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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

受難週⑦ 土曜日

2025年04月19日 | 降誕節・復活節
ヨハネ19:42 その日はユダヤ人の準備の日であったので、その墓が近くにあったため、イエスをそこに納めた。

受難週の土曜日……その日は安息日でした。

イエス様は金曜日に十字架で死なれ、その日の内に十字架から取りおろされました。その日は準備の日であったのでと記されていますが、安息日のための準備の日という意味です。

安息日は律法によって「何のわざもしてはらない」と定められているので、人々は安息日を迎えるために、金曜日中にやるべきことをして準備をしたわけです。だから、金曜日は「準備の日」です。

そんな慌ただしい金曜日にイエスは死なれたので、金曜日中に葬らなければなりませんでした。そのため、刑場の近くにある園の墓にイエスの遺体を葬ることにしましたヨハネ19:41)

そして、すぐに日没になって安息日を迎えました。当時の規定により、安息日には何もすることができません。イエスの弟子たちは、重苦しい時間が過ぎるのをひたすら待つしかありませんでした。

イエス様を守ることも弁護することもできなかった弟子たちは、悔いと恥じとで完全に落胆していました。十字架の後の土曜日は、何とつらく、暗く、長い一日だったでしょう。また、弟子たちは、次は自分たちが捕らえられ、殺されるのではないかという恐れで満たされていました。弟子たちの心のを表すかのように、自分たちの居る部屋の戸はかたく閉ざされていました。

実は、聖書には、十字架の翌日である土曜日の記述がありません。それは、まさに弟子たちの重苦しい状況を表しているかのようです。何もできない、何もする気がしない、無力で落胆しきった弟子たちを表すかのようです。

何もすることのできない一日があります。でも、それは復活の前日であることを忘れないでください。固く心を閉ざすような一日があります。しかし、それは復活の前日だったのです。

私は何もできなくても、神は着々と復活に向けて御業を進めておられます。それが、受難週の土曜日です。十字架と復活の出来事の間には、何もできない落胆の一日があるです。

さあ、明日は復活日です。復活の主にお会いしようではありませんか。主イエスは、復活のいのちを与えようと、準備して待っておられます。(Ω)

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受難週⑥ 金曜日

2025年04月18日 | 降誕節・復活節
マルコ15:34 そして三時に、イエスは大声で、エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニと叫ばれた。

受難週の金曜日は受難日と呼ばれています。この日に、主イエスは十字架で死なれました。

この日は、おりしも過越の祭の日でした。イスラエルでは、かつて出エジプトした時に小羊を屠(ほふ)ったことを記念して、過越の祭のたびに小羊を屠ることが定められていました。

しかし、今や〝本物の小羊〟が屠られる日となりました。神の御子イエス・キリストこそまことの小羊です。ユダヤ人たちは、罪のいけにえである本物の小羊であるキリストが死なれるまでの年月、動物の小羊を先祖伝来屠ってきたのです。

バプテスマのヨハネは、イエスについてこう証ししました。見よ、世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)イエスこそが、私たちの罪の身代わりである過越しの小羊だと証言したのです。

かつて、イスラエル民族は過越の事件によってエジプトから解放されました。同じように、イエスが過越の祭の日に神の小羊として殺されたことによって、人類は、罪の奴隷、悪魔の支配から解放されたのです。

イエス様が十字架で死なれたのが過越の祭の日であったのは偶然ではありません。過越の祭に込められた救いの計画が、この日に実現したのです。過越しの祭そのものがイエスの死を預言していたのです。 ※言葉による預言ではなく、儀式とか出来事といった型によって預言されているので、これを「予型」という。

さて、イエス様は金曜日の午前9時に十字架につけられ、午後3時に叫ばれました。エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」。これわが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですかという意味です

十字架のイエスの姿はむごたらしく、屈辱的で、神の御子としての輝かしい姿は見る影もありません。御子イエスは本当に神から見捨てられる経験をなさったのです。

普段なら、イエス様は神に向かって「わが父」とお呼びになっていたのに、この時ばかりは「わが神」と呼ぶしかないほど、神を遠くに感じておられました。そして、まったく神から見捨てられる経験をなさいました。

父なる神も、イエスがご自分のひとり子だからという理由で身びいきなさることなく、完全にお捨てになりました。

ああ、何と罪に対する神の御怒りは大きいことでしょう。御子イエスが、これほどに十字架で苦しまなければならないほど、私たちの罪は大きく重いのです。

十字架のイエスは、あなたにとって他人事でしょうか。

いいえ、十字架のイエスの姿は私の姿です。あの十字架のはずかしめは、私の罪ゆえに受けるはずかしめです。神に見捨てられたあの叫びは、罪人の私が叫ぶべき絶叫です。

あのイエスの十字架の死は、私の死です。

そう認め信じる私は、あの十字架で自分が受けるべきはずかしめを〝イエスと共に〟受けてしまいました。自分が受けるべき呪いを〝イエスと共に〟受けてしまいました。私に対する神のさばきは、あの十字架で〝イエスと共に〟受けてしまったのです。

こうして私の罪に対する処罰は終わりました。だから、イエス様は十字架の最期に「完了した」と言って息を引き取られたのです(ヨハネ19:30)そうです。完了したのです。私に対するさばきは終わったのです。

イエスの十字架は、私の罪の処罰ではないという人は、仕方がありません。残念ですが、その人は、自分の罪の刑罰を〝自分で〟受けるしかありません。世の終わりのさばきの時、それを〝自分で〟受け、罪の結果を〝自分で〟受けることになります。

自分で引き受けますか。引き受けられないなら信じてください。あのイエス様の十字架で、私はすでに罪のさばきを受けてしまったのだと。

さて、冒頭のイエス様の叫びが、わざわざカタカナで記録されています。他の福音書も同様のあつかいです。ここに聖書記者の意図があります。ただ単に神から見捨てられた叫びで終わらないというメッセージが込められています。

エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニとは、聖書に親しむ者であれば誰もが知る詩篇22篇の冒頭の句なのです詩篇の歌い手であるダビデは神から見捨てられたような経験をしました。その叫びです。しかし、そこから神にある勝利を高らかに歌い上げるのが詩篇22篇なのです。

イエス様の叫びは単なる絶望ではなく、見捨てられたかに思える苦難の向こう側に約束されてた勝利の宣言です。ダビデがそうであったように、主も、十字架上でこの詩篇22編が成就したのだと宣言なさったのです。しかし、十字架の苦しみの故に詩篇の最後まで歌い上げることができなかったのではないかと思います。

私たちは、どんな困難の中でも、神から見捨てられたと思える事態の中でも、その向こうにある勝利を先取りする詩篇22篇の叫びを忘れてはなりません。(Ω)

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受難週⑤ 木曜日

2025年04月17日 | 降誕節・復活節
マルコ14:24 イエスは言われた、「これは多くの人のために流すわたしの契約の血である」。

受難週の木曜日は、その夕刻に、主イエスが弟子たちと共に夕食の席を持たれた日にあたります。レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた最後の晩餐として有名な場面です。

実はこの晩餐の食事は「過越の祭の食事」のことです。この過越の祭は、かつてイスラエル民族が奴隷の地エジプトから脱出する前夜、小羊を殺して血を流し、その肉を食べたことに由来する祭です。

出エジプトの前夜、神は、エジプト中の長子(長男)のいのちを奪いました。死をもって下される神のさばきです。心を頑(かたく)なにするエジプト王パロとその民に神の御怒りが下ったのです。

しかし、イスラエルの人々は、小羊を殺し、その血を各自の家の玄関に塗ったのです。その血は、身代わりに小羊が殺されたという「しるし」となりました。それを目印にして、死は〝過ぎ越し〟て行きました。

こうして、エジプト中の長子は死んだのですが、イスラエルからは死者が出ませんでした。この災いにたまりかねたエジプトは、イスラエルを奴隷から解放し、出エジプトが実現したわけです。

このように、死のさばきが過ぎ越して行ったことを記念して「過越の祭」が代々祝われてきたのです。

この過越しの時に殺された小羊は、十字架で殺されるキリストの予表でした。しかし、人々の目にはそのことが閉ざされていたので、イエス様が小羊として殺されるべきキリストだとは分かりませんでした。

話はそれますが、少し説明をしておきます。過越の祭は金曜日なのに、過越の祭の夕食が木曜日の夜なのはどういう訳なのでしょうか。創世記の万物創造の記録で、一日のことを「夕があり朝となった。第一日である」とあるように、聖書的には一日は日没から始まります。ですから、木曜日の夕食はすでに金曜日です。つまり過越の祭の夕食です。夕食から一日が始まるわけです。

さて、キリスト教会では聖餐式でパンと杯をいただきますが、この起源となったのが、イエス様が弟子たちと共に食された「過越の食事」です。

昔ながらの過越の食事では、エジプトで殺された小羊を記念してパンを裂き、小羊の血を象徴するぶどう酒を飲みました。しかし、イエス様は食事の席で、ご自身の肉体と血を記念して食事をするように命じられました。

聖餐式で裂かれるパンはイエス様の肉体を象徴しています。パンを引き裂いて食べるようにして、主の御体は十字架で引き裂かれました。そして、真っ赤なぶどう酒は、イエスが十字架で流された血を象徴しています。

イエス様は、このぶどう酒の入った杯は、多くの人のために流すわたしの契約の血だと言われました。血は契約のしるしです。イエスが命をもって結んだ契約のしるしです。

普段、私たちは契約のしるしとして印鑑を捺しますが、印が赤いのは血の契約に由来しています。私たちの神は、私たちを救い出すために、朱肉ならずご自身の真っ赤な血で印を捺して、この救いの契約が確かなものであることを証しなさったのです。

ですから、この杯が表している血のしるしはいかに重要なことでしょうか。聖餐式を受けるたびに、これは契約なのだということを心に刻むのです。神が私たちと結んでくださった偉大な契約です。救いのための決定的な契約です。

この契約によって、神は私たちの罪を永遠にゆるしてくださいました。この契約によって、神は私たちを神の子どもにしてくださり、御国の相続人としてくださいました。

このような恵みの契約を与えてくださった主イエスの御名があがめられますように。(Ω)

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受難週③ 火曜日

2025年04月15日 | 降誕節・復活節
マルコ11:28 何の権威によってこれらのことをするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか。

受難週の火曜日は、論争の火曜日と呼ばれています。律法学者たちが、イエスを殺す口実を得ようと論争をけしかけてきたことに由来します。マルコ11章20節から13章までが火曜日の出来事です。

さて、先に、神殿で売り買いをしていた商売人たちをイエス様が追い出されたわけですが、このことで、神殿のおもだった人々は文句をつけにやって来ました。

何の権威でこんなことをするのか」。

彼らはイエス様の権威を認めていませんでした。ナザレ出身の大工の息子のくせに……という苦々しい思いに満ちていました。人間的な権威を拠り頼んでいる人は、神の霊的な権威を認めたがりません。

文句をつけてきた祭司たちは、レビ族のしかもアロンの家系の人々です。彼らにとって、先祖代々守ってきた伝統こそが権威の拠り所でした。

また、律法学者たちにとっては、どの学派に属しているのか、どのラビ(先生)に師事したのかが権威の拠り所でした。しかし、そのような人間的な拠り所が、かえって神からの真の権威を見失わせます。

