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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

レビ記 6章

2024年03月23日 | レビ記
レビ記 6章
祭壇の上の火は、そこに燃え続かせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、たきぎをその上に燃やし、燔祭をその上に並べ、また酬恩祭の脂肪をその上で焼かなければならない。
(6・12)


レビ記は幕屋(神殿)で仕えるレビ人や祭司たちの働きを規定していますが、これは自分とは無縁の遠い昔のことのように感じられるかも知れません。

しかし、新約の時代において、イエスを信じる者は祭司であると教えています。

この主のみもとにきて、あなた方も、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを献げなさい(Ⅰペテロ2・5)

こういうわけですから、レビ記は私たちと密接な関係があることになります。もちろん「霊のいけにえ」と言っているのですから、文字通りの動物や穀物を献げるのではありませんが……。

レビ記6章からは、先の「ささげ物」に関して更に詳しく、かつ祭司がどのように献げるべきなのかを規定しています。冒頭の聖句は、各ささげ物を焼くための祭壇の火について規定しています。

その火を絶やしてはならない、消してはならないと命じています。

この「消してはならない火」は、もうひとつ、聖所の中にある燭台の灯火も同じく「消してはならない」と命じられています。両者は同じ「火」ではありますが、役割が異なります。 ※聖所の火は24章で考察。

第6章の祭壇のはいけにえを焼く火のことです。いけにえを捧げ続けることを意味していると思われます。おのれの〝肉〟を焼く火であり、また、罪の悔い改めの告白をささげる火を絶やさないとです。

私たちの自我とか肉を神にささげることは、1回限りでは終わりません。日々のことです。「日々、おのが十字架を背負って従え」と主は命じられましたが、肉の思いを十字架につけて葬ることの連続です。

また、罪の悔い改めも、1回限りでは終わりません。日ごとに罪を告白し、それを神の火で焼きつくして頂かなければ、生きて行くことができません。

そんな祭壇の火を燃やし続けることができるよう、聖霊の油を注いで頂こう。


レビ記 5章

2024年03月22日 | レビ記
レビ記 5章
もしこれらの一つについて、とがを得たときは、その罪を犯したことを告白し……、
(5・5)


先の4章に続き罪祭と愆祭についての規定です。罪祭と呼ばれる「罪のためのいけにえ」は、知らずにおかした罪、無意識に犯してしまう罪のためのいけにえです。根っ子の罪(原罪)のためです。それに対して、愆祭と呼ばれる「罪過のためのいけにえ」は、自覚的な罪、行為の罪についてのいけにえです。

さて、5章では冒頭の聖句が教えるように罪の告白を命じています。

新約聖書でも同様に命じています。もし私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義から私たちをきよめてくださるのです(Ⅰヨハネ1・9)

いけにえを献げたら罪は解決するのでしょうか。そんなことはありません。自分の罪を認め、自分の口で告白することが、罪に勝利する大切な道です。

ある日、交通違反で違反切符を切られたことがありました。しぶしぶ反則金を納入しました。納入金を納めたのですから、交通違反の罪に問われることはありません。でも、自分の中には「運が悪かった」とか、「何もあんな所で取り締まりをやらなくても良いじゃないか」とか不平不満や自己正当化がくすぶっていました。こんな状況では、罪が本当に解決したことにはりません。違反したことをイエス様に告白しました。傲った運転や態度を悔い改めました。もっと大きな事故や罪をおかす前に、神が警告を与えてくださったことに感謝しました。

するとどうでしょうか。イエス様は真実な神です。私の心の暗やみを照らし、きよめ、本当のゆるしを実感させてくださいました。罪からの解放を味わいました。

このように、罪の告白は重要です。イエスはすでに罪の代価の支払いを済ませてくださいましたが、それは罪の解決の半分です。自分の罪を認めて告白することは真の解決になります。

告白……それは口を開くことです。口を開くことは心を開くことにつながります。心を開くと、神の栄光の光が、罪によって汚された心の暗やみを照らし、きよめます。これは大切なことです。


