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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

テサロニケ人への第二の手紙3章

2020年09月18日 | テサロニケ書
Ⅱテサロニケ3:1 最後に、兄弟たちよ。私たちのために祈ってほしい。どうか主の言葉が、あなた方の所と同じように、ここでも早く広まり、また、あがめられるように。

この手紙が記された当時も、そして今も、聖書的にいうなら「終わりの時代」です。主イエスの初臨から再臨にいたる期間は「終わりの時代」です。
 
主イエスの再臨に備えて福音を伝えます。これが、福音を知った者に与えられた使命であり責任です。パウロは、そのために祈ってくれと要請しました。
 
生活上の必要もあったことでしょうが、パウロが要請したのは「主の言葉が……ここでも早く広まり、あがめられるように」という課題でした。福音のために生きるパウロの潔さに教えられます。

福音を聞いて信じるか否かは、聞いた人にゆだねられています。

信じてくれなかったとしても、それ自体は残念なことですが、伝えた人が信仰深くなかったからではありません。私たちがなすべきことは、福音を伝えることです。

福音を伝える時に大切なことは、私たち自身が、神からの生きた手紙だということです。神は、私たちの心に御言を書き記してくださって、私たちを手紙のように人々に届けられます。

ある人は、それを読まずに破いてしまうかも知れません。それでも、神は手紙を書き続けられます。主よ、私をそのような手紙として用いてください。

さて、主イエスの再臨が近いことを知って、生活が落ち着かなくなる人がいます。テサロニケの教会にもいたようです。手紙にはこう記されています。

ところが、あなた方の中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています3:11 新改訳)。「締まりのない」とは、口語訳では「怠惰なと訳されています。原意は「無秩序な」とか「無計画なという意味です。

再臨を待ち望むという点では熱心なようでも、生活面では「締まりのない」「怠惰で」「無計画な」信仰生活になってはいけません。それは、再臨に対して間違った対応です。

第一は、主イエスが来られたら何もかも終わるんだから、仕事なんかしていられないと考えます。 
そこで、仕事もやめてしまい、蓄財を消費しながら再臨を待ち望みました。しかし、やがて蓄えも底をつき、兄姉からのほどこしを受けて生活する羽目になったようです。


第二は、再臨はすぐ来るのだから、福音を伝えることを最優先すべきであって、生活費をかせぐ仕事は二の次だ。 仕事は俗的なことだと、仕事を軽視します。

前者の場合は、再臨を言い訳にして、仕事をしない怠け心を正当化しているように思います。また、後者の場合は、福音にかかわる働きはきよくて立派だが、パンを得るための仕事は俗的だとしてさげすむ心があります。いずれもゆがんだ考えです。

この世の仕事は大切です。自らの手で仕事をしてパンを得るようにしなさいと聖書は勧めています。パウロもそうしました。いつ主が来られても良いように、落ち着いた生活をしなさいと。

神が天地を創造なさったとき、神は人に「地を治めよ」と命じられました。地を治めるとはしっかりと仕事をしなさいという意味です。この地を正しく管理することも、私たちの大切な使命です。

私たちの生活のすべてが神からの手紙です。その手紙の内容を、自分で勝手に書きかえてはいけません。神の書かれた内容が、私の生活の中であらわされますようにと、主にあって祈ります。
 
テサロニケ人へ第一の手紙でも、パウロが福音を伝えたとき、「言葉」と「聖霊」と「ふるまい」によったことを見ました(第一テサ1:5)。主イエスの再臨を待ち望みつつ、その生き様を通して、主の御言を広げよう。そのために祈って欲しい。(Ω)

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テサロニケ人への第二の手紙2章

2020年09月17日 | テサロニケ書
Ⅱテサロニケ2:8 その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。

イエス・キリストの再臨の前兆について、イエスご自身が次のように語られました。

①自分がキリストだという者が現れて人々をまどわす。②戦争が激しくなる。③民族や国同士の争いが激しくなる。④飢饉・地震などの天変地異が多くなる。⑤不道徳がはびこり、人々の愛が冷える。(マタイ24:4-13)

今の時代と非常に似ています。テサロニケ教会への手紙では、その前兆について、さらに次のように記しています。

(1) 再臨があったというデマが流れる。(2:2-3)

「私は再来のキリストだ」とは「某年某月に世界は滅びる」などと言って混乱させている宗教団体がいくつもあります。キリスト教を名のっていますが、慌てたり騙されたりしてはなりません。
 
再臨の日時は天の父がご自身の権威をもって定めておられます(使徒1:7)。また、イエスご自身も「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」と語られています(マタイ24:36)。

(2) 背教する者たちが続出する。
(2:3)


信仰を捨ててしまう人が増えてきます。終わりの時代は、適当に、何となく信じて行けるような状況ではなくなります。信じるのか、信じないのかはっきりする時代が来ます。
 
ですから、あいまいな信じ方をしていると、道ばたにまかれた種を鳥がついばんで行くように、その信仰をサタンが奪って行きます。

(3)「不法の者」が現れる。(2:8)

これはある特定の人物のことです。主の再臨の直前に登場する人物です。ヨハネ黙示録とヨハネ書簡では、この人物のことを反キリストとかと呼んでいます。

神は人となってご自身を世に現わされ、神の愛を啓示なさいました。それと同じように、終わりの時代に、サタンは、この「不法の者」と呼ばれる人物によって、自分の邪悪な姿と働きを現すようになります。

とはいえ、彼はとても有能な人物で、世の人々は彼を世界的なリーダとして賞賛し歓迎するでしょう。

やがて、彼は自分を神だと宣言し神の宮に座すると聖書は予告しています(2:4)。まるでローマ帝国を支配した皇帝カイザルのようです。カイザルも自分を神だと宣言し、民に礼拝を要求しました。

不法の者は、そんなカイザルをはるかに超えた人物でしょう。霊的に目覚めたクリスチャン以外は、彼が反キリスト(不法の人)であると見抜くことはできないほど、カリスマ的で政治手腕にすぐれた人物です。

彼は人々の心をつかみ、自分を神とすることによって、真の神に敵対するようになります。そして、ユダヤ人やクリスチャンに対して激しい迫害を始めます。こうして、悪魔的な力が完全に現れる時代が来ます。

このように、終わりの時は、罪と悪に満ちた時代がやって来ます。この時代に、神の最終的なさばきと激しい御怒りが臨みます。これが「大患難」と呼ばれる時代です。

前回に学んだ「携挙(けいきょ)」が、この大患難の直前に起こると私は信じますが、携挙されなかった人々は、この大患難を通過しなければならないわけです。

しかし、再臨のキリストは、不法の者とその背後で支配してきたサタン、それに従った者たちを滅ぼしに来られます。主は、この不法の者を、口の息をもって殺し、来臨の輝きで滅ぼしてしまわれます。(2:8)

武力や腕力で滅ぼすのではなく、口の息と輝きで滅ぼすのです。「息」とは「霊」のことです。御言とも解釈できます。イエスの御言は信じる者には救いの霊であり、信じない者には滅ぼす霊です。

「輝き」は主イエスの栄光の輝きです。闇の世の主権者に対しては、神の栄光が最大の武器です。光が来れば闇は滅びます。

主イエスが来られるまで、私たちクリスチャンは「光の子」として世に派遣されています。私たちが罪に勝利して、神の栄光で輝く生活は、サタンに対して最も効果的な戦い方です。

「悪に負けてはならない。かえって善をもって悪に勝ちなさい」という命令は、そのことを意味しています(ローマ12:21)。

私たちが聖なる生き様を世に現すことで、私たちは主の再臨までの間、サタンとの前哨戦(ぜんしょうせん)を戦っているのです。ですから、目をさまして祈ってください。主は近いのです。

主の再臨の直前には、「反キリストが神殿に立つ」とか「エルサレムを包囲してユダヤ人を迫害する」などの前兆を、聖書は預言していますが、これらは皆、ユダヤ人たちがエルサレムに帰還していなければ成り立たない事柄です。

ところが、今や、ユダヤ人たちは約束の地にもどり、国を復興させています。彼らはやがて神殿建築に取りかかるでしょう。聖書の預言が成就する舞台は整いつつあります。
 
しかし、まだ「不法の人」の登場を引き留めているものがあります。彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがあると記されている通りです(Ⅰテサ2:6)。2千年後の今も引き留めています。
 
キリストの花嫁である教会の存在が、不法の人の登場を阻止していると考えられます。やがて教会が携挙されます。地上から取り去られて天に引き上げられます。こうして、引き留めていたものが地上からなくなると、不法の人とか反キリストと呼ばれる者が登場すると私は予測しています。
 
