朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

コリント人への手紙Ⅱ 13章

2022年06月14日 | コリント書
第二コリント書 13章
あなた方は、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなた方の内におられることを悟らないのか。
(13・5)


パウロはあらゆる言葉をつくして、コリント教会の人々の説得につとめました。それでもなお、教会内の反対者らによる問題はくすぶっていました。あとは神のなさることです。

あとは、彼らの中に信仰があるかどうかの問題です。彼らが、自分たちの中に住まわれるイエス・キリストを悟ることにかかっています。今日の御言には、そんな思いが込められています。

最終的に、私たちの望みはどこにあるのでしょうか。仕事が順調であるとか、能力に長(た)けているとか、財産があるとか……そのようなことに望みをおくなら、やがて失望に終わります。

私たちに信仰があることこそ望みです。私たちの内にイエス・キリストがおられることにこそ、最大の希望があります。

はたして信仰があるかどうか吟味しなさい、と聖書は勧めています。信仰があるとはどういうことでしょうか。 ※新改訳では、「信仰に立っているかどうか」と問うています。

礼拝に出席しているから、信仰があるのでしょうか。教会活動に参加しているから、信仰に立っているのでしょうか。何となく、漠然と習慣的に礼拝に参加するのは、信仰がなくてもできてしまいます。

そのような生活は「宗教生活」です。キリスト教は「宗教」ではなく「信仰」です。信仰とは、イエスとの交わりの中で歩むことです。

信仰がある(信仰に立っている)とは、どういうことでしょうか。今日の御言はさらに問うています。イエス・キリストがあなた方の内におられることを悟らないのか(13・5)

信仰があるとは、イエス・キリストが私の内におられることです。イエスが私の内におられるとは、信仰があることです。

パウロがコリント教会の人々に、「信仰があるかどうか吟味しなさい」と勧めたのは、「ほら。信仰なんてないでしょ!。あなた方の内にイエスがおられないんですよ。それが問題なんですよ」と言いたいのではありません。

あなた方の内にイエス・キリストがおられることを悟れと勧めているのです。

私の内にイエス・キリストがおられるので、その方との交わりを無視することはできません。その方と会話をし、愛をはぐくみ、そのお方と心をひとつにして行くこと……これが信仰です。

今日も、イエス様が私の内におられることを確認して始めよう。わが内に住まわれるイエスを悟らないで礼拝に参加しても、それは宗教生活に終わってしまいます。

わが内なるイエス様は、自分に何と語りかけておられますか。主よ、今日もあなたの言葉を聞かせてください……と祈ります。

わが内なるイエス様にいつも相談してください。何でもかくさずにうち明けるなら、主は私の内を、いつも御言と聖霊によって照らしてくださいます。

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コリント人への手紙Ⅱ 12章

2022年06月13日 | コリント書

第二コリント書 12章
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
(12・9)


パウロへの反対者たちは、智恵や知識を誇らしげに語ったり、神秘体験を自慢げに証しすることで、パウロより自分のほうがまさっているのだと「自己推薦する人たち」でした。しかし、自己推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ確かな者です(10・18)

彼らの神秘体験はどことなしに胡散(うさん)臭いものがありました。神秘体験ならパウロもありました。それは、第三の天にまで引き上げられた経験です。でも、自分のこととして言わず、第三者のこととして紹介しています(12・1~5)

肉に属する人は自慢話が大好きです。肉の働きは、神の栄光ではなく自分の栄光を求めるからです。そういう人は、過去の栄光にしがみついて、せっかく神が用意なさっている天の栄光を受け損ねるのです。

自分の栄光は高慢につながります。そもそも、サタンの堕落とは、自分も栄光を受けようとして、自分の持ち場を離れたことです。サタンは、人間にも同じあやまちをさせるのです。

だから神は、パウロが高慢にならないためのトゲをお与えになりました(12・7)。このトゲは病気のことなのか、それとも執拗な迫害なのか定かではありませんが、弱さであることには間違いありません。

このトゲ(弱さ)がなければ、もっと強くなれるのに……。だからこのトゲを取り除いてくださいと、パウロは3度も祈りました(12・8)。  ※3度とは、当時の表現で幾度もという意味。しかし 取り去られなたった。

人々の病をいやし数々の奇蹟を体験してきたパウロをしても解決できない弱さ(トゲ)があったのです。それどころか、主からの答えは、「わたしの恵みはあなたに対して充分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」というものでした(12・9)

(1)主は完璧な者を用いられるのではない

神のご用に間に合うために、私たちは完璧な人間にならなければならないのでしょうか。いいえ、むしろ神は、不完全な者を用いられます。弱さを認め、へりくだった者を用いられます。

神は、私たちが完璧な人間になるのを待っておられるのではありません。弱さを自覚し、へりくだる者になるのを待っておられます。そして、その弱さゆえに神にまったく信頼する者になるのを待っておられます。

弱さこそ神に信頼するためのチャンスです。だから、弱さを誇ろうというのです。これを私は〝聖なる開き直り〟と呼びます。

弱くて何が悪いのですか。こんな私を主は用いてくださるのです。失敗がある……何か問題ですか。主は私の失敗を種にして実を結ばれるのです。

年寄りのどこが悪いですか。神は、40歳の血気盛んなモーセではなく、弱さを知り尽くした80歳のモーセを用いられました。神は、臆病者のギデオンを用いられました。神は、トゲのあるパウロを用いられました。どうですか。あなたも〝聖なる開き直り〟の仲間になりませんか。

(2)主は私が弱さを知るように導かれる

肉体を宿としている私たちは、この肉体ゆえに弱さや限界があります。神は、あえて弱い存在として人間を創造されたのです。しかし、この弱さは神の恵みを受けるための特権です。

弱さや限界のある肉体は、私たちが神の御前における謙遜を学ぶ機会(時間)です。御子イエスも、弱さのある肉体をとって世に来られ、十字架の死に至るまで謙遜と従順の道を歩まれました。

私たちが困難の中を通らせられるのは、自分の弱さを知るためです。肉の力の限界を悟って、神に信頼する謙遜を訓練するためです。

なぜなら、肉の力に頼ろうとする者は、やがて自分を誇り、神に敵対するからです。ですから、神は私の肉の力が弱まるように対処なさいます。時には失敗を通して、時には試練を通してそうなさいます。

神は、ギデオンがひきいる兵の数を減らすように命じられました。神はあえて、ギデオンに弱さをお与えになったのです。それは、多数の兵によって勝利して、高慢にならないためでした。

(3)弱いところを神は美しくされる

中国の聾唖の方々による踊りをTVで見ました。20数名のメンバーは、聞こえないはずの音楽に合わせて一糸乱れぬ踊りを見せてくれました。聞こえない音楽を振動として感じるのだそうです。また、互いの息づかいを肌に感じながら、互いのタイミングを合わせているのだそうです。

ハンディは弱点ではないことを見ました。弱さは欠点ではなくチャンスです。弱さゆえに、それを補う秀でた能力を神はお与えになるのです。

神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである(Ⅰコリ12・24)

(まばた)きの詩人とよばれた水野源三さんは、小児麻痺で瞬きによるしか意志を表現できない方でした。そんな水野さんの詩です。

  もしも私が苦しまなかったら、
  神さまの愛を知らなかった。
  多くの人が苦しまなかったら、
  神さまの愛は伝えられなかった。
  もしも主イエスが苦しまなかったら、
  神さまの愛は現れなかった。