レビ記 4章

2024年03月21日 | レビ記
レビ記 4章
もし人があやまって罪を犯し、主の戒めにそむいて、してはならないことの一つをした時は次のようにしなければならない。
(4・2)


第4~5章では、罪祭罪のためのいけにえと、愆祭罪過のためのいけにえの記録です。

罪をおかしたなら、罪のゆるしを得るために「いけにえ」を献げるよう命じられています。しかも、冒頭の聖句がしめすように気がつかないでおかした罪も指摘しています。

罪は、何かしらの支払いを要求します。これは罪に伴う原則です。

その支払いが滞ってしまうと、支払い額はふくらんでしまいます。イエス様がたとえ話で語られたように、王からの借金が「1万タラント」にまでなってしまった男のようになります。

王は、この男に対して借金を返済するよう命じます。つまり、罪は必ず代価を支払わなければならないことを示しています。こうして遂に、罪の支払う報酬は死であるという結論に至ります。

旧約の時代は動物のいけにえを献げましたが、遂に、新約の時代にいたって、本物のいけにえ、究極の一回限りのいけにえとして、イエス・キリストが十字架で献げられました。

このお方が罪の支払う報酬である「死」を支払ってくださったがゆえに、私たちは罪のゆるしを受けることができています。もはや、動物のいけにえを献げる時代は終わりました。


レビ記 3章

2024年03月20日 | レビ記
レビ記 3章
もし彼の供え物が酬恩祭の犠牲であって、牛をささげるのであれば、雌雄いずれであっても、全きものを主の前にささげなければならない。
(3・1)


第3章は酬恩祭とか和解のいけにえと呼ばれるささげ物についての規定です。名がしめす通り、神との親しい交わりを感謝して献げるいけにえです。

「和解」……何という素晴らしい言葉でしょう。

人類に最も必要なこと、それは「和解」です。人間同志の和解もそうですが、それ以上の神との和解です。神は、私たちに和解のいけにえ(酬恩祭)を献げるよう命じておられます。

その初めとして、神が、まず最初に、ご自分の御子イエス・キリストを、和解のいけにえとしておささげになりました。聖書はこう記しています。

すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、私たちに和解の福音をゆだねられたのである。(Ⅱコリント5・19)

この和解のいけにえ(酬恩祭)が、先の全焼のいけにえ(燔祭)と違うのは、脂肪と一部の内臓を焼いて神に献げるのですが、その残りを祭司や献げた者たちが共に食する点です。

和解の喜びを食事をもって表したのです。

あなたは神との和解を得ているでしょうか。和解を得るようにと、イエスは戸の外に立ってノックなさっています。扉を開けてお迎えするなら、主はあなたと親しく食事をなさると言われます。

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。(黙示録3・20)

今度は、私たちが、和解のいけにえとなって人々との橋渡しをする順番です。神から私へ、私から隣人へと、和解の福音が広げられて行く事こそ、私たちの献げる和解のいけにえです。


レビ記 2章

2024年03月19日 | レビ記
レビ記 2章
あなた方が主にささげる素祭は、すべて種を入れて作ってはならない。
(2・11)


第2章は素祭と呼ばれるささげ物についての規定です。

口語訳の「素祭」より新改訳の穀物のささげ物が分かりやすいでしょう。先の燔祭が動物を献げるのに対して、この素祭は穀物です。ただし、穀物をそのまま献げるのではなく、麦粉にして献げました。

素祭(穀物のささげ物)には幾つかの特徴があります。麦粉を焼いてパンにして献げる場合、種を入れてはならないのです。この種とは「パン種」のことで、酵母菌(イースト菌)のことです。

昔は酵母菌を単体で保存する方法がありませんから、酵母菌で発酵させた小麦粉の団子状のものを保存し、それを「パン種」と呼んだのです。それを少しちぎって新しい麦粉に混ぜて発酵させて焼くのが一般的なパンです。

