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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
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使徒行伝 15章 その2

2022年03月31日 | 使徒行伝
使徒行伝 15章
主イエスの恵みによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である。(15・11)
 
世界で最初の教会会議の議決は重要なテーマですので、もう少し掘りさげることにします。

まず、聖霊と初代教会が出した結論を整理しておきましょう。これは、人間が便宜的に出した結論ではありません。聖書が記しているように、〝聖霊も共に〟お決めになったことです(15・28)

問題の発端は、異邦人も割礼を受けて、律法を守るべきではないか……という考えです。それは、ユダヤ人のようにならなければ救われないことを意味しています。

しかし、初代教会の人々は、異邦人はユダヤ人のようにならなくても、イエスの恵みによって救われるのだと、聖霊と共に結論を下したのです。肉の割礼を受けなくても良い。律法を遵守しなくても良いのだと結論を下したのです。

では、ユダヤ人クリスチャンが今なお律法を守っているのはどういうことですか。

それは救われるためではありません。律法による生活は、ユダヤ人としての大切な生活スタイルです。それを否定する必要もありませんし、逆に、それを異邦人に強要するのでもありません。

彼らは、クリスチャンになるために〝ユダヤ人であること〟を否定したのではないのです。あくまでも救いは恵みによるのです。ユダ人でさえ、イエスの恵みによって救いを受けます。律法を行ったからではありません。

ましてや、異邦人も同じです(15・11)

異邦人はユダヤ人にならなくても救われます。異邦人は異邦人のままで救いを受けます。異邦人の文化や伝統を否定するものではありません。日本人であることを否定するものでもありません。

ですから、クリスチャンには様々な信仰生活があるのです。

きっとアフリカのクリスチャンたちは、踊ったり太鼓をたたいたりして主を礼拝するでしょう。アメリカのクリスチャンたちは、スマートな音楽やフレンドリーな交わりをもって礼拝するでしょう。韓国のクリスチャンたちは、熱烈な叫びと祈りをもって礼拝するでしょう。同様に、日本のクリスチャンのスタイルがあります。

そのような文化的背景が異なる人には、それぞれの信仰スタイルに違和感を持つかも知れませんが、聖霊と初代教会はそのような礼拝や信仰のあり方を認めたのです。

いずれの民族も、私たちと同様に、恵みによって救いを受けたのです。その上で互いの文化の違いを認め合うのです。だからこそ、キリスト教は世界宗教になり得たのです。

こうして、全ての民族を包括して、ただ、キリストにある新しい人を再創造しようと、神は求めておられます(エペソ2・11~16)

このことは、身近な事でも同じです。自分と同じ信仰スタイルを他者に強いるのは行き過ぎです。彼には彼の育った環境や習慣があるので、私と同じような信仰スタイルではありません。

私が恵みによって救われたように、彼の場合も同様です。

このような考え方がなければ、自分と同じスタイルの人しか救われないことになります。互いの違いを認め合い、信仰によって結び合わされ、キリストの御身体を現すようにと私たちは召されています。

ただし、初代教会が提示したように、偶像礼拝と不品行と血を避けるようにと言われています(15・29)。ユダヤ人が律法による伝統の中で大切にしている事を踏みにじらないようにという愛による配慮です。

偶像礼拝と不品行(性のきよさを汚すこと)は、互いの交わりを破壊してしまいますから、当然避けるべきです。「血」は、特にユダヤ人が大切にしてきたものです。彼らは生血を食する習慣を忌み嫌いました。※「絞め殺したもの」とは、血抜きをしない肉を食することにつながるので、「血」と同様の意味合いだろう。

配慮もなく相手が嫌うことで交わりを壊してはなりません。律法という重荷は取り払われたとはいえ……すべては自由ですが……、ユダ人を前にしてわざわざ血のしたたるステーキを食べるなら、配慮のないことです。お酒やタバコを嫌うクリスチャンの前で、飲酒や喫煙は配慮のないことです。

こうして、互いの信仰スタイルの違いを超えて、愛のある配慮をもって教会の交わりは建て上げられて行きます。

◆◆◆◆◆

ユダヤ人からなる初代教会は、異邦人クリスチャンに律法厳守を強要しませんでした。律法で定められている安息日規定も十分の一献金も強要しませんでした。

それらは救いの条件ではありませんが、そこには祝福の秘訣が込められています。

日曜礼拝を厳守できなくても救われますが、週の一日を礼拝として献げることは祝福の秘訣です。厳密に律法に従うなら、日曜日ではなくて土曜日こそが安息日です。日曜礼拝を厳守しても、それは安息日規定を守ったことにはなりませんが……。私も今に至るまで日曜礼拝を休むことなく献げてきましたが、本当にすばらしい人生でした。

十一献金をしなくても救われます。「十分の一は神のものだ」(マラキ3・8~9)という事実に変更はありませんし、献げないことで神のものを盗んでいるとの指摘もその通りです。でも、キリストの十字架の死によってその罪も赦されています。それでも、私は献金します。そうすることによって、私は富を主人とせず、まことの神を主人とする人生へと導かれるからです。これは祝福の秘訣です。

このように、律法を行うことは救いの条件ではありませんが、律法には祝福の秘訣が満載です。聖霊の知恵をもって、律法に込められた祝福の生き方をするのです。 ※具体的な摘要は、「出エジプト記」「レビ記」「申命記」の学びを参照。律法も神の御言であって、聖なるものであり、正しく善なるもの(ローマ7・12)。決して、律法を軽んじてはならない。肉で行うなら「律法主義」になり、御霊によるなら、祝福ある生き方の宝庫となる。

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使徒行伝 15章 その1

2022年03月31日 | 使徒行伝

使徒行伝 15章
主イエスの恵みによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である。(15・11)


イエス・キリストを信じて救いを受ける異邦人クリスチャンが多く誕生する中で、ユダヤ人クリスチャン ―特にパリサイ派出身のクリスチャン― から異議が唱えられました。

異邦人クリスチャンも割礼を受けなければならない。つまりユダヤ人となって律法を守らなければならないというのです(15・1)

この問題を解決するため、異邦人クリスチャンを牧会するパウロとバルナバはエルサレム教会(ユダ人クリスチャンの教会)に赴(おもむ)き、ペテロをはじめとする使徒たちと協議をしました。その会議の様子が第15章6~29節に記されています。

割礼を受けなければ救われないのか。言い換えれば、律法を行わなければ救われないのか。もっと簡単にいうと、良い行いをしなければ救われないのか。それがこの会議のテーマです。

良い行いをすることは素晴らしいことです。そして、良い行いは「世の光」となって世を照らし、「地の塩」となって世を生かします。しかし、その良い行いによって救われるのではありません。

ペテロをはじめ使徒たちは、この会議の中で、割礼を受けて律法を行うことは、本家本元である我々ユダヤ人でさえ負いきれない〝くびき〟であった……と告白しています(15・10)

つまり、彼らでさえも、良い行いによって救いを受けることはできなかったのです。ましてや、異邦人は尚更のことです。そうではなく、恵みによって救われるのだと告白しました。

〝恵みによって〟とは、私の頑張りによらないという意味です。私の真面目さによらないのです。私自身に何ら根拠がないという意味です。〝一方的な神の愛によって〟なのです。

良い行いは大切です。それを否定するわけではありません。しかし、恵みは私たちの良い行いとか、努力とか、頑張りといった領域をはるかに超越しているのです。

私たちはこの恵みによって救われています。

「恵みによって」という世界を飛び出して、「律法によって」とか、「良い行いによって」という世界に足を踏み入れるなら、私たちは、あのペテロが告白したように「負いきれないくびきを負う」ということになります。