弱さを用いて善きことをなさる神に期待します。

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こちらも是非ご活用ください。


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コリント人への手紙Ⅱ 11章

2022年06月11日 | コリント書

第二コリント書 11章
私はあなた方を、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
(11・2 新改訳)


コリント教会の生みの親ともいうべきパウロは、コリント教会をキリストの花嫁としてささげたのだと告白しました。 ※口語訳では、「キリストにささげるために婚約させたのだ」。

教会は単なる集団ではありません。公民館でもなければ、福祉団体でもありません。教会を世俗の物差しではかるのではなく、神の霊的な水準で見なければなりません。

神がご覧になるに、教会は〝キリストの花嫁〟です。

ちょうど、アダムに助け手が必要であり、そのために神はアダムのあばら骨からエバを創造なさったように(創世記2・18~25)ひとりの男子であるキリストの助け手として、教会を定められました。それは、花婿であるキリストの肉と血をもって、新しく誕生した「新しい人」の集まりです。

キリストの花嫁である教会は男も女もひっくるめて〝女性〟です。

教会はキリストに救われた者たちですが、それだけで終わらずに、キリストの花嫁、すなわち「助け手」としてキリストと共に働く者たちです。

ところが、アダム(最初のアダム)の助け手であるべきエバが、エデンの園で悪魔の誘惑に負けてしまったように、キリスト(最後のアダム)の助け手である教会も同じように、悪魔にだまされはしないかと、パウロは心配しました。

ヘビ(悪魔)が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなた方の思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。(Ⅱコリ11・3)

二つの心配です。真実が失われないだろうかという心配と、貞潔を失わないだろうかという心配です。

(1)真実(純情)を失わないように

エデンの園におけるヘビがそうであったように、今日も、悪魔は教会をだまそうとします。しかも、光の天使に変装して(11・15)

悪魔はいつも〝人間思い〟です。人間のことを思いやってくれます。エデンの園でも、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神は言われたのですか」と悪魔はエバに語りかけました(創3・1)

悪魔の言葉には、「神の考えは狭いんですね。そんな神に仕える人間はさぞかし窮屈なことでしょう。お疲れさまです。私なら束縛せずに皆さんを自由にしてあげられるのですが…」。そんな欺きが潜んでいます。このように、悪魔は人間を〝思いやって〟くれるのです(皮肉です)。

だまされてはなりません。そもそも信仰とは、人間中心ではなく神中心です。人間を心地よくさせるためではなく、神の栄光、神の秩序が目的であって、そのもとで人間の幸いがあるのです。人間を思いやるあまり、人間中心(ヒューマニズム)のキリスト教は、神に対する真実をクリスチャンから奪おうとする悪魔の欺きが潜んでいます。

人間の御利益(ごりやく)のために神が存在しているのではありません。神に仕えるために人間は創造されたのです。それが人間の本分、あるべき姿です。あるべき姿にこそ真の安息、真の喜び、真の誉れがあります。

地上的な御利益のために信じる……つまり下心のある信じ方は、キリストの花嫁として、花婿なるキリストへの〝真実〟を失っています。

人間思いの悪魔は、目先のご利益を餌(えさ)にして、花婿なるキリストに対する真実を失わせます。キリストの花嫁としての真実は、たとえ地上的には苦難があっても、キリストへの愛を失わないことです。

(2)貞潔(貞操)を失わないように

婚約しているのに、他の男性と交際する花嫁があるでしょうか。そんなことをしたら、ふたりの関係は破綻します。

男女関係で貞潔を大切にすべきであるように、教会もキリスト以外のだれをも愛してはなりません。つまり、他の神々(偶像・偽りの神々)を礼拝してはなりません。肉体的な貞潔を守ると共に、霊的な貞潔も守ります。時代遅れとか、古くさいとかいわれても、教会は頑固に守ります。

先の第二次大戦のとき、日本の教会は天皇を神として礼拝しました。キリストの花嫁としての貞潔を守ることができませんでした。これを昔のこと、他人事(ひとごと)としてしまうのではなく、私の罪として告白し、悔い改めます。

やがて花婿なるキリストが迎えに来られます。そうしたら天で婚宴が開催されます。その時まで、たとえ試練や困難を受けても、キリストへの真実と貞潔を失うことがないように祈ります。

◆◆◆◆◆

キリストへの真実と貞潔を失わせるサタンの欺きは、先の10章で取り上げた自己推薦をする人々によってもたらされます。だからパウロは心配なのです。警戒せよと忠告しています。

自己推薦する人々は、経歴も立派で、立場もあって輝いて見えます。まさかそこに、サタンの欺きが潜んでいるなんて驚きです。しかし、サタンでさえ光の天使に偽装するのですから、自己推薦する人々もキリストの使徒に変装するのです(11・13~14)

自己推薦する人々はキリストの使徒に変装するために、経歴や立場や業績を誇ってみせるでしょう。でも、神から推薦されるべき人は主を誇ります(10・17)

でも、あえてパウロも、自己推薦する人々に対抗して自慢してみせます(11・16)。ところが、パウロが誇りとするところは、人間的には彼ら以上に立派な経歴や身分であるにもかかわらず(11・22)、その立場を塵(ちり)や芥(あくた)のごとく捨てて、キリストにある苦難を受けていることを誇るのです(11・23~27)

自己推薦する人々からすれば、「えっ、それが自慢なの?」と嘲(あざけ)るでしょう。

そうです。弱さこそ誇るべきです。失敗こそ誇るべきです。なぜなら、弱さや失敗の中でこそイエス・キリストはお働きになるし、そのイエスを誇ることになるからです。これこそが、主から推薦される人の誇りです。

自己推薦する人は自分を誇ります。しかも、自分の立派なところや強いところを誇ります。だから、弱さや失敗を隠蔽(いんぺい)したり捏造(ねつぞう)します。そんなサタンの欺きを見破れと教えられています。キリストの花嫁としての真実と貞潔をもって見破るのです。

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コリント人への手紙Ⅱ 10章

2022年06月10日 | コリント書
第二コリント書 10章
私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。
(10・4)


コリント教会の兄姉の多くは、悔い改めに導かれたのですが、パウロに対する反対者がまだくすぶっていました。だから、心を開いてほしいと、手紙の中で繰り返し勧めています(6・13、7・2)

10章からは皮肉まじりの語調に変わってきました。あなた方の間にいて、面と向かっている時はおとなしく、離れているあなた方に対しては強気な者(10・1)とは、反対者たちのパウロへの陰口です。また、パウロの手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらないとの陰口も、パウロの耳に届いていました(10・10)

陰口は人を不愉快にし、深く傷つけます。それは、肉なる感受性が大いに反応するからです。言う側も聞く側も肉なる反応の応酬です。肉の言葉に肉が反応し、事態は悪化します。「人を活かすのは霊であって、肉は何の役にもたたない」と主イエスが言われたとおりです。 ※昨今のSNSは〝陰口〟の温床だ。御霊による対処以外に術はない。

私たちは、常に外側からの刺激に対する反応をくり返しています。その時、私の肉が反応するのか、それとも、私の霊が反応するのかによって対応は大きく変わります。

神の御言によって養われた霊が反応すべきです。ところが、感覚的かつ感情的に反応している時……、ほぼ肉が反応しています。ですから、まずひと呼吸おいて、御言は何と言っているだろうかとたずね、その御言に従う心で反応するようにします。

聖書は、肉にあって歩んでいても、肉に従って戦っているのではないと記しています(10・3)。肉体を宿として生きていますが、その原動力となっているのは肉ではないのです。