しかし、神へのささげ物の場合、このパン種を入れてはならないと命じられているのはどういう意味なのでしょうか。

聖書ではパン種を象徴しています。最初の人アダムの罪によって、それが全人類の罪として広がったように、麦粉の中に小さなパン種が入ると、パン全体に影響を及ぼして全体をふくらませるのと似ているからです。

素祭(穀物のささげ物)にパン種を入れないのは、罪のない自分自身を神に献げることを表していると言えるでしょう。

とはいえ、罪のない自分などあり得るのでしょうか。あり得ます。それは「イエス・キリストにあって」です。イエス様の十字架の血潮によって私たちの罪はきよめられました。そのあなたを神に献げよ……と、神はお命じになるのです。

過越しの祭はイエス・キリストの十字架の死を預言した祭であったことは既に見てきたとおりです。過越しの小羊であるイエス様の死によって、私たちの罪はきよめられるのです。

この過越しの祭からはじまる7日間の祭は何という祭かご存知でしょうか。それは「除酵祭」とか「種なしパンの祭」と呼ばれる祭です。この祭ではパン種を入れないパンを献げ、パン種の入っていない煎餅のようなパンを食べて祝います。過越祭で罪をきよめられたなら、種なしパンを献げるのです。ですから聖書は次のように記しています。

あなた方は、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。私たちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、私たちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。(Ⅰコリント5・6~8)

私たちはイエス・キリストにあって「パン種のない者」なのです。そればかりか、聖霊なる神が内住なさっています。レビ記の素祭に関する規定はさらにこう述べています。

あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない(2・13)あなたはそれに油を加え、その上に乳香を置かなければならない。これは素祭である(2・15)

「油を加え」とは聖霊のことを表していると考えられます。「乳香」はキリストの香りです。「塩」はきよさです。そのような芳しいささげ物として、おのれ自身をささげる礼拝こそ、まことの礼拝です。


レビ記 1章

2024年03月18日 | レビ記
レビ記 1章
祭司はこれを祭壇の上で、火の上のたきぎの上で燔祭として焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。
(1・17)


レビ記は幕屋(神殿)における祭儀に関する教えから生活規範に至るまでの律法の細目が記されています。テーマは人はいかにして神に近づくことができるかです。

レビとはイスラエル12部族の内の「レビ族」のことであり、彼らは、神の神殿に仕えるべく特別に召された民です。祭司を排出するアロンの家系もレビ族であり、彼らは、神殿の様々な働きを担いました。

さて、第1~5章までは神へのささげ物について記録されています。「ささげ物」にはいくつかの種類があって、①燔祭(全焼のいけにえ) ②素祭(穀物のささげ物) ③酬恩祭(和解のいけにえ) ④罪祭(罪のためのいけにえ)等です。

第1章では燔祭とか全焼のいけにえと呼ばれるささげ物についての記録です。

このささげ物は雄牛とか小羊、やぎ、鳩などの動物を焼いて、その芳しい香りを神に献げるもので、礼拝を意味しています。自分自身を神へのささげ物とする献身を意味しています。この燔祭(全焼のいけにえ)は「贖罪の日」などの重要な祭で献げられました。

燔祭全焼のいけにえの特徴は、火をもって完全に焼いて燃してしまうことですその結果、芳しい香りが天にのぼり、その香りは主へのなだめの香りとなりました。

このような祭儀は旧約の時代のものであって、新約では動物を献げることはありません。なぜなら、イエス・キリストによってその意味するところは成就したからです。

ですから、新約の私たちは、全焼のいけにえ(燔祭)の意味するところを、神への礼拝とか普段の生活の中で表して行くわけです。

私たちの神へのささげ物は芳しい香りとなって天に届いているでしょうか。それを考察するにあたって、燔祭が火をもって燃してしまうささげ物であることに注目します。肉や脂肪を焼く芳しい香りが、神へのささげ物となったのです。