あなたは、いま、恵みの中にいますか。それとも、律法の中にいますか。もし、律法の中にいれば、負い切れないくびきを負って苦しんでいることでしょう。どうぞ、恵みの中に入ってください。そして、恵みの中にとどまってください。

主イエス様も、「重荷を負っている者は、わたしのところに来て休みなさい」と言われ、「わたしに学び、わたしのくびきを負いなさい。わたしのくびきは負いやすく軽いのだ」と言われたのです。イエス・キリストのもとに行くことは、恵みの中に入ることです。イエスのくびきを負うことです。

神が無条件で愛してくださり、私が何もしなくても、私を受け入れてくださるという恵みの世界にとどまってください。ここから出てはなりません。あまりにも心地よいので、何もしないでいることが申し訳ないと思うかもしれません。それで良いのです。

神の恵みの中にとどまり、恵みの中で充分すぎるほど満たされてください。やがて、恵みの中で動き出すことができるでしょう。そんな時の行いこそが、本当の意味の「良い行い」と言えるでしょう。

そんなにのんびり構えていたら、神がお困りになると思いますか。肉の力であろうとも、少しは頑張らないと、神のお役に立てないのではないかと心配ですか。しかし、私たちの神は、そんな了見(りょうけん)の狭いお方ではありません。

恵みによってとは、言い換えれば聖霊によってということです。逆に「律法によって」とは「肉の力によって」という意味です。

私たちが、肉の力という生まれつきの頑張りで行うなら、その生き方はやがて重荷となり、イライラとなり、自己卑下や他者批判へと展開するでしょう。肉から生じるものは、人間的には立派なようでも、神を喜ばせることができません。

ですから、恵みの中にとどまろう。御霊なる神の導きの中で動こう。今や、律法によって生きるのではなく、恵みによって生きる時代です。それが新約の信仰なのです。

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使徒行伝 14章

2022年03月30日 | 使徒行伝

使徒行伝 14章
あなた方がこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いている者である。(14・15)


パウロとバルナバは、トルコの町ルステラに到着しました。そこで、生まれつき歩けなかった男がいやされたことで、町中の人々がパウロとバルナバを礼拝しようとして押し寄せて来ました(14・8~13)

人々はパウロとバルナバを神として崇め、礼拝しようとしたわけです。それは、まことの神と偶像の神々とを混同しているために生じた混乱です。

ユダヤ人に伝道するときは、旧約聖書という土台がありますから、旧約で約束されていたキリストの来臨が成就したことに集中できたのですが、異邦人の場合は事情が違います。

同じ「神」という語彙(ごい)を使っても、異邦人の神々と聖書の創造主なる神とまったく違うわけです。ルステラの人々が、パウロとバルナバを、ギリシャ神話のゼウスとヘルメスだとして礼拝しようとしたのは、その辺のくい違いから来ています。

ルステラの町には、ギリシャ神話の伝説が残っており、かつてゼウスとヘルメスがルステラの町に来たのだが、そのとき彼らを歓迎したのはピレモンとバギウスの老夫婦だけだった。だから、再び神々が来られるときは町をあげて歓迎しなければならないという言い伝えがありました。

パウロとバルナバの活躍があまりにもめざましかったので、人々は、彼らが神々の再来だと勘違いして歓迎したわけです。

日本の仏教でも、弥勒菩薩(みろくぼさつさつ)が再来するという教えがありますが、カリスマ的な人物をそれだと考えて、新興宗教が誕生するのと似ています。

まことの神を知らない人々の中には、古今東西を問わず、このような混乱が生じます。ですから、パウロの説教も、まず「神とはどういうお方か」という点から説いています(14・15~17)。まことの神とはどういうお方でしょうか。

(1)万物の創造主なる神である。(14・15)

偽りの神は人間がつくりだした神々です。まことの神はその逆で、全てのもを創造なさった神です。創造なさったとは、ご自分の造ったものに責任を持っておられる神だということです。

人間もいろんな製品を作りますが、その場合、製造者責任が問われるわけですが、ましてや、神は被造者である私たちを愛し、責任を担ってくださる神です。

(2)忍耐しておられる神である。(14・16)

まことの神を離れて、神ならぬ神をおがみ、不道徳におちいった人類が、まことの神に立ち返るようにと今でも待っておられる神です。

主イエスの再臨の約束は反故(ほご)になってしまったと疑う人々に、ペテロは、「すべての人が悔い改めに至ることを願い、忍耐しておられるのだ」と証ししました(Ⅱペテロ3・9)

(3)恵みをほどこす神である。(14・17)

神を信じる者にも信じない者にも、神は分け隔てなさらずに、季節を与え、雨を降らせ、収穫と喜びを与えてくださる神です。

この世界の不思議な成り立ちを観察するだけでも、まことの神の存在を知ることができます。まことの神の恵みを讃美せざるをえません。

以上のようなことを説き明かして、パウロは民衆の誤解を解きました。日本でも、その点をしっかりとおさえなければ、「神」という語句を使いながら、まったく違う神を伝えることになります。

永遠のいのちとは、唯一なるまことの神と、その神がおつかわしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17・3)。正しく神を知り、伝えることができますように祈ります。

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使徒行伝 13章

2022年03月29日 | 使徒行伝

使徒行伝 13章
集会が終ってからも、大ぜいのユダヤ人や信心深い改宗者たちが、パウロとバルナバとについてきたので、ふたりは、彼らが引きつづき神の恵みにとどまっているようにと、説きすすめた。(13・43)


「使徒行伝」という書物は、前半はペテロの働きが中心に記録されており、第13章からはパウロの働きが中心に記録されています。

このふたりの記録を比較すると、ペテロに起こった出来事が、パウロにも同じ様にあらわされたことが分かります。ペテロが神殿で足のなえた人を癒したように(3章)、パウロはルステラで癒し(14章)、ペテロが異邦人に按手して聖霊が下ったように(8章)、エペソでパウロも按手して聖霊が下りました(19章)。ペテロと魔術師シモンの対決(8章)、パウロと魔術師エルマの対決(13章)。さらに、ペテロが牢獄から救出されたように(12章)、パウロもピリピの牢獄から救い出されました(16章)。種々の癒し、悪霊の追い出し、死人の復活など同様のしるしが両者に現れています。

ユダヤ人に福音を伝えるための使徒ペテロに現れた神の御業は、異邦人への使徒であるパウロにも現されたのです。新参者のパウロは偽使徒だと揶揄(やゆ)する人々への反論であり、また、異邦人宣教が神の御心であることの証左として描かれています。

さて話題を戻しましょう。この時点で、パウロはすでにアンテオケ教会の一員として活躍していましたが、あのダマスコ途上での回心の後、順調にここまで来たのではありませんでした。

以前のパウロは教会に対する迫害者でしたから、クリスチャンたちは彼に対して不信感を持っていました(9・26)。ですから、信頼を得て表舞台に立つまでには、かなりの年月を要しました。

そんなパウロを見出し、彼に仕え、彼を神の器へと育てたのはバルナバでした(9・27)。このバルナバは元エルサレム教会のメンバーだったのですが、異邦人クリスチャンからなるアンテオケ教会が誕生し、そこを牧会するために、エルサレム教会はバルナバを派遣しました(11・22)

アンテオケに派遣されたバルナバは協力者を求めて、タルソにいたパウロを捜し出し、このアンテオケに連れてきたわけです(11・25~26)

パウロのような華々しい活躍をする人もいれば、また、バルナバのように地道に人材を育て養う人も必要です。

第13章からは、そんなふたりが聖霊の任命によって、伝道旅行へと派遣されることから始まります(13・2)