真の原動力は神からのもの……すなわち御言であり、御言と共に働かれる聖霊です。

さらに聖書は、私たちの戦いの武器は肉のものではないと証言しています(10・4)。真に戦うべきは霊的戦いであり、その武器は「聖霊の剣、すなわち神の御言」です(エペソ6・17)。それは、心の要塞を破壊するほどの力があります(Ⅱコリ10・4)

コリントの町は天然の要塞都市で、難攻不落といわれていた町でしたが、コリント教会にうずまく反パウロ派の人たちの心は、まさにコリントの要塞のようになっていました。彼らの心は要塞のようにかたくなでした。

心の要塞……それはかたくなな心と言えるでしょう。かたくなになった心はどんな肉の武器でも陥落させることができません。それができるのは神の御言と聖霊です。

神の存在を否定する心、「信仰が何の役に立つのか」とあなどる心、神の愛を疑う心など……それらは心の要塞です。その他にも、神に心を開いていない部分はないでしょうか。かたく閉ざして要塞となっている部分はないでしょうか。神は、そのような要塞を御言と聖霊によって取り壊し、神の愛を注ぎ込む場所になさりたいのです。

さて、パウロの使徒としての権威を疑う反対者らに、神からさずかった権威とは何かを教えています。

◎人々を支配するものではなく協力者だ(1・24)
◎倒すためではなく建て上げるためだ(10・8)
◎権威を乱用して限度を超えない(10・13~15)
◎権威を自慢するのではなく主を誇る(10・17)
◎こういう人が主から推薦されるリーダーだ(10・18)

裏を返せば、コリント教会を支配しようとする人々は、パウロを倒そうと目論み、権威の限度を超え、自分を誇りとし、自己推薦する者たちです。彼らは教会を混乱させ破壊するのです。牧師をはじめ、いかなる指導者もこのことを心に刻むべきです。権威を履き違えてはなりません。これこそが、主に推薦される確かな人です(10・18)

この命令に従えないなら、その人は「心の要塞」が残っています。御言と聖霊によって完全に破壊される必要があります。

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コリント人への手紙Ⅱ 9章

2022年06月09日 | コリント書

第二コリント書 9章
私の考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。
(9・6)


8章から続いて9章も献金の話題です。多くの紙面を割いて述べているのは、それほど献金が霊的に重要な課題だからです。

なぜなら、この世の富は私たちを支配する力があり、神ではなく富を主人とさせるだけの魅力があるからです。だからこそ、富をどのように扱うのかは私たちの信仰生活を左右します。

献金は信仰告白です。この世の富は主人ではありません。神こそ主人ですという信仰告白……これが献金です。 ※感謝の表現であることを否定するものではない。

この世の富は、天上の永遠の富から比較すれば実に小さいものです。でも、そのことに目が開かれないと、自分がこの世の富のしもべになってしまいます。

だから、富を主人とせず、神を主人とするために世の富を献げます。それが、地上の富を正しく管理する方法です。この小さな富に忠実でなくて、どうして天の偉大な富に忠実でありえましょうか。

私たちの真の主人は神であって、地上の富ではありません。逆に、富に対しては、自分が主人となって正しく管理しなければなりません。借金癖や浪費癖などは富に対して不忠実な管理者の姿です。

地上の富に対する忠実な管理者として、献金を通して、富は主人ではないことを修得します。献金を通して、富を神の栄光のために用いる訓練をします。こうして、神は、小さいことに忠実な者に天の偉大な富を任せられるのです。

さて、今日の御言は種まきの法則を教えています。この法則には2つの原則があります。これは献金だけのことではありません。

(1)まいたものを刈り取る

ブドウの種をまけばブドウを、イチジクの種をまけばイチジクを収穫します。イチジクの種をまいても、ブドウを得ることはできません。それぞれ蒔(ま)いたものを刈り取ります。

ですから、悪いことにも善(よ)いことにもそれは当てはまります。罪の種をまけば死を刈り取ります。罪という種からは「死」という実が結ぶからです。

残念なことに、人は悪い種をまく傾向にあります。しかし、神は恵み深いお方です。私たちが罪の実を刈り取ることがないように、十字架で罪の実を葬ってくださいました。滅びを刈り取らないように、神は私たちに十字架を与えてくださったのです。

いつもこの十字架に逃げ込みます。私たちがすべきことは、滅びの実を収穫する前に、悔い改めてすぐに十字架に立ち返ることです。十字架だけが、刈り取るべき滅びを完全に葬ることのできる道です。

ですから今や、善(よ)い種をまくように、神は私たちに勧めておられます。ゆるしなさい、そうすればゆるされます。与えなさい、そうすれば与えられます。あなたが量った量に従って、あなたも量り返されます。

悪い種の収穫は十字架で葬り、聖霊の助けを得て善い種をまくこと……これが新約時代の種まきです。

(2)まいた量に応じて刈り取る

これも当たり前の原則です。少ししかまかないのに、収穫が少ないと不満を言ってはなりません。収穫が少ないのは、たくさんまいていないからです。

神は私たちを、霊的な結実で富ませたいと願っておられます。そのために、惜しむ心からではなく、強(し)いられてでもなく、喜んで種をまくようにと勧められています(9・7)

その種とは、献金という種だけはありません。

「祈りの種」「伝道の種」「親切の種」など、まく種はいくつもあります。これらの種は、必ず豊かな収穫へと導かれます。信じてまき続けましょう。

そのために農夫の忍耐を学ぶ必要があります(ヤコブ5・7~8)。農夫は種をまき、成長させてくださる天然の力にゆだねて忍耐します。時には苦労があるでしょう。失敗もあるでしょう。でも大丈夫です。

「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種をたずさえ、涙を流して出て行く者は、束をたずさえ、喜びの声をあげて帰ってくる」と主は約束なさっているからです(詩篇126・5~6)

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コリント人への手紙Ⅱ 8章

2022年06月08日 | コリント書

第二コリント書 8章
あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、あなた方が、彼の貧しさによって富む者になるためである。
(8・9)


先の7章では、たとえ悲しみがあっても、それは祝福へ至る道であることを見ました。それは苦難や試練も同じで、それを通して私たちの肉の生き方が死んで、キリストにある生き方へと復活するからです。

キリスト信仰の真髄は、〝十字架の死と復活〟です。十字架の死は痛みや悲しみを伴いますが、しかし、それで終わるのではありません。必ず、栄光の復活が続くのです。

この死と復活の法則は、終わりの日に完成する体の復活を意味しているだけではありません。それは最終的な復活です。しかし、そこに至るまで、私たちはたえず〝死と復活〟を経験します。

コリント教会が経験した悲しみも、いわば〝十字架の死〟です。しかし、その悲しみはキリストにある新しいいのちへと〝復活〟しました。

イエス様が私たちに、十字架を背負って従ってきなさいと言われたのは、人生で体験する悲しみや痛み、困難や失敗……すなわち〝死〟を負いなさいという意味です。

しかし、そのような十字架の死は、キリストにある新しいいのちに生まれかわるための「狭い門」です。この門を避けて、広い門を通ろうとする人が多いのです。つまり、自分で自分のいのちを救おうとして、広い門を選ぶのです。しかし、いのちに至る門は狭いのです。その狭い門とは十字架の死のことです。

