした。しかし、そのような圧政は永遠に続きません。夜は必ず朝を迎えるように、必ず主の時代がやってます。トンネルには必ず出口があるように、必ず解決の時がやってきます。 ※世俗主義者にしてみれば繁栄の長期政権であったであろう。

ついにその時がやってきました。

ヨシア王の時代のことです。神殿の中で、主の律法の書が発見されたのです。たぶん、マナセ王の時代に多くの信仰書は処分されたり、封印されたのではないかと思われます。その難を避けて、信仰者たちは律法の書を神殿に隠したのでしょう。

かつて王母のアタリヤがダビデ王家を滅ぼそうとしたとき、ひとりの信心深い婦人によって王子ヨアシが神殿の内部で匿(かくま)われたように、神の御言を滅ぼそうとしたマナセの手から逃れて、律法の書は神殿の中で匿われたのです。

しかし一体、祭司たちは、律法の書も知らずに、どうやって神殿の祭儀を執り行っていたのでしょうか。想像するに、伝統や言い伝えによって礼拝の体裁は保っていたのでしょうが、それはやがて聖書から大きくかけ離れて行きました。

それでも人々は、習慣的に祭儀を行っていることで、自分は熱心に神に仕えているのだ、神に喜ばれる礼拝をしているのだと自負していたことでしょう。こうしていつしか形骸化し、内容の伴わないものになっていました。

このような事はいつの時代にも起きています。

神の御子イエスが来られた時代もそうでした。人々の信仰は形式だけのものになっていました。イエス様はそのことを、あなた方は、自分たちが受けついだ言い伝えによって、神の御言を無にしていると指摘なさいました(マルコ7・13)。 ※新改訳では「神の御言を〝空文〟にしている」。

「形骸化」とは、いのちのない状態のことです。本来いのちのあるべき御言が、いのちのない空しい言葉になっていたのです。

あのマルチンルターが宗教改革をなした時代もそうでした。彼はキリスト教の伝統に従って修行に励んでいましたが、いのちがありませんでした。形は整っていてもいのちがない。それが形骸化です。やがてルターがたどりついたのは〝聖書の再発見〟でした。

ヨシア王の時代に律法の書を再発見したように、ルターも聖書を再発見したのです。

ルターの時代、人々は聖書を読むことができませんでした。勿論、聖書は貴重な書物でしたから、人々が手にできなかったこともあるのですが、誰もが自分勝手な聖書解釈をしないために、信徒が聖書を読むことを教会が禁じていたからです。
私たちの信仰の基準は「聖書」です。

私たちの信仰は、習慣的になったり、伝統だからといって形だけになってしまい、いのちを失っていないだろうか。旧約の人々が律法の書を発見したように、私たちも聖書を〝再発見〟する必要があります。

聖書に帰ろう」。これが、いのちのある信仰を生きるために、くり返さなければならないことです。


列王記下 21章

2025年05月12日 | 列王紀
列王紀下21・2 マナセは主がイスラエルの人々の前から追い払われた国々の民の憎むべきおこないにならって、主の目の前に悪をおこなった。

悲しい結果です。先の王ヒゼキヤの晩年は、今の自分が良ければそれで良いと考え、後生のことを考慮しなかったことを見ましたが、信仰においても同じで、ヒゼキヤの信仰は、息子のマナセに受け継がれなかったのです。その結果、マナセが王になると、南ユダの状況は一変してしまいました。

彼は、父ヒゼキヤが取り除いた「高き所」を再建しました。バアル像、アシラ像をはじめとする偶像を国中に造りました。また、主の御名を置くべき神殿に、他の神々の祭壇を設けました。その他に、魔術・占い・口寄せなど神の忌み嫌われることをことごとく行いました。

しかも、このようなマナセによる統治が55年間も続きました。ユダ王国史上、最長政権です。なぜ、善人よりも悪人が栄えるのだろうか……そんな疑問符がつきます。

しかし、この世が悪魔の支配下にあることを知るなら合点できます。聖書はこう記しています。全世界は悪しき者の配下にあることを知っている(Ⅰヨハネ5・19)。悪しき者とは、神に敵対して堕落した天使であるサタン(悪魔)のことです。

サタンは、自らが神の地位につこうとした者です。創造主である神こそが礼拝されるべきお方であると知りながら、あえて敵対する者です。だから、彼の働きはいつも一貫しています。まことの神礼拝を破壊することです。

盗み、殺人、姦淫などの罪も悪魔のわざですが、それは枝葉の罪にすぎません。そのような枝葉が生じる元になっている「根っ子の罪」こそが問題です。真の神を否定し、自らを神とすることです。これが根っ子の罪であり、悪魔のわざの本質です。

この悪魔的な罪は、悪魔の支配下にある人類にも及んでいて、人は自らを神とする生き方を倣(なら)います。神を拝むにしても、真の神・創造主ではなく、自分に都合の良い偶像を拝みます。

このように根っ子の罪こそが問題なのに、枝葉の罪を何とかしようと躍起(やっき)になるだけです。法律の目を細かくして抜け穴を塞ごうとか、罰則を強化して犯罪を押さえ込もうとか、教育を充実させて良くしようとか、いずれも対症療法です。