さて、ふたりは旅先で、まずユダヤ人の会堂に入って伝道しました(13・14)〝まずユダヤ人へ〟という姿勢は、パウロの一貫した伝道方針です。異邦人宣教に召されたのに、なぜなのでしょうか。

第一に、ユダヤ人は神の約束に従ってキリストを待ち望んできた人々だからです。ユダヤ人は神の祝福の基となって、世界に福音を伝えるために神が選び、神が養われた民です。

第二に、ユダヤ人には御言の土台があるからです。キリストの救いが「花」だとすれば、旧約の御言は「根」です。旧約の御言によって養われたユダヤ人は、人類の救いの「根」になるべく選ばれた民です。

根という土台があるので、新約の花の美しさが本物になります。ところが、異邦人クリスチャンの中には、この旧約の根を軽視するあまり、切り花のように短命な信仰生活で終わってしまう人もいます。

では、旧約の御言は何を言っているのでしょうか。

それは神の義についてです。神の義とは、神が納得なさる水準のことです。その水準に到達するために、ユダヤ人は律法を行いましたが、だれもその水準に達することができませんでした(13・38~39)

しかし、イエスを信じる者はその義を受け取るのです。律法による義の大変さが分かっていないと、イエスがくださる義の値打ちが分かりません。旧約で散々苦しんだ人が、新約の恵みのありがたさが分かります。旧約で罪の悲しみを味わった人が、新約の恵みで慰めを受けます。

イエスがくださる「神の義」は安っぽい恵みではありません。神の血が流されることによって成し遂げられた高価な義です。そういうわけで、パウロは、引きつづき神の恵みにとどまっているようにと勧めたのです(13・43)

自分の人柄の良さや真面目さで神の義に到達しようとすると、やがて力つきて倒れてしまいます。その人は、自分の無力に失望し、神から縁遠く感じます。あるいは、批判がましい視線を、自分にも他人にも向けてしまいます。

だから、イエスが義としてくださるという恵みの中に留まり続けなければなりません。祈りましょう。今日も一日、イエスの恵みの中に留まり続けさせてください。

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使徒行伝 12章

2022年03月28日 | 使徒行伝

使徒行伝 12章
こうして、ペテロは獄に入れられていた。教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた。(12・5)


キリスト教会への迫害はさらに激しくなりました。ヘロデ王は12弟子のひとりのヤコブを捕らえ、剣で切り殺しました(12・2)。そのことが民衆に支持されるや、さらにペテロをも捕らえて投獄しました。

いつの時代も、強気の発言や政策は熱狂的な民衆の支持を取り付けるものです。この時のヘロデ王も同じでした。

前回はまんまと逃げられてしまったので(5・19)、今回は厳重な警備です。番兵4人の4交代制ですから合計16人。しかも足は鎖でつながれ、両脇もピタリと番兵で固める念の入りようです。

教会では、このために熱心な祈りがささげられました(12・5)。その結果、主イエスは天使を遣わして、ペテロを獄から救い出されました(12・7~10)

この時、ペテロは自分を助けてくれているのが天使だと気付いていません。獄の管理人が連れ出してくれているような感覚でした。天使は、翼があって白い衣を着ているのではありません。

ペテロはあとになってそれが天使であると分かりました(12・11)。天使の働きは今も同じです。アニメや映画で描かれているような、いかにも「天使です」なんて格好で登場しません。普通の人のようにして、私たちを助けてくれているのです。多くの場合、その存在に気付かないでいるのです。

話しは変わりますが、第二次大戦中のことです。オランダ人のテンブーン姉はナチスの強制収容所に送られました。入所前に全ての所持品は没収されるのですが、彼女は聖書だけは手放したくありませんでした。

彼女は祈りつつ検問所を通ろうとしたとき、不思議なことに検査官は彼女の存在に気づかないまま通過させました。検査官にはテンブーンさんの姿が見えなかったかのようです。

天使がペテロを導いたように、彼女を天使が助けてくれたのです。そのおかげでテンブーンさんは収容所に聖書を持ち込むことができたばかりか、そこで聖書を読み聞かせ、神の御言を語り、死を前にした多くの人々を救いに導くことができました。(コーリー・テン・ブーン著「わたしの隠れ家」より)

このように天使は、私たちに仕え、私たちが御国のために働くのを助けてくれる存在です(ヘブル1・14)

◆◆◆◆◆

最後にもうひとつのことを確認しておきましょう。

ペテロもヤコブもヘロデ王によって捕らえられました。しかし、その結末は正反対でした。ペテロには奇跡の脱出劇が与えられ、ヤコブには殉教が与えられました。その違いは何なのでしょうか。

今日の冒頭の聖句にもあるように、ペテロが捕らえられると、教会では熱心な祈りがささげられたと記されていますが、ヤコブの時は祈りが不充分だったので殺され、ペテロの時はよく祈ったので救出されたとでも言いたいのでしょうか。

そんなことはありません。ヤコブが捕らえられた時にも、教会では熱心な祈りがささげられました。ペテロの救出もヤコブの殉教も熱心な祈りの結果です。

私たちは、「祈った結果、こんなふうになれば良いのに……」と自分なりの筋書きを描いてしまいます。しかし、どのように神が導かれるのかは分かりません。それは神の主権です。

いずれの場合でも、神の御業(みわざ)があらわれるためという約束だけは確かなことです。そのことを信頼して祈るのです。イエス様は生まれつきの盲人について、「彼が盲人なのは、彼の罪のためでもなく、両親の罪のためでもない。神の御業が現れるためだ」と語られました。

つまり、ヤコブは信仰が浅かったので殺され、信仰深いペテロは助かった……という浅はかな因果応報論ではありません。その思考法から解放されましょう。原因論から解放されて目的論へ進みましょう。つまり、すべては「神の御業が現れるため」です。

神の御業が現れるために、神は、ペテロを獄から救い出されました。同じように、神の御業が現れるために、神は、ヤコブを殉教の死へと導かれました。神が私たちをどのように用いて神の栄光をあらわされるのか、その主権は神にあります。

私たちは、5つのパンと2匹の魚をイエスに差し出した少年のように、「私を神の御業のために用いてください」と、自分を差し出すのです。そのために祈ろうではありませんか。

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使徒行伝 11章

2022年03月26日 | 使徒行伝
使徒行伝 11章
私たちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、私のような者が、どうして神を妨げることができようか。(11・17)


ペテロの訪問を受けたコルネリオの家の人々は救われて、みなバプテスマを受けました。異邦人が救われたのです。大転換です。ところが、そのことに異議をとなえる人々が出てきました。それは割礼を重んじる人々でした(11・1~3)

彼らの考えはこうです。……救いは割礼を受けたユダヤ人のものだ。無割礼の異邦人が、ユダヤ人をさしおいて救いを受けることなどあり得ない。彼らも割礼を受けなければならない……と。

彼らにとって割礼は、自分たちが神との契約の中に入れられた証拠です。しるしです。誇りです。なのに、割礼も受けずに異邦人が救われることは、ユダヤ人には納得できないことです。

確かに、神は、人類の救いのためにまずユダヤ人を選び、割礼を命じられました。では、割礼はいったい何を意味するのでしょうか。

旧約におけるユダヤ人は肉体に割礼を受けましたが、それは心の割礼の予型です。割礼を命じたモーセ自身が、心に割礼を受けなければならないと語っています(申10・16)。肉体の包皮を切り取るようにして、心の包皮を切り取らなければ、律法を行うことができないのです(申30・6)

心の包皮とは、神に従おうとしない「かたくなな心」「強情な心」のことです。(かたく)なな心が被っているので、神の御言を行うことができないし、神の御言が入って行きません。