イエス様は、人としてはアロンの家系の出ではありませんでした。そのため、祭司たちから見れば「どこの馬の骨か分からない者」です。

しかし、イエス様こそ、天の父のふところから来られた神のひとり子です(ヨハネ1:18)

イエス様は有名なラビに師事したわけではありませんでした。そのため、律法学者から見れば無学で権威のない人物でした。しかし、イエスは律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えられました(マタイ7:29)。イエスの語られる言葉は、いつも聖霊によって導かれた言葉でした。聖霊による言葉には権威があるのです。このことは、聞く側も聖霊によって聞かなければわかりません。

イエスを信じるとは、イエス様に神の権威を認めることです。イエスの言葉は単なる人の言葉ではなく、神の御言だと認めます。そう認めた人は、イエス様の御言を通して恵みを受けることができます。

「沖に出て網をおろしなさい」とイエス様に言われて、ペテロはすぐさまその言葉を素直に聞くことが出来ませんでした。なぜなら、大工の語る言葉として聞いたからです。ペテロにとって、漁の専門家だという自分の経験が権威だったからです。

しかし思い直して、イエスの御言に権威を認めて従いました。すると網が破れるほどの大漁でした。この出来事はペテロにとって、イエスの語る言葉が神の御言であると理解する転機となったことでしょう。

ですから、ガリラヤ湖上を歩かれるイエスに向かって、「主よ、私に来るように命じてください」と求めました。「湖の上を歩いて来なさい」というイエスの言葉があれば歩けるのだと信じたからです。

こうして、ペテロはイエス様の言葉が自然界をも従わせる権威ある神の御言だと信じたのです。事実、イエスが嵐に向かって「しずまれ」と命じられると、大波はおさまりました。悪霊に向かって「この人から出て行け」と命じられると、悪霊は出て行きました。

何故ですか。イエス様の御言には自然界も霊界をも従わせ得る権威があるからです。イエス様の御言には、このような真の権威があると認め従う人に、神の御言は力を表します。

その真の権威をお持ちであるイエス様が言われるのです。「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされた」。何とすばらしい宣言でしょうか。イエス様には罪をゆるす権威があることを認める人に、罪のゆるしは現実となるのです。

このようにして始まった論争の火曜日ですが、火曜日だけに終わらず受難日に至るまで、訴えるべき欠点はないかと調査が続きます。それは丁度、過越しに屠られる小羊に欠陥はないか、入念に観察するかのようです。

律法によれば、小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。そしてこの月の十四日まで、これを守って置き……とあります(出エジ12:5-6)

これは犠牲となる小羊に問題があってはならないからです。民の身代わりになるのですから、完璧な小羊でなければなりません。そのために、取り分けてから5日間は病気や怪我はないかを観察したのです。

神の小羊であるイエス様に何の欠陥もないことを確認するかのように、ユダヤ当局の調査は続きます。最後にはユダヤの裁判でも、ローマの法廷でも、イエスの罪を発見できなかったのです。

結果的にはイエスは傷のない完璧な小羊であることが明らかにされたのです。このお方こそ、私たちのの身代わりとなるに相応しい完璧なお方です
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受難週② 月曜日

2025年04月14日 | 降誕節・復活節
マルコ11:17 わたしの家は全ての国民の祈りの家ととなえられるべきである。

今週はイエス・キリストが十字架で死なれた金曜日を含む「受難週」です。その週の出来事に沿って十字架と復活の御足跡を辿ってみることにします。

昨日は、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入城なさった日で「棕櫚の日曜日」でした。その翌日の月曜日は、「宮きよめの月曜日」と呼ばれます。

「宮」とは「神殿」のことです。イエス様はエルサレムに入り、神殿をご覧になりました。しかし、そこは本来の神殿の姿ではありませんでした。

出エジプト記には「幕屋」について記されていますが、それは神殿の原型となったものです。その幕屋(神殿)とは……、①神が住まわれる家です。②神への礼拝がささげられる場所です。

ところが、当時のエルサレム神殿における人々の関心は、神への祈りではなく、商売のことでした。そのことをイエス様はお怒りになりました。本来の姿を失った神殿に、神が住まうことができるでしょうか。

だから、イエス様はこう言われたのです。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」マタイ8:20)

イエス様が来られたのは、罪人を救うためではありますが、視点を変えれば、神殿の本来の姿を回復するためと言えるでしょう。その姿とは、本来の人間のあるべき姿とも言えます。それは……、

第一に、神と共にある人間の姿です。

神殿のように神を住まわせる家……それが、私たちの本来あるべき姿です。神が共に住まれる家ってどんな家なんでしょう。まさに、神殿はそのモデルルームのようなものです。

神殿で罪のゆるしのための血が流されたのは、罪がきよめられた所に、神が住まわれることを予表しているわけです。イエス・キリストの血によって罪のきよめがなされ私たちの中に、神は共におられるのです。

第二に、神を礼拝する人間の姿です。

神殿で礼拝がささげられ、祈りがささげるように、私たちの本来あるべき姿は、神を礼拝する姿、神への祈りのある生き方です。

ところが、罪人である人類は、本来の姿からほど遠い者になっています。堕落したエルサレム神殿の姿は、罪によって堕落した人類の姿をあらわしています。

ですから、イエス様がエルサレム神殿の堕落に対して怒られたのは、私たちに対する怒りでもあります。

神を住まわせようともしないで、神に反抗する頑なな心を、イエス様は悲しんでおられます。神への祈りの家とせず、商売の家としてしまっている……富を主人とする姿……ことへの、愛を込めた怒りなのです。