旧約の民は動物を献げましたが、新約の私たちは、自分自身が神へのささげ物です。

つまり、献身こそが最高の礼拝です。それはあなた方のからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなた方のなすべき霊的な礼拝であるとある通りです(ローマ12・1)

しかし、それは全焼のささげ物でなければなりません。が焼かれるのですこの「肉」とは、生まれながらの自分中心の生き方のことです。人間中心の思考や動機のことです。

このが聖霊の火によって焼かれ、神中心の思考や生き方へと導かれます。聖なる献身へと導かれます。このような献身こそ、神を満足させる芳しい香りとなって天に届きます。

イエス様が十字架にかかられる前夜、マリヤはナルドの香油をイエスにそそぎ、その芳しい香りは部屋に満ちました。彼女は300万円にもなる香油を惜しげもなく神に献げたのです。

しかし一方で、彼女の献身を批判する声も聞こえてきました。「何という無駄なことをするのか」と。その声は肉なる悪臭を放ったことでしょう。肉の思いは、神へのささげ物を無駄だと言い放つのです。神のことを思わず、人のことを思うのです。

肉の思いを聖霊の火によって焼かれ、芳しい献身の香りを献げることができるように祈ります。新約のクリスチャンこそ、真の燔祭(全焼のいけにえ)を献げる者たちです。


出エジプト記 40章

2024年03月16日 | 出エジプト記
出エジプト記 40章
雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らは旅路において常にそうした。しかし、雲がのぼらない時は、そののぼる日まで道に進まなかった。
(40・36~37)


荒野におけるイスラエルの旅路は、常に幕屋が中心でした。人々の宿営は幕屋を中心に各部族ごとに設営されました。つまり、幕屋に象徴される神が中心であり、その神への礼拝が彼らの旅の中心に位置づけられていました。

また、旅立つのも、留まるのも、幕屋に現れる〝雲〟次第でした。出立する時は、雲が幕屋の上から移動する時でした。雲が移動しない時は、先を急ぎたくてもそこにとどまりました。

このように、幕屋には栄光の雲とよばれる雲がいつもありました。夜になると、その雲の中に火がありました(40・38)。この雲は神の臨在を表していました。 ※この光景は天の御使たちが天と幕屋とを往来する様子が、雲のようにも見え、火のようにも見えたのであろう。

何もない荒野で、人々はこの雲を見てどんなにか勇気づけられたことでしょう。道に迷ったときも、この雲を目当てに宿営にもどることができました。こうして荒野における雲は、人々の生活の指針となりました。また、神が共におられることの励ましでありそのしるしとなりました。

この雲は、新約の時代の聖霊を表しています。聖霊は、私たちに神が共におられることを分からせてくださいます。現世という荒野を旅する私たちは、いつも聖霊に頼ります。

聖霊が私たちを進ませるとき、有無を言わず従います。聖霊がとどめられるとき、自分の考えでは進みたくても、とどまります。

そういえば、伝道者パウロもアジアへ進むことを聖霊が禁じられたことがありました(使徒16・6)。彼の宣教旅行は聖霊の導かれるままでした。

イスラエルの人々は荒野において神に従う訓練を受けました。私たちも、心をしずめて聖霊の導きを知る訓練が必要です。聖霊の声と自分の考えを区別できる訓練です。

そのためには、日々聖書の御言を読み、聖霊の語りかけに耳を傾けながら、天国を目指して旅をします。新約教会の旅が祝福されますように……。


出エジプト記 39章

2024年03月15日 | 出エジプト記
出エジプト記 39章
モーセがそのすべての工事を見ると、彼らは主が命じられたとおりに、それを成し遂げていたので、モーセは彼らを祝福した。
(39・43)


幕屋の建設工事もようやく終わろうとしています。ひとつひとつが主がモーセに命じられた通りに成し遂げられました。

天地が滅びるまで律法の一点一画もすたることなく、ことごとく全うされると主イエスが言われたように(マタイ5・18)、神はご自身の御言に妥協なさいません。それに比べて、私たち人間のなすことは何と不完全なことでしょうか。しかし、だからといって手を抜くことなく、力の限り神に忠実であろうとするなかで幕屋は完成します。