では、どうやって心の包皮を切り取るのでしょうか。それは聖霊による働きです。

預言者エゼキエルは、新しい契約の時代になると、聖霊が内住なさって心に割礼を施し、御言が心に刻まれることを預言しました。聖霊によって神の御言を行う時代が来るのだ……と。

わたしは新しい心をあなた方に与え、新しい霊(聖霊)を授ける……中略……わたしはわが霊をあなた方の内に置いて、わが定めに歩ませ、これを行わせる。(エゼキエル36・26~27)

つまり、御霊による心の割礼こそ割礼です(ローマ2・29)。あなたは聖霊によって心の割礼を受けましたか。

この聖霊を、異邦人であるコルネリオが受けました。ペテロたちが受けた聖霊と同じ聖霊を受けたのなら、その救いは確実です。肉体の割礼の有無を議論する余地などありません。

聖書は、救いを受けた証拠として聖霊の証印を捺(お)されたのだと記しています(エペソ1・13~14)。聖霊を受けるとは、契約書に捺印するように、神が印鑑を捺して救いを保証なさったのです。旧約の民は契約のしるしとして肉の割礼を受けましたが、新約の民は契約のしるしとして聖霊を受けるのです。

このように異邦人である私たちにも、イエスの救いがもたらされる時代です。神は偏り見ることのないお方だからです。神は、イエス・キリストにあって異邦人をもきよめられます。

ですから、神がきよめた者をきよくないなどと言ってはならないのです(使徒11・9)。だれでも、イエスを信じて神のきよめを受けた者に、聖霊が内住される時代が来ました。

異邦人も救いを受ける新し時代がやって来たのだと、使徒行伝は伝えています。それを意味する「種々の動物を屠って食べよ」との啓示の記録が、10章でも11章でも記録されています。また、パウロがダマスコ途上で啓示を受け、異邦人の使徒として召されたとの記録もくり返し記録されています。つまり、異邦人にも救いがもたらされる新しい時代が来たことを強調しているのす。今は恵みの時代です。信じて救いを受ける時代です。この機会を逃してはなりません。

 
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使徒行伝 10章

2022年03月25日 | 使徒行伝
使徒行伝 10章
神は人をかたよりみない方で、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによく分かってきました。(10・34~35)


ユダヤ人は異邦人と交流を持ちませんでした。それは、異邦人の信じる偶像礼拝の影響を受けないために、神が律法によって禁止なさったからです。それを守るために食物規定があり、ユダヤ人は律法で汚れているとされる動物を食べませんでした。

例えば豚がそうです。旧約時代において、豚は偶像礼拝の犠牲として用いられ、異教徒たちは豚肉を食べました。もし、ユダヤ人が豚肉を食べるようになるなら、食事を通して偶像礼拝者たちとの親密な交流が生じてきます。

それを防ぐために、神は豚を汚れた動物として規定し、食べてはならないと命じられました。そうすることで、豚肉を常食とする偶像礼拝者たちとの交流を制限なさったわけです。

しかし、これは旧約の時代のことです。いまや新しい時代がやって来たのです。

このことを示すために、ユダヤ人が食べてはならないとされる動物を屠(ほふ)って食べよという幻を、神はペテロに啓示なさいました。そんなことが三度もあったのです(10・9~16)

ユダヤ人であったペテロにとって、異邦人(異教徒)との交流は未知の世界であったはずです。未知ゆえに偏見の世界です。長いユダヤ教の歴史の中で培った考えを変えるのは容易ではありません。

私たちにもありませんか?。よく知らないが故に偏見で固まっているのです。あの人に福音を伝えたって絶対無理!とか……。

でも、神はその偏見という「殻」を打ち破るように導かれました。ペテロには夢で幻を見せ、同時にコルネリオにも啓示を与えて……。この念入りな導きは、この大転換が確かに神の御心であることを明らかにするためです。

神の救いはユダヤ人だけのものではなく、異邦人にも及ぶ時代がやって来たという大変化です。偶像礼拝者たちも、悔い改めて神の救いの恵みに招かれるようになったのです。これは大転換です。

神は、ユダヤ人を神の民として選びましたが、それはユダヤ人だけを救うためではありませんでした。そうではなく、ユダヤ人を特別に訓練し、ユダヤ人を通して救いが全人類に及ぶように準備なさったのです。「祝福の基」となるべくアブラハムの子孫として相応しいミッションです。

冒頭の聖句が示すように、神は偏り見る方ではないのです。今や、異邦人にも救いの恵みが届けられる時代になったのです。

私たちはその恵みの時代に生かされています。神が分け隔てをなさらないのですから、私たちは尚更です。すべての人が、信じさえすれば救いを受ける時代に生きています。だから福音を大胆に伝えるのです。

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使徒行伝 9章

2022年03月24日 | 使徒行伝
使徒行伝 9章
こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ、聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。(9・31)


迫害の中にあっても初代教会は成長し、信徒の数を増していったと記されています。その成長のポイントが4つあります。

(1)平安を保った

教会は平安を保っていました。何も問題がなかったという意味ではありません。むしろ、迫害がありました。その迫害によって信徒が離散せざるを得なかったにもかかわらず、教会は平安を保っていました。

どんな境遇の中でも平安を保つことができたのは、神との間に平安があったからです。どんな嵐の中でも、その船にはイエス様が乗っておられます。主は嵐さえもしずめることのできるお方です。

主は言われました。わたしがあなた方に与える平安は、この世が与えるようなものではない(ヨハネ14・27)。それは罪が赦されているが故の平安です。

それを象徴するかのように、迫害の急先鋒であったサウロに、イエスご自身が介入なさいました。最悪と思える窮地だからこそ、主は立ち上がられます。

このような体験があったからこそ、迫害の中でも教会は平安を得たのです。

(2)基礎が固まる

建築物も基礎が固まらないと建ち上がりません。私たちは物質による建物ではなく、霊なる神の住まいを建てています(エペソ2・22)

その基礎となるものは何でしょうか。第一は神の御言です。イエス様も、御言を聞いて行うことは、岩を土台にして建てた家だと言われました。これは嵐にも揺るがない土台です。

初代教会が急成長をとげたのは、長い期間をかけて御言で養われたユダヤ人が土台となったからです。異邦人への使徒であるパウロでさえも、どこに行っても、まずユダヤ人から伝道したのはそのためです。

基礎となる第二は、私たちひとりひとりです。その先頭を切って基礎の土台石となってくださったのは、イエス・キリストです。キリストは「隅(すみ)のかしら石」となられました。

当時の石造り建築で「隅」とは、建築工学的にも、霊的にも、最も重要な場所です。キリストは物質でできた神殿ではなく、本当の神殿である教会を建てるために、ご自身を土台となさいました。

そして、私たち各自も、その神殿の石となって積み重ねられて行きます。私たちが動かぬ土台としてしっかりしなければ、次の石 ―これから救われる人のこと― が積み重なりません。

「あなた方も、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ……」と言われているのは、そのことです(Ⅰペテロ 2・5)

(3)主を畏(おそ)れる

主は私たちを徹底的に愛してくださる方です。そのことに全く変化はありません。と同時に、主は畏れなければならないお方です。日頃はとてもやさしいお父さんでも、時にはとてもおっかないお父さん……これは矛盾することではありません。神も同じです。

アナニヤとサッピラ夫妻の献金額偽装事件の時も、人々に畏れの念が生じました(使徒5・11)。また、使徒ヤコブを殺し、ペテロさえも殺そうとしたヘロデ王でしたが、神の怒りにふれて死んでしまいました。

主はごまかすことのできない方です。だから、主の前にはいつも正直であるべきです。主への愛と同時に、主への正しい畏れを持つことは、教会が成長するための大切な要素です。