また、二義的な解釈ですが、不法の人を引き留めているものは民主主義という政治形態ではないかと考えています。「不法の人」とは、先ほど述べたようにカリスマ的な人物です。混乱した世界を統治するにふさわしいと思えるようなリーダーシップに富んだ人物です。
 
やがて民主主義という政治形態に失望する時代が来るでしょう。混乱した時代になればなるほど、多数決では対応できない時代になると、人々は誰かに権力を委任し決定力のある政治を期待するようになるでしょう。
 
テロとか戦争、新型コロナなどの世界的疫病、巨大地震や地球規模の気候変動、グリーバル化した経済システムなどといった世界情勢は、民主主義では太刀打ちできない問題を提起しています。こうして、不法の人が登場する舞台装置は整いつつあります。

祈りましょう。終わりの時代、いかなる状況の中でも、最後まで信仰を全うすることができますように。希望の光を照らすことができるように私たちを用いてください。(Ω)

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テサロニケ人への第二の手紙1章

2020年09月16日 | テサロニケ書
Ⅱテサロニケ1:5 これは、あなた方を、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなた方も苦しんでいるのである。

初代教会は迫害による苦難の中を通りました。その苦難は、キリスト教がローマ帝国の国教となった時点で終わったのではなく、形をかえて今日にいたるまで続いています。 ※迫害については「朝マナ」第1テサロニケ3章も参照。

そのような試練とか患難のことを、「あなた方を神の国にふさわしい者にしようとする神のさばき」と表現しています(1:5)。

聖書に記された「さばき」には、二通りがあります。

第一は、サタンに対するさばきです。 罪を処罰して滅ぼしてしまうためのさばきです。罪を悔い改めず、神に反逆する人々にも、このさばきは臨みます。

第二は、信者に対するさばきです。 この場合は、滅ぼすためのさばきではなく、きよめるためのさばきです。冒頭の聖句で述べられている神のさばきは、きよめるという意味が込められています。

神は聖なるお方ですから罪や悪をお受けになりません。食事の時、手を洗い、食材も食器を洗ってきれいにしていただくように、神は私たちを天に迎えるために、私たちをきよめられます。

実は、すでに神は、私たちの罪をきよめるために、御子イエスを十字架につけて血を流されました。罪の代価である血が流されたのです。

私たちは、このイエス様の血を受けてすでにきよめられた者です。イエスの血によって義とされた……という表現も同じことです。ですからイエスを信じた私たちを聖なる者だと、神は見なしてくださいます。キリストの御言を受けてすでにきよいのです(ヨハネ15:3)。

でも、クリスチャンのどこが聖なる者か……と疑問を持つ人もいるでしょう。周囲の未信者からそういわれたり、自分が自分を見てもそう思うこともあります。

それは、私のはきよめられましたが、私の考え」とか「の領域は、昔のままを引きずっているからです。考える部分……「心」とか「魂」と呼ばれる領域……は、いまだに神に反する思いが出てくるし、憎しみや怒りも日常茶飯事です。

人には、「霊」と「心」と「体」の領域があります。先のテサロニケ人への第二の手紙5章23節の祝福の祈りでは、あなたがたの霊と心と体とを完全に守って……とありました。
 
イエスを信じた時点で、神は私たちの「霊」をきよめられました。「霊」は人の本質ですから、霊がきよめられたなら、その人は基本的にはきよいのです。だから「義なる者」「聖なる者」と呼ばれます。

きよめには順番があって、次に)」と呼ばれる領域のきよめです。ここは「考え」の領域です。この魂(心)には、イエスを信じる以前に養った考え方が、たくさん刷り込まれています。

ですから、救われたはずのクリスチャンでも、邪悪な思いが湧いてきます。そんな心の醜さを感じて、救いを疑う人もいます。それでも、神は、あなたを聖なる者だと見てくださっています。

そこで、神は、私たちの魂をきよめるために、試練や苦難を用いられます。このことを今日の聖句は、「あなた方を神の国にふさわしい者にしようとする神のさばき」と表現しているわけです。

イエスを信じたら、困難や問題がなくなって、平穏無事な人生を過ごすことができるなどと、聖書は約束していません。そうではなく、神はあなたを子として愛しておられるので、様々な試練を通してあなたを〝神の国にふさわしい者にしよう〟と訓練なさいます。主の祈りでも「御国が来ますように」と祈りますが、それは同時に、御国の国民である私たちもその国にふさわしいものになることを祈っているわけです。

試練の最中にある時はつらいです。いやです。楽しくありません。逃げ出したいです。でも、これは、私が神の国にふさわしい者になるための道です。十字架を負って従うとは、こういうことです。

でも、試練の最中にあっても、神の愛が途絶えたわけではありません。十字架の死の経験は、必ず栄光の復活につながっていることを忘れないでください。

日々負う十字架によって、邪悪な心が死んで、キリストにある新しいきよい心が復活します。こうして、心(魂)の領域がきよめられて行きます。そのために試練を通過します。

しかし、このつらい経験も必ず報われる時が来ます。そのことについて、聖書はこう記しています。

苦しめられているあなた方には、私たちと共に、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。1:7)

主イエスの再臨の時、私たちに用意されているのは完全な安息です。ですから、今の試練や苦難でめげないでください。不当な仕打ちがあってもくさらないでください。

いのちの無いものはくさります。キリストのいのちを持っている人は、どんな苦難の中でも、くさらない人です。私たちは、神の子としての永遠のいのちを持っている者です。(Ω)

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テサロニケ人へ第一の手紙5章

2020年09月15日 | テサロニケ書
Ⅰテサロニケ5:9 神は、私たちを怒りにあわせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。

なぜイエス様は十字架で死なれたのでしょうか。

もちろん「人間を罪と死から救うため」です。では、何故、罪をおかすような環境に人間をおかれたのですか。つまり、悪魔が存在するこの世にアダムとイブをおかれたのでしょうか。始めから天に置いてくだされば良かったのにと思うのです。

「人の救いのため」という視点……即ち人間中心の神学では読み解くことのできないテーマです。

別の視点が必要です。イエス様が来られたのはサタン悪魔滅ぼすためです。それを裏付けるように、聖書は「神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼすためである」と言っています(Ⅰヨハネ3:8)。

また、イエスはご自分の十字架の死について、「今はこの世がさばかれる時である。今こそ、この世の君は追い出される」と言われました(ヨハネ12:31)

イエスが来られたのは、この世の君をさばくためです。

「この世の君」とは、「この世を支配する者」とも訳されており、サタン(悪魔)のことです。イエス様が来られた目的は、サタンをさばいて、滅ぼすためです。

人間社会でも、罪をおかした者をさばき、そのさばきに基づいて刑を執行します。そうしなければ社会の秩序を保つことができません。天においても同じです。天で罪をおかしたサタンに対しても、神は彼をさばき、刑罰を執行なさるのです。

サタンは、もとは天で神に仕えていた御使(天使)でしたが、天で罪をおかしました。自分も神のようになろうとしたのです。そこで、神はサタンとその仲間の天使たちを下界に閉じこめてしまわれました。

「神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。」(Ⅱペテロ2:4・口語訳)

この「下界」は、新改訳で「地獄」と訳されていますが、ふさわしい訳ではありません。なぜなら、サタンはまだ地獄に入っていないからです。地獄に入るのは、イエス再臨の後のことです(黙示録20:10)。 ※「下界」と訳されたギリシャ語は「タルタローサス」。「地獄と訳される「ゲヘナ」とは区別される語句である。

下界とは私たちの住む世界のことです。彼らを閉じ込めた世界は「暗闇の穴」と表現されていますが、まさに、宇宙は、天から見れば「下界」であり「暗闇の穴」のようなところです。

そこにサタンとその仲間である堕落した御使たちは、さばきの時まで閉じ込めたというわけです。一般社会でも、犯罪者は留置され、裁判を経て刑を確定しその刑罰を執行するわけですが、天で罪を犯したサタンも同じ経緯をたどります。

初臨のイエスは、十字架の死と復活によってサタンをさばきました。なぜ十字架の死と復活がサタンへのさばきになるのか……詳しい説明は別の機会にゆずることにします。

そして、再臨のイエスは、サタンを地獄(ゲヘナ)に投げ込むために……つまり、刑罰の執行のために来られます。この一連の出来事をまとめて「さばき」と表現しています。

このさばきのために、イエス様は来られたのです。

ですから、さばきと死の刑罰とは、本来、罪をおかした御使たちのため……つまり、サタンとその仲間のために用意されたものであって、人間のために用意されたものではありません。

