主イエスの恵みによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である。(15・11)
まず、聖霊と初代教会が出した結論を整理しておきましょう。これは、人間が便宜的に出した結論ではありません。聖書が記しているように、〝聖霊も共に〟お決めになったことです(15・28)。
問題の発端は、異邦人も割礼を受けて、律法を守るべきではないか……という考えです。それは、ユダヤ人のようにならなければ救われないことを意味しています。
しかし、初代教会の人々は、異邦人はユダヤ人のようにならなくても、イエスの恵みによって救われるのだと、聖霊と共に結論を下したのです。肉の割礼を受けなくても良い。律法を遵守しなくても良いのだと結論を下したのです。
では、ユダヤ人クリスチャンが今なお律法を守っているのはどういうことですか。
それは救われるためではありません。律法による生活は、ユダヤ人としての大切な生活スタイルです。それを否定する必要もありませんし、逆に、それを異邦人に強要するのでもありません。
彼らは、クリスチャンになるために〝ユダヤ人であること〟を否定したのではないのです。あくまでも救いは恵みによるのです。ユダ人でさえ、イエスの恵みによって救いを受けます。律法を行ったからではありません。
ましてや、異邦人も同じです(15・11)。
異邦人はユダヤ人にならなくても救われます。異邦人は異邦人のままで救いを受けます。異邦人の文化や伝統を否定するものではありません。日本人であることを否定するものでもありません。
ですから、クリスチャンには様々な信仰生活があるのです。
きっとアフリカのクリスチャンたちは、踊ったり太鼓をたたいたりして主を礼拝するでしょう。アメリカのクリスチャンたちは、スマートな音楽やフレンドリーな交わりをもって礼拝するでしょう。韓国のクリスチャンたちは、熱烈な叫びと祈りをもって礼拝するでしょう。同様に、日本のクリスチャンのスタイルがあります。
そのような文化的背景が異なる人には、それぞれの信仰スタイルに違和感を持つかも知れませんが、聖霊と初代教会はそのような礼拝や信仰のあり方を認めたのです。
いずれの民族も、私たちと同様に、恵みによって救いを受けたのです。その上で互いの文化の違いを認め合うのです。だからこそ、キリスト教は世界宗教になり得たのです。
こうして、全ての民族を包括して、ただ、キリストにある「新しい人」を再創造しようと、神は求めておられます(エペソ2・11~16)。
このことは、身近な事でも同じです。自分と同じ信仰スタイルを他者に強いるのは行き過ぎです。彼には彼の育った環境や習慣があるので、私と同じような信仰スタイルではありません。
私が恵みによって救われたように、彼の場合も同様です。
このような考え方がなければ、自分と同じスタイルの人しか救われないことになります。互いの違いを認め合い、信仰によって結び合わされ、キリストの御身体を現すようにと私たちは召されています。
ただし、初代教会が提示したように、偶像礼拝と不品行と血を避けるようにと言われています(15・29)。ユダヤ人が律法による伝統の中で大切にしている事を踏みにじらないようにという愛による配慮です。
偶像礼拝と不品行(性のきよさを汚すこと)は、互いの交わりを破壊してしまいますから、当然避けるべきです。「血」は、特にユダヤ人が大切にしてきたものです。彼らは生血を食する習慣を忌み嫌いました。※「絞め殺したもの」とは、血抜きをしない肉を食することにつながるので、「血」と同様の意味合いだろう。
配慮もなく相手が嫌うことで交わりを壊してはなりません。律法という重荷は取り払われたとはいえ……すべては自由ですが……、ユダ人を前にしてわざわざ血のしたたるステーキを食べるなら、配慮のないことです。お酒やタバコを嫌うクリスチャンの前で、飲酒や喫煙は配慮のないことです。
こうして、互いの信仰スタイルの違いを超えて、愛のある配慮をもって教会の交わりは建て上げられて行きます。
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ユダヤ人からなる初代教会は、異邦人クリスチャンに律法厳守を強要しませんでした。律法で定められている安息日規定も十分の一献金も強要しませんでした。
それらは救いの条件ではありませんが、そこには祝福の秘訣が込められています。
日曜礼拝を厳守できなくても救われますが、週の一日を礼拝として献げることは祝福の秘訣です。厳密に律法に従うなら、日曜日ではなくて土曜日こそが安息日です。日曜礼拝を厳守しても、それは安息日規定を守ったことにはなりませんが……。私も今に至るまで日曜礼拝を休むことなく献げてきましたが、本当にすばらしい人生でした。
十一献金をしなくても救われます。「十分の一は神のものだ」(マラキ3・8~9)という事実に変更はありませんし、献げないことで神のものを盗んでいるとの指摘もその通りです。でも、キリストの十字架の死によってその罪も赦されています。それでも、私は献金します。そうすることによって、私は富を主人とせず、まことの神を主人とする人生へと導かれるからです。これは祝福の秘訣です。
このように、律法を行うことは救いの条件ではありませんが、律法には祝福の秘訣が満載です。聖霊の知恵をもって、律法に込められた祝福の生き方をするのです。 ※具体的な摘要は、「出エジプト記」「レビ記」「申命記」の学びを参照。律法も神の御言であって、聖なるものであり、正しく善なるもの(ローマ7・12)。決して、律法を軽んじてはならない。肉で行うなら「律法主義」になり、御霊によるなら、祝福ある生き方の宝庫となる。
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