「敬虔な信仰」といいますが、その「敬虔」とは、「正しく畏れる」という意味です。恐怖心の恐れではなく、神を愛し敬うゆえの「畏れ」のことです。

(4)聖霊に励まされる

教会は、人からの励ましではなく、聖霊の励ましを受けました。聖霊の励ましは、多くの人々からの励ましに優る勇気を得ます。聖霊に求めないで人に求めるから、失望するのです。

祈りましょう。主よ、聖霊に満たされて歩むことができますように。

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使徒行伝 8章

2022年03月23日 | 使徒行伝
使徒行伝 8章
彼は「だれかが手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。(8・31)


先のステパノ事件によって、キリスト教会に対する迫害が本格化しました。そのため、エルサレム在住のクリスチャンたちは、追われるようにして散らされて行きました(8・1)

迫害は福音宣教にとってマイナス要因のように思われます。しかし、神はマイナスと思える状況をプラスに変えられます。散らされた人々のことについて聖書はこう記しています。

散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いたのです(8・4)。イエスの弟子たちは住みなれた街をあとにしながらも、旅の道すがら御言を伝えました。教会の大切な使命は神の御言を伝えることです。初代教会は、どんな環境にあっても、この軸をずらしませんでした。これは今の時代にあっても同じです。

エルサレム教会は迫害によって離散しなければならない環境の中でも、神の御言を伝えるという軸はずらしませんでした。そうすることによって、彼らはマイナスをプラスに転換しました。

さて、散らされながらも福音を伝える中で、8章ではピリポの活躍が記されています。彼は、先に殉教したステパノと共に選任された7人の執事のひとりです。ピリポの伝道には3つの「導き」がありました。

(1)聖霊の導き

第一の導きは「聖霊による導き」です。ピリポは天使によって、「エルサレムからガザにくだる道に出なさい」という指示を受けました。
 
実は、この道は人通りのない道でした。そんなところへ行って何になるのだろうかと思います。
 
しかし、伝道は人間のわざではありません。聖霊の導きが必要です。ですから聖霊の導きを求めます。すると、主は不思議な出会いを用意しておられることを体験します。
 
ピリポは、聖霊の導きに従うと、エチオピアの宦官(かんがん)が馬車に乗って旅をしている所に遭遇しました。さらに、聖霊はピリポを導いて、「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言われました。
 
このように、使徒行伝には、「聖霊が語ってくださる」という記録が多くありますが、これは弟子たちにとって日常的でした。
 
聖霊は私たちを導かれる神です。私たちに語ってくださる神です。私たちが聖霊の導きを信じて求めるなら、聖霊は語ってくださり、示してくださり、聖霊の具体的な導きを受けます。

(2)聖書の導き

第二の導きは「聖書の導き」です。エチオピアの宦官は、預言者イザヤの書を読んでいました。彼は聖書に導かれていました。
 
伝道は人間の言葉ではできません。聖書の導きがなければなりません。人間の言葉で納得させようとか、言い負かせてやろうなどと思っても失敗します。だれかに「一緒に聖書を読んでみませんか」と案内してみましょう。相手と対面しないで横並びになって、聖書を分かち合う伝道も良いと思います。
 
この宦官は聖書を読んでいたので、伝道の糸口をつかむことができました。ピリポは宦官の横に座って御言を分かち合ったのです。聖書の御言に力と導きがあることを信頼しよう。

(3)教える人の導き

第三の導きは「教える人の導き」です。「聖書を読んで分かりますか」とピリポがたずねると、「だれかが導いてくれなければ、どうして分かりましょうか」と宦官は応えました。
 
教える人の導きが必要です。教える導きとは、難しい聖書解釈や解説をすることではありません。自分にとって難しいことを、どうして初心者が分かるでしょうか。
 
ピリポがしたことは、聖句の解説ではなく、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えることでした(8・35)。私たちが伝えることはキリスト教ではなく、キリストご自身です。自分が出会ったキリスト、自分が知っているキリストです。

祈りましょう。どうか聖霊による導きと、聖書による導きと、教える導きとが与えられますように……。

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使徒行伝 7章

2022年03月22日 | 使徒行伝

使徒行伝 7章
強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなた方は、いつも聖霊に逆らっている。(7・51)


先に7人の執事が選ばれましたが、その内のひとりであるステパノが捕らえられ訊問を受けました。

ステパノに対する反対者らの訴えは「聖所(神殿)と律法に逆らうことを言っている」ということと、「聖所を打ちこわして、モーセが教えた慣例を変えようとしている」というものでした(6・13~14)

彼らの訴えは、一部は的を射ていますが、多くは誤解です。クリスチャンが神殿と律法に逆らっているというのは間違いです。

神殿と律法とは、人が神と和解する法です。しかし、それは永遠の法ではなく、キリストが来られるまでの暫定的な法です。神は旧約の時代に「石で造られた神殿」と「文字によって記された律法」をイスラエルの民にお与えになりました。旧約聖書にはそのことが記録されています。

しかし、それは、新しい法が与えられるまでの旧(ふる)い契約(旧約)です。旧約聖書では、やがて新しい契約が定められると預言しているのですが、それはキリストの来臨によってもたらされます。そのことによって、新しい契約の時代に移行します。

その新しい契約すなわち「新約」では、キリストにある霊的な神殿文字なる律法ではなく御霊の法則(律法)」によって神と和解する道が開かれのだと証言しているのです。

イエスは、ご自分が世に来たのは律法を廃止するためではなく、完成するためだ(マタイ5・17)と言われたように、つまり、神殿と律法が目指すところを、キリストにあって完成するために来られたのです。このキリストの中で、私たちは神と和解し、神の国に入って行くのです。

ですから、初代クリスチャンたちは、自分たちがユダヤ教をやめて新しい宗教を信じているとは考えていませんでした。むしろ、〝イエス・キリストによってユダヤ教が完成した〟と理解していたのです。つまり、クリスチャンとなったイエスの弟子たちこそ、真のユダヤ教徒だったのです。

しかし、そのような新しい契約の考えを受け入れない人々からすれば、クリスチャンたちは神殿と律法をけがしていると誤解しました。

やがてこの誤解は修復不可能な段階に来ます。あくまでも旧約にとどまろうとするユダヤ人たちと、新約に進もうとするユダヤ人たちは決裂します。そして、後者はキリスト教と呼ばれるようになりました。

そのような誤解を説くために、ステパノは証言しました。それが第7章の内容です。

神はモーセを用いてイスラエル民族をエジプトから導き出し、神と人類の和解のための祭司の役割に定められました。神殿と律法は、この祭司の役目を果たすための法です。

ところが、イスラエル民族(ユダヤ人)は、いつの時代も、この役目を果たすことができず、神の御心に逆らってきたではないか……と、ステパノは自戒をうながしています。

さらに、旧約の神殿と律法は、御使天使によって制定された法だと語っています。つまり、旧約であらわれた〝主〟とは、神が直接に姿をあらわしたのではなく、主の名によって遣わされた御使(天使)だという理解です。

※旧約聖書の出エジプト記では、「主がモーセに姿を現した」と記しているが、初代教会のクリスチャンたちは「御使がモーセに現れた」と説明した(7・30)。だから、律法は御使によって定められたものだ(7・53)。かたや、新約は神の御子が定めたものであり、御使が定めた律法より権威があると論証。この論法はヘブル書1章でも語られており、御使が受け継いだ名より、御子が受け継いだ名がまさっている(1・4)

その御使によって定められた法にさえ従い得なかったイスラエル民族は、今や神の御子が直接もたらした新しい法にも従おうとしていないではないか……とステパノは指摘したのです。

