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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨブ記 42章

2019年06月06日 | ヨブ記
ヨブ記42:2 私は知ります。あなたはすべてのことをなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。
 
神がヨブにお答えになった内容は、神が全知全能なるお方であることの啓示でした。これではヨブの疑問に答えたことにはなりません。なぜ、自分はこのような苦難を受けるのか……その理由が知りたい。これはヨブのみならず、苦難の中にある人々が問いたいところです。
 
しかし、神は直接的な答えを語られません
 
私たちが期待するところは、「実はね、天では『お前の信仰深さは神が豊かに富ませているからだ』という疑いがあってね……」などといった〝たねあかし〟をしてもらえると、「あぁそうだったんですか」と納得できるのですが、神はそれを伏せたままになさっています
 
たねあかしの〝たね〟の部分は、神の深い知恵とご計画に満ちています。この領域は新約の光で照らされることで、ようやく明らかにされてきました。ヨブがおぼろげに感じた「弁護者」の存在であるキリストのことです。
 
しかし、そのキリストの十字架の姿でさえ、世の人々の賢さでは理解できないようになさいました(Ⅰコリント1:18-21)。ましてや、ヨブの時代は旧約の光で照らされている程度です。神がたねあかしをなさったところで、それを理解できる者が果たしているでしょうか。
 
むしろ、神は、創造者としての圧倒的な存在と力をもって、被造者である人間に「謙遜と従順を知れ」と迫っておられるのです。ヨブは懇切丁寧な説明は受けませんでしたが、神の圧倒的な存在の前に屈服することを学びました
 
それが冒頭にあげた聖句です。「あなたには全てができること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました」。(新改訳)
 
もちろん、ヨブのような苦難はできるものなら受けたくありません。でも、受けるかも知れません。なぜなら、私たちはキリストに似た者として創造されているからです。キリストと栄光を共にするために、苦難をも共にすることがあるからです(ローマ8:17)
 
しかし、そのような中でも神は「良くしてくださらないことがあろうか」と信じるのです(マタイ6:30)。神は私たちの本当の父ですから、私たちに「良いものをくださらないことがあろうか」と信頼するのです(マタイ7:11)
 
神は、そのような信仰者を求めておられるのです。一緒に苦労できる同労者を求めておられます。最後まで信頼してくれる、神の子どもたちを求めておられます。
 
いみじくも、はじめの頃のヨブは告白したのです。「主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな」と(ヨブ1:20)。この信仰を貫けば良かったのです。しかし、友人たちとの人間的な知恵や言葉の応酬の中で、いつの間にか「神の経綸を暗くした」のでした(ヨブ38:2・新共同訳)
 
さて、ヨブはこの後に繁栄を回復しました。以前の所有の二倍を与えられました(ヨブ42:10)。しかし、注意深く解釈すべきです。旧約では地上的な繁栄、物質的な繁栄をもって神の祝福が表現されています。
 
これを新約の時代に適用して、苦難を受けても回復しない人に、まだ悔い改めが足りないからだと非難したり、さばいてはなりません。ヨブに見せられた繁栄の回復は、最終的に与えられる天での栄光の姿を預言しているからです。
 
そして、天において、影も闇もない本物の光のもとで、地上生涯のあれこれの〝たねあかし〟がなされるに違いありません。私たちの知るところはまだ一部ですが、天で完全に知ることとなるはずです(Ⅰコリント13:12)
 
その時まで、私たちは、いかなる道でも神への信頼を保とう。神への謙遜と従順を学ぼう。そして、ヨブ記を思い出し「ヨブの忍耐」を学ぶことにしよう(ヤコブ5:10-11)。(Ω)

ヨブ記 41章

2019年06月05日 | ヨブ記
ヨブ記41:1 あなたは釣り針で、レビヤタンを釣り上げることができるか。 ※新共同訳は40章25節
 
全知全能の神は、ご自身の〝〟の領域についても語られました。ヨブに対しては「あなたはできるのか」と、その能力について問うておられるわけです。
 
具体的には「ふたつの獣」をあなたは制御できるかと言われます。ひとつは「ベヘモット」です。40章15節から「ベヘモット」という陸上に棲息する巨大怪獣を御(ぎょ)することができるのかと問うておられます。
 
口語訳も新改訳も「河馬(かば)」と翻訳していますが、今日私たちが知っている河馬ではありません。その尾は杉の木のように垂れていて、肋骨は鉄の棒のようだと言われています(40:17-18)。まるで巨大な草食恐竜のような出で立ちです。ですから河馬ではなくベヘモットと呼ぶべきでしょう。
 