このように、十字架の死と復活は、クリスチャンが通過する道です。

そこでパウロは、マケドニヤの諸教会(ピリピ・テサロニケ・ベレヤの諸教会)の事例を紹介しました。彼らも苦難による激しい試練の中を通過しましたが、それは「献金」といういのちをもたらしました(8・2)

地上の富を献げる……これも、いわば〝死〟の経験です。自分で自分のいのちを救おうとしないことです。しかし、それはあふれるばかりのキリストのいのちを生み出します。このことのゆえに、献金を恵みのわざと呼んでいます(8・7)

ところが、献金を「肉のわざ」にしてしまうので問題が起きます。献金を教会活動を維持するための会費と考えたり、強制と受け取ったり、他者との競争意識で行ったりすると、それは肉のわざです。だから、損をしたとか、取られたとか、減ったなどという感覚が生じます。

マケドニヤの諸教会は、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出るほどに献げました。それは、彼らが献金を恵みのわざだと知ったからです。金銭的には「極度の貧しさ」であったのですが、彼らは富んでいたのです。彼らには「満ちあふれる喜び」という〝富〟で豊かだったのです(8・2)

人は自分が豊かでないと献げようとは思いません。マケドニヤのクリスチャンは金銭的には貧しくても、神の御前には富んでいたのです。そしてその富は、献金というかたちで表されたのです。

では、なぜ彼らは極度の貧しさにもかかわらず、富んでいたのでしょうか。それは〝恵みのわざ〟知っていたからです。

〝恵みのわざ〟はイエス・キリストから始まりました。

イエス様は富んでおられました。神の御子ですから、天の相続者ですから当然です。

なのにその富を十字架によって世に献げられたのです。惜しげもなく、大胆にお献げになりました。そうすることによって、すべての人に富を ―永遠のいのちという富を― 分かち合ってくださったのです(8・9)。これが、キリストがなさった〝恵みのわざ〟です。

この恵みのわざを私たちも追体験するのです。

イエス様は神と等しくあることに固執なさらず、人として世に来られました。つまり、貧しくなられました。死を経験なさいました。しかし、そのことによって、イエスの霊的な富は、私たちに永遠のいのちとして提供されました。

私たちが献金するのは、私たちもそれと同じ体験をすることになるのです。だから恵みのわざなのです。

富を献げるのは、地上的には貧しくなることです。つまり、死を経験することです。でも、その富は他の兄姉や教会の貧しさをおぎない、豊かに富ませることになります。そして、自分自身にも霊的ないのちをもたらします。肉の死を経験して、復活のいのちを体験します。

イエス様が貧しくなられたのなら、私たちも貧しくなります。イエス様が苦難を通られたのなら、私たちも苦難を通ります。そして、イエス様が栄光の復活を得られたように、私たちも栄光の復活にあずかることになるのです。

イエス様が歩まれたように、私たちも歩むのが信仰生活です。イエスと苦難を共にするので、イエスと天の富を共に相続します(ローマ8・17)。イエス様のいいとこ取りだけをしないのです。こうして、私たちはイエスと同じように死んで、イエスと同じように栄光の復活に至ります(ローマ6・5)

ですから、献金は、私たちにとって真の益になるのだと聖書は言っています(Ⅱコリ8・10)。このような「恵みのわざ」に共にあずかろうではないですか。

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コリント人への手紙Ⅱ 7章

2022年06月07日 | コリント書

第二コリント書 7章
神の御心に添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
(7・10)


パウロがコリント教会に成したきびしい処置によって、少なからずも教会の兄姉に悲しみをもたらしたことは、すでに見てきました。その悲しみの後、教会はどうなったのであろうか、気が気でないパウロは、派遣したテトスの帰りを待ちきれずに、トロアスからマケドニヤまで足をのばしました(Ⅱコリ2・13)

その続きの話しが横道にそれるようにして手紙の内容が展開して、ようやく第7章5節になって話しが戻るわけです。そのマケドニヤでテトスと落ち合うことができ、コリント教会の悲しみが、悔い改めへと導かれたことを知り、パウロは大いに慰めを受けました。

(1)必要な悲しみがある

パウロがコリント教会にほどこした処置は、病気でいえば外科的治療でした。ひと思いに、悪い部分を切り取ってしまう処置です。それは痛みと悲しみがともないました。

聖書は悲しみが悪いことだとは言いません。信仰生活は元気いっぱいでテンション上がりっぱなしではありません。パウロも、あえてコリントの兄姉を悲しませたのだと告白しています(7・8)。また、「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」とさえ言っています(ヤコブ4・9)罪に対して悲しみなさい。悔い改めなさい。その痛みが、いのちへの道となるからです。

ある青年は悲しみながらイエスのもとを去って行きました。それはイエスが、「あなたの全財産を売って、貧しい人に施しなさい」と言われたからです。

この場合、神の御言は彼に悲しみをもたらしました。ただ、悲しみを得た彼のその後は聖書に記されていませんが、その悲しみを通して、神を愛する者へと変えられたのではないかと私は思っています。

(2)二種類の悲しみ

今日の聖句は、悲しみには二通りがあると教えています(7・10)神の御心に添った悲しみこの世の悲しみです。

悲しみの結果、悔い改めるとき、それは神の御心に添った悲しみとなります。かたや、悲しみにひたるだけで、自己憐憫(れんびん)に陥ったり、悲しみを他者や環境のせいにしているなら、それは「この世の悲しみ」になってしまい、それは死をもたらすのです。

悲しみを通過することは誰にでもあることです。しかし、それを通して自分の間違いを悔い改めて、いのちを選び取ることを神は願っておられます。それが御心に添った悲しみです。

イエスを裏切った弟子のペテロは、自分の過ちの大きさに悲しみました。しかしその後、悔い改めて立ち上がりました。一方、ユダはイエスを裏切り、自分のやったことを悲しんで自殺しました。

ふたりともイエスを裏切ったことを悲しみましたが、ペテロは悔い改めて「御心に添った悲しみ」となりました。かたや、ユダは「この世の悲しみ」を選んだ結果、死をもたらしました。

神はいつも私たちの前に、「いのち」と「死」をおいておられます。「祝福」と「呪い」をおいておられます。そして、あなたは悔い改めていのちを選べと願っておられます。悔い改めて祝福を選ぶことを主は願っておられます(申命記30・19)。どちらを選ぶのか。それは「悔い改め」にかかっています。人は悔い改めが苦手です。自我が強いからです。高慢がだからです。でも、イエス様は人生の様々な場面で介入なさいます。悔い改めへと導く悲しみをお与えになります。

しかし、そうなさるのは、神もまた私たちを信頼なさっているからです。

この7章では、パウロがコリント教会の兄姉を信頼している様子が描かれています。悲しみを与えはしたものの、彼らはきっと大丈夫だ。悔い改めて立ち直ってくれるはずだと、テトスに対して誇ったのだ、と告白しています(14)。そして、事実その信頼は裏切られることなくコリント教会は応えてくれた。そのことでますます信頼は深まったのです(16)。

パウロの心境は、神の私たちへの心境と重なります。私たちは神を信頼しますが、神もまた私たちを信頼しておられます。自慢なさりたいのです。どうだ、イエスの血であがない取った神の子たちは、こんなにもすばらしいのだ……と。このような相互の信頼関係こそ、信仰の深みであり喜びです。

さあ、悲しみがもたらされたとき、砕かれた心でそれを受け止めるのか、頑(かたく)なな心で受け止めるのか問われています。何で自分がこんな目に遭うのだ。あいつだって悪いじゃないかと、心を固くしていると、世の悲しみで終わってしまいます。