その原因は強情(かたくなな心)にある。心にも耳にも割礼を受けていないので、新約の法を受け入れることができない。それは聖霊に逆らっているのだ……と更に指摘を重ねたのです。

旧約における割礼とは男子の性器の包皮を切り取ることですが、それはかたくなな心の部分を切り取ることを暗示しています。心の割礼がないままでは、御言を聞いていても聞こえません。音声として聞こえてるだけで心に入って行きません。

ステパノはそのことを指摘して、イエスがもたらされた新しい契約に耳を傾けるよう促したのですが、人々はステパノの証言にたえられなくなり、彼を石で打ち殺しました。

こうして、ユダヤ人たちは、またしてもイエスを拒絶しました。

祈りましょう。聖霊によって心に割礼をほどこしてください。割礼を受けた心で、新しい契約の御言を正しく受け取ることができますように……。

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使徒行伝 6章

2022年03月21日 | 使徒行伝
使徒行伝 6章
こうして神の言(ことば)は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。(6・7)


「こうして……」とありますが、その前の出来事があるわけです。それは、キリスト教会の中で役割が分化していったことを指しています。

この時までの教会は、ペテロをはじめとする使徒たちが、御言を伝えることから給食奉仕まで、すべてをこなしていました。主イエスが、「あなた方は仕える者になりなさい」と教えられたことに従順していたのです。

とはいえ、人数が増えるに従って使徒たちだけですべての役割を担うことはできません。そこで、祈りと御言に専念する使徒たちと別に、教会の庶務を担当する執事を選任し、それぞれの役割をわけました。

こうして、人数が増えて行く中で、教会は役割が分担され、互いが仕え合うように組織されてきました。

教会は〝キリストの体〟です。体に種々の器官があって、その働きはみな違います。違うからといってバラバラの働きをしているのではありません。「体」はひとつの目的を果たすために動き、それに向かって各器官が総動員されて連動します。

では、キリストの体に与えられた目的とは何ですか。それは御言を伝えることです。この目的のもとに、キリストの体は構成されています。それは、神の御子キリストが御言を世にあらわすために来られたのと同様に、教会も同じ使命を引き継いでいるのです。

ですから、教会に集うひとり一人が、体の各器官として組み合わされ、御言を宣べ伝えるために働きます。各自の働きはみな違いますが、共通の目的は御言を伝えることです。

各自みなが同じでないと気が済まない。みな同じでないと不安だ。こんな感覚があるなら、それから解放されよう。私たちはみな違います。「御言を伝える」という使命のもとに、働きの違うひとり一人がキリスト各器官となって結び合わされています。

時には短所(欠点)とされる事さえ、賜物の違いとして受け入れる必要があります。短所は欠点なのだろうか。見方を変えればそれは長所である場合もあります。たとえ、欠点だとしても、それを補い合うために「互い」があるとも言えます。

初代教会は働きを分担しました。こうして、神の御言はますます広まりました。互いの働きが違っていても、目的はひとつです。神の御言が広まる……この一点です。

御言を伝えるために、キリストの体の各器官は総動員されます。そのために祈ります。そのために、各自の働きを献げます。各自の能力を献げます。

このようにして、初代教会はキリストの体として、その働きを分化していきました。使徒たちが、祈りと御言の働きに専念するためでした(6・4)

しかし、勘違いしてはならないことがあります。それは「祈りと御言の働き」が立派で、それ以外の「食卓のこと」が軽んじられることです。わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくないという記述が誤解を招きます(2)

御言のご用が重要で、それ以外の働きは雑用だと考えるのは間違いです。キリストの体の働きに〝雑用〟はありません。軽視して雑に扱うので雑用になるだけです。どんな働きも「御霊と知恵に満ちた評判の良い者」でなければ勤まりません(3)

キリストの体の教会は牧師が雄弁に御言を語るから成り立つのではありません。各器官であるひとり一人が信仰と聖霊に満ちた者でなければ成し得ないことです(5)。ステパノをはじめとする7人は皆さんのことです。私たちのことです。

祈りましょう。それぞれ働きは違いますが、 信仰と聖霊に満たされて、主の絶妙な御手の中で組み合わされますように……。

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使徒行伝 5章

2022年03月19日 | 使徒行伝

使徒行伝 5章
さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉をもれなく人々に語りなさい。(5・20)


迫害下にあっても、キリスト教会は大胆に前進して行きました。その様子を、「そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた」と記しています(5・12)

さらに、「エルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた」のです(5・16)

この新興勢力を封じ込めようと、ユダヤの指導者たちは、キリスト教会に対する迫害を増して行きました。そして、弟子たちを捕らえ、留置場に入れてしまったのです。

ところがその夜、主の使(つかい)が獄の戸を開き、弟子たちを連れだしてくれたのです(5・19)。主の使とは「天使」のことです。天使とは、「仕える霊であって、救いを受けつぐべき人々に奉仕するため、つかわされた者」です(ヘブル1・14)

このように、クリスチャンたちには天使が仕えてくれています。天使は、私たちの霊的生活が整えられるために働いています。私たちが祈るとき、その祈りを天に届けるのも天使です。その祈りの応答をもたらすのも天使です。こうして、救いを受け継いだ私たちに仕えてくれています。

さて、今回の脱出劇はとても不思議な方法です。獄の番人たちがまったく気づいていません。それに、獄の戸は施錠されたままでした。そんな状態でどうやって使徒たちは脱出できたのでしょうか。

人にはできないことを神はなさるのです。

さて、このようにして獄から出された弟子たちに、天使はこう告げたのです。さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく人々に語りなさい(5・20)

獄から出たのに、わざわざ敵陣の真ん中で語れ……と命令しています。再び捕らえられることは目に見えています。でも、神の目的はいのちの御言をもれなく語ることにあるのです。

いのちの御言を宣べ伝える」。これがクリスチャンの目的です。もちろん直接的に語ることができない場合もあるでしょう。でも、最終的な目的は「いのちの御言を宣べ伝える」ことです。

案の定、彼らは再び捕らえられ議会に引き渡されました。これほどに弟子たちが大胆になれるのはなぜなのでしょうか。

彼ら自身が説明しています。「人間に従うより、神に従うべきだ」からです(29)。私たちは人を恐れる余り、人に従ってしまいます。どうか、聖霊によって私たちの霊の目をさましてください。神を意識する心を持たせてください……と祈ろう。

さらに、弟子たちは証言しています。「わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」からです(32)。イエスがキリストであることを体験した私は「証人」ですが、私ひとりではありません。聖霊もまた証人となって、私の内に証ししてくださるからです。

祈りましょう。今日、私たちが出会う人々や、さまざまな環境の中で、いのちの御言を伝えることができますように……。

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使徒行伝 4章

2022年03月18日 | 使徒行伝
使徒行伝 4章
主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、しもべたちに、思い切って大胆に御言を語らせて下さい。(4・29)


ペテロとヨハネが、生まれつき歩けない人をイエスの御名によっていやしたことは、またたくまにエルサレム中に知れ渡るところとなりました。

ペテロの証言によれば、「イエスの御名によっていやしが起きるのは、イエスが神の御子キリストであることの証拠だ」というわけです。

しかも、そのイエスは復活し、天に昇り、天の御国の王座に着いておられる方である。だから、その方の名に罪をゆるす権威があり、病気をいやす権威があり、いっさいの権威があるのだ。

先には、イエスがそのようなお方だと知らずに十字架につけてしまったが、そのことを悔い改めて、イエスをキリストとして信じなさい。

天の王座に着かれたイエスが再び来られる時は、王の権威をもってすべての者をさばき、救われる者と滅びる者とを区別なさる時です。この権威から逃れうる者はだれもいません。だから、今、悔い改めてイエスを信じなさい……。