その後、イエス様は、私たちの罪をきよめるために十字架で血を流されるわけですが、それは、私たちを、神の住まう場所としてふさわしく、きよめるためです。

私たちこそ、新約時代の神殿です。聖書はこう言っています。あなた方は神の宮(神殿)であって、神の御霊が自分の内に宿っていることを知らないのか(Ⅰコリント3:16)

ですから、イエスが「わたしの家は全ての国民の祈りの家ととなえられるべきである」と言われたように、私たちは祈りの家、礼拝の家となるべきです。

神は、イエスの血で私たちをきよめ、聖霊の住まわれる神殿となさいました。私たちが、神殿にふさわしく、祈りがあふれる家であり続けることができますように。(Ω)

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受難週① 日曜日

2025年04月13日 | 降誕節・復活節
マルコ11:3 主がお入り用なのです。

日曜日から受難週です。イエス・キリストの十字架と復活を記念しておぼえる週です。受難週の金曜日にイエスは十字架で死なれ、三日後の日曜日に復活されました。

受難週は「棕櫚の主日」と呼ばれる日曜日から始まります。その日、イエスはロバの子に乗ってエルサレムに入城なさったわけですが、そのとき人々は棕櫚(シュロ)の葉で歓迎したことに由来します。

①期待はずれの王

旧約の預言は、キリストは神の国の王として来られると預言していました。そこで、人々は、偉大な王の出現を期待していたわけです。人々の期待は、武力をもって敵を滅ぼし支配する王でした。

イエスこそ「王なるキリスト」だと人々は期待しましたが、イエスは軍馬にではなくロバの子に乗ってエルサレムに入られました。兵士ではなく、ガリラヤの漁師出身の弟子たちを引き連れて来られました。

都合の良いキリスト像をえがいていた人々にとって、イエス・キリストは期待はずれの王でした。

あなたはどのようなキリストを期待していますか。スーパーマンのように難問を一気に解決するキリストですか。何でも「いいよ、いいよ」と言って甘やかしてくれるキリストですか。とすれば、イエスは期待はずれの王です。

②武装解除するために来られた王

ロバの子に乗って来られたのには重要な意味があります。預言者ゼカリヤは「来るべき王はロバの子に乗って登場し、戦車や弓を取り除くために来られる」と預言しましたゼカリヤ9:9-10)

人々は昔も今も、武力で平和をもたらそうとしましたし、理想郷(神の国)を実現するためには、武力も必要だと考えて来ました。しかし、イエス様は武器を取り除くために来られました。

まず最初に、イエス様は、私たちの心の中から武装解除なさいます。人も自分も傷つけ刺し通す槍や剣が私たちの中にあります。それを取り除き、平和の王国を私の中に建て上げられます。

人の中にある武器……それは罪のとげです。人間の根底に巣くう罪こそ、人を傷つけ殺して死に追いやる最大の武器です。核兵器より恐ろしい武器です。

王なるキリストをお迎えして、私たちの心にある武装を解除すべきです。

③王をお乗せする子ロバを主はお入り用だ

イエスは軍馬ではなく、あえてロバの子に乗られました。足どりもヨタヨタとする頼りのない子ロバに乗られました。しかし、主はそのような子ロバがご入り用なのです。

私たちは子ロバのように、愚かで、弱い存在です。しかし、そんな子ロバを主はご入り用です。主をお乗せする子ロバになろう。私が重要なのではありません。私がお乗せしている主イエスが重要です。

私の人生の行く所どこへでも、子ロバとなってイエス・キリストをお連れしよう。そこに神の御国のご支配があるようにと祈ります。(Ω)

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降誕節10 《礼拝しない人々》

2024年12月26日 | 降誕節・復活節
マタイ福音書2:13~23 主の使いが夢でヨセフに言った、立ってエジプトに逃げなさい。……ヘロデが幼な子を探し出して、殺そうとしている」。
 
キリストが王として誕生されたことによって、3種類の人が登場しました。
 
①東方からの博士たち……何をおいても礼拝するために馳(は)せ参じる人々です。野の羊飼いたちもそうでした。
 
②ユダヤの聖書学者……彼らはキリストの生誕の地まで知りながら、何も行動を起こさない無関心派の人々です。
 
③ヘロデ王……彼は自分以外の王を認めませんでした。そこで、イエスを殺すためにその地方の幼児を虐殺しました。
 
多くの人々が「無関心派」です。キリストについて知識はあります。クリスマスがキリストの誕生を祝う日だと知っています。キリストが十字架にかかったことも知っています。でも、キリストを受け入れようとしません。
 
無関心とは、自分との関わりを否定する人です。キリストが十字架で死なれたことを知っていても、それが〝自分のためだ〟とを認めないのです。
 
ユダヤの律法学者たちほど、聖書に詳しい人は他にいません。特に彼らは王宮おかかえの学者ですから、ユダヤの国内の選りすぐりの学者であったはずです。しかし、どんなに豊富な知識も、自分との関わりがなければ空しい知識です。聖書の御言を自分のこととして受けてください。
 
たとえば、「神は御子をたまうほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)という御言は、「神は御子イエスを〝私に〟与えてくださるほどに、〝私を〟愛してくださった」と受け取ることです。
 
さて、ヘロデのように、自分を王とするタイプの人もいます。
 
あなたは誰を王としていますか?。「自分」が王になっていると、ヘロデ王のように反応します。自分を王とする人は自分以外の王を認めません。
 
ヘロデは自分の王座を守るために何でもした人物です。非常に猜疑心(さいぎしん)の強い人で、王座を危うくする者であれば妻や息子たちさえも粛正(しゅくせい)した王でした。そのために人々から、「ヘロデの息子であるより、ヘロデの豚であるほうが安心だ」とまで揶揄(やゆ)されました。ユダヤ人は豚を食べないから、豚であるほうが安全だという皮肉です。
 