ヨブよ。そして人間よ。こんなベヘモットを捕獲してその鼻をとらえることができるか。それがおできになるのは、創造主である神だけであると語られました(40:24)
 
もうひとつは、海に棲息する巨大怪獣の「レビヤタン」についてです。口語訳は「わに」と翻訳していますが、その程度の獣ではありません。13~17節はワニの屈強な表皮を連想させますが、41章全体で述べられているのは、人間には御することのできない恐ろしい海獣で(41:20-34)
 
レビヤタンは詩篇74章14節、同104章26節、イザヤ書27章1節にも言及されていてサタンの象徴として描かれています。そして、そのサタンはダニエル書およびヨハネの黙示録では「」として描かれています。
 
ベヘモットもそうですがレビヤタンも、これら巨大な獣を人間は御(ぎょ)することができないように、人は、獣である悪魔(サタン)を支配することができません。それがおできになるのは神である主だけです。
 
神に敵対するサタン(悪魔)の働きは世の不条理の原因です。ヨブ記で語られてきたように、善人でありながら苦難を受け、悪人であるのに繁栄するのはサタンの働きです。神の義をゆがめ、人々をして「神がいるならどうして……」と神への不信感を植えつけるのです。
 
しかし、神はこの獣を支配されます。そればかりか、神はそれを捕らえ、さばき、滅ぼす力をお持ちです。必ずそうなさいます。ただ、ヨブにはその全容が明らかにされていません。は、御力に満ちた神を信頼し、そのお方を礼拝するのみす。(Ω)

ヨブ記 40章

2019年06月04日 | ヨブ記
ヨブ記40:8 あなたはわたしの裁きを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。(新改訳)
 
ヨブは主の御声を聞いて、自分の知識がいかに浅はかなものであるかを知って恥じ入ったのです。この程度の知識で神を知っていると思い上がっていた自分の姿が、神の御前にいかに小さく弱く見えたことでしょう。
 
だからヨブは告白しました。「見よ、私はまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口にあてるのみです(40:4)
 
人間同志の世界で正しいと思えても、それは人と比較して正しいだけです。清いといっても人との比較で清く感じるだけです。しかし、神の圧倒的な正しさや清さを前にして、人はひれ伏すしかありません。
 
「沖へこぎ出して網をおろしてみよ」とのイエスの命令に対して、漁師としての自負があったペテロは、半信半疑で網をおろしてみました。ところが大漁であったことで、ペテロはイエスの前にひれ伏しました。聖なるお方の前に、自分の卑しさを痛感したからです。ヨブの体験もペテロのそれと似ています。
 
そんな悔い改めをするヨブに対して、主は更に厳しく追及なさいました。それが冒頭の聖句です。人間の比較の中で「正しい」とか「間違っている」という判断は、神のさばきを無効にしてしまいます。
 
被造者(創られた側)としての立場は、神が絶対的な義であることを認めることが基本です。このお方にこそ本当の義があります。神の義の前には、人間ごときの正しさは「ただ手を口にあてるのみ」です。
 
では、人間は不義の存在として滅びるしかないのでしょうか。いいえ、絶対的な義である神が、私たちを「信仰のゆえに義と認めてくださる」のです。これこそ確実な正しさです。それを無視して、人間同志の比較で正しいか否かを論じることは、「神のさばきを無効にする」ことです。
 
神のさばきを信頼しよう。神のさばきの前には、私たちは絶望しかなく恐れおののくばかりです。でも、感謝すべきは、その神のさばきと御怒りは、すべて十字架の御子イエスの上に注がれました私はイエスの中ですでにこのさばきを受けました。そして、このさばきを受けた者は、もはや神の義と認められます。これを無効にする者はだれもいません。(Ω)

ヨブ記 39章

2019年06月03日 | ヨブ記
ヨブ記39:9 野牛は快くあなたに仕え、あなたの飼い葉桶のかたわらにとどまるだろうか。
 
 
先の38章では、主が〝嵐の中〟から語りかけられることについて考察しましたが、以後の本文にはふれませんでした。内容としては39章と同じで、神は天然界を支配される偉大なお方であることの啓示です。
 
神は「全知全能」のお方です。38~39章ではそのうちの〝〟の要素が取り上げられていて、「あなたは知っているか」と何度も問うておられます。次の40~41章は全知全能の〝能〟の要素が取り上げられて、「あなたはしたことがあるか」「あなたはできるか」と問うておられます。
 