ただし、主を愛する心で忠実であることと、完璧主義とは区別されるべきものです。

さて、39章には、主がモーセに命じられたとおりであると10回も記されています。神の前には失敗だらけのイスラエルの人々でしたが、幕屋建設にいたっては主の御言に従順しました。

「主が命じられたとおりにする」ことによって、その幕屋や各種の器具も、またそこで仕える祭服も祭司たちも、本物であるという証しです。いわば「お墨付き」をいただいたわけです。

後のイスラエルが分裂して誕生した北イスラエル王国には〝主が命じられたとおりではない〟神殿や祭司たちが置かれたのですが、これらは偽りの神殿、偽りの祭司たちでした。本物と偽物の違いは、〝主が命じられた通りか否か〟です。

また、イエス様がユダヤ人たちにさばかれた時、そこに立った証人は、みな偽りの証人たちばかりでした。私たちは偽物であってはならない。

本物と偽物の違いは、御言どおりか否かにかかっているのです。主が命じられた通りとは、御言どおりということです。

新約の時代に、主イエス様が命じられたことは何でしたか。「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も愛し合いなさい」と言われた通りに生きよう。それが、本物の教会の姿です。

「互いに愛し合うなら、それによって、あなた方がキリストの弟子であることを、すべての者が認めるだろう」(ヨハネ13・35)とあるように、私たちが御言どおりに生きることによって、私たちが本物のキリスト者であることが承認されるのです。

イエスが愛されたように愛すること。それが本物の教会の証拠です。

御言どおりにできない弱さもあります。でも、そんな弱さも、あのキリストの十字架で完全な赦しを頂いているのですから、これからも大胆に「御言どおり」に生きることにしよう。そして何度でも、「御言どおり」になるようチャレンジしよう。御言どおりに愛する教会であろう。本物の教会として、本物の弟子として、主に仕えるために……。


出エジプト記 38章

2024年03月14日 | 出エジプト記
出エジプト記 38章
あかしの幕屋にもちいた物の総計は次の通りである。
(38・21)


幕屋にはたくさんのささげ物と、多くの人々の労力と献身が費やされました。そして、ささげ物の数量を記録にとどめました。金が29タラント730シケル。銀が100タラント1775シケル。青銅が70タラント2400シケルでした。

実に聖書の記録は〝まめ〟です。細かな量まで記録されています。

旧約聖書全体にいえることですが、聖書はささげ物の数、人数、家系など、また、捕囚の地バビロンから約束の地カナンに戻ってきた人々の名に至るまで、実に細かく記録しています。

神は私たちのささげ物を決してお忘れになりません。また、神のために献身した人々の名を、神は決してお忘れになりません。聖書の記録の〝まめさ〟は、神の記憶の〝まめさ〟を意味しています。

イエス様の弟子たちが伝道に出かけ、その先々で大きな成果が得られたことを報告しました。すると主は、献身的に働いたあなた方の名が天に記されていることを喜びなさいと言われました(ルカ10・20)

また、イエスの弟子であるゆえに、この小さい者のひとりに、冷たい水一杯でも飲ませてくれたら、その人は決して報いからもれることがないと、主は言われました(マタイ10・42)

このように、主は覚えておられます。私たちの小さなささげ物を、それがどんなに小さくても、神を畏れ、神を愛する心でなされたささげ物を、神は覚えておられます。天に記録されています。

小さなささげ物、小さな献身から始めよう。


出エジプト記 37章

2024年03月13日 | 出エジプト記
出エジプト記 37章
ベザレルはアカシヤ材の箱を造った。……また、純金で贖罪所(あがないのふた)を造った。
(37・1)


幕屋の調度品の中でも最も聖なるものは契約の箱別名あかしの箱と呼ばれる箱です。この箱には、十戒が刻まれた石板が納められました(申命記10・2)