神はご自分に似せて創造なさった人間をこよなく愛しておられます

ところが、神を誤解する人がいます。神は、人間を肉体という弱さをもつ存在に創造しておいて、その弱さゆえに罪を犯したら地獄に投げ込もうと準備なさっている……と。そんな非情な神ではありません。

整理するとこうなります。

イエス様が来られたのは「悪魔をさばいて」「悪魔のわざを滅ぼすためである」(Ⅰヨハネ3:8)。これは悪魔(サタン)から見た立場です。

しかし、人間の立場からすれば、「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(ヨハネ3:17)

そして、今日の聖句は何と言っていますか。神は、私たちを御怒りにあわせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたのである」。

神はサタンをさばくために、御子イエスをお遣わしになりました。その御子が肉体をとって来られるために、神に似せて人間を創造なさいました。いわば、人間を道のようにしてイエスが来られました。

そして、来られてから後は、逆に、イエスは、私たちが天に行くための道となってくださいました。

このように、人間は神の同労者として造られたのであって、神は、人間に御怒りをくだそうと定められたのではありません。御怒りはサタンに対してくだります。そして人間には救いを用意なさっています。

サタンと一緒になって滅ぼされないために、サタンの支配から出てきなさいと、神は人々を呼び出しておられます。それは言いかえれば、罪と一緒になって神の御怒りを受けてしまわないために、悔い改めて神に立ち返りなさいという意味です。

このような呼びかけは、ノアの時代の大洪水の時もありました。罪に汚れたこの地をご覧になった神は、洪水によって滅ぼすことになさいました。しかし、ノアに箱船を建造させて、助かりたい者は誰でも箱船に入るように伝えました。

ノアの箱船と洪水事件は、世の終わりに臨まんとするさばきと刑罰の〝ひな型〟です。

どうぞ、誰でも助かりたい人は、イエスの中に入ってください。イエスという箱船に入った者は、だれでも、終わりの日の御怒りから救われます。
 
さて、この主イエスの再臨の時期と場合は父なる神の専権事項であって、私たちの知るところではありません。ただ私たちは、目をさましていることです(5:6)。
 
第5章の後半では、浮き足だったり、落ち着きのない生活をしないで、愛し合い励ましあう生活をするようにと勧められています。
 
互いに善を行う生活(15)、喜び祈り感謝する生活(16-18)、聖霊に信頼する生活(19)などが勧められています。それもこれも、主イエスが再び来られてるからです。全ての結論は再臨のイエスにあるからです。だから喜べます。だから感謝できます。
 
主の再臨を待ち望む人々に祝福がありますように。(Ω)

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テサロニケ人へ第一の手紙4章

2020年09月14日 | テサロニケ書
Ⅰテサロニケ4:16 主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり……

テサロニケ教会は迫害の中にあっただけに、手紙はキリストの再臨の希望に目を向けるようにと勧められています。

始めに整理しておきましょう。聖書は、旧約も新約もイエス・キリストについて記しています。
 
旧約聖書は、やがてキリストが来られることを予告しています。キリストを迎えるために、神はイスラエル(ユダヤ人)を選んで準備されました。その歴史が記されています。

新約聖書は、キリストが来られたことを証ししています。その方は十字架で死なれ、復活し、天の王座に着かれたイエスです。しかも、このイエスは再び来られて、救いを完成なさるのだと予告しています。

つまり、旧約ではキリストが来ると予告し、新約でもキリストがもう一度来ると予告しているわけです。そこで、最初に来られたのを初臨、二度目に来られることを再臨といいます。

初臨では、イエスは人類の罪のゆるしのために来られました。十字架の死と復活によって、人類の支払うべき罪の刑罰をみな支払ってくださいました。

イエスの十字架の死と復活は、人類にとっては救いとなりましたが、サタンにとっては裁きとなりました。

それまでサタンは罪と死の力によって、人類を支配してきましたが、イエスは十字架の死によって罪を滅ぼし、復活によって死の力を滅ぼしてしまわれました。

サタンに残されているのは、有罪とされたサタンに対する地獄行きの「刑罰の執行」です。

なぜ、神は、サタンをすぐに滅ぼされないのでしょうか。つまり、刑罰を速やかに執行されないのでしょうか。それは、サタンのもとで、罪と死の奴隷になっている人類を道連れにしないためです。

ですから、「御国の福音は、すべての民に対して証しをするために、全世界に宣べ伝えられ」「それから最後(再臨)が来る」ようになさいました(マルコ24:14)。

サタンを滅ぼす前に、救いの知らせを全人類に知らせる期間が必要です。今がその時代です。今が救いの日、恵みの時です。

イエスが再臨なさるのは、サタンに滅びの刑罰を執行するためです。また、その時、罪を悔い改めてイエスを信じなかった人々も、サタンと共に滅ぼしてしまわれます。

イエスの再臨は、サタンにとっては滅びが完成する日です。しかし、信じる者にとっては救いが完成する日です。サタンは終わりの時が近いのを知って、人類を道連れにしようと悪の働きを増し加えています。今はそのような時代です。

さて、主イエス様が再臨される時の様子を、神のラッパが鳴り響く内に来られると言っています(Ⅰテサ4:16)。イスラエルでラッパはいつも重要な合図として用いられました。

旧約の時代、荒野で宿営していたイスラエルは、約束の地に向けて出立する時、ラッパを吹いて旅立ちの準備をするように知らせました。人々はラッパの音を聞くと、旅の支度(したく)をしました。

この世(荒野)を旅立って、約束の地(神の国)に入るとき、神のラッパが鳴り響いて、私たちは身のまわりの整理をします。この荒野に思い残すものは何もないようにすべきです。

私たちが復活する時、終わりのラッパが鳴り響きます(Ⅰコリ15:51)。それは主の再臨の時のことで、今日の聖句と同じラッパです。

再臨の時、信者は復活します。すでに眠りについた者は、眠りからさめるようにして復活します。また、その時点で地上で生き残っている者は、肉体が「霊の体」に変えられて、天に引き上げられます(4:17)。 ※復活の詳細については朝マナの第一コリント15章を参照。

このすばらしい超自然的な出来事を、携挙(けいきょ)と呼びます。このようにして、信者は主の再臨の時に復活して、携挙されます。携挙されたクリスチャンは、この時から天でイエスと特別な時間を過ごします。

天に引き上げられたクリスチャンは、「キリストのさばきの座」とよばれる場で、信仰生活に対する主からの報いを受けます(Ⅱコリ5:10)。その後、花婿であるキリストと花嫁である教会の結婚式があります。至福の時です。

しかし、クリスチャンが携挙された後の地上では、大患難の時代が始まります。この大患難の期間が、聖書でいう「神の御怒りの時」のことです。この最終段階についてはヨハネの黙示録で取り扱うことになります。この「神の御怒りの時」を前に、私たちは携挙されることによって、地上における御怒りから救い出されます(Ⅰテサ5:9)。

今は迫害の中にあっても、この希望の時を知って、互いに励ましあうようにと聖書は勧めています(4:18)。主の再臨を待ち望もう。そして、主の再臨に備えよう。(Ω)

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テサロニケ人へ第一の手紙3章

2020年09月12日 | テサロニケ書

Ⅰテサロニケ3:3 あなた方の知っているとおり、私たちは患難に会うように定められているのである。

テサロニケ教会が迫害の中で誕生した教会であったことは、先に記したとおりです。そして、今日に至るまで、キリスト教会は迫害や苦難の中を通ってきました。

今日の御言が示しているように、キリスト教会は患難に会うように定められているのです。 ※「定められている」は、詳訳聖書では「避けて通れないと翻訳。

逆に、迫害や苦難が止んでしまうと、キリスト教会は堕落して行きました。それは、キリスト教会の歴史が物語っています。

AD312年のミラノ勅令以後、キリスト教がローマ帝国の国教となり、帝国の庇護のもとで大成長をとげたというのが、一般的な歴史解釈です。しかし実際は、キリスト教会堕落の歴史の始まりでした。

旧約の時代、神を信頼せず隣国のエジプトやアッシリヤと同盟を結んで保身をはかったイスラエルに対して、それは霊的な姦淫と神は指摘されました。新約の時代、キリスト教会もイスラエルと同じ轍(わだち)をふんで堕落しました。

国教化とは、キリスト教がローマ帝国の公式な宗教になることです。国民はキリスト教徒になるように、法律で決まったわけです。どういう事態が起きるか想像してみてください。

かつてのローマ帝国では、「カイザル(皇帝)は主(神)である」と告白することが法律で定められていましたが、今や、「イエスは主である」と告白するよう、国家権力のもとで強制されるのです。