でも、それら枝葉の罪は、根っ子の罪から出てくる「実」にすぎません。そんな実を結ばせる根っ子の罪から正さなければなりません。それは、真の神への礼拝を回復することです。

主への礼拝を第一とすることから始めよう。シャツでいえば第一ボタンです。最初のボタンを掛け違えたら、あとは次々とズレて行きます。そのような時は、面倒くさいと思わずに、第一ボタンからかけ直すように、主への礼拝から正すことです。

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【一日一章】 朝マナ 列王記下 21章 【聖書通読】
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列王記下 20章

2025年05月10日 | 列王紀
列王紀下20・19 ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「せめて自分が世にあるあいだ、平和と安全があれば良いことではなかろうか」と思ったからである。

アッスリヤ軍に完全包囲された南ユダ王国でしたが、ヒゼキヤ王の切なる祈りと主のあわれみとによって勝利を得ました。天の軍勢の前にアッスリヤ軍は滅びたのです(19・35)

その後、ヒゼキヤは死に至る病をわずらって床に伏したのですが、涙を流して主に求めると、主は応えてくださり癒されました。その時の主からの応えはこうでした。

「わたしはあなたの祈を聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。3日目にはあなたは主の宮に上るであろう。かつ、わたしはあなたの齢(よわ)いを15年増す。わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、わたしの名のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守るであろう。」

主は、私たちの涙をもご覧になっているのです。神の御前には格好をつけないで、率直に申し上げ、悲しみを現し、涙を流してよいのです。神は、それを受け止めてくださるお方です。

さて、このような素晴らしい経験をしたヒゼキヤですが、彼の晩年は少し様子が違います。

ある時、バビロンからの使節がユダにやって来ました。当時はアッスリヤ帝国全盛の時代でしたが、そのアッスリヤの東に頭角をあらわし始めたのが小国バビロンでした。

ヒゼキヤ王はバビロンからの使節を歓迎し、国の財産や軍事力までも公開したのです(20・13)自分の腹の内を見せるなどあまりにも無防備です。なぜ、そんな愚行をおかしたのでしょうか。

当時の状況は、いつ再びアッスリヤが侵略してくるか分からない不穏な時代でした。それを回避するためにも、その東にあるバビロンと同盟を結び、国の安泰を画策したのだと思われます。

あれほどのヒゼキヤも、晩年は弱気になってきたのでしょうか。日毎に衰えて行く外なる人を頼りにするなら、私たちは落胆します。胆しない方法は、日毎に新しくされる「内なる人」に目を注ぐことです。しかし、ヒゼキヤはそうではありませんでした。

バビロンに情報公開したことが、後のバビロン捕囚につながるとは、この時のヒゼキヤには想像できませんでした。しかし、預言者イザヤはそのことを預言しました。

「主は言われる、見よ、すべてあなたの家にある物、および、あなたの先祖たちが今日までに積みたくわえた物がバビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはないであろう。また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られ、バビロンの王の宮殿で宦官となるであろう。」(20・17~18)

しかし、それに対するヒゼキヤの返答は、あなたが言われた主の言葉は結構ですというものでした。神の御言を真摯(しんし)受け止める心ではありません。

その理由は、せめて自分が世にある間、平和と安全があれば良いことではなかろうかと思ったからです。自分の時代が上手く行けばそれで良いじゃないか……という考えです。

(ひるがえ)って私たちはどうだろう。イエスを信じて自分が幸せであればそれで良い、後の時代のことまで考えられないという視野の狭さはないだろうか

私の単なる幸せのためにイエスを信じたのではありません。後の時代のことを考えよう。後の時代に、信仰の遺産を残せるような生き方ができるように、主に願い祈るものです。

残念ながら、ヒゼキヤの息子マナセ王は、55年間もの長期政権の間に、父ヒゼキヤ王のなした改革をことごとくひっくり返し、以前よりも悪を増してしまうことになるのです。


列王記下 19章

2025年05月09日 | 列王紀
列王紀下19・16 主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。

アッスリヤの軍隊はユダの首都エルサレムを包囲しました。アッスリヤは当時の超大国です。軍事力でも経済力でも劣っている弱小国ユダにとって、一分の勝算もありません。

アッスリヤの王セナケリブは将軍ラブシャケを派遣して、無条件降伏を迫ったのです。

まずは情報戦です。ラブシャケは過去の戦歴を語ります。ここに至るまで、アッスリヤ軍に対抗できた国も神もなかった。事実、彼らは、ハマテ・アルパデ・セパルワイム・ヘナ・イワの国々を打ち破って、今こうしてユダにまでやって来た。

各国にも守護神と思(おぼ)しき神々があったが、アッスリヤの攻撃から救い出すことはできなかった。だからユダよ。お前たちの信じる神も同じだ。そんな神に信頼するな。むしろ、アッスリヤの王を信頼せよ。アッスリヤの王にひざまずけ。そうするならば、パンも畑も与えられ、生きながられるのだ……と。(18・31~32)