神の御言は神をあらわしていますから、神の御言が記された十戒の板は、まさに神を象徴するものです。その十戒は、神の「きよさ」と「義」をあらわしています。

しかし、その十戒の板を納めた箱には贖いのふたを造って〝ふた〟をしました。ふたをしたのは、十戒の板を直接見ることのないためです。 ※「贖いのふた」は口語訳では「贖罪所」、新共同訳では「贖いの座」と翻訳。契約の箱にふたをする役割になっている。

ところが後の時代のことですが、ベテシメシの人々がそのふたを開けて見たところ、多くの人々が神に撃たれて死んだと記録されています(Ⅰサムエル6・19)。彼らは「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができようか」と嘆きました。この事件は、神をあらわす十戒の石板を「贖いのふた」無しに見ることも、行うこともできないことを象徴する事件でした。

十戒の御言はすばらしい内容ですが、それをまともに実行しようとしたら、有罪の宣告を受けて死んでしまいます。十戒の板は、お前は罪人だと私たちを定罪する板です。

だから贖いのふたが必要なのです。でもそれは、その蓋で永遠に隠すためではありません。イエス様は、罪のゆるしのために私たちを贖ってくださいました。このイエスの贖い無くして、私たちは神の御言を行うことができません。でも、主の贖いがあるので、躓きながらも、何度でも、十戒の内容を行おうと思うわけです。イエスの十字架による贖いがあるからです。そのようにして、神は十戒を完成なさるのです。


出エジプト記 36章

2024年03月12日 | 出エジプト記
出エジプト記 36章
モーセはベザレルとアホリアブ及びすべて心に知恵ある者、すなわち、その心に主が知恵を授けられた者、またその工事をなそうと心に望むすべての者を召し寄せられた。
(36・2)


幕屋の建設のために心に知恵ある者が召されました。単に手先が器用だからとか、頭の回転が早いからというのではなく、「心に知恵ある者」です。

神のご用には、人間的な能力が優れているからお役に立てるわけではありません。むしろ、心に知恵が必要です。それは、「神が知恵を授けてくださった」とあるように、人間的な知恵ではなく、神が授けてくださる知恵です。どんな知恵でしょうか。

第一に、神を畏れる心です。

神を畏れることは知恵の始まりです(箴言1・7)。どんなにすぐれた技術や知識があっても、高慢になったり、神を畏れない人は、本当の知恵者ではありません。神を畏れる心とは、裏をかえせば神の御前に謙そんな心です。

第二に、神を愛する心です。

私たちの知恵には限界があります。どんなに頭を絞って考えても、問題が余計にねじれてしまうことがあります。でも、そんな状況の中でも神を愛します。神を愛し、神が喜ばれる道を選び取ります。それが神からの知恵です。なぜなら「神は、神を愛する者たち……と共に働いて、万事を益となるようにして下さる」からです(ローマ8・28)

第三に、足ることを知る心です。

幕屋の建造にあたった心に知恵ある者たちは、民たちが献げた資材が充分であると判断し、献品を断った旨が記されています(出エジ36・4~7)。これが「悪知恵」によるなら、余分で私腹を肥やすことになったかも知れません。

そうではなく、神からの知恵とは「足ることを知る」知恵です。「知恵」という文字は恵みを知ると記すように、神からの恵みは充分であることを知ることが肝心です。

このような「心に知恵ある者」たちによって、キリストの教会も建て上げられて行きます。


出エジプト記 35章

2024年03月11日 | 出エジプト記
出エジプト記 35章
心から喜んでするものは、主にささげる物を持ってきなさい
(35・5)


イスラエルの大失態ゆえに、神のご計画は頓挫したかに見えましたが、神は確実にご自身の働きをなさいます。神は、人の失敗さえも益に変えて御業をなさいます。

そのようなわけで、神がホレブの山で示されたとおり、人々は幕屋の建設に取りかかりました。このために、ひとりひとりの自発的なささげ物によって幕屋の材料が集められました。