迫害の時代では、「イエスは主である」と告白することは命がけでした。しかし、国教化されるとは、はイエスを信じませんと告白することが命がけになるわけです。

このことによって、クリスチャンたちはローマ帝国によって保護される事になりました。また、信仰のない人々も、クリスチャンであることの方が都合がよいので、かたちだけの宗教生活をするようになりました。

この国教化に反対するクリスチャンたちは、国策への反逆者、異端者として殉教して行きました。キリスト教の名のもとにクリスチャンが迫害を受ける時代の始まりです。何という皮肉でしょうか。以後、1千年の間に数千万人の殉教者を出したと言われています。 ※バプテストの歴史を記した血まみれの道(J・M・キャロル著)には殉教者の詳細が記されている。

キリスト教会がこの世の者であろうとするとき、堕落します。クリスチャンが、天国人としての身分を捨てて、地上の国民であろうと固執するとき、堕落します。

イエス様は「わたしの国はこの世のものではない」と言われましたし、また、クリスチャンに対しても、「あなた方はこの世の者ではない」と言われました。

つまり、この世の者ではないので、クリスチャンは地上では困難があるのです。クリスチャンにとって、地上は快適な場所ではありません。実に、生きにくい場所です。しかし、その困難を受けたくないために、この世の者であろうとするとき、堕落するわけです。

とはいえ、この世を軽視したり隔絶せよと言われたのではありません。カルト宗教のように、世を敵視し、世との関わりを断とうとするのではありません。むしろ逆で、積極的に世と関わって行きます。

イエス・キリストは罪人たちの中に入って行き、共に泣き、共に苦しみ、共に重荷を負ってくださいました。そのことによって、天国の秩序を地上にもたらしてくださいました。その使命は私たちにも継承されています。

伝道とは、この世に属している人々を、天に属する人々にすることにすることですから、自分が世に属していては伝道できません。

実は、世に属する人々を支配する闇の力があります。それを、聖書はサタン(悪魔)の力だと言っています。この世は、神の目からご覧になるに、サタンの支配下にあります(Ⅰヨハネ5:19)。

ですから、サタンは、人類をこの世につなぎ止めようと、ありとあらゆる手段を駆使してきます。

時には患難をもって、私たちの信仰を妨害したり、信仰をあきらめさせようとします。また、時には、先の国教化したキリスト教会の場合のように、快適な環境によって世俗化させます。

キリスト教会の歴史は患難の歴史です。今も、共産圏やイスラム圏では暴力的な迫害がつづいていますが、逆に、あまりにも快適になった日本では、暴力によらない患難が深刻です。

先祖崇拝は、日本人をこの世に縛り付けて、がんじがらめにしています。そして、私たちが天に属することを妨げています。また、この世の便利さや快楽もそうです。天に行かなくても、この世で十分に満足できるかのようです。

信仰を妨害するために、日本ではこの方法が最も効果的だと、敵は見抜いているようです。そして、クリスチャンを腑抜(ふぬ)けにしておいて、最後の大患難で信仰を奪ってしまうのかも知れません。

日本で暮らしていると、惰眠をむさぼりそうです。だから、主は「目をさましていなさい」と命じられます。目をさまして祈り続けようではありませんか。主イエスが来られて、すべてを精算なさる時が近いのですから。(Ω)

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テサロニケ人へ第一の手紙2章

2020年09月11日 | テサロニケ書
Ⅰテサロニケ2:13 あなた方が私たちの説いた神の言(ことば)を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実その通りであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなた方の内に働いているのである。

先の1章では、パウロが福音を伝えるに当たって、「言葉だけによったのではなく、力と聖霊と力強い確信とによったからです。また、私たちがあなた方の所で、あなた方のためにどのように振る舞ったかは、あなた方は知っています」とありました(1:5 新改訳)。
 
つまり、福音は言葉で伝えますが、聖霊によって伝えられ、そして、ふるまいが伴って伝わるのです。 ※口語訳では「どんな事をしたのか」。「力と聖霊と力強い確信」は「聖霊によって」とひとまとめにして考えてみよう。
 
そして、第2章では母がこどもを育てるようにふるまい(7)、さらに父がその子に対してするようにふるまったと記されています(11)。母は子のために全てを与えようとします。いのちさえも与えようとします。父は子に威厳をもって大切なことを命じます。
 
そのような〝ふるまい〟が、〝言葉〟と〝聖霊〟の導きの中で福音を伝えることになるのだと思います。
 
そのようにしてパウロはテサロニケで福音を伝えました。そして3週間の伝道で教会が誕生し、しかも迫害の中でも信仰を失わずに前進し続けることができました。その秘訣は何だったのでしょうか。

もちろん聖霊に満たされたパウロの伝道もその要因でしたが、今日の聖句は、もうひとつの要因を示しています。

テサロニケの人々は、パウロが語る言葉を神の御言として聞いたからでした。信仰は勉強したり研究して得られるものではありません。信仰は神の御言を聞くことによって生じます。

2千年前、イエス様の言葉を直接聞いた人はたくさんいました。でも、聞いた人すべてが信じたのではありませんでした。信じなかった人たちは、イエス様の言葉を「人間の言葉」として聞いたからです。彼らは、ナザレ村出身の大工の言葉として聞きました。

漁師であったシモンも始めはそうでした。一日中漁をしても獲物がなかった時、「沖へこぎ出して網をおろしてみなさい」というイエスの言葉を聞きました。シモンは漁の専門家ですから、大工に何が分かるかと反感をもったことでしょう。

そこで終わっていたら、ペテロはイエスを信じることができませんでした。しかし彼は、「お言葉ですからやってみましょう」と従いました。すると、網いっぱいの魚を捕ることができました。

ペテロは、この出来事を通して、イエス様の言葉は神の御言だと信じるようになりました。

聖書の言葉もそうです。聖書を単なる人間の言葉として読んでいるなら、信仰は生まれませんし、神との出会いもありません。聖書の言葉は、神の御言であると信じて読むとき、すばらしいことが始まります。

これには聖霊の助けが不可欠です。

かつての私は、信仰が行き詰まっている時代がありました。救いの確信がうすれ、喜びも感動もない信仰生活をおくっていました。ある時、「あなたは恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、神の子たる身分を授ける霊を受けたのである。この霊によって神を『アバ父』と呼ぶのだ」という聖句が入ってきました。ローマ人への手紙8章15節です。

今まで何度も読んだことのある聖句です。しかし、この時は違いました。感動と涙で、この言葉は神の御言として私の中に入ってきました。そして、すばらしいことが始まりました。

それまでの私にとって、神は失敗を見逃さない恐ろしい方でした。私は神の顔色をうかがうようにして慎重に生きていました。でも、この時、神は私の父だと分かりました。父への信頼と安心と愛でつつまれました。

恐れで動くのではなく、神の愛の中で大胆に動けるようになりました。思い切ってやってみようと思うようになりました。そして、印刷業として独立自営。その後、とうとう牧師にまでなってしまいました。感謝。不思議。聖霊は、この御言をまさに「神の言」として受け取ることができるように導かれたわけです。

今日の聖句は何と言っていますか。この神の言は、信じるあなた方の内に〝働いている〟のである」。神の御言は、信じる人の中で動き始めます。信じる人の中で、御言の力は現れます。

自分が歓迎されていない所へ行ったら、窮屈ですよね。場違いなところへ来たかなと思うと、自分の力を発揮できずに、おとなしくしているしかありません。

神の御言もそうです。神の御言は、あなたの中で歓迎されていますか。御言は、あなたの中で窮屈になさっていませんか。せっく御言を受けたのに、自分の考えの方が正しいと思っていませんか。そんなことでは、御言は私たちの中で働こうにも働けません。御言は、実力を発揮できずにおとなしくしているしかありません。

信じるとは、歓迎することです。

「あぁ、よく来てくださいました。待ってました。どうぞ思う存分なさってください。私の心の中で自由になさってください。自分の部屋のように使ってください」。そんな心で御言を歓迎しよう。(Ω)

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テサロニケ人へ第一の手紙1章

2020年09月10日 | テサロニケ書
Ⅰテサロニケ1:10 死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、私たちを来るべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下って来られるのを待つようになった……

第2回伝道旅行でマケドニヤに渡ったパウロは、ピリピで伝道しましたが、そこで迫害され投獄されました。しかし、その牢獄で讃美を歌っていると、獄のとびらが開き解放されたという奇跡がありました(使徒16:11-40)。次に向かった街がテサロニケでした。そのテサロニケでも激しい迫害があり、3週間ばかりの滞在でしたが、テサロニケにも教会が誕生しました(使徒17:1-2)。 ※ピリピとかテサロニケはマケドニヤ地方の都市。ギリシャ半島の北部地方。半島の南部地域をアカヤ地方で、ギリシャやコリントなどの都市がある。