同様に悪魔も、クリスチャンに対して情報戦をしかけてきます。

イエスを信じて何か良いことがあったのか。イエスなんか信じなくても、世の中でうまくやっている人はいくらでもいるではないか。何故イエスに固執しているのだ。さあ、私を拝め。そうすれば、この世の栄華を与えてやろう……と。

さあ、どうしますか。悪魔が言うように、この世ではクリスチャンでない方が ――特に日本では―― 生きやすいし、うまく行くかも知れません。では、イエスを礼拝しないで悪魔にひざをかがめますか。

でも、よく考えてください。そもそも、私たちは地上でうまく生きるためにイエスを信じたのですか。それとも、天において永遠に生きるためにイエスを信じたのですか。やがて朽ちてしまう地上の栄華を享受するためですか。それとも、天における永遠の栄光のためですか。

ユダの王ヒゼキヤはそのことを区別できました。だから、アッスリヤからの書簡を神の前に広げ、どうぞご覧になってください。お聞きになってくださいと祈りました。

さあ、私たちを迷わせる情報が錯綜(さくそう)しています。それを、神の御前につまびらかにして祈ることから始めよう。何が肉の思いなのか、何が霊の思いなのかを切り分ける御言の知恵を求めよう。

そのように求めるヒゼキヤに、神の御言が与えられました。特に、アッスリヤの王セナケリブについての預言は興味深いです。

あなたは聞かなかったか、昔わたしがこれを定めたことを。堅固な町々をあなたが荒塚とすることも、いにしえの日からわたしが計画して今これをおこなうのだ。19・25)

この「あなた」とはセナケリブ王のことです。セナケリブが大国となって国々を打ち破ることができているのも、それは主なる神のご支配下にあることなのだという意味です。それなのに、セナケリブよ、お前は高ぶっている……と預言は続きます。

どんな悪の力も、さらに大きな神の御手の中にあることを意味しています。あの黙示録で預言されているように、「獣」と呼ばれる反キリストの活動も、3年半のあいだ活動することが〝ゆるされた〟と記されています。

だから、目の前にある現実だけを見ないで、その背後にある、もっと大きくて偉大な神の御手を見るべきです。エリシャの僕(しもべ)の目が開いて、アラム軍の周りを取り囲む天の軍勢が見えたように、信仰のメガネをとおして見ることができるように祈ります。


列王記下 18章

2025年05月08日 | 列王紀
列王紀下18・5 ヒゼキヤはイスラエルの神、主に信頼した。そのために彼のあとにも彼の先にも、ユダのすべての王のうちに彼に及ぶ者はなかった。

アッスリヤ帝国は北イスラエル王国を滅ぼした後、南ユダをも支配せんと派兵してきたのですが、この激動の時代を乗り切り、南ユダ王国の独立を保ったのがヒゼキヤ王です。

ヒゼキヤは如何にして勝利したのでしょうか。

今日の聖句は、ヒゼキヤは主なる神を信頼したと証ししています。その信頼ぶりは、ユダのすべての王の中でも、彼に及ぶ者はないほどでした。彼は歴代の王が取り除くことのできなかった「高き所」をついに撤去しました。

高き所を除き、石柱をこわし、アシラ像を切り倒し、モーセの造った青銅のへびを打ち砕いた。イスラエルの人々はこの時までそのへびに向かって香をたいていたからである。(18・4)

ヒゼキヤは国内から偶像礼拝を徹底的に排除したのです。「高き所」や「アシラ像」を撤去するのは長年の課題でしたが、ヒゼキヤ王の時代になって遂に取り除くことができたのです。さらに興味深いのは、「モーセの造った青銅のへび」を打ち砕いたことです。この青銅のへびとは何でしょうか。

エジプトを脱出したイスラエルが荒野を旅していたとき、不信仰ゆえに、民の多くがへびに噛まれて死んでしまうという事件がありました。そこで、モーセは神の御告げに従って「青銅のへび」を造り、それを木に掛けて、死にかけている民に見上げさせました民数記21・8~9)

その木に掛けられた青銅のへびを見上げた者は皆いのちを得ることができました。

この事件は、キリストが十字架に掛けられることの預言にもなっています。木に掛けられたのはイエス様ですが、それは同時にへびに象徴されている悪魔の持つ死の業(わざ)も共に木に掛けられて滅ぼされたことを表しています。

そのことをイエス様は、「モーセが荒野でへびを木に掛けたように、人の子も掛けられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠のいのちを得るためである」と言われましたヨハネ3・14~15)

このキリスト預言にもなっているのが、「モーセの造った青銅のへび」であったのですが、南ユダ王国ではそれが神格化されて、偶像のように拝まれていたので、ヒゼキヤはこれも取り除きました。

旧約における青銅のヘビが新約の十字架にかけられたキリストを表していたわけですが、旧約で青銅のヘビが偶像化されたように、新約において十字架を偶像化してはなりません。十字架は象徴であって十字架そのものが礼拝の対象ではありません。私たちが信じ、礼拝するのはイエス・キリストです。