一人当たりの機械的な割りあてではなく、心から喜んでする者はと聖書は記しています(35・5)。そして実際に心から喜んでする男女はみなそのようにしたのです(35・29)

新約の私たちも、神が住まわれる神の宮を建て上げています。それは旧約の場合の物質でできた建物ではなく、霊的な住まいです。クリスチャンたちによる共同体……それが神の宮です。

私たちが喜んで神のために自分自身をささげることによって、どんなに素晴らしい宮が完成することでしょうか。

聖書は、私たちの体を生きた聖なる供え物としてささげるよう勧めていますが(ローマ12・1)そのような自発的な献身が組み合わさって、新約の宮が建造されます。神はそのような献身を喜ばれます。

献金も献身と同じです。各自は惜しむ心からではなく、また強いられてでもなく、自ら決めたとおりにすべきである。神は喜んでささげる者を愛してくださるのです(Ⅱコリ9・7)

おのおの分に応じた献げものによって、神の宮の建設に参加しよう。


出エジプト記 34章

2024年03月09日 | 出エジプト記
出エジプト記 34章
モーセはさきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。
(34・29)


モーセが主なる神から御言を聞くとき、人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られました(33・11)。いったいこれはどのような状況なのでしょうか。目の前に神の顔を見るのです。

この「朝マナ」で一貫して申し上げていることは、神を見た者はいないのです。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1・18)。ですから、モーセと顔を合わせて語り合ったのは、主(ヤーウェ)という御名で遣わされた天使(御使)と解釈すべきでしょう。 ※「朝マナ」の創世記18章、アブラハムに現れた3人の御使について参照。

可視的存在ではない神が、直接に姿をあらわすことはありません。新約の時代になってようやく、神のひとり子が見える姿で来られた限りであって、ましてや、旧約の時代に現れたのは神ご自身ではなく、主ヤーウェという名を受けた天使だと考えられます。

ですから新約聖書では、「シナイ山でモーセに語りかけた御使」(使徒7・38)と記しており、その「御使たちによって伝えられた律法」(使徒7・53)です。また、パウロは「律法はなんであるか。それは、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない」(ガラテヤ3・19)と記しているわけです。

つまり、初代教会は、モーセが受け取った律法は、御使(天使)から受け取ったと解釈しているのです。直接に神を見たのではなく、神の御使と顔を合わせたのです。でも、それは神と語り合ったに等しいのです。だから、「神は言われた」と記すわけです。

さて、モーセはこのようにして、主の御使を介して神の御言を受け取りました。この尊いお役目ゆえに、彼の顔の皮膚が光を放ちました。神の栄光を受けて光っていたのです。

旧約の時代でも、神の御言の任務に用いられると、こんなにも光り輝きました。ましてや、新約における御言を伝えるという任務に用いられる私たちは、それ以上の栄光で輝きます。

パウロはそのことを第二コリント3章7~11節で次のように記しています。

「もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。」

旧約の御言の任務とは律法の御言を伝えることですかたや新約の御言の任務とは「福音の御言」を伝えることです。同じ神の御言ですが、律法は「あなたは罪人だ」と定罪する働きでした。つまり、罪を宣告する務めです。しかし、福音は「あなたの罪はゆるされた」と告げる働きです。

モーセは律法という御言を伝えるために輝きましたが、新約のクリスチャンたちは福音という御言を伝えるために、神の栄光で輝くのです。

福音という最高の栄光ある御言を伝えるご用は何と素晴らしいことでしょうか。福音の御言を聞き、語る者たちに、神はモーセ以上にその顔を輝かせてくださるに違いありません。


出エジプト記 33章

2024年03月08日 | 出エジプト記
出エジプト記 33章
モーセは主に言った、「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、私たちをここからのぼらせないでください」。
(33・15)