短い期間の伝道であったため伝えきれなかったことがあります。それを補うために、また、その後も執拗につづく迫害下にある彼らを心配してパウロはテモテを派遣したのです。

戻ってきたテモテの報告によると、テサロニケの人々は御言にかたく立って信仰を保っていたのです。それどころか、その信仰の言葉はマケドニアやアカヤ地方にも響き渡っているというのです(1:8)。そのことへの感謝と喜びと共に、彼らへの励ましを込めてこの手紙は記されました。

さて、手紙では、テサロニケの人々が何をどのように信じたのかを再確認していますテサロニケの人々はイエスを信じてどのように変化したのでしょうか。

(1) 偶像を捨てて神に立ち返った(1:9)

私たちが以前に信じていたものは、神ならぬ神でした。仏は神ではありません。それは人の死後の存在です。神社に祀られた神々も真の神ではありません。多くの場合、それも人の死後の存在か、あるいは空想や伝説の話です。

仏や日本伝来の神々は、人々から尊敬をあつめた卓越した人物ではありますが人間に過ぎません。死んだ人であり、死後の世界に行った人であり、復活することがありません。

神など信じないという人も、自分を神としたり、お金や仕事を神としたり、また、家族を神として頼り、拝み、そして支配されています。そのような神ならぬ神々を、聖書は「偶像」と呼んでいます。

真の神は聖書の神です。万物の創造者なるお方だけです。

多くの人が、神と称せられるものであれば何でも拝めば、神が喜ばれると思っています。そして、そのことが信心深いと思っています。とんでもない間違いです。

(2) 生ける真の神に仕えるようになった(1:9)

抽象的、観念的な神ではなく、生きておられる神です。私を愛しておられる神です。私を子として扱い、訓練し、導かれる神です。私を通して神の栄光をあらわそうとなさる神です。

静寂の神ではなく〝動〟の神です。生ける神です。だから、神との交わりが常にあります。神と共に歩みます。

「仕える」とは、礼拝を意味します。真の神を知った人は、そのお方を礼拝するようになります。礼拝こそ、真の神に対する最もふさわしい応答です。

(3) イエス・キリストの再臨を待つようになった(1:10)

聖書の信仰は、実にスケールの大きい内容です。地上で生きている間、無事であるこを祈願する程度の信仰ではありません。イエス・キリストがもう一度来られるのを待ち望む信仰です。

キリストの再臨の意味するところは、テサロニケ書の中で順を追って紹介することにしましょう。ヨハネ黙示録では更にくわしく取り上げることになりますが、再臨によって世界に大変化が起こります。

今日の聖句は、その大変化の時に来るべき神の御怒りが臨むのだと告げています。神のさばきのことです。最後の審判とも呼ばれています。

この時、神を神とも思わずあなどっている者たちに、神の御怒りがくだります。その御怒りから救い出すこのできるお方は、イエス・キリストだけです。冒頭の聖句も来るべき怒りから救い出して下さるイエスと述べています。

実は、神の人類に対する御怒りは、2千年前にくだりました。あの十字架のイエスの上に激しくくだったのです。酷(むご)たらしいイエス・キリストの死は、人類にくだった神の御怒りでした。

イエス様は人類の受けるべき、神のさばき(御怒り)を一身に受けてくださいました。そのことを信じてください。私は、あの十字架でイエスと一緒に、すでに、神の御怒り(さばき)を受けたのです。

すでに、さばきを受けた者に、もはや刑罰はありません。

しかし、イエスの十字架は、私が受けるさばきであったと信じない人は、自分で自分の罪の結果を引き受けることになります。最後の審判で神の御怒りがくだるとき、それを自分が受けることになります。

だから、イエスを信じてください。そして、神のさばきから逃れるようにと伝えるのが伝道です。そして、この大審判の後にすばらしい世界が実現します。それを神がなさいます。私たちはそれを待ち望んでいます。(Ω)

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コロサイ人への手紙4章

2020年09月09日 | コロサイ書

コロサイ4:6 いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか分かるであろう。

先の3章18節からは、「妻と夫」「子と父」そして「奴隷と主人」の関係が記されています。4章1節の、主人の奴隷にたいする姿勢についての教えは、3章に含まれるべき記録です。

この3つの人間関係は、エペソ6章でも取り上げたように、神と人との関係を表しているのを思い出してください。神との関係は抽象的なことではなく、実際の人間関係の中に活かされます。

見方を変えると、三位一体の神と私の関係を表しています。御子なる神には、妻が夫に従うように愛をもって従います。御父なる神には、子が父に従うように尊敬をもって従います。そして、御霊なる神には、奴隷が主人に従うように忠実をもって従います。

さて、4章2節からは、生活上の勧めが記されています。①目をさまして祈ること、②福音を語ること、③時間を神のためにあがなうこと、④塩で味付けた言葉を使うこと……この4点です。

③については、口語訳では「時を活かして」、新改訳では「機会を活かして」と訳されていますが、「時をあがなう」が原意です。エペソ5章の「朝マナ」を参照してください。

ここでは④の塩で味付けられた言葉を見て行きましょう。

私たちが悩むのは、病気とか、お金のこともありますが、多くの場合は人間関係ではないでしょうか。そして、その人間関係で重要な鍵は「言葉」です。

神と人間の関係も言葉を通して成り立つように、人間同士の関係も言葉が重要な役割をはたします。

聖書は、「舌(言葉)」を制御できる人は完成した人であり、その舌(言葉)は船をあやつる舵(かじ)のような役割を果たすのだ」と記しています。言葉という舵の切り方ひとつで、人生の方向が決まります。

言葉は簡単に口から出てきます。自分の心にあることがスルスルと出てきます。だから厄介でもあります。だから、今日の聖句は、塩で味付けられた言葉を使うように勧めています。

塩は調味料の基本です。塩味がないと、どんな味も決まりません。甘みを出すために、まったく逆の味である塩が大切であるのは興味深いことです。

私の口から出る言葉が、人間関係によい味付けをする言葉になりますように祈りましょう。

また、塩は防腐の役目があります。塩漬けの食品は腐らず長持ちします。会話の中には、うわさ話し、人を中傷する話し、卑猥な話しが飛び交う場面もあります。いずれも人間関係を腐らせ破壊する言葉です。

私の口から出る言葉が塩で味付けられて、人間関係の腐るのを防ぐ言葉になりますように、また、人間関係をこわす言葉ではなく、結びつける言葉になりますように祈りましょう。

塩は良いものです。大切なものです。でも、適量でなければなりません。良いものだからといって、大量の塩をいっきに食べたら体をこわします。スプーン一杯の塩でも食べるのは無理です。

つまり、言っていることは正論なのですが、塩味がききすぎて食べられないような言葉もあります。適量が大切です。

塩は良い味を引き出しますが、塩そのものは自己主張しません。が固まりのままで入っていたら、味付けになりません。塩は「溶ける」ことによって効果を出します。塩は前面にでるのではなく「隠し味」です。

私の口から出る言葉が、自己主張する言葉ではなく、ほどよく溶け出て、全体を引き立てる言葉になるように祈ります。

そして、最も大事なのは、言葉がでてくる私の内側です。聖霊が宿るなら、その人の腹からいのちの水が川となってわき上がると聖書は約束しています(ヨハネ7:38)。

泉が腐っていたら、腐った水が出てきます。泉が清ければ、うるわしい水が出てきます。言葉もそうです。私の内側を、聖霊がご支配なさって、人を活かす言葉の水が流れ出るようにと祈ります。(Ω)

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コロサイ人への手紙3章

2020年09月08日 | コロサイ書

コロサイ3:1 あなた方はキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

キリストが私の中におられるということは、キリストのものが100パーセント、私の中に〝すでに〟あるのです。私たちは、その宝を発見する旅に出かけた冒険家のようです。

この世でも色んな発見があります。何千年前の遺跡を発見したり、大自然の不思議な法則を発見したり、そんな世紀の大発見のために生涯をつぎ込んでいる冒険家や科学者がいます。

クリスチャンはそれ以上の冒険家です。

キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、地上のものを糞土のように思っていると告白したパウロは、キリストの中に隠された宝を発見するために旅立った冒険家です。彼は、この冒険のために、地上の価値と思われるすべてのものを、塵芥(ちりあくた)を投げ捨てるようにつぎ込んだ人です。