どんなに素晴らしい過去の経験も、それが偶像のように拝まれ始めたらその価値を失います。牧師や伝道者の功績がたたえられ、聖人としてあがめられ、偶像化することがあります。キリスト教会はそのような歴史をくり返してきました。

また、過去の功績に頼ったり誇ったりするのも同じ延長線上です。過去、あのようにして上手く行った、ということで過去のやり方に固執するとか。また、過去の成功にしがみついているとか……。それらも打ち砕くべき〝青銅のへび〟です。

大切なことは、ヒゼキヤがそうであったように、「主に信頼した」ということです。信じるのは主イエスのみです。信頼するのは主イエスのみです。


列王記下 17章

2025年05月07日 | 列王紀
列王紀下17・14 彼らは聞きいれず、彼らの先祖たちがその神、主を信じないで、強情であったように、彼らは強情であった。

北イスラエル王国はホセア王の時代に滅びました。3年におよぶアッスリヤ帝国の攻撃を受け、紀元前722年に首都サマリヤは陥落し、北王国は滅亡しました。

この滅亡は、北イスラエルでくり返された偶像礼拝の罪と、それに伴う道徳的退廃に対する神の御怒りであったのだと、聖書は記しています。

すでに私たちは、北王国においてどれほどの偶像礼拝が行われてきたのかを見てきました。再三にわたる警告に対しても、悔い改めるところを知らない王と民の姿も見てきました。

この列王紀は、北イスラエル王国と南ユダ王国が滅亡に至る歴史を記すことによって、王国が滅亡した原因を明らかにし、王国を再建しようと捕囚の地からの帰還民を教えるためです。

では、列王紀が教える王国滅亡の原因とは何でしょうか。

それは第一に偶像礼拝です。

まことの神以外を礼拝することが偶像礼拝です。神の御心を無視して、自分勝手に自分に都合の良いように拝むことが偶像礼拝です。

偶像礼拝者の特徴は、①自分中心であり、②肉体中心です。

神の御心を無視して、自分の都合の良いことが成りますようにと祈ります。また、健康のため、商売繁盛のため、家内安全のためと……肉体の幸いばかりを願って、罪のゆるしときよめを無視します。

肉体の幸いは一時的ですが、罪のゆるしを得る霊魂の救いは永遠の問題なのに、それを得ようともせず、肉体の幸いのためだけに神を拝みます。このように、偶像礼拝の性質は「自分中心」であり「肉体中心」です。

クリスチャンでも偶像礼拝の影響を受けて、自分中心にイエスを信じ、肉体の幸いのためにイエスを礼拝します。偶像礼拝者の性質がクリスチャンの中にも侵入してきます。そうすることで、イエス・キリストを偶像のように礼拝することになるわけです。

神の御心は何でしょうか。神の意図はどこにあるのでしょうか。

神は、まことの神を中心とした聖なる世界を完成させようとなさっています。それは神の御国です。その御国の最も中心的なことは、神への礼拝です。霊とまことによる礼拝です。

礼拝は神の御国における霊的な秩序です。造られた者が造ってくださったお方を礼拝する……これが秩序の基本です。これを揺るがすものが偶像礼拝です。だから、神は偶像礼拝を厳しく戒めます。そして、イスラエル民族の歴史を用いて、礼拝についての教えと教訓を残されました。

イエスが教えてくださった「主の祈り」の前半三つの課題。「神の御名があがめられること」「神の御国が来ること」「御心が地でも行われること」。この願いが神の願いであり、私たちも共に願います。ここに偶像礼拝を避ける秘訣があります。

王国が滅びた第二の理由は、民の強情です。

冒頭の御言は「彼らは強情であった」と記しています。新改訳ではうなじのこわい者です。「うなじ」とは首の後ろの部分のことです。「こわい」とは「強(こわ)い」と書きますが、堅い状態のことです。

たとえば馬などの家畜は、手綱(たづな)を引いても、首を手綱の方向に向けない馬がいます。主人の向かせようとする方向に首を曲げず、うなじの強(こわ)い馬です。強情な馬です。私たち人間も、同じようなことを神に対してやっています。

永遠のいのちへの道はこっちだと神が言われても、首を向けようとしない。悔い改めて神に立ち返れと呼ばれる神に対して、自分は間違っていないと強情にも神の御前に首をうなだれない。れが滅びる原因です。

失敗は誰にもあります。大切なことは、うなじを柔らかくして、素直に神の方へ首を向けることです。素直に神の御前にこうべを垂れて悔い改めることです。しかし、うなじの堅い者、強情な者はこれができません。

イスラエルの民が神に立ち返るチャンスは何度もありました。しかし、悔い改めませんでした。それは、強情だったからです。

出エジプトの事件を思い出してください。神は何度もエジプトに災いを下されました。そのたびに、エジプトの王パロは、「分かった、自分が悪かった」と言いながら、すぐにひるがえって前言を撤回。この時のパロの姿はうなじの強(こわ)い者、すなわち強情な者の姿です。そして、ついに彼は滅びました。

ヨハネ黙示録は、世の終わりに臨む神の御怒りについて預言しています。何度も地上に下される災いに対して、多くの人々は偶像礼拝を悔い改めなかったと記されています。それどころか、神をのろったとあります。これが、うなじのこわい者、強情な者の姿です。彼らの最後は滅びです。