先の32章では、「金の子牛事件」によって、主の厳しいさばきがなされました。そのことで、主はイスラエルの民と一緒にのぼって行かないとまで言われました(33・3)

主が共に行ってくださらない旅に何の意味があるでしょう。そもそも、主がイスラエルをエジプトから呼び出されたのは、彼らと共に住むため、彼らを通して神の栄光をあらわすためでした。

だからモーセは主に祈ったのです。

主よ、あなたがご一緒でなければ、私たちは進むことができません。一緒にのぼってくださいこれは霊的な死活問題です。どんなつらい旅路も、主が共に行ってくださるなら、私たちは乗り越えることができます。逆に、物事が順調に進んでいても、主が共におられないのであれば、それは空しい繁栄です。順境の時も、逆境の時も、主が共におられる人生でありたいものです。

なぜ、主は共に行かないなどと言われたのでしょうか。もちろん直接の原因は金の子牛の事件ですが、その背景にあるのはかたくなな心(新改訳・うなじがこわい)」です。思い出してください。エジプトの王パロがかたくなな心であったことを……。何ということでしょう。パロのもっていた性質はイスラエルにも引き継がれていたのです。新約の民も、罪と死の奴隷であった時代に、その支配者であった悪魔(サタン)の性質を受け継いでいるのと同じです。

以後、このかたくなさがイスラエルを悩まし、その旅路を困難にします。「かたくな」とか「うなじがこわい」の原意は、家畜を綱で引いても主人に従わないで首を固くする様子をあらわす言葉です。

私たちはエジプトを出て救いを得ましたが、にかたくなさがあると、信仰生活が困難になります。祈りましょう。御霊が私の内のかたくなさを砕いてくださいますように……。


出エジプト記 32章

2024年03月07日 | 出エジプト記
出エジプト記 32章
モーセは宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板をなげうち、これを山のふもとで砕いた。
(32・19)


モーセがシナイ山に登り、神からの律法を受け、十戒の石板を授かって下山するまでに40日が経過していました。その間、イスラエルの民はモーセが戻るのを待ちきれず、金の子牛を造ってそれを礼拝していたのです。

何故こんなことになったのでしょうか。過越しの御業を経験し、紅海を渡り、天からはマナを受け、これほどの沢山のしるしを経験したのに、それは無駄だったのでしょうか。ここに人の弱さがあります。

パウロもガラテヤ教会の人々に語りました。「あなた方は御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるのですか。あれほどの経験をしたのは無駄だったのですか」(ガラテヤ3・3~4)

人は肉体的な感覚で神を知りたい、神を体験したいと願う傾向にあります。霊の感覚より、肉の感覚の方が研ぎ澄まされているからです。そこで、神を見えるかたちに表現し、これが神だというしるしを求めます。金の子牛は肉の感覚で神を知ろうとすることの象徴ですガラテヤ教会の人々も、救いの感覚が希薄になるにつれて、割礼という肉体に見え、肉体で感じられるしるしを受けようとしたのです。肉の感覚で救いを確信したかったのです。

私たちの信仰の根拠であり救いの根拠は、見ることはできませんが、神の御言にあります。聖霊が神の御言を私の霊魂に刻んでくださることにあります。

御霊で始めたことを、金の子牛で仕上げてはならないのです。私たちと共に住まわれる聖霊に期待すべきです。聖霊に頼ります。

さて、金の子牛を鋳造したアロンについて考察してみましょう。

兄アロンは、口の重い弟のモーセに代わって神の御言を語ってきました。しかし、それは「このように語れ」という命令があって、それに従順であったわけで、実際に神の御言を受け取ったのは、語るのが苦手なモーセでした。

そのようなわけで、アロンは御言を語っていても、神の御言と民の声(目に見える神を造ってくれという要求)を峻別できなかったのです。自分自身も神の御言に聞き従うという従順がなければ、時として民の声に惑わされることになります。

私はアロン型リーダーなのだろうか。それともモーセ型リーダだろうか。そんなことを考えさせる出来事です。