これが、ペテロが語った説教のアウトラインです。このように語るペテロたちに、ユダヤの指導者たちは為す術もなく、手を焼いていました。その様子を聖書はこう記録しています。

弟子たちが人々にこのように語っているあいだに、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄ってきて、彼らが人々に教えを説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた.。(4・1~3)

ユダヤの指導者たちは、気をいらだてて…とあるように、なすすべがありませんでした。つまり、イエスの復活を否定する証拠を何ひとつ持っていなかったのです。

彼らは、イエスの遺体は盗まれたという噂を流布したものの(マタイ28・13)、その遺体をさがしだして証拠を提示すればよいのですが、それもできないでいました。ですから、弟子たちの証言を力ずくで押さえ込むしかありませんでした。

不当逮捕です。そして、不当な取り調べが始まりましたが、その時のペテロの証言はこうです。

この人(イエス)による以外に救はない。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない。(4・12)

かつては、「イエスを知らない」と三度も言ってしまったペテロでしたが、この時は違いました。聖霊の証しが共にあるからです。「聖霊が来たら、その方はわたし(イエス)について証しをする」との約束の通りでした。

ペテロは神学を学んだ人ではありません。生まれながら漁師の子です。そのようなペテロが、一流の神学者である律法学者たちを前にして語ることができたのは、聖霊に満たされていたからです。聖霊によって知恵と知識を受けたからです。

イエスについて勉強したから証言できるのではありません。体験した人だけが証人になれます。体験そのものが証拠だからです。

聖霊は私たちにイエスを体験させてくださいます。イエスが生きておられ、救い主であり、いやし主であることを体験させてくれます。イエスが、私を愛してくださっていることを体験させてくれます。

さて、聖霊によってイエスの証人となった弟子たちは、迫害を受けるようになりました。大変な事態です。しかし彼らは、「迫害がなくなるようにしてください」とは祈らず、主よ、彼らの脅迫に目をとめてくださるようにと祈りました。

主がご覧になって、彼らの脅迫を中止なさらないのであれば、その迫害は主の御心として受けとめます。そういう心で祈ったわけです。

迫害は嫌なので何とかしてくださいというのではなく、主よ、この現状をご覧くださり、あなたが最善の対処をなさいますように。あなたの御心のうちにすべてがなりますように……と祈るのです。

教会の祈りは更につづきます。脅迫があったとしても、思い切って大胆に御言(福音)を語らせてください……と祈りました。とても積極的な祈りです。

教会のなすべきことは御言を語ることです。

迫害のない平穏な生活が目的なのではありません。迫害があろうがなかろうが、時が良くても悪くても、御言を語ることが目的です。そのために祈ります。

そして、御言を語るとき、イエスの御名によっていやしをなし、しるしと不思議なわざを行わせてください……と祈りました(4・30)。私たちもそう祈ります。使徒たちの祈りにつづこう。

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使徒行伝 3章

2022年03月17日 | 使徒行伝

使徒行伝 3章
ペテロが言った、「金銀は私には無い。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。(3・6)

ペテロとヨハネは午後3時の祈りのために宮(神殿)に行きました(3・1)。祈りのために神殿に詣でることは、初代クリスチャンたちの習慣となっていたことを垣間見ることができます。

祈りは各自の家庭で、職場で、車の中でもトイレの中でも……ありとあらゆる場が祈りの場になります。それに加えて、神殿での祈り……つまり教会堂での祈りは恵み深いものがあります。祈りに集中したいとき、会堂祈祷はおすすめです。

いつでも祈ることができます。どこであっても祈ることができます。ところが、いつでも、どこででも祈れると思っていると、意外と祈れないものです。

祈りの時間を決めるとか、祈りの場所を決めるとか、律法的になってはいけませんが、祈りの生活を確保するためには良い習慣であり工夫です。「午後3時の祈り」というのは、そんな初代教会の人々の知恵の工夫です。

さて、美しの門に、生まれながら歩けない男が置かれていました。神殿に来る人々から施しを乞うためでした。彼は、ペテロたちの施しを期待しました。

その時のペテロの返答はこうでした。金銀は私には無い」。ですから、金銭を提供しませんでした。しかし、私にあるものをあげようというのです。

私たちは何がありますか。キリスト教会は何を持っていますか。何を提供できますか。

正直に言って教会には金銀はありません。時々ホームレスの人がお金や食事を求めて来られます。少しばかりの食糧を差し上げますが、それで解決するわけではありません。その食糧で数日分のいのちを延ばすことができたとしても、永遠のいのちを得なければむなしさが残ります。

そうです。私にあるものキリスト教会にだけあるものそれは、イエス・キリストです。このお方を差し上げるべきです。「わたしはいのちのパンだ」と言われたキリストを提供すべきです。

ペテロもそうでした。「私にあるものをあげよう」と言って、この男にイエス・キリストを差し上げました。「イエス・キリストの名によって歩きなさい」と命じると、この男の足はいやされ、歩き始めました。

神の愛は、そのひとり子をくださるほどの愛です。お金をくださるのでもなく、食事を提供してくださるのでもなく、ひとり子イエス・キリストをくださいました。これが神の愛です。

教会にはいろんな人々がたずねてきます。お金を必要とする人、食事を必要とする人、慰めや励ましを必要とする人……。教会はできる限り、それぞれの必要に応じます。しかし、それだけで、愛を実践していると錯覚してはなりません。私にあるもの、私でなければ差し上げられないもの。それはイエス・キリストです。いのちのパンであるキリストを提供できなければ中途半端な愛です。

ペテロはイエスの御名によって、その男が立って歩けるようにしました。これこそ根本的な解決です。お金を提供しても生きられるのは数日です。自分で立って歩けるなら、自分で働いて生きられます。

開発途上国に援助金を贈るのも少しは益になります。しかし、井戸を掘ったり、農業技術を伝えたり、教育したりすることがもっと重要です。神がそのひとり子をくださったのも、それと同じです。

イエス・キリストが私の内におられるので、今日も生きる勇気をいただくことができます。諸問題を乗り越えることのできる励ましを受けます。このイエス・キリストを周りの人々にも提供しよう。

私には金銀はありません。私にあるもの……それはイエス・キリストです。イエス・キリストを分かち合おう。

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使徒行伝 2章

2022年03月15日 | 使徒行伝
使徒行伝 2章
一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。(2・4)


この出来事があったのは「刈入れの祭」の日でした。この祭りは「七週の祭」とか「五旬節(ごじゅんせつ)の祭」とも呼ばれ、初穂(はつほ)の祭りから50日目に当たります。ギリシャ語では「50」を意味する「ペンテコステ」と呼ばれます。この日に、聖霊が使徒たちに降臨しました。聖霊が内住される時代の幕開けです。

この「朝マナ」では、ユダヤの七大祭が新約時代の予型になっていることを見てきました。過越祭で屠(ほふ)られる小羊はキリストの十字架の死を、その後の初穂の祭はキリストの復活を預言していました。では、五旬節の祭は何を預言しているのでしょうか。

旧約の民は過越しの事件を機に、奴隷の地エジプトを出立し、荒野の旅へと入りました。そして、シナイ山にて律法を授かりました。実は、この律法を授かった時期がエジプトを出立して約50日です。ピッタリとは言い難いのですが調べてみましょう。

「イスラエルの人々は、エジプトの地を出て後三月(みつき)目のその日に、シナイの荒野にはいった」と記しています(出エジプト19・1)。その「三日目に、主がすべての民の目の前で、シナイ山に下るからである」(同11)。つまり、律法を授かる時のことを言っています。