神は、あなたを信頼して悲しみをお与えになりました。きっと、悔い改めて立ち返ってくれるはずだと信頼して……。そして、立ち返り、いのちを選び取ったあなたを、神は自慢なさりたいのです。

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コリント人への手紙Ⅱ 6章

2022年06月06日 | コリント書

第二コリント書 6章
あらゆる場合に、神の僕
(しもべ)として、自分を人々にあらわしている。(6・4)


福音とは何でしょうか。それは、神の和解の言葉です。神の方から和解の手を差し伸べてくださったという知らせです。和解が成立するまでは、双方の交わりは閉ざされています。

そもそも、神と私たち人間との交わりが閉ざされたのは、私たちの罪のゆえでした。アダム以来、人類は神にそむき続けてきた罪のゆえに、神と人類は音信不通でした。

それなのに〝神の方から〟和解の手を差し伸べてくださいました。〝神の方から愛を示してくださって、私たちの負うべき罪の負債を、御子の十字架で処罰なさいました。

本来であれば、人間の方から和解を申し出るべき問題です。でも、問題はあまりにも深くねじれています。私たちにはどうにもできないほど、深刻な事態になっています。修復不可能です。

このような人間の状態を、神はあわれんでくださって、神の方から和解の言葉をくださいました。これが福音です。

人間の方からなすべきなのに、神の方からなしてくださいました。有り難(がた)いことです。「有り難い」とは「有るのが難(むずか)しい」という意味です。つまり、あり得ないことが与えられたので、「有り難い」です。神はまさにあり得ないことをしてくださいました。

これが「恵み」です。

ところが、「神の恵みをむだに受けてはいけない」と勧められています(6・1)恵みを受け過ぎないようにという意味ではありません。こんな尊い恵みを無駄にしてはいけませんという意味です。

今は、神の方から和解を差し伸べてくださっている時代です。ですから、今の内にこの和解の福音を受け取ってください。そして、恵みを受けたなら、今度はその恵みを伝える側となってください。

そういう意味で、私たちは、神から和解の言葉(福音)をゆだねられた使者なのです(5・19~20)

キリストは僕(しもべ)となって和解の言葉を宣べ伝えてくださり、十字架の死をもって和解の務めをなさいました。今度は、私たちが和解の言葉を宣べ伝える任務に派遣されています。

キリストが私たちに、父がわたしを遣わされたように、わたしもあなた方を遣わすのだと言われたとおりです(ヨハネ20・21)

ですから、私たちもキリストと同様に僕(しもべ)の姿をあらわします。先の神の恵みを無駄にしてはいけないとは、恵みに対して応答することであり、具体的には神の僕として生きることです。

パウロは6章の中で二度も、自分を神の僕として現している(新改訳・推薦している)」と告白しています(Ⅱコリ6・4、8)。福音宣教のゆえに様々な困難や妨害があっても、キリストがなさったように僕(しもべ)として仕えるのだというのです(4~7)

権利意識の高い現代人にとって、「極度の忍苦、患難、危機、行き詰まり、むち打ち、入獄、騒乱、労苦、徹夜、飢餓」(4~5)といった環境は耐えられないでしょう。「なんで私がこんな取り扱いを受けるのか」と怒りだすことでしょう。

でも、そんな中でも、「真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力によって」(6~7)生きられるのは、神の僕だからです。ほめられたり好評を博しても、高慢になって僕であることを忘れたりしません(8)。逆に、そしられ悪評を受けても、嫌になって投げ出したりしないのです。 僕(しもべ)の基本は「忠実」だからです。

聖霊が私たちに注がれたのは、キリストの証しが私の人生に〝再現〟されるためです。キリストは神の御子でありながら、神の僕となって世を生きられました。そのお方の聖霊が、いま私たちに注がれています。

私たちもまた、神の僕としての生き方が、聖霊によって〝再現〟されるためです。

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コリント人への手紙Ⅱ 5章

2022年06月04日 | コリント書

第二コリント書 5章
キリストがすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
(5・15)


私たちは、肉体という土の器の中に、イエスのいのちという宝を持っています。そして、そのいのちが現れるために、外側のいのちが〝イエスの死〟を経験して行きます。

現在の状態は、イエスのいのちを持つ〝私・霊魂〟が肉体という器に宿っているという段階です。聖書は、その肉体のことを「地上の幕屋」と呼んでいます(5・1)。イエスのいのちを持つ〝私・霊魂〟は肉体という幕屋に住んでいるわけです。

つまり、テント暮らしです。

牧畜をしながら旅をするベドウィンのようです。彼らは、いつもテント暮らしです。定住する家がありません。彼らは地上では旅人です。そのように、人間とは天の御国に行くまでの間、荒野を旅しながら、この肉体という幕屋で暮らしています。

そして、天に到達するとき、永遠の家を受けることになります。それが復活の体です。朽ちない体です。イエスのいのちが、栄光に満ちた復活の体となって完全に現れるのです。

私たちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えられていることを私たちは知っているのです(5・1)

この時、天で仮庵の祭が完成します。

仮庵の祭とは、イスラエルが荒野を旅した期間、幕屋住まいであったことを思い起こして感謝する祭です。この祭は、イエスを信じた人々が天で永遠の住まいを得ることことの喜びを預言しています。

やがて天に入った時、かつて地上で仮の住まいである肉体で暮らしたことを思い出し、天で永遠の住まいである復活の体を受けたことを感謝することになります。仮庵祭はこのことを予表しています。 ※ユダヤの七つの祭は救いの完成に至る預言となっている。仮庵の祭はその最後の祭である。

そのような朽ちない体を早く得たいと願いながら、しかし今はまだ、肉体を宿としています。ですから葛藤があります。天から賜わる住みかを上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえるのです(5・2)

復活の体は本当にあるのだろうか。霊的生活をするより、肉体を生かすために生きるべきではないだろうか。そんな疑いも生じます。でも、神は〝保証としての聖霊〟を私たちに与えて、復活の希望をあきらかにしてくださいます(5)

死んでみないと分からないとか、一か八かを賭けて信じるのではありません。神が私の内に与えてくださった聖霊が保証です。聖霊によって確信があります。だからいつも心強いのです(6)

この保証とは、手付け金という意味です。ローンで家を買う時、全額を一括で支払えないので手付け金を払います。その時点で、その家は自分の所有です。ローンを全額支払い終わっていなくても、名義は自分のものです。

それと同じように、手付け金としての聖霊が与えられているので、天で受ける永遠の家(復活の体)は確実に私のものです。

このような明確な希望をもって、私たちは肉体という服を着て働きます。これが私たちの新しい人生観です。どのように働いたのかは、キリストのさばきの座でそれぞれ報いを受けます(10)

キリストのさばきの座は、救われた私たちが、地上でどのように生きてきたのかをさばきます。ある者はごほうびを受け、ある者はお叱りを受けます。また、両方を受けることもあるでしょう。

このキリストのさばきの座とは、地獄行きを決める白い御座のさばき(黙示20・11~15)のことではありません。両者は区別されるべきです。

そういうわけですから、肉体を宿としている期間、私たちは肉体のためだけに働くのではありません。肉体は、霊魂が働くための作業服のようなものです。私という霊魂が地上で働くために、肉体という服を着て働きます。

もちろん、作業服の破れを繕(つくろ)わなければならない時もあります。でも、それはあくまでも、私が、自分のために死んでよみがえってくださった方のために生きるためです(Ⅱコリ5・15)。それはまったく新しい生き方です。イスを信じる以前にはあり得なかった人生です。そういう意味でだれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。(17)