神の全知全能の偉大さの前に、ヨブよ、そして人よ、謙遜になりなさいと語りかけておられます。
 
38章では、神が万物の創造者であり、そしてその創造の経緯をあなたは知っているのかと問います(4-7)。8節以降は、海と陸の境を決められたのは神である。16節からは、海の奥底までも神は御存知で、その更に奥底の「死の門」をあなたは知っているのかと。
 
「死の門」をくぐればその先は陰府(よみ)です。死者の行くところです。人は、人が死んでどうなるのかを知りません。でも、神は陰府をも創造された方ですから御存知です。そして、神の御子イエスは十字架に死んで陰府に降り、「死の門」を打ち壊して復活なさるのです。このようなことは神が知っておられる領域であり、神の知恵がなければだれも分かりません。
 
以後、光と闇の区別、雨や雪や氷の神秘、さらに天体の神秘にまで話題は及びます。
 
そして39章に入って、動物たちの生態の神秘へと話題が進みます。特に、冒頭に掲げた聖句は興味深いところです。野牛は人間になつかないと指摘しています(39:9-12)。かたや牛は家畜として人に従い谷間を耕すことができます。このようにしたのは神の知恵です。
 
神は動物を創造なさるときに「家畜」と「」を区別なさっています(創世記1:25)。人間に従う動物は家畜として、人間になつかない動物は獣として創造されました。野牛は見た目も牛ですが、家畜にはなりません。シマウマも馬とは違います。オオカミも犬とや違います。ヤマネコもネコとは違います。
 
やがて、神がそのように創造なさった意図が明らかになります。神に従わない人間のことを、聖書では〝〟と呼ぶようになります。そして、その獣が終わりの時代に神と戦い滅ぼされる様子が黙示録に啓示されています。
 
かたや家畜の代表的存在である羊は、神の御子イエスを象徴しています。イエスこそ神の小羊として描かれ、神への全き従順をなさったお方です。
 
こんな区別が神の知恵として隠されています。神は、御子イエスを通してご自身の知恵を啓示しようと計画なさっています。なのに、ヨブをはじめその友人たちの議論は、人間の浅はかな会話に過ぎません。だから、神は言われるのです。
 
「無知の言葉をもって、神のはかりごとを暗くするこの者はだれか」と(38:2)
 
キリストを抜きにして、人はなんのために生きるのかとか、なぜ苦難があるのかとか、苦難にあわないためにはどうしたら良いかとか、そんな議論は、「知識もなく言葉を重ねて、神の経綸を暗くする」のです(新共同訳)
 
さあ、キリストを知ろう。キリストを受け入れよう。深遠なる神の経綸も知恵もこのお方の中で知ることになるからです。(Ω)

ヨブ記 38章

2019年06月01日 | ヨブ記
ヨブ記38:1 主は嵐の中からヨブに答えておおせられた。(新改訳)
 
長い沈黙を破って主はヨブ答えられました。その御声は〝嵐の中から〟でした。嵐の中からの語りかけは2回あります(40:6)。なぜ、主は嵐の中から語りかけられたのでしょうか。 ※口語訳は「つむじ風の中から」。
 
人は嵐の中で立ちすくみます。自分の弱さや小さなことを痛感します。それまで、人は自分で何でもやれると思い上がっていますが、嵐の中ではじめて自分の弱さに気づき、自分の小さいことに目覚めるのです。
 
言いかえれば、人は嵐と出会うことによって本当に自分と出会うのです。本当の自分に気づくのです。
 
イエス様の例え話の中でも、砂の上に建てた家は、洪水が押し寄せてきて初めて、それがもろい土台の上に建てられた家であることが分かると言われました。それまでは、自分は立派な家を建てていると自負しています。
 
かつてのヨブも、自分は信仰深いし、行いも正しいし、申し分のない人生を建て上げてきたと思っていたでしょう。そんな彼ですから、今回の苦難の中で、なおも自分は潔白だと言い張り、神のなさっていることは不当だと訴えています。
 
そんなヨブに、おのれの小さきことを悟らせるかのように、主は嵐の中から語られたのではないだろうか。
 
現在の私たちも同じことが言えるかもしれません。人生の嵐ともいえる時、それは嵐をも支配なさる神との出会いであり、嵐の前に無力な本来の自分との出会いが用意されているのではないだろうか。
 
38章からの主からの語りかけは、まさに、ヨブがいかに小さな者であるかを思い知らせることになります。そして、嵐の中から語られる主の御前に、へりくだってひれ伏すことになるのです。(Ω)