私たちはキリストの中に隠された無尽蔵の富を、どれぐらい掘り当てることができたでしょうか。まだほんのわずかしか発見できていないのではないでしょうか。

最近のスマホやパソコンは益々高機能になってきています。多くの人はそれを使いこなしていません。それは取扱説明書を読んでいないからです。あるいは、機能を活用すべく状況に迫(せま)られていないからです。

それと同じように、聖書を読まないと、私の中に神がくださったキリストという宝のすごさ知ることができません。また、必要に迫られる事態に遭遇していないので、キリストのすごさを体験していないのです。

キリストの中で実現していることは、すでに私の中にも実現しています。その最たることは「死と復活」です。聖書はすでに死んだと言い(3:3)、キリストと共に復活したとも言っています(3:1)。

「死と復活」。これがキリストという宝の基本です。

罪人の行き先は「死」です。この死は肉体の死ではありません。神との永遠の断絶です。地獄の死です。どんな偉い人も、お金持ちも、頭のよい人も、この永遠の死から逃れることができません。

しかし、キリストがこの死を、すでに十字架で受けてくださいました。このキリストを私の内にお迎えすると、自分は十字架のキリストと一緒になって、すでに、死んで葬られたことを発見するようになります。

クリスチャンとは、すでに、永遠の死の刑罰を受けてしまった人のことです。死の刑罰を免除されたのではありません。だれも、死の刑罰を逃れることはできません。

キリストと一緒に死の刑罰を受けるのか、それとも自分自身で死の刑罰を受けるのか……どちらかです。

何という感謝でしょうか。私は〝すでに〟キリストの十字架で自分の受けるべき刑罰を受けて死んでしまった者です。だから、肉体の死後、永遠の死の刑罰を受けることがありません。それだけではありません。キリストが復活して天の王座に座されたので、私も復活して天に座しています。これが私に与えられた身分です。

神は、私たちを罪人の身分に留め置かず、神の子としてくださいました。子ですから相続者です。聖書には「御国の相続者」という表現がたくさん記されています。

この新しい身分、立場が、新しい生き方の根拠になります。

今日の聖句は、あなた方はキリストと共によみがえらされたのだからと言っていますが(3:1)、「復活して天に属する者になったのだから」という意味です。

だから、私たちの生き方は、地上の価値観で生きるのではなく、天の価値観で生きるのです。地上を基準として生きるのではなく、天国を基準として生きるのです。

地上のものを思わず、天にあるものを思いなさいとはそういう意味です(3:2)。

3章5節以降は、様々な罪から離れよと命じています。言われてできるものではありません。自分が何者かという深い自覚が、罪から離れる生活を選択させます。

あなたはキリストと共に復活して、天に座する立場になっています。このことがいかに栄光に富んだことか。それを発見するのがクリスチャン人生です。この宝はキリストの中に隠されています(3:3)。

そして、私たちは、この土の器の中に宝を持っているのです。

そして、この宝が、完全に現れる時が来ます。いのちなるキリストが現れる時には、あなた方も、キリストと共に栄光のうちに現れるのです(3:4)。キリストが再び来られる時です。

キリストの中に隠された……それは私の中に隠された……宝を発見する旅に祝福がありますように祈ります。(Ω)

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コロサイ人への手紙2章

2020年09月07日 | コロサイ書

コロサイ2:9-10 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなた方は、キリストにあって、それに満たされているのである。

第1章では、「私の内におられるキリスト」が奥義であることを見ました。キリスト信仰とは、勉強して真理を突きつめたり、修行したり登りつめてようやく到達するといったものではありません。

「キリストが私の内におられる」のが信仰です。

キリストが私の内におられるので〝すでに〟私は到達しています。〝すでに〟すべてを持っています。ただ、そのことに目が開かれていない場合が多いのです。キーワードは〝すでに〟です

ですから祈ります。どうか、聖霊が私たちの霊的な目を開いてくださって、それを見ることができますように、理解することができますように、体験することができますように(1:9)。

キリストの中に知恵と知識との宝がすべて隠されています(2:3)。ですから、キリストが私の内におられることによって、すべての智恵と知識を〝すでに〟私は持っているのです。

そして、今日の聖句も、キリストの中に神のすべての徳(性質)が、かたちをとって宿っていると記されています(2:9)。だから、すでに、キリストによって、私の中にも神のご性質が宿っているのです。

私たちはキリストにあって、キリストにあるすべての事柄で満たされています(2:10)。しかも、「かたちをとって」と訳されていますから、「具体的に」という意味です。

こういうわけですから、難行苦行して登りつめるような宗教ではなく……日本人の宗教観はそのようなイメージですが……、私の中に神がすでに用意なさった宝を日々発見して行くようなものです。

キリストが十字架で死なれたことによって、すでに私も死んだのです(ガラテヤ2:19-20)。キリストが復活されたことで、すでに私の霊も復活したのです。キリストが天で王の座にすわられたことで、すでに私も王の座にすわっているのです(エペソ2:6)。

このように、キリストが私の内におられるとは、キリストにあるすべてのものが、私の中にすでに実現しているのです。

どうしようもない自分に身もだえしながら、自己卑下に押しつぶされそうになりますが、キリストの中ですでに死んだ自分を発見します(2:12)。な~んだ。すでに古い私は死んでいたんだと発見します。

無力感にさいなまれながら、キリスト中ですでに復活した新しい自分を発見します(2:12)。自分の足りなさを痛感しながら、キリストの中ですでに王の座にある偉大な力に目覚めます。な~んだ。すでに、私は復活していて、すばらしい身分にされていたんだ、と気がつくのです。

このように、キリストの中で多くの恵みを発見して行きます。それはすでに神がキリストの中で用意なさってることです。

すべてはキリストの〝中に〟です。キリストを信じるとは、キリストの〝中に〟信じるです。英語では〝I believe in Jesus〟です。〝in〟とは「~の中に」をあらわします。ギリシャ語本分も英語表現と同じです。日本語としては変ですが、キリスト〝を〟信じるのではなく、キリストの〝中に〟信じるのです。キリストと私は離れていません。キリストの中に一緒です。

キリストがなさったすべてのこと……絶望も悲しみも、苦難や試練も、喜びも、勝利も、平安も、裏切りも愛も、キリストが私の中に住まわれることによって、私の中にあります。

私の人生は、ちょうどキリストの再現ドラマを上映する映画館のようです。途中は大変なシーンがありますが、しかし感謝です。その物語は復活と天の王座で終わることになっているからです。

これらはみなキリストの中で……です。だから、感謝なのです。だから、困難な中でも喜ぶのです。キリストの中で「すでに」の世界を味わおうではありませんか。

2章の後半では、このようなキリストがすでに私の内におられ、生きておられるのですから、どうして「この世の幼稚な教え」に振り舞わされるのかと諭しています(2:8,20)。 ※口語訳聖では「世の諸々の霊力」と訳しているが、新改訳では「この世の幼稚な教え」と翻訳。

世の習わしや言い伝え、宗教儀式や建造物など……。年数が古かったり、巨大であったり、謎めいた雰囲気など……。これらはすごいことのように見えるだけで、内住のキリストと比べるなら、「世の幼稚な教え」です。(Ω)

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コロサイ人への手紙1章

2020年09月05日 | コロサイ書

コロサイ1:27 この奥義は、あなた方の内にいますキリストであり、栄光の望みである。

日本語でいう「奥義」とは、それを会得すれば道を極めたとされる大事なテーマです。しかし、聖書でいう奥義は、それまで隠されていたが今やあきらかにされた真理のことです(1:26)。

旧約の時代に神はご自分のことを現して来られましたが、それがすべてではありませんでした。新約の時代になって、遂に神は御子イエスを通してご自分を現されました。この御子イエスによって、今まで隠されていた真理が現されるようになりました。それが奥義です。

コロサイ書の1章に、その奥義のひとつが紹介されています。それは私の内におられるキリストです。

キリスト信仰は難しい哲学や学門の世界ではありません。それなら頭の良い人しか理解できません。また、難行苦行をして鍛錬することでもありません。それなら克己心のある人しか到達できません。

ただ、キリストを私の内にお迎えすることです。このお方をお迎えし、このお方の中で生きることです。

難しいことが分からなくても大丈夫です。私の内におられるキリストが教えてくださいます。克己心がなくても大丈夫です。私の内におられるキリストが、私を良い行へと導いてくださいます。

では、どのようにして、キリストが私の内に住んでくださるのでしょうか。それは御言と「聖霊によってです。

はじめに言(ことば)があった。言は神であった。ヨハネ福音書の有名な聖句です(ヨハネ1:1)。神はご自身を言葉を通してあらわされます。神を受け入れるとは、神の言葉を受け入れることです。人間関係でも同じことですね。相手の言葉を拒絶することは、相手を拒絶することです。