私たちの心を点検してみましょう。ヘロデ王のようにキリストを殺そうとする心はないだろうか。あるいは、律法学者らのように無関心の心はないだろうか。結局はそのような心が、キリストを十字架につけてしまうのであり、それが私たちの罪です。
 
キリストは神の国の王として降誕されました。キリストを信じるとは、キリストを私の王としてお迎えすることです。
 
人類は歴史の中で、さまざまな王政を体験してきました。有能な王の治世は平和をもたらしますが、むしろ、そのような王はまれで、王制統治による悲惨な歴史が続きました。歴代の王たちも罪人に過ぎませんでした。
 
そこで、現代では、王制は象徴になって、民主主義による政治が一般的になりましたが、その民主主義も汚職と腐敗でいたる所にほころびが出てきました。民主主義という名の王も、堕落し、悪魔に豹変します。
 
地上には王にふさわしい人物も王制に代わる制度もないのです。キリストこそ私たちの王となるべきお方です。
 
主なる神はイエスに王座をお与えになり、その支配は限りなく続く(ルカ1:32)ようにご計画なさいました。そのような神の御国は、キリストを王として受け入れた私たちの中で実現します。(Ω)


降誕節09 《東方賢人たちの礼拝》

2024年12月25日 | 降誕節・復活節
マタイ福音書2:1~12 ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは……その方を拝みに来ました。
 
神の国の王としてお生まれになったイエス・キリストを礼拝するために、東方から博士たちが来訪しました。「東方」とは、今日のイラクかイランの地方ではないかと言われています。
 
さて、イエス様を出産したあとも、ヨセフとマリヤはベツレヘムにそのまま滞在していたようです。生後間もない幼な子を連れての旅は無理と判断したのでしょう。
 
その滞在期間中に、きよめの儀式のためにエルサレム神殿に詣でました。それは、すでにルカ福音書で見たとおりです。
 
ですから、東方からの博士たちが来訪したのは、イエス誕生の当日ではなく、出産後のベツレヘム滞在中の時だと考えられます。しかも、誕生後、数ヶ月は経過していたことでしょう。
 
さて、当時の旅は現代の旅と比較にならないほど大変なことでした。旅に出るときには、別れの杯を交わしたほどに、生きて帰れないかも知れない、途中でどんな災難が待ち受けているかも知れないのです。
 
そのような時代ですから、東方からやって来た博士たちも、よほどの決意をもって旅に出たはずです。彼らはキリストに会うために何かを捨てて旅に出たのです。
 
「博士」ですからそれなりの地位のある人たちですが、その職を辞して旅立ったのかもしれません。また、ボディーガード役の傭兵や、道案内のために地元のガイドを雇いながらの旅ですから、相当の費用がかかったはずです。そのために、財産も費やしたことでしょう。
 
キリストに出会うための旅とは、何かを捨てる旅だと言えるでしょう。
 
キリストを得るためには欲張りになってはなりません。物事をきわめることの背後には、多くの捨てなければならないものがあるはずです。「これだ」と確信するものをつかむために、それ以外のものを捨てます。
 
俳句の美しさは、たくさんの言葉を捨てることによって、残された「五・七・五」の言葉に輝きが増すのだと思います。捨てることによって、何が大切なのかが明確になります。
 
欲張って持ちすぎて、かえって何も得ることができません。焦点がぼやけるだけです。
 
聖書の真理は逆説的です。捨てることで得るのです。自分でいのちを得ようとしたらそれを失い、キリストのために捨てるものはそれを得るのだと、主は言われました。
 
自分で自分のいのちを得ようとすること……つまり得ようとすることによって、私たちは多くの重荷を背負い込み、大切なものを見失っていないでしょうか。
 
物を捨てられないでゴミ屋敷になった話は、現代人を象徴するかのようです。人生の様々なしがらみ、こだわり、自慢、誇りなど……捨てられないで、重荷になっているものが沢山あります。
 
そのような大きな荷物は、キリストに出会う旅路には足手まといです。旅人は身軽でなければなりません。東方の博士たちのいさぎよさと大胆さに続く者は幸いです。(Ω)


降誕節08 《待望者たちの礼拝》

2024年12月24日 | 降誕節・復活節
ルカ福音書2:21~39 わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。
 
イエス様の誕生後、律法の規定に従って犠牲を献げるために、幼な子と共にエルサレム神殿に詣(もう)でると、そこで、ふたりの老人と出会いました。
 
この出来事は、イエスが誕生されて8日目に割礼を受けるのですが、さらにきよめの期間としての33日が経過した日のことです。
 
律法によれば、この日数が経過しなければ神殿に入ることを許されなかったとありますので(レビ12:2-6)、イエス様の誕生から約1ヶ月半が経過していることになります。 ※東方からの博士たちの来訪を機に、ヘロデ王がベツレヘム地方の幼児殺害を行ったのは、更にこの後の事件である。ルカは幼児殺害事件を記録していない。
 
さて、神殿で出会った老人のひとりシメオンは、キリストを待ち望む敬虔なユダヤ教徒でした(ルカ2:25)。彼は聖霊によって、救い主(キリスト)を見るまでは死ぬことはないと知らされていました。
 
もうひとりはアンナという老女(ルカ2:36)、彼女もキリストの誕生を待ち望んでいました。そして、幼な子イエスを知って、キリストを待ち望む他の人々にこの知らせを語りました。
 
ふたりともキリストとの出会いを待ち望んでいました。待ち望むことは、彼らをいかに元気にしたことでしょう。たとえ歳老いたとしても、主を待ち望む者は新たな力を得るのです。
 
イザヤはこう預言しました。「主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ40:31)
 
今の時代は「待つ」ことが苦手な時代です。何でもスピード化された社会です。ほしければすぐにコンビニ店で手に入れることができ、新幹線や飛行機でアッという間に目的地に行ける時代です。
 