そして、最後まで悔い改めないのが、神に敵対するサタンです。まさに、強情はサタンの性質です。偶像礼拝者は神ならぬ神を拝みながら、その背後の主であるサタンを礼拝しています。そして、サタンの性質である強情を引き継いでいます。

だから、気を付けてください。首が堅くなる前に、悔い改める者であってください。悔いし砕けた魂を神は軽しめられません。どんな過ちでも、柔らかい心で、素直な心で悔い改める者は幸いです。

列王記下 16章

2025年05月06日 | 列王紀
列王紀下16・11 祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから送ったものにしたがって祭壇を建てた。

北~南~と話題が変わるので、こんがらがって来ました。今日は南ユダ王国の話です。南ユダの王はアハズです。

このアハズ王の時代に、北イスラエルはスリヤ(アラム)と連合して南ユダを攻撃しました。形勢不利と見たアハズ王は、北の大国アッスリヤ(アッシリヤ)の王テグラテピレセルに援軍を要請しました。挟み撃ちにしようという算段です。

「私はあなたのしもべ、あなたの子です。スリヤ(アラム)の王とイスラエルの王が私を攻め囲んでいます。どうぞ上ってきて、彼らの手から私を救い出してください。」(16・7)

アッスリヤ王に対して、私はあなたのしもべです。あなたの子ですとは何という堕落ですか。

罪をおかして自堕落な生活をすることも堕落ですが、クリスチャンの堕落とは、自分の身分を放棄することです。神の子としての身分、神のしもべとしての謙遜を投げ出してしまうことが堕落です。

ルカ福音書で語られている放蕩息子は、父の子としての身分を捨てて放蕩に身をもちくずし、豚の餌で空腹を満たしたいほどに堕落しました。しかしその時、彼は我に返って、自分の「子としての身分」に目覚めたのです。

自分の身分に気付くとき、人は誇りを取り戻し、本来の姿に立ち返ります。

しかし、この時のアハズ王にとって、神の選びの民である誇りはどこに行ってしまったのでしょうか。彼はテグラテピレセル王に媚(こ)びを売り、アッスリヤのしもべに成り下がってしまいました。

事はうまく行きました ――うまく行ったかのように見えただけですが――。アッスリヤの援軍を得てアハズ王は勝利しました。しかし、本当の戦いは、信仰をゆがめようとする悪魔との戦いです。

支援を感謝するため、南ユダの王アハズは、アッスリヤの首都ダマスコを表敬訪問しました。その際、ダマスコの祭壇を見てたいそう気に入ったようです。そこで、この祭壇の図面をダマスコからエルサレムの祭司ウリヤに届けて同じものを作らせました。

堕落は更なる堕落を生み出します。こうして、エルサレム神殿をアッスリヤ様式の祭壇に改造してしまいました。

私たちは、聖書の信仰を自分勝手に〝改造〟してはなりません。勿論、教会は改革しなければならない所があります。しかし、それは聖書に似た教会になるための改革であって、アハズ王のような〝改造〟であってはなりません。

かつての大戦中、日本の教会は、礼拝堂に天皇の写真を飾り、それに向かって一礼をしてから礼拝を始めました。アハズ王がアッスリヤと親しくするために神殿を改造したように、日本の教会も大日本帝国に気に入られるために〝改造〟しました。

天国人としての誇りを捨てて、地上の国民のように生きようとしたからです。神の国とその義を求めないで、地上の国とその義を求めた結果です。

私たちは天国人としての誇りと自覚を放棄してはなりません。

祈りましょう。主よ、どうかアハズ王と同じ轍(わだち)を踏むことがないように助けてください。日本の教会が犯した過ちをくり返すことがないように、私たちに天国人としての誇りと自覚を、聖霊によって刻みつけてください。

列王記下 15章

2025年05月05日 | 列王紀
列王紀下15・28 彼は主の目の前に悪をおこない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤラベアムの罪を離れなかった。

北イスラエル王国の王が目まぐるしく交代します。エヒウ(エフー)によって改革は進んだかに見えたのですが、霊的な堕落をくい止めることはできませんでした。

エヒウ王朝は、エヒウの子孫4代目のゼカリヤが殺害されることによって終わりました。その後、クーデターを起こしたシャルムが王になりますが、1ヶ月後にメナヘムによって殺害。

メナヘムが王となったのですが、その息子のペカヒヤ王はペカによって殺害され、ペカが王位につきました。

次々と新しい王が誕生するのですが、結果はいつも同じです。彼らに対する評価は、主の目の前に悪をおこない、ヤラベアムの罪を離れなかったのです。

だれが王になっても事態は一向に良くなりませんでした。まるで、ヤラベアムの罪に呪縛されているかのようです。

まさに、人類の姿がそうです。アダムによって罪が人類に入り、罪によって死が人類を支配しています。次々と新しい人間が誕生するのですが、だれも罪から逃れることができません。それは、アダム以来、すべての人は罪を受け継いでいるからです。罪人の霊が全人類に流れているのです。