さて、その神である「言」は、人となって世に来られました。これは神秘です。「言」が人となって来られた……それがイエス・キリストです。ですから、イエス・キリストは神の御言100%のお方です。

神の御言を受け入れることが、キリストを内にお迎えすることです。これは、御言を研究したり暗記したりといった頭脳の作業ではありません。聖霊による体験です。

ですから御言聖霊によって……なのです。

キリストが私の内におられるからといって、イケメン俳優の顔をイメージして、そんなお方が私の内におられて……と、想像たくましくすると間違った方向に行きそうです。

神の御言を受け入れるのです。

聖書に記録された御言は単なる文字です。印刷された活字です。その文字を紙に書いて身体にはったり、丸めて食べても、私の内にキリストが住まわれるのではありません。

その「文字」は、御言という食物を盛る皿です。皿に盛られた御言を食べるのであって、皿そのものを食べてはいけません。

牧師が語る説教も同じです。牧師が語る言葉そのものが神の御言ではありません。それはあくまでも人間の言葉であり音です。牧師の言葉という皿に盛られた御言を食べます。

牧師の言葉という皿を食べたら、お腹をこわします。この皿は料理に合っていないとか、皿のヒビやよごれが気になって、肝心の御言を食べるのを忘れてしまいます。

味噌汁の椀にプリンが盛られていたら、ウッて思います。でも、プリンは美味しいですよ。でも、できればプリンにふさわしいガラス食器に盛られていれば、もっと美味しく感じます。説教者の言葉はそんなものです。

どうやって食べますか。信じることによって食べます。学問のように理解しようとすると頭に入ります。それは御言ではなく、文字情報があなたの頭に入ったのです。

神がおっしゃるのだから、その通りです「アーメン」と信じます。記憶は脳の機能ですが、信じることは霊の機能です。ですから、信じるとき聖霊が共に働かれます。もう一度いいます。信じるとき聖霊さまが働かれて、御言があなたの霊に住まわれます。こうして、キリストが私の内に住まわれます。

私たちの脳細胞に保存された聖句は、知識として留まっても、それ以上ではありません。

しかし、信じて私の霊に記録された御言は生きておられます。生きているのでいのちがあります。いのちがあるので新しい考えや新しい行動を生み出します。聖霊はそのような御言と一緒にお働きになります。

イエス様はご自分のことを「いのちのパンだ」と言われました。私を食べるものは永遠に生きるのだと約束されました。この御言を信じたら、その人はイエスを食べた人です。その人の内にイエス・キリストが住んでおられます。

野菜を食べるとは野菜のいのちを食べることです。牛肉を食べるとは牛のいのちを食べることです。いのちを食べるから、いのちを受けます。

それと同じように、イエスを食べるとはイエスのいのちを食べることです。イエスを食べて、イエスの霊的ないのちが私の霊に宿ります。イエス・キリストご自身が宿られます。

ですからイエス様はこう言われました。「わたしがあなた方に語った言葉は霊であり、いのちである」(ヨハネ6:63)。だから、イエス様の御言を信じて受けることは、イエスの霊的ないのちを受けることです。

こうして、イエス・キリストが私の内に住まわれます。さあ、私の内におられるイエス・キリストという奥義がどんなにすごいことか、体験しようではありませんか。(Ω)

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ピリピ人への手紙4章

2020年09月04日 | ピリピ書
ピリピ4:4 あなた方は、主にあっていつも喜びなさい。くり返して言うが、喜びなさい。

ピリピ人への手紙は最後まで「喜びなさい」と勧めています。パウロは、あえて意図的に「喜びなさい」とくり返しています。なぜなら、喜ぶことは、私たちにとって安全なことだからです。 ※「悲しみ」「涙」「憎しみ」などの感情を否定しているのではない。思いの丈を神に申し上げよう。ありのままを申し上げよう。それらを慈しみをもって受け止めてくださるので「喜ぶ」のである。

先の3章でこう記しています。主にあって喜びなさい。先に書いたのと同じことをここでくり返すが、それは、私には煩わしいことではなく、あなた方には安全なことになる。3:1)

危険なとき、安全な場所に避難する必要があります。航海中の船は嵐に遭ったら港に避難します。それと同じように、主にあって喜ぶことは、人生の危機から脱する避難所です。

急で長い下り道には、所々に緊急避難帯が用意されています。道から枝分かれするようにして、緩やかな10メーターほどの上り坂が設けられています。柔らかい盛り土で凹凸がつくられていて、終点にはクッションで止まるようになっています。

ブレーキの利かなくなった自動車が緊急避難するための場所です。カーブを曲がりきれずに谷に転落するよりは、多少のダメージを覚悟でそこに飛び込めば助かります。

「喜びなさい」という命令は、この緊急避難帯に逃げ込むようにして、とにかく喜ぶことです。

えっ~!、こんな状況でも喜べって言うんですか?。そうです。泣きっ面に蜂のような状況でも、イエス・キリストにあって喜ぶことは、私たちにとって安全なことです。

過剰な思いわずらい、激しい怒り、根深い憎しみやうらみ等は、私の中に暗闇を増殖させます。それを続けていると、段々とブレーキが利かなくなって暴走し始めます。そして、ついにカーブを曲がりきれずに転落です。

そんなことにならない前に、主にあって喜びなさい。それは、私が勇気を出して飛び込むべき避難所です。

喜び。それは「主にあって」と記されているように、この世が与える喜びではありません。それはすでに1~3章で申し上げてきました。

感情的な喜びだけが喜びだという思いこみから解放されましょう。また、「喜びなさい」と命じているので、無理矢理に作り笑いをしようとしても、顔が引きつっているだけです。 ※喜びと楽しみは違う。楽しみは外側からの刺激。喜びは内側からくるもの。
 
問題は私のです。心で……理性と感情の領域で……悲しんでいたとしても、救われた私の霊は、神の圧倒的な勝利を知っています。神の恵みの深さ、神の愛の強さを知っているのは、私の「霊」です。

感情の領域では落ち込んでいるけれど、私の霊の領域では主にあって喜んでいるという状態はあり得るのです。もちろん、両方が喜べれば最高ですが……。
 
私が牧師として召される前のことです。人生で最悪の状況でした。周囲からの誤解と偏見。針のむしろに座らされているような環境で、私は苦しんでいました。ため息ばかりの日々でした。
 
そんな夜、私は眠っていましたが寝言を言っていたようです。妻が起きてそれを聞いていました。寝言は明瞭な言葉で「私は勝利した」と叫んでいたというのです。朝起きてこのことを妻から聞いて私は分かりました。私の深いところでは、勝利を先取りして喜んでいるのだ……と。
 
つまり、外なる人の感覚と内なる人である例の感覚は違うことを申し上げたいのです。私は外なる人の感覚に支配されすぎていました。内なる霊が感じ取っている勝利に目を向けるべきでした。

同様に、本当の喜びは私の霊が知っています。私の霊は、主にあって喜んでいるのです。でも、それを私の肉なる感情がひがんだり、だだをこねていて、すでに霊が知っている喜びに目を向けさせないということがあります。

これが誰にも当てはまることなのか、私には分かりません。でも、私はそのような経験をします。だから霊によって祈って、私の霊の思いが、感情の領域を満たすように祈ります。主にあって喜びましょう。(Ω)

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ピリピ人への手紙3章

2020年09月03日 | ピリピ書
ピリピ3:20 私たちの国籍は天にある。そこから、救い主、主イエス・キリストの来られるのを、私たちは待ち望んでいる。

ピリピ人への手紙では、いかなる境遇の中でも喜んでいるパウロの姿が記されていますが、同様にピリピ教会の兄姉にも喜ぶようにと命じています(3:1)。そのように命じるのは、律法主義者たちが影響力を及ぼしているからです(2)。
 
律法主義者たちの喜びの根拠は肉なる誇りです。割礼という肉体のしるしであり、律法による肉の行いです(3)。その点ではパウロも劣ってはいません(4-6)。でも、イエス・キリストを知り、そのお方によって義とされる恵みを知った今は、肉なる誇りなど糞土の如くに思うようになりました(7-9)。
 
それほど、キリストにある救いの恵みは大きいからです。
 
でも一見すると、律法主義者たちの方が外見上は立派だし救いに近いように見えます。何しろ行いが最優先ですから……。反面、恵みによって救われた者は「ありのままで救われるのだ」と主張し、何もしないように見える。恵みに甘んじているだけなのか。
 