エジプトを出立したのは「第一の月の15日」ですから、第二の月を経過した時点で45日です。そして、第三の月です。口語訳は「三月(みつき)目の〝その日〟に」と記していますが、新改訳では「第三の月の〝新月のその日〟に」です。太陰暦における一ヶ月は、新月(真っ暗な月)から始まって徐々に月が太り始めて満月になり、やがて月が欠けて行き、翌月の新月になります。つまり、新月とは「第一日」のことです。

整理します。出エジプト19章1節の日は、エジプトを出立して46日を経過しています。そして、モーセがシナイ山に登頂し3日目以降に律法を授かります。

ですからユダヤでは、五旬節の祭は律法を授かったことを祝う祭として祝われてきました。この記念すべき日に、弟子たちは〝聖霊を授かった〟のです。旧約の民は律法に従って荒野を歩んだように、新約の民は聖霊に従ってこの地上生涯を歩むのです。

律法の時代から聖霊の時代が来ました。律法の目指す内容が、聖霊によって私たちの霊魂に刻まれる時代がやって来たのです。

神はこの日を切に待ち望んでおられました。ご自分の霊を、即ち聖霊をすべての人に注ぎ、神が語りたいことを息子や娘たちが語り、神が目指しておられる幻を若者たちが見て、神の実現なさりたい夢を老人たちが見るようになる日のことです。

こうして聖霊を受けた者たちが、神とひとつ思いになって、神の御業(みわざ)を実現する時代が来ることを願っておられたのです。これは、かねてからヨエルを通して預言されていたことであって(ヨエル2・28)、それをペテロも指摘して語ったのです(使徒2・16~)

さあ、こんな偉大な約束を果たさないでは、新約は始まりません。だから、イエスは昇天前に、「約束のものを受けるまでは、都エルサレムにとどまっていなさい」と命じられ(ルカ24・49)、使徒たちは祈って待っていました。その約束とは聖霊の内住のことです。

また、あなた方は間もなく聖霊によってバプテスマを授けられるだろう(使徒1・5)と言われたのは、聖霊の内住のことです。

旧約にも聖霊の働きはありましたが、内住なさったのではありませんでした。旧約では聖霊は外側から働かれました。ですから、旧約の預言者は、預言や癒しなどの力ある御業をしましたが、それは限定的であり時限的でした。聖霊が彼らから離れて行かれると、預言は止み、力あるわざは終わりました。

なぜなら、聖霊がその人に永遠に内住なさったのではなく、いわば外側から働きかけるようにして、神の力をあらわしていたからです。

イエス様が聖霊の内住について語られたことがありましたが、その時点では、「聖霊がまだだれにもくだっていなかった」のです(ヨハネ7・39)。しかし、ついにペンテコステの日に至って、聖霊がくだり、信者に内住されるようになりました。

では、なぜ聖霊の内住が必要なのでしょうか。

(1)救いの完成のために

イエス・キリストが十字架で死んでくださった……。このことは福音の根幹です。私たちの受けるべき罪の刑罰をキリストが負ってくださったので、私の刑罰はキリストの中ですでに終わりました。

このキリストであるイエスを信じて罪をゆるされた人は、丁度、死という刑罰を終えて獄屋から出てきた人です。イエスの十字架上の「完了した」との宣言は、罪の刑罰が終わったことを意味しています。つまり、罪の結果である「死」は完全に支払われたのです。

ところが問題が残っています。刑を終えて獄屋から出てきた私には、まだ罪をおかす性質が残っていることです。再犯率の高い出所者のようです。

イエス様が十字架で私に代わって死んでくださった……これは福音の半分です。残りの半分は、イエス様が私に代わって生きてくださることです。

イエスが罪をゆるしてくださったにもかかわらず、古い自分が生きようとするので、罪から離れることができません。だから、聖霊が内住して、私の内でイエスが生きてくだる必要があります。聖霊の内住によって、イエス・キリストが私に代わって生きてくださいます。古い私は死んだのです。

内住の聖霊は、キリストの聖なる品性を私の中に表してくださって、罪に勝利してくださいます。もはや私が生きているのではありません。キリストが私に代わって生きておられるのです。

(2)私たちがイエスの証人となるために

イエスを信じる者たちが、イエスの証人となるために、聖霊が内住なさいます。聖霊のバプテスマを受けるまでの弟子たちは、だれもイエスのために証言できませんでした。

あの法廷で偽りの証人が次々と語る中、ペテロはイエスについて証言できませんでした。しかし、聖霊が内住されてからのペテロは、議会で堂々とイエスが神の御子であると証言しました。

「真理の御霊はわたし(イエス)について証言をする」と言われた通りです。私たちはこの聖霊を受けて、イエスがキリストであると証言します。イエスが神であり、神の国の王であることを証言します。

法廷で証言する者に「証拠」がなければなりません。はっきりとした体験がなければなりません。だから、聖霊は信じる者にしるし(証拠)が伴うようになさいました(マルコ16・17~18)

新しい言葉を語ります。異言のことです。使徒たちは異言で福音を語りました。また、新しい言葉とは、古い私から出る言葉ではありません。以前の私からは、悪口・不平・不満・愚痴など人をけがす言葉が出てきました。しかし、聖霊によって、人を活かす言葉、つまり福音を語るようになります。

毒を飲んでも害を受けません。人々の口から出る毒気のある言葉で傷つけられたり、けがされることがなくなります。

ヘビをつかみます。ヘビとはサタン(悪魔)のことです。悪魔に牛耳られていた者から、悪魔に勝利する者になります。

病人に手をおけばいやされます。いやしは昔だけでなく今も同じです。信じて手をおきましょう。このように、聖霊によって、御言に伴うしるしがあらわれます。イエスがキリストであることの証拠です。

祈りましょう。どうか聖霊によって、イエス様が私の中で生きてくださるように、そしてイエスがキリストであると大胆に証言させてください……と。

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聖霊降臨の出来事を目(ま)の当たりにした人々は、イエスの弟子たちが酒に酔っているのだと勘違いする事態でした(2・12~13)。そこで、ペテロが立ち上がって事の次第を語り始めました。説教の内容を整理しておきましょう。

①「終わりの時代にすべての人に聖霊を注ぐ」とのヨエルの預言が成就したのだ。(14~21)

② ダビデは来たるべきキリストについて預言した。そのお方は黄泉(よみ)に捨て置かれない。黄泉で朽ち果てることがないと預言したが、まさに、ナザレ人イエスは十字架で死なれたが復活なさった。だから、イエスこそが来たるべきキリストだ。(22~31)

③ イエスの弟子たちはその復活の証人である。(32)

④ 復活後のイエスは天に上げられ、そこから聖霊を注がれたのだ。そして今は、神の敵であるサタンが完全に屈服するまでは、神の右の座にすわっておられる。こんなすばらしいお方をあなた方は十字架につけて殺したのだ。(33~36)

これを聞いてユダヤ人たちは「強く心を刺された」とあるのですが、旧約聖書の土台のない異邦人にはピンときません。でも、キリストを待望するユダヤ人の心には的を射た説教でした。

実はこの後に、ペテロは再び説教をします。そこでも、先の④で取り上げたように、敵を完全に支配してキリストの足台とする時までは、〝今は座しておられる〟のです。ですから、立ち上がられる時、それは、キリストが王として支配なさる時であり、「万物更新の時」であり、旧約聖書の預言が完全に成就することになるのです。そして、その時はもう目の前に来ているのです。だから今すぐにでも、悔い改めてバプテスマを受けよ……と説教します(3章)

このように、旧約の預言がキリストにあってどのように成就して行くのかという視点で説教されているので、旧約聖書全体の解釈が必要です。ですから、異邦人には分かりにくいのですが、ユダヤ人の心には響いたのです。

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