そんな時代に、あえて待ち望む人々……それがクリスチャンです。
 
神の御言が実現するのを待ち望みます。たとえ何世代も後になろうとも、信じて、その信仰を後生に伝えてでも待ち望みます。そのように待ち望んだ人々にクリスマスの祝福はとどけられました。
 
旧約のユダヤ人たちもキリストを待ち望みました。そして、新約のクリスチャンたちも、このキリストを知り、キリストが再びおいでになるのを待ち望む人々です。
 
主を待ち望むことは、主が来られるための道を用意することです。
 
この道を通って主は来られます。この道を通って、私たちは主とお会いします。今日も、待ち望む人々に祝福と新たな力がありますように祈ります。(Ω)


降誕節07 《羊飼いたちの礼拝》

2024年12月23日 | 降誕節・復活節
ルカ福音書2:8~20 羊飼いたちは、見聞きしたことが何かも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、また讃美しながら帰って行った。
 
クリスマスの出来事を最初に知らされたのは、野で羊の番をしていた羊飼いたちでした。このすばらしい知らせは、世の地位ある人々にではなく、名も知れない羊飼いたちに伝えられました。
 
クリスマスの時、世間では何が行われていたか思い出してください。ローマ政府の命令によって人口調査が行われ、人々はそれぞれ生まれ故郷で住民登録している時でした。
 
人口調査は、ローマ政府の徴税と徴兵の対象者を登録するためですが、羊飼いたちはその対象外の人々でした。ですから、登録をする人々でにぎわうベツレヘムの村をよそに、クリスマスの夜も羊飼いたちは野で羊の番をしていたのです。
 
正式な人口としてカウントされない羊飼いたちでしたが、神はお忘れになりませんでした。救い主を待望している名もない彼らに、いの一番にキリスト誕生の福音は伝えられました。
 
ローマ帝国は羊飼いを数の内に入れなくても、神の国は、信仰のある羊飼いたちをひとりも間違えずに数えています。地上の国は羊飼いの名を記録しませんが、神の国には彼らの名が記されています。
 
神は、この世での名声や立場や能力をご覧になりません。その人の信仰をご覧になります。
 
さて、天使からクリスマスの知らせを聞いた羊飼いたちは、さっそくベツレヘムの村へ急ぎました。すごい行動力ではありませんか。
 
狼などに羊が襲われないために夜番をしているのに、羊を放置して出かけるのは心配です。かといって、目の悪い羊をぞろぞろと夜中に連れて行くのもおおごとです。私の想像ですが、たぶん彼らは羊を野に残して行ったのではないかと思います。財産以上に、救い主にお会いすることの方が彼らにとっては大切なことでした。
 
いずれにせよ、神の御言を聞いてよし!行ってみようとする彼らの信仰には教えられます。聞いたことを実行しようとする心……このような耕された地(心)に御言がまかれるとき、すばらしい収穫があります。
 
その収穫とは、見聞きしたことが、自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、また讃美しながら帰ることでした。
 
御言を聞いたとき、あれこれと都合をつけないで、御言を優先できるように祈りましょう。「あぁ、主の御言の通りでした」と告白できる喜びを味わいたいものです。(Ω)
 

降誕節06 《キリストの誕生》

2024年12月21日 | 降誕節・復活節
ルカ福音書2:1~7 マリヤは月が満ちて、初子を生み、布にくるんで、飼い葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
 
キリストを身ごもったマリヤと夫ヨセフは、ナザレという村に住んでいました。ナザレはイスラエル北部のガリラヤ湖の西側に位置する小さな村でした。
 
ところが、人口調査のために各自の生まれ故郷にもどって住民登録せよとの法令が、ローマ帝国より出されたのです。そのため、ヨセフとマリヤはナザレから南へ100km以上もあるベツレヘムに旅立たなければなりませんでした。
 
そんな旅先のベツレヘムで月が満ち、マリヤはキリストを出産することになったのです。
 
もし、この法令が出されていなかったなら、「キリストはベツレヘムで生まれる」という預言は成就しませんでした。預言者ミカは、キリストの出生について次のように預言しました。
 
ベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから、わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである(ミカ5:2)。その他にも、キリストはダビデの家系から生まれること(イザヤ11:1、エゼキエル37:24-25)、処女が身ごもること(イザヤ7:14)などが、数百年も昔から預言されていました。
 
これらの預言は、キリストの誕生が偶然ではなく、神からの確かなしるしであることを証ししています。
 
釈迦が誕生する預言も、マホメッドが誕生する預言も事前にはありません。しかし、キリストの誕生とその働きについては、あらかじめ多くの預言がなされており、そして予告どおりに成就しました。
 
これは、キリストの誕生とその働きが人間的なわざではなく、天的なわざであることの証しです。
 
さて、このようにして来られたキリストは、何と家畜小屋で誕生されました。神の御子が世に来られたというのに、神の国の王がおいでになったというのに、家畜小屋で誕生なさったとは……。 ※家畜小屋でお生まれになったという根拠は、宿屋に彼らの宿泊する場所がなかったこと。飼い葉桶に寝かせられたことから推測される。
 
その時のベツレヘムは、住民登録のための人々でごった返しており、宿屋はどこも満員で、キリストの誕生を迎える場所がなかったのです。宿を空けてくれる人はだれもいなかったのです。キリストのこのような誕生は、キリストをお迎えする余地のない、閉ざされた人の心を象徴するかのようでした。
 
では、私たちの心に、キリストをお迎えする部屋は用意されているでしょうか。
 
クリスマスは、キリストが私の内にお生まれになる場所を用意することから始まります。すばらしい部屋をご用意できれば良いのですが、そうも行かない人もおられるでしょう。ともあれキリストを歓迎する心が大切です。そこにキリストはお生まれくださいます。
 