では、どんな風に新しくなったのでしょうか。

それは、私のために死んでよみがえってくださった方であるキリストのために生きるようになった事です。具体的には「ゆるしの使者」として生きることです。つまり、和解のことば、即ち福音をゆだねられた者として生きることです。神はキリストによって、私たちを神と和解させ、かつ和解の務めを私たちに授けてくださったのです(18)

はじめに神は、キリストを遣わして十字架に付け、私たちに和解の手を差し伸べてくださいました。今度は、その和解を受けた私たちが、神の和解のことばである福音を告げる番です。これが和解の務めです。あなたはそのために召されています。

あなたの使命(ミッション)は何ですか。これほど重要なミッションが他にあるでしょうか。

和解の務めとは、神がキリストにあってゆるしてくださったように、私たちも〝ゆるし〟の生き方をして行くことです。そのゆるしは単に私個人がゆるしたことで終わりません。神の赦(ゆる)しを現すことになります。まるで、神から全権を受けた大使のようです。

神が私たちを通して勧めをなさるのであるから、私たちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。(20)

ゆるしの使命に生きよう。ゆるしの使者として生きよう。そのために私たちは〝新しく造られた〟のです。

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コリント人への手紙Ⅱ 4章

2022年06月03日 | コリント書

第二コリント書 4章
いつもイエスの死をこの身に負うている。それは、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
(4・10)


先の第3章では、神の御言が私たちの霊魂に聖霊によって書き記されていることを見ました。その御言は、キリストの姿を私の中に再現するようにして、栄光から栄光へと変えてくださいます。

神の御言という霊的脚本は、私たちがイエス・キリストと同じ歩みをたどり、同じ姿に変えられるように導くのです。イエスと同じように、地上では十字架を負ってしもべとなって歩みます。そして、イエスと同じように復活します。

そのようなイエスの姿が、聖霊によって霊魂に書き込まれたのです。換言すれば、イエスのいのちが埋め込まれたのです。ですから、イエスの姿が現れてきます。イエスのご性質やご人格が現れてきます。

それは丁度、土の器に宝を持っているようなものです(4・7)。この土の器は土の塵で造られた肉体ですから、壊れやすく、疲れやすく、弱さがあります。この肉体だけを見ていると希望を失ってしまいます。人生ははかないものだと考えてしまいます。虚(むな)しさで押しつぶされそうです。

しかし、そんな土の器に宝を持っているので落胆しません。勇気を失いません。その宝とは、御子イエスのいのちです。

この肉体は、神の御前に謙そんになる機会です。弱さの伴う肉体を通して、謙そんと従順を学ぶチャンスです。神の御子イエス様でさえも、肉体をとってこの世に来られ、神と等しくあることに固守なさらずに、死に至るまで謙そんになられました。

ましてや私たちはなおさらです。人が肉体のある存在としてこの地上におかれたのは、しばらくの間、御使たちよりも低い者とすることによって、謙そんを学ばせ、御子イエス・キリストのような栄光の姿に仕上げるためです(詩8・4~5)

ですから、肉体という弱さの中にあっても落胆しません(Ⅱコリ4・16)。土の器である「外なる人」に目を注ぐのではなく、「内なる人」に目を注ぐなら、そこにはイエス様の御姿が隠されているからです(18)

ただし、この内なる人に埋め込まれたイエスの御姿、すなわちイエスのいのちが現れるために通らなければならない過程があります。それは〝イエスの死をこの身に負う〟ことです。

イエスの死をこの身に負うことで土の器が壊れます。壊れることは痛みですが、その壊れたところから、内に持っている宝が現れてきます。キリストの愛、ゆるし、清さ、恵みなどの栄光が、木漏れ日のように輝き出てきます。つまりキリストのいのちが現れるようになるのです(10)。だから、外なる人が日々衰えても私たちは落胆しないのです(16)

イエスの死を身に負うとは、二つの死を意味します。

第一は、肉の思いの死です。

自分中心の考え方の死です。肉に属する考え方とか世俗の考え方が死んで行きます。神は、様々な試練の中を通過させることによって、私たちの肉の心を死に追いやられます。

死ぬことはつらいことです。悲しみが伴います。コリント教会の人々は、パウロの厳しい処置を通して悲しみましたが、それは彼らの肉の思いが死ぬために通過しなければならない〝イエスの死〟でした。

でも、感謝すべきことは、肉の思いが死ぬことで、イエスにある新しい心の領域が広がります。こうして死を通して、イエス様のいのちが現れます。

第二の死は、肉体の死です。

最終的にはこの肉体が死ぬことによって、その中に隠されていたイエス様のいのちが完全に現れてきます。霊の体を受ける復活の時です(Ⅰコリ15章)

こうして、肉の心とか肉の体という「外なる人」は死んで、内に隠されていたイエスのいのちが完全に現れるようになります。だから、外なる人が滅びても落胆しません。勇気を失いません。

イエスの死をこの身に負うことで、イエスのいのちが現されます。イエスにある死は、死で終わりません。必ずイエスにある復活へとつながっています。こうして、イエスのいのちの輝きが現れるのです。

イエス様が十字架の死を通して栄光の復活へと行かれたように、イエスを信じる私たちも、イエスと同じ死と復活をたどります。

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コリント人への手紙Ⅱ 3章

2022年06月02日 | コリント書

第二コリント書 3章
私たちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
(3・18)


初代教会の時代には、多くの伝道者たちが各教会を巡回していました。大概の場合、彼らは教会からの推薦状をたずさえていました。中にはゆがんだ教えを伝えて教会を混乱させる者もいたので、そのような推薦状を必要としました。

パウロに敵対する人たちは、パウロにこの推薦状がないことを根拠に非難しました。しかしパウロは、彼の伝道によって生みだしたコリント教会の人々が推薦状だと言いました(3・1~2)

先に私たちは、「神からのゆるしの使者」であることを確認しました。しかし、私たちが「ゆるしの使者」であることの根拠は何でしょうか。教会が発行した推薦状があるわけではありません。

文字によって書かれた推薦状ではなく、私たちの心に神の御言が書かれていることこそ、本当の推薦状です。そのことについて、こう記されています。

あなた方は自分自身が、私たちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず、生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものである。(3・3)

神は、私たちの心に和解の御言を書き記して、神が人類をゆるし、愛しておられることを伝えようとなさっています。こうして私たちは、神からの手紙のように用いられるのです。

いかがですか。私たちの心には、神の和解の福音が書き記されているでしょうか。神からの手紙として、ゆるしの御言が私たちの心に刻まれているでしょうか。否、刻まれているはずです。

旧約の時代、神は、御言を石の板に書き記されました。十戒の石板のことです。でも、新約の時代は、私たちの霊魂に、聖霊によって御言が書き記されています(3・3)。ここで整理ておきましょう。

(1)旧約時代の御言……それは律法。

律法という御言は、石の板に書き記されました。では、律法の務めは何か。それは人を罪に定めることです(3・9)。つまり、律法は私たちがひとり残らず罪人であり、罪人である私たちは死に定められていることを教えてくれます。

その律法を伝えたモーセは栄光で輝いていて、あまりにもまぶしくて、直接見ることができないほどでした。神のご用にもちいられるのは、それほど栄光に富んだことです。

(2)新約時代の御言……それは福音。


福音という御言は、私たちの心の板に聖霊によって書き記されました。では、福音の務めは何か。それは人を義とすることです(3・9)