罪をおかすから罪人なのではなく、罪人なので罪をおかすのです。

だから、次から次へと新しい人間が生まれても、罪人が生まれるだけです。罪人という呪縛からだれも逃れることができません。それはイスラエルの王たちのようです。王たちは次々と死んで、我こそがイスラエルを良くしようと新しい王が立ったのですが、彼らはだれも、ヤラベアムの罪から離れることができなかったのと同じです。王たちの歴史は、そのことを象徴するかのように描かれています。

この罪は、イエスの十字架の死によって完全に葬(ほうむ)られる以外に取り除くことができません。イエスが十字架で死んでくださったのは、罪人の私たちも一緒に死ぬためです。イエスと一緒になって死んだなら、罪から完全に解放された人です。

残念ながら、列王紀の時代には、まだキリストが十字架で死んでくださっていません。この罪の悪循環から解放されるには、キリストの十字架の贖いの死を待たねばなりません。

しかし感謝なことに、今や私たちはイエスの十字架を受け入れた者たちです。十字架でイエスと共に死んで、イエスと共に復活した者たちです。


列王記下 14章

2025年05月03日 | 列王紀
列王紀下14・4 ただし高き所は取り除かなかったので、民はなおその高き所で犠牲をささげ、香をたいた。

再び南ユダ王国のことです。この時の王はアマジヤ(アマツヤ)です。あの神殿でかくまわれたヨアシの息子です。彼に対する評価はこうです。

「アマジヤは主の目にかなう事をおこなったが、先祖ダビデのようではなかった。彼はすべての事を父ヨアシがおこなったようにおこなった。ただし高き所は除かなかったので、民はなおその高き所で犠牲をささげ、香をたいた」。

高き所を取り除かなかったのはアマジヤだけでなく、歴代の改革派の王たちも、この「高き所」に関しては手をつけずに終わっています。

この「高き所」とは何でしょうか。聖書には度々出てきます。

これはカナンの地に古くから伝わる宗教習慣で、人々はそこで犠牲をささげたり祭儀をいとなんでいました。しかし、主なる神は、この異教の習慣を取り除くようにと何度も命じておられます。

イスラエルの民がカナンに入ってからもこの習慣は根強く残っていて、イスラエルの民もそれを真似るようになったようです。

まだ、エルサレムに神殿が建築されていない頃には、こう記されています。

当時はまだ、主の名のための宮(神殿)が建てられていなかったので、民はただ、高き所でいけにえをささげていた。(列王上3・2)

しかし、神殿が建った後も高き所は取り除かれず、その習慣を引きずったままになりました。そもそも、神殿を建立したソロモン王自身が率先して高き所を建築したところに根の深さを感じます。聖書はこう記しています。

ソロモンはモアブの神である憎むべき者ケモシのために、またアンモンの人々の神である憎むべき者モレクのためにエルサレムの東の山に高き所を築いた。(列王上11・7)

日本でも大概の神社は石階段を登った高い所にあります。高い所は天の神に近い所だという感覚は人類共通です。しかし、そのような方法で神に近づくのではありません。罪のゆるしのしるしである「イエスの血」を携えて近づくのが正式な方法です。

神は、人間的な方法で近づくことをゆるされません。ですから、あのバベルの塔も、高く建て上げて神に近づこうとしたわけですが、神は言語を乱すことでその建築を中断させました。人の良い行いや功績を高く積み上げて神に近づこうという考えも、「高き所」です。しかし神は、自ら高くするものを退け、低くする者を高くされるお方です(マタイ23・12)

このように高き所は、人類が編み出した神に近づく方法です。そのような人間の方法を、私たちの信仰に混ぜてはいけません。聖書の信仰を、世の人々が真似ることはあっても、クリスチャンが世の方法を真似てはいけません。

神の方法で神に近づきます。それは、イエスの血によって近づくことです。

自分の中に、あるいはキリスト教会の中に、この世の方法を取り入れることによって、それが「高き所」となっている事柄はないだろうか。反省してみなければなりません。

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列王記下 13章

2025年05月02日 | 列王紀
列王紀下13・21 その人はエリシャの骨に触れるとすぐ生きかえって立ちあがった。

北イスラエルはスリヤ(アラム)軍とのたび重なる戦渦を経て疲弊していました。その結果、ヨアシが父エホアハズから国を引き継いだ時点で、騎兵50人・戦車10両・歩兵1万人でした(13・7)こんな状態でどうやって国を守り建て上げて行くというのでしょうか。※この「ヨアシ」は北王国のヨアシ。アタリヤの殺害を免れて神殿でかくまわれた南ユダのヨアシとは別人

そんな時にヨアシ王は、預言者エリシャを訪問しました。この時のエリシャは年老いて死の病気を患っていました。しかし、エリシャの言動は何と力強いことでしょう。

病気でふせってはいるものの、王に向かって「矢を射れ」と命じ、それは主の救いの矢だ。スリヤ(アラム)軍を打ち破る矢だと、なおも勝利の預言を与えるのです。外なる人は衰えても、内なる人は日毎に新しくされて行くと言われた御言のごとき姿です