それに対するパウロの説明です。もちろん、救われたと言えども完成したのではない。
 
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。(12) ※「完全な者」とは「救いが完成した状態」のこと。キリストの救いは完全だ。いまは栄光の復活という完成に向けて走っているのだ。
 
見た目だけの肉なる行いで「救いが完成したか否か」を判断するのは早計です。救いの完成を早々に得たいがために、律法主義に走ってはならない。復活による救いの完成に向かって、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのです(13-14)。
 
キリストの救いはすでに決まっています。なのに、律法の行いで補強したり交換しようとして、十字架に敵対して歩む人々が何と多いことか(18)。
 
さあ、明確になったでしょうか。パウロが命令する喜びの根拠は、私たちが目指すところの復活にあるからです。だから喜ぶのです。
 
この信仰を受けた者の国籍は天にあります。イエスを信じた人は新しく生まれた人です。昔は死んでいた者でしたが、イエスにあって、内なる人が新しく生まれた人です。

私が日本人であるのは、日本で生まれたからです。それと同じように、私の内なる人は、イエスによって天で生まれたので、天に国籍があります。これが私たちのアイデンティティーです。

日本国籍の人は日本語を話し、日本の習慣にならい、日本人としての水準で生きます。それと同じように、天に国籍のある人は神の国の国民ですから、神の御言を学び語ります。聖書の御言を愛します。

海外を旅行すると、当たり前ですが周りはみな外国語です。そんな中で日本語が聞こえてくると嬉しくなります。何かホッとします。自分が日本人であることを実感するひとときです。

そのように、私たちが地上にいる間も神の御言を聞くとホッとします。神の御言を慕います。

また、私たちは天に国籍の民すから、神の国の習慣を守ります。主日の礼拝を愛して守ります。神の国の水準で生きます。このような生き方が、天に国籍のある者として誇りであり、喜びなのです。

各国によって価値観が違うように、地上の国の価値観と神の国の価値観とが違います。
 
以前のパウロは地上の価値観で喜んでいました。誇り高きヘブル民族、ベニヤミン族の出身。また、タルソの大学の出身です。最高の知識人です。それが地上に国籍がある人の価値観です。

でも、イエス様に出会ってその価値観がまったく変わりました。地上的には価値あるとされるものも、今では糞土のように思っていると告白しました(3:7-8)。

私たちが地上の何かに価値をおいて生きるなら、その価値の変動によって一喜一憂します。株の値段が上がったら喜び、下がったら落胆します。一事が万事、そのような価値観だから喜びもアップダウンします。

変動する価値を根拠に喜ぼうとするので、その喜びは不安定です。しかし、イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わることがありません。イエスの私に対する愛も変わりません。

天に国籍のある者の喜びの最高潮は天国に帰ることです。

私の肉体の生まれ故郷は京都の丹後です。何もない田舎ですが帰郷すると感動があります。そこには今も変わらない山や川、今も変わらずに愛してくれる父母が待っているからです。

ましてや、私の内なる人の生まれ故郷である天に帰る日の喜びは、いかに大きいことでしょうか。そこでは主イエスが、今も変わらない愛で、私たちの帰還を待っておられます。

ただし、天に帰還する時に通過しなければならない道があります。それが「死」です。死は天国へ入るための門です。この門をくぐれば復活があります。

地獄への門もあります。その門は広くて、入りやすいです。主イエスは「狭い門から入りなさい」と言われました。その狭い門とは、イエスを信じるという信仰の門です。イエスを信じて古い自分を葬るという死の門です。

人は古い自分に固執します。それを葬りたくないのです。ですから、時には困難に直面することも益です。困難を通して、古い価値観が死んで行きます。そして、新しい価値観に目覚めます。

こうして、古い自分をイエスと共に十字架で葬って、そしてついに人生の最期で、肉体も死の門を通って天国に入ります。

このようにして、神が用意された死の門をくぐると、栄光の復活があります。聖書は、この復活を目指して今を歩んでいると言っています(3:10-14)。

その復活はいつ実現するのでしょうか。今日の御言は天から救い主イエス・キリストが迎えに来られると言っています(3:20)。この日の約束があるので、私たちの喜びは消えません。

心は悲しみをおぼえたり、ふさぎ込んだとしても、神の御言をかたく握っている私の霊は喜んでいます。感謝です。(Ω)

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ピリピ人への手紙2章

2020年09月02日 | ピリピ書
ピリピ2:15-16 それは、あなた方が、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。

先の1章では、私たちに与えられた救いは神の御業であって、だからこそ救いの完成に向かって確実に進められていることを見ました。だから私たちは喜びます。たとえキリストのために苦しむことがあっても喜びます。
 
救いの御業を始められたキリストご自身も、この御業が完成するために「しもべの姿」になられ、十字架の死に至るまで「従順」になられました。謙遜と従順の道です。
 
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(2:6-8)
 
まず始めに、イエス・キリストご自身が謙遜と従順の道を歩まれました。それは、キリストに従う私たちの道です。

父が子供に見本を見せてくれるように、また、兄が弟たちのお手本になってくれるように、神は人となって、人の歩むべき姿を見せてくださいました。人間としての本来の姿とは何かを見せてくださいました。

それは謙遜と従順の道です。
 
謙遜とはどんな生き方でしょうか。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさいという生き方です(2:3)。また、「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさいです(4)。
 
このような生き方は、イエス・キリストの内にも見られることです(5)。※新改訳・新共同訳を参照。
 
つまり、謙遜とはキリストの生き方そのものなのです。だから、私たちもそうするのです。でも、肉なる自分は主張します。「ずっと謙りっぱなしですか」。肉なる自分は、これくらい謙ったから、そろそろ頭をもたげても良いのではと思うのです。
 
でもキリストは「しもべの姿」をとられた。そして、十字架の死に至るまでしもべとなられました。ご自分では高くあろうとはなさいませんでした。だから〝神が〟キリストを高く上げられました。
 
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わったのです(9)。ここに本当の謙遜を見ます。
 
こうして、私たちもキリストのように謙遜と従順の道を歩みます。その従順はキリストがそうであられたように、死に至るまでの従順です。
 
では、従順とはどういう生き方でしょうか。聖書は従順であるようにと勧めています(2:12)。その第一は、内なる聖霊に対する従順です。聖霊なる神は、私の内に思いを起こさせ、かつ実現に至らせます(2:13)。

「思い浮かぶことは何でも神からの思いだ」というのは言い過ぎですが、でもあまり臆病にならないで、私の内に聖霊の思いが満たされますようにと祈って、その思いに従順することです。
 
日々の生活は大小の決断の連続です。事細かに、これは神の御心だろうかと祈る余裕もなく判断しています。それで良いのだと思います。だからこそ、私の思いが聖霊によって満たされるように祈るのです。「直感をきよめてください」と祈るのです。

神の圧倒的な御手の中にあることを信頼しよう。私があれこれと思案する以上に、神のご計画は、はるかに大きくて、緻密で、絶妙であることを信頼しよう。

神の御心は何か……と神経質になりすぎて、スケールの小さいクリスチャンになってしまわないようにしたいものです。先取りの喜びをもって、大胆に進もうではありませんか。

従順の二番目は、「つぶやかず、疑わないこと」です(14)。新共同訳では、「不平や理屈を言わずに」と訳しています。つぶやきや疑いは、喜びと反比例します。

神は、私たちにすばらしい計画をお持ちです。私たちの神への従順がもたらす実は、曲がった邪悪な時代の中で、私たちが光となることです(15-16)。

この地は曲がった邪悪な世界だと御言はいいます。つまり、霊的には闇の世界です。本当の光が必要です。だから、神はご自分の栄光を、地上に輝かせようとなさいます。闇の中で光を見つけたら、それはどんなにか勇気や希望を得ることでしょう。

はじめに神は、イエス・キリストを通してその輝きを照らしてくださいました。今度は、イエスを信じた私たちに栄光をあらわして、この世を照らす光となさるのです。

神が、私たちを通してあらわそうとなさる栄光の輝きは、世の栄光とは質が違って、見た目には華々しくありません。従順と謙遜によって導き出される神の輝きは地味な輝きです。 ※人の目には「地味」と見えるだけだが……。

でも、それは暖かな輝きです。小さくても決して消えないかな輝きです。私たちはそのような存在です。自分の力で輝いても限界があります。ただ、主に対する謙遜と従順によって輝かせていただくだけです。

最後に、いのちの言葉をしっかりにぎって……(16)と記してあることに注目しましょう。どうぞ、今日の御言をしっかり握って、今日を歩むことができますように祈ります。(Ω)

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