つまり、神は十字架で罪をゆるしてくださり、それを信じる者を義としてくださるのです。これが福音の務めです。

その福音を伝える人の栄光は、律法を伝える栄光よりもはるかに富んでいます。そのような尊い任務に、一体自分はふさわしいと言えようか、とパウロ自身も畏(おそ)れました(2・16)。

ならば、私たちはなおさらです。なぜなら、私の現実の姿と、福音の内容との間にギャップを感じるからです。宣べ伝えておきながら、自分は偽者のように感じるからです。

しかし、聖書は約束しています。あなたの内に聖霊によって書き記された御言は、私のあるべき姿を、鏡に映しだすようにして見せてくれます。御言によって描き出された姿こそ、本来の私たちの姿です。

罪の中にあったとき、私たちは本当の姿を見失っていました。だから、醜(みにく)い姿が自分だと思って、あきらめていました。しかし、本当の姿が描き出されました。その姿に成るように、聖霊は、栄光から栄光へと私を変えてくださるのです。

いま見ている姿は途中経過の姿です。本来のあるべき姿は、御言の中にプログラムされています。たとえ、いまは醜い芋虫のようでも、美しいアゲハ蝶のように変えられて行きます。〝主と同じかたちに〟変えられるのです(3・18)

演劇やドラマには脚本があります。脚本に従ってドラマは進められて行きます。それと同じように、人は幼い時の経験を通して、その心に「人生脚本」をほぼ書き終えてしまうのだそうです。

罪人として生まれ、罪人の中で育てられた私の中に書き込まれた人生脚本は、罪を犯すようになっています。死に定められています。いくら努力しても、人はその脚本から抜け出すことができません。

しかし神は、聖霊によって私たちの心に新しい人生脚本を書き換えてくださいました。それは、福音という神の御言です。この脚本は、私たちが御子イエスと同じ姿に変えられることになっています。

悪魔が書き込んだ罪と死の人生脚本は十字架で葬ってしまいました。そして今は、聖霊によって神の御言が心の板に書き記されました。

それは栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行く霊的な脚本です。わが霊魂に刻まれた御言に信頼し、とどまりましょう。

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コリント人への手紙Ⅱ 2章

2022年06月01日 | コリント書
第二コリント書 2章
そうするのは(ゆるすのは)、サタンに欺
(あざむ)かれることのないためである。私たちは、彼の策略を知らないわけではない。(2・11)


この手紙を記す前に、パウロはコリント教会の諸問題について厳しく対処しました。そして、罪を犯していた兄弟には、処罰をもって対処しました。このことは、教会に痛みと悲しみをもたらしました。しかし、処罰を終えたいまは、その兄弟をゆるし、慰めてあげなさいと勧めています(2・6~7)

そうするのは、サタンに欺かれないためです。逆をいえば、私たちがゆるさないでいると、サタンに欺かれることになります。そこにサタンの策略があるのだと教えています。

キリスト教は何でもすぐに「ゆるせ」と言うのが嫌いだという人がいます。もちろん、「何もなくてゆるせ」と言っているわけではありません。罪には必ず何らかの支払いが伴うからです。

罪の支払いとは何ですか。それは「死」です。この場合の「罪」とは、神を認めないという「根っ子の罪」のことです。これを神学用語で「原罪」と呼びますが、朝マナでは「根っ子の罪」と呼んでいます。

その根っ子の罪のから枝葉のように生じる罪があります。それは、一般的な犯罪とか、犯罪に至らないまでも「嘘・偽り」「悪口」「喧嘩」などの悪です。それを「枝葉の罪」と呼びます。

根っ子の罪があるので枝葉の罪が生じるわけです。

さて、この根っ子の罪は〝タダ〟でゆるされたわけではありません。「死」という代価を支払わなければなりません。しかし、こんな大きな代価を私たちは支払うことができません。だから、キリストが十字架で支払ってくださいました。返済不可能な大きな借金を、イエス様に肩代わりしていただいたのです。

では、枝葉の罪はどうしますか。

「私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義から私たちをきよめてくださる」のです(Ⅰヨハネ1・9)

枝葉の罪には、「ごめんなさい」と謝ればゆるされる場合と、それなりの処罰が伴う場合があります。

物を盗んだなら返さなければなりません。「ごめんなさい」では済みません。社会的な犯罪であれば、その社会の法律で処罰を受けます。コリント教会に生じた問題も、教会に分裂を引き起こしたり、極度の道徳的堕落に対してなされた処置でした。

いずれにせよ、罪を「ゆるし」によって取り除き、きよめることが神のご計画です。私たちは、この「ゆるしの使者」としての務めを受けています。

ゆるしは「関係の回復」をもたらします。イエス様の十字架の死によって、神と私たちの関係が回復されました。そして、今度は、私たちがゆるすことによって、互いの人間関係に回復がもたらされます。

このようにして、私たちがゆるしあうのは、サタンに欺(あざむ)かれることがないためです。新共同訳では、サタンにつけ込まれることのないためだと翻訳しています。

サタンの策略とは何ですか。ゆるしに覆いをかけて、関係の回復を妨害することです。神との関係に断絶をもたらすことです。人間関係を破壊し、悪をもたらすことです。

この悪魔の策略に対抗し得るのは「ゆるし」です。

神は私たちをゆるしてくださいました。そのゆるしを伝えるために、私たちはゆるしの使者として立てられました(Ⅱコリ5・19)。でも、目に見えない神のゆるしを、どのようにあらわしますか。

私たちがゆるすことによって、神のゆるしを見えるようにするのです。私がゆるさなければ、神が彼をゆるしておられることに覆いをかけるこになります。こうして、この世の神であるサタンは、栄光の福音の輝きを見えなくさせてしまいます(Ⅱコリ4・4)

ゆるさない心は、相手の不幸を密かに期待しています。そして、実際にそうなって、ようやく怒りを鎮めようというわけです。つまり、邪悪な方法で処罰しようとする心です。このような邪悪な処罰は真の解決とは言えません。

また、自らの手で報復することも真の解決には至りません。報復の連鎖を生むだけです。自ら報復したい人は、神が十字架で罪を完全に処罰をなさったことを認めない人です。神は、キリストが流した十字架の血をご覧になって満足(納得)なさったのです。神さえもが納得なさったのに、人間である自分が納得(満足)しないのです。

ゆるさないでいると、その人は、自分の罪のゆるしさえも確信できなくなります。こうして、サタン欺かれるのです。

罪の処罰はイエスの十字架の血で充分であったことを信じてください。この血のゆえに私はゆるされ、また、私はそのゆるしを伝える使者なのです。

そんな私たちの働きはキリストを知る知識のかおり(2・14)となります。キリストを知るための知識は、言葉によってもたらされるのが一般的でしょう。しかし、ここでは、言葉ではなく〝かおり〟だと述べています。

人間関係の中で一番気になることの上位に入るのが〝匂い〟です。だから多くの人が体臭や口臭に気を使います。見た目が悪くても問題はありません。でも、嫌な臭いは耐えがたいです。それだけ、人の五感の中で嗅覚は鋭いのです。

ですから、言っていることは正しくても怪しい人間のことを、「あいつはくさい」というでしょう。鼻で嗅ぐ以上の嗅覚です。

巧みな言葉でキリストの知識が伝わるのではありません。哲学的な言葉で知識が深まるのでもありません。キリストがゆるしてくださったように、私たちもゆるしあう。そのような生き様が〝かおり〟となって、キリストを知る知識となるのです。