クリスマスの聖画に描かれている家畜小屋は美しく描かれています。実際は臭くて汚いところです。明かりもありません。そんな所にキリストは生まれてくださいました。
 
私たちが主の誕生のために用意した心の部屋は、散らかしっぱなしの恥ずかしい部屋かも知れません。また、あちらこちらと罪でよごれた陰気な部屋かも知れません。でも、そんな私たちの闇の心に来てくださる救い主であることに感謝しましょう。
 
無理に小手先できれいにした部屋を用意したところで、すぐに化けの皮が剥がれるのは時間の問題です。ありのままの私の心にお迎えしようではありませんか。ささやかな場所ではありますが、そこで本当のクリスマスを祝おうではありませんか。
 
祈りましょう。主イエス様!。むさ苦しい場所で申し訳ないのですが、しかし、主よ、どうぞおいでください。歓迎します。(Ω)


降誕節05 《ヨセフへの告知》

2024年12月20日 | 降誕節・復活節
マタイ福音書1:18~25 その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
 
マリヤの婚約者ヨセフは、マリヤの胎内に子が宿っていると知って当惑しました。自分の身に覚えのない妊娠だからです。マリヤは「聖霊によって身ごもった」と言うが、果たして本当なのか。ヨセフにとっては受け入れがたい現実です。
 
そこでヨセフはマリヤとの婚約を破棄しようとしました(1:19)。もし婚約を破棄するなら、「ダビデの家系からキリストは誕生する」という神の預言は成就しません。
 
しかし、神はご自分の御言が実現するために、神自らお働きになります。夢で主の御使が現れてヨセフに告げられたのです。「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである」と(1:20)
 
もちろん、御言の実現のために私たちも努力します。しかし、それ以上に神ご自身がお働きになります。大切なことは、マリヤがしたように「お言葉どおりこの身になりますように」と御言を信じて受け入れることです。
 
ですから、ヨセフも神の御告げを信じて受け入れました。ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えたのです(1:24)
 
そこでヨセフは、マリヤの胎内の子が生まれるまで、彼女を知ることはありませんでした(1:25)。性交を持たなかったという意味です。つまり、人間の業(わざ)を加えなかったのです。そうすることによって、マリヤとヨセフは、生まれてくる子が人間の業によるのではなく、聖霊による誕生であり、この子が神のキリストであるとの確信が強められました。
 
このように、神の御業の始まりはいつも聖霊100%です。人間の業や考えを越えたところで始まります。人間的な何かを加えようとしたら失敗します。
 
あのアブラハムも、「あなたの身から出る子が約束の子だ」という神の御言に対して、年老いたサラではなく、女奴隷のハガルによって子を得ようとしました。つまり、神の御言を人間的な方法で実現しようとした事例です。
 
しかし、女奴隷ハガルから生まれたイシマエルは約束の子ではありませんでした。神の御言の通り、サラから生まれたイサクが約束の子でした。神のわざを人間的な方法で成そうとして、アブラハムはイシマエルを生みましたが、それは神の方法ではありませんでした。
 
先の婚約者ヨセフも、当初は、マリヤと離縁することでこの事態を解決しようとしました(1:19)。つまり、ヨセフの人間的なわざで事態を乗り越えようとしたのです。
 
しかし、神は、ご自身の御業を成就するために人間的な仕業ではなく、私たちの献身をお求めになります。御言の通りこの身になりますようにと、わが身を差し出す信仰を要求なさるのです。
 
私たちが神の子どもとして新しく生まれたのも、聖霊100%の働きであったはずです。私の人間的な努力や能力はまったく無力でした。血すじによらず、肉の欲によらず、ただ神によって生まれたのです(ヨハネ1:13)
 
聖霊100%によって生まれたのですから、その救いは本当の救いです。
 
それなのに、救いを肉によって仕上げようとする人がいます。律法の行いによって救いの確信を得ようとするのも、人間のわざを加えることです。聖霊100%で始めた純粋な救いに混ぜものをするのです。 ※行いが不要というのではない。救いの確信の根拠を行いに求めてはならない。
 
混ぜものがあるので、救いの確信が濁ります。また、薄まります。「聖霊によって始めたのに肉によって仕上げるのですか」と聖書は問いかけています(ガラテヤ3:3)
 
イエス・キリストの働きは聖霊によって始まり、聖霊によって完成します。神の子どもとして新生したクリスチャンも同じです。聖霊を頼りましょう。(Ω)
 

降誕節04 《受胎告知》

2024年12月19日 | 降誕節・復活節
ルカ福音書1:26~38 私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。
 
主は乙女マリヤに、「あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その子はキリストです」と告げられました。
 
伝統的なユダヤ教の教えの元で育ったマリヤは、救い主(キリスト)の来臨を待ち望んでいました。でも、まさか、そのキリストを自分のお腹に宿す身になるとは想像だにしていなかったことでしょう。
 
しかも、まだ結婚もしていないのに子を産むなんて……。当時としては非難のまとでした。「いったいだれの子を宿したのか」「ふしだらな女だ」。そんな世間の冷ややかな目にさらされるのです。時には、姦淫の罪を問われて処罰されることだってあったのです。
 
でも、マリヤは、お言葉の通りこの身になりますようにと申し上げ、神の御言を受け入れました。これはマリヤの献身です。
 
天の父が御子を世に遣わされるのも神の献身ですが、御子を宿すために自分の身を献げ、人々の誤解や疑いの目に一生涯自分をさらすことを受け入れたマリヤもまた献身したのです。
 