北イスラエル王国は衰えていました。そのため、ヨアシ王の心も衰えていました。しかし、エリシャの外なる肉体は、王国のように衰えたものの、内なる人は日々新たに力強くありました。

真の神に目を向けて歩みつづけたエリシャと、偶像の神に翻弄されつづけたヨアシとは対照的です。

さあ、私たちは何に目を注ぎますか。やがて朽ちる外側の現象に目を向けるなら、私たちは落胆するしかありません。しかし、私たちは目に見えない神に目を注ぎます。その積み重ねがこのような結果になって現れます。

こうしてエリシャは死んで墓に葬られました。当時の墓は横穴式で、火葬せずにそのまま遺体を葬りました。ですから、エリシャの遺体は朽ち、骨はそのまま墓にあったわけです。

やがて、別の人が同じ墓に葬られました。すると、その人がエリシャの骨に触れると、生き返って立ち上がったと記されています。肉体は朽ちても、なおも働き続けるエリシャの霊的な力を現しています。

私の肉体が朽ちても、私の残した生き様は、弱っている人々に勇気を与えることができるだろうか。私の死後も、私の書き残した文書は、人々の霊魂にいのちを与えることができるだろうか。

そんなことを瞑想しながら、今日の御言を受けました。外なる人は朽ちても、人を生かす何かを残す人生でありたい。そうなるためにも、主よ、どうか、私の霊的生活を豊かなものにしてください。


列王記下 11章

2025年04月30日 | 列王紀
列王紀下11・3 ヨアシは乳母と共に六年の間、主の宮に隠れていたが、その間アタリヤが国を治めた。

北イスラエルではエヒウ(エフー)が王となり政権をとるや、アハブ王家は滅亡したことを先の章では見ましたが、その時、南ユダのアハジヤ王は北イスラエルを訪問中であったため、戦渦に巻き込まれて戦死しました。

南ユダの王アハジヤの死去という緊急事態に乗じて、王母アタリヤが実権を掌握し南を支配したのです。

彼女は、北イスラエルを腐敗させたあのイゼベルの娘です。北ではエヒウによってアハブ王家共々イゼベルも殺害されましたが、その娘アタリヤは南ユダで生きのびていました。北イスラエルを堕落させたイゼベルの働きは、次に南ユダ王国へと触手を伸ばしていたのです。

このアタリヤがまず着手したことは、アハジヤの子たち、すなわち王子たちの粛正(しゅくせい)です(11・1)

アハジヤの子はアタリヤからすれば孫にあたりますが、容赦なく殺害した意図は何だったのでしょうか。ひとつは、エヒウによるイゼベルおよびバアル礼拝者殺害への報復だと思われます。しかし、もっと大きな理由は、彼女の背後にあって働くサタンの存在です。

ここで整理しておきましょう。

神は、ダビデ契約によって、ダビデの子孫からひとりの王を生まれさせ、彼が支配する王国は永遠につづくのだと約束されました(サムエル下7・12)。その約束は、単に、ユダ王国が子々孫々繁栄するといった程度の意味ではありません。

神が、ダビデ王家の子孫からキリスト(油を注がれた者)を生まれさせ、そのお方によって神の御国が完成すること。その御国が実現するとき、悪魔は滅ぼされることを意味しています。

このダビデの子孫とはイエス・キリストのことです。

イエス様はダビデ王家の子孫としてこの世に来られました。イエス様の宣教の第一声は、「神の御国は近づいた」でした。そして、悪霊(あくれい)を追い出し、悪魔とその働きを追放なさいました。悪霊を追い出している事実は、神の御国がここに来ている証拠だとも言われました(ルカ11・20)

そして、ついに十字架の死と復活によって、悪魔の最大の武器である罪と死を滅ぼしてしまわれました。

そのようなキリストが、ダビデ王家から誕生するというのが神の約束ですから、悪魔にとって、ダビデ王家の滅亡は最優先課題となるわけです。

このキリスト誕生預言は、創世記の時から語られてきました。エデンの園でアダムとイブが罪を犯したとき、主なる神はヘビ(悪魔)に向って、女の子孫がお前を頭を砕くと預言されました(創3・15)。この「女の子孫」とはイエス・キリストのことです。事実、イエスは処女マリヤからお生まれになりました。

また、神はアブラハムに対しても、あなたの子孫は敵(悪魔)の門を打ち破り、地のすべての国民は、あなたの子孫によって祝福を得ると約束されました(創22・17~18)。この「アブラハムの子孫」もイエス・キリストのことです。

キリストは「女の子孫」から生まれる。それは、アブラハムの子孫であり、さらに絞り込んで、ダビデ王家の子孫である……と預言されてきたわけです。

ユダヤ民族の歴史は、迫害の中を生き抜いてきた歴史です。なぜ、彼らはかくも迫害を受けるのでしょうか。その背後には、ユダヤ民族を絶やすことによってキリスト誕生を阻止しようとする悪魔の働きが潜んでいるからです。