このような献身のあるところにクリスマスは成立しました。私たちも、マリヤのような献身をもってクリスマスを迎えようではありませんか。献身とは、フルタイムの伝道者や牧師になることだけを意味しているのではありません。神の御言を宿すために、自分の人生を提供することが献身です。
 
神の御言が、単に「絵に描いたぼた餅」に終わるのではなく、私の中で実現するために、自分の人生を神に提供することです。
 
聖書はあなた方の体を、神に喜ばれる生きた聖なるそなえものとして神にささげなさい。それが霊的な礼拝だと教えています(ローマ12:1)。自分自身を神に差し出すことが、霊的な礼拝だというのです。
 
神との交わり、神との出会い……それは私の外側で起きるのではなく、私の内側で起きることです。神の御言を受け入れた私の内側で起きるのです。私の体を……つまり人生を、そのまま神に差し出した私の中で起きる出会いです。
 
マリヤも御言のとおりこの身になりますようにと、身も人生も提供しました。彼女は、外側で神と出会ったのではなく、内側で出会いました。彼女は、神の御子を自分の内側に宿したのです。
 
こんなすばらしい出会いが他にあるでしょうか。
 
御言は種のようにして、私の内側に蒔かれ、私の内側で育ち、実を結びます。御言は種のように、私の内側に身ごもり、時が満ちていのちが生まれるようにして実を結びます。
 
神は、〝見えない御言が見える姿になるために〟私たちの体人生を用いられます。見えない御言が、マリヤのお腹で見える姿となって宿られたように……です。
 
電気を見ることができないように、御言も見ることができません。しかし、電気が電球に流れ込むことによって、電球が光り輝きます。見えない電気は、電球という器を通して現れます。
 
それと同じように、神の御言は、私たちの肉体とか人生という電球を通して現れるのです。光り輝いて栄光を現されるのです。
 
主よ、私の人生を使って、あなたの御言が現れるようにしてください。あなたの御心が、私の人生を通して表現されるためにお用いください。そう祈るクリスマスです。(Ω)
 

降誕節03 《出生地の預言》

2024年12月18日 | 降誕節・復活節
ミカ書5:2 ベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族の内で小さい者だが、イスラエルを治める者があなたの内から、わたしのために出る。
 
ベツレヘム・エフラタはエルサレムの南にある村で、イスラエルの王ダビデがこの村の出身でした。かつては、ユダヤの王の出生地として、当時はにぎわい、注目をあびたことでしょう。
 
しかし、月日は流れ、かつての栄光もすっかり薄れて、寒村となってしまいました。しかし、そんな村から、神の国の王であるキリストはお生まれになるのだと預言されています。
 
ミカの預言は、敵軍に完全に包囲された中で語られました(5:1)
 
周囲は八方ふさがりでしたが、上を見上げれば天は開いています。この励ましの言葉は天からの言葉です。私たちもどんな困難に囲まれたとしても、上を見上げましょう。救いは天から来るのですから……。
 
風前のともしび同然のベツレヘムの村から王としてのキリストがお生まれになるのだと語られました。この約束は村人たちに勇気と希望を与えたことでしょう。
 
そして歳月を経て、ついにイエス・キリストは、このベツレヘムでお生まれになりました。
 
ベツレヘムとはパンの家という意味です。
 
そんな村に、天からくだったいのちのパンであるイエス様がお生まれになりました。イエスご自身も、ご自分はいのちのパンだと言われました(ヨハネ6:48)。人々から忘れ去られたような村でしたが、その名のごとく、いのちのパンを宿す家になりました。
 
私たちも、そして教会も、世にあってはベツレヘムの村のように小さい存在ですが、いのちのパンであるイエス様を宿すパンの家」(ベツレヘムです。
 
人々を本当のいのちで満腹させられる「パンの家」(ベツレヘム)になるべく、私たちの内に御子イエスはお生まれくださいました。本当のいのちをあたえる「パンの家」となる使命のために祈りましょう。(Ω)
 

降誕節02 《家系の預言》

2024年12月17日 | 降誕節・復活節
イザヤ書11:1 エッサイの株からひとつの芽が出、その根からひとつの若枝が生え出て実を結ぶ。
 
エッサイとはイスラエルの王ダビデの父親の名です。つまり、王家の家系を示しています。そんな家系が切り株になってしまうという預言です。ダビデ王家はやがて没落し、ついにバビロン帝国の進撃のもとに滅亡します。つまり、切り株となったわけです。
 
しかし、神の激しい御怒りと共に、神の哀れみと慈しみも表されています。木を切り倒しても、切り株は残しておかれるからです。
 
神はダビデ王朝を根こそぎ抜いてしまわれたのではなく、切り倒されはしましたが、切り株を残されました。そして、イザヤによる預言は、その切り株から若枝が出てくるのだと語っているのです。
 
死んだような切り株ですが、神はそこからご自身の御業をはじめられます。そこから救い主キリストがお生まれになるとの預言です。そして遂に、クリスマスの時、ダビデ家の末裔としてお生まれになりました。
 
ですから、たとえ神の激しい御怒りの中にあっても、つまり、切り株のような状況の中からも、主は救いの御業をなさるのだと信じ期待するのです。主イエスも言われました。「神はこの石ころからでもアブラハムの子孫を興される」と……。
 
神の怒りは終着駅ではありません。神が成そうとしておられるご計画は、慰めと救いです。さらにイザヤはこう預言しています。
 
その日あなたは言う、『主よ、私はあなたに感謝します。あなたは、さきに私に向かって怒られたが、その怒りはやんで、私を慰められたからです。見よ、神はわが救である。私は信頼して恐れることはない。主なる神はわが力、わが歌であり、わが救となられたからである』。(イザヤ12:1-2)
 
クリスマスに向けて、主が「ひとつの芽」を生えいだして、実を結ばせてくださることを期待して祈りましょう。(Ω)