エジプトに寄留していたとき、エジプトの王パロはイスラエル人に生まれる男児を殺害しました。また、イエスが誕生された時も、ヘロデ王はベツレヘム一帯の幼子を殺害しました。前後しますが、今回のアタリヤの迫害もその流れで読み解くべき事件です。

悪魔(サタン)にとって最も都合の悪いことは何でしょうか。それはキリストの来臨です。それを阻止するための事件が旧約の歴史には数多く記録されているわけです。

しかし、それにもかかわらず、第1回目のキリスト来臨を、悪魔は阻止できず、遂にイエス・キリストは来られました。そして、今や第2回目の来臨(再臨)を阻止しようとして悪魔は働いています。

第1回目の来臨の時、ユダヤ人はイエスを受け入れませんでしたが、第2回目の来臨の場合は、ユダヤ人が再び約束の地に集結し、イエスを信じて迎える準備ができた時に来られるというのが神の約束です。

だから、悪魔にとって、キリストの第2回目の来臨を阻止するための決定打は、ユダヤ人を滅ぼしてしまうことです。その働きは、新約の時代の2千年間途切れることなく続いています。反ユダヤ主義思想は、このような歴史的背景にあります。

この視点でユダヤ人の歴史を見る時、ユダヤ人迫害の背後に悪魔の支配があることがお分かりいただけると思います。残念なことに、キリスト教会もこの悪魔の策略に惑わされて、ユダヤ人迫害に加担しました。キリスト教会の汚点であり罪です。

さて、話題を戻しましょう。王母アタリヤは、王家を滅ぼすために王子たちを次々に殺害して行きました。しかし、ダビデ王家存亡の危機に際して、神の御手は力強く働いています。

アハジヤの姉妹であるエホシバは、アハジヤの子ヨアシを、殺されようとしている王の子たちのうちから盗み取り、彼とその乳母とを寝室に入れて、アタリヤに隠したので、彼はついに殺されなかったのです(列王下11・2)

何と、幼児ヨアシだけは叔母の勇気ある行動によって助け出され、神殿の中にかくまわれ、6年後に、ヨアシは王として立ち上がったのです。

クーデターの時に助かる方法は、一般的には国外亡命が定石(じょうせき)です。しかし、エルサレムの神殿の中です。いのちをねらっているアタリヤに最も近い場所で、6年間もかくまわれたのは意義深いことです。

アタリヤはバアル礼拝者ですから、主の神殿に参拝しません。偶像礼拝者は、真の神殿には近づきたくもありませんから、どんな危機のただ中にあっても、神殿の中は安全だったのです。

私たちも悪魔の激しい攻撃を受けるかも知れません。しかし、神はヨアシを神殿の中で匿(かくま)われたように、私たちをイエスの中で匿ってくださいます。イエスの中にまで、悪魔は入ってくることができません。

イエスも言われました。「わたしの中にとどまっていなさい」と。そうです。イエスを信じるとは、イエスの中にとどまることです。イエスの御言の中にとどまることです。イエスの愛の中にとどまることです。

列王記下 12章

2025年04月30日 | 列王紀
列王紀下12・2 ヨアシは一生の間、主の目にかなう事をおこなった。祭司エホヤダが彼を教えたからである。

南ユダ王国はアタリヤの圧政から解放され、ヨアシ王によって治安を回復しました。ヨアシ王は「主の目にかなう事を行った王」として記録されています。そのような王であり得た要因は何だったのでしょうか。

祖母であるアタリヤのクーデターの中、主の力強い御手によって間一髪の差で助け出されたヨアシ王は、幼い頃に神殿の中で匿(かくま)われたことは、すでに見たとおりです。

神殿の中で生きるとは何と幸いなことでしょうか。神殿の中では、神のきよさや恵みが満ちています。そのような神殿 ――新約においてはキリストの体の中―― に身をおいていきる人生は幸いです。

酸素カプセルなる物があることをご存知でしょうか。スッポリ体全体をこのカプセルの中でおおわれて、普通の空気より濃い酸素を受けることによって、疲労回復やリラクゼーションをもたらすのだそうです。酸素カプセルを活用するプロアスリートや病院もあると聞きます。

私たちは、時にはキリストから遠のいてしまうような環境におかれることがあります。世俗の発想や価値観にドップリ漬かってしまい、神の御言の濃度が限りなく薄い環境におかれることがあります。いいえ、むしろそれが日常です。

だからこそ、神殿の中で匿(かくま)われる必要があります。酸素カプセルの中に入るようにして、キリストの中で、高濃度の御言に浸る時間をもつことが大切です。そんな時間をぜひ確保してください。

ヨアシはそのような幼少期を過ごしたのです。だから、彼のそばにはいつも御言がありました。そして、御言を教えてくれる祭司エホヤダがいつも付き添っていました。

ヨアシが良い王として立つことのできた理由を、祭司エホヤダが彼を教えたからであると聖書は記しています。聖書に精進するエホヤダをとおして、ヨアシは薫陶を受け、神の御言を人生の土台として据えることができたのです。

御言に養われるとき、私たちは主の道をしっかりと歩むことができます。「すべての道で主を認めよ。そうすれば主はその道をまっすぐにされる」と約束されている通りです。