祈りましょう。私たちが〝ゆるしの使者〟としての任務を全うできるように、そして、キリストの〝かおり〟となることができますように……。

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コリント人への手紙Ⅱ 1章

2022年05月31日 | コリント書

第二コリント書 1章
神は、いかなる患難の中にいる時でも私たちを慰めて下さり、また、私たち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
(1・4)


使徒パウロはコリント教会の混乱を収拾するために、先の第一の手紙を書き送り、その後、直接出向いて大鉈(おおなた)をふるいました。パウロの手厳しい処置によって混乱はおさまったものの、コリント教会に悲しみと痛みをもたらしたのも事実でした。

その後、彼らが立ち直ることができたのか、パウロは気がかりでなりませんでした。そこで、弟子のテトスに様子を見に行かせたのですが、その報告を待ちきれずに、パウロ自身も出かけました(2・11~12)。その道中のマケドニアでテトスと会うことができ、コリント教会が回復に向かっているとの吉報を受け、パウロはこの第二の手紙を書いたのです。

先の手厳しい取扱いを受けることは、コリント教会にとって負うべき十字架でした。

イエスは十字架を負って従いなさいと命じられましたが、十字架は、負う者に痛みや苦しみををもたらします。しかし、それは私たちの肉を葬って、霊的ないのちへと再生して行くための恵みです。

聖書は、イエスを信じれば苦しみがなくなって、楽な生活を送ることができるとは教えていません。パウロがイエスの死をこの身に負っている(4・10)と告白したように、十字架を負うことによる苦しみや悲しみがあります。

そうは言うものの、イエスを信じなくても、人生には苦しみがあります。ただし、イエスを信じたことによって、苦しみに意味を見出すようになります。悲しみに恵みを見出すようになります。

そして、どんな苦しみや悲しみの中にあっても、神は必ず私たちを慰めてくださることを体験します。これが、信仰のある人とない人との違いです。この違いは大きいです。

さて、苦しみに遭ったとき、私たちは〝人から〟慰めを得ようとして失望します。今日の御言は、慰めは〝神から〟来ると教えています。

人からの慰めが無意味だというのではありません。また、神が慰めてくださるのだから、苦しんでいる人を私が慰める必要はないというのでもありません。

申し上げたいことは、慰めは神から来るということです。

苦難のただ中にいる人を前に、私は慰める言葉を失います。何か言って差し上げたいのですが、あまりにも薄っぺらい言葉に感じます。言葉が上滑りしているような虚しさを感じます。

肉なる私には、人を慰める何かを持ち合わせていません。情けないことですが、それが現実の私です。だから、自分が苦難にあった時も、人に慰めを要求することはお門(かど)違いだと思っています。

しかし、ある人は私を慰めてくれることがあります。ある人のちょっとした一言で、大きな慰めと励ましを受けることがあります。私も何度も経験しました。それは、神が、その人を用いて慰めてくださったのであり、やはり慰めは神から来るのです。

また、時には、人のどんな励ましの言葉も、慰めにならない場合があります。そんな時は、神が直接ふれてくださるしかありません。神が直接語ってくださるしかありません。

神からの一言(ひとこと)があれば、私は勇気を得ます。神のご臨在が少しでも感じられば、私は回復します。ですから、私たちはいつも神に目を向けます。詩篇の作者もそう告白して歌いました。

は山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る(詩篇121・1~2)

あなたは経験なさったでしょうか。聖書の御言を通して、聖霊があなたに語りかけてくださったことを……。祈りを通して、聖霊があなたの中に語りかけてくださることを……。

そんな神からの慰めを経験した人は勇気を得ます。本当の強さを持っている人です。

ですから、パウロは祈っていたのです。痛みを受けたコリントの兄姉が、神からの慰めを受けるように……と。祈りは応えられて、コリントの兄姉は、神が慰めてくださるという経験をしました。

私たちにもそのような経験が伴いますようにと祈ります。神が慰めてくださった。神が励ましてくださったという経験を求めます。

なぜなら、神からの慰めを体験した者だけが、神からの慰めを周囲に流し出すことができるからです。どうか、私たちが神の慰めを流し出す「通りやすき管(くだ)」として用いられますように祈ります。

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コリント人への手紙Ⅰ 16章

2022年05月30日 | コリント書

第一コリント書 16章
目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。いっさいのことを、愛をもって行いなさい。
(16・13~14)


コリント教会への手紙を終わるにあたって、パウロは今までのことをまとめるようにして、4つの命令を記録しました。

(1)目を覚ましていなさい。

人は霊的な存在です。だから霊の目を覚ましていなければなりません。霊が眠っていたら、信仰生活を肉の力でやるわけですから苦労します。肉の力は、霊的生活とは正反対の考えをするからです。

だから、霊の目を覚ましていなさい。霊の目を覚ましていることができるように、聖霊の助けを日々祈り求めます。

主人が思いがけない時に帰ってきても、目を覚まして主人の帰りを迎えることのできるしもべは幸いです(マタイ24・46)。この「主人の帰り」とは、イエス様の再臨のことです。その時に復活があります。

ですから、目を覚ましているとは、主イエスの再臨に焦点を合わせて生きることです。地上にばかり焦点を合わせている人は、近くのものばかりを見ている近視眼の人のようです。

近視眼の人は遠くのことが見えないように、霊的近視眼の人は、未来に起こるイエスの再臨に焦点を合わせることができず、その考えは地上のことばかりです。そのような人は、永遠を見ることができません。天を見ることができません。

ですから、目を覚ましていましょう。主は必ず来られます。

(2)信仰に立ちなさい。

私たちの判断の基準はいつも信仰です。以前は、地上的な価値観や発想で判断してきました。それが肉の価値観や発想です。肉に従って歩みますか。それは、終わりの火の中で燃えてしまう人生です。

肉のものはやがて朽ちてしまいます。永遠に残るのは霊のものです。御霊に属する事柄です。

肉のものは肉眼で見たり、手でつかむことができるので、確実なもののように思えるだけです。しかし、実際は肉のものはやがて朽ちてしまいます。永遠ではありません。

かたや、霊のものは肉眼で見えないので軽んじてしまいます。でも、今は目に見えないだけで、やがて終わりの時に、はっきりと現れてきます。その目に見えない世界を見て行くことが信仰です。

ですから、信仰を基準に判断します。

信仰に立つとは、御言に立つということです。神の御言に従うことが信仰です。日々聖書を読むのは、御言が私の基準になるためです。

御言が私の考えになりますように。御言が私の感覚になりますように。御言が私の発想になりますように。御言が私の人格になりますように。そのように祈りつつ、聖霊の助けを得て聖書を読みます。

(3)男らしく強くあれ。

「男らしく」とは女性らしさを卑しめるものではありません。女性にも「男らしく強くあれ」と命じています。モーセから任務を引き継いだヨシュアにも、「強く、また雄々しくあれ」と神は命じられました(ヨシュア1・9)

男らしいとは潔(いさぎよ)いことです。信仰に立つためには潔くなければなりません。

肉とは、地上に対する未練です。肉はこの地上につながろうとする力です。だから、肉に属していると、この世に未練がましくなって、天国の国民として潔く進むことができなくなります。

この地……すなわち物質の世界はやがて朽ちてしまうのに、しがみつこうとします。これが肉の感覚です。これを潔く切り換えて、天の価値観、御霊に属する感覚で生きて行こうと決断します。

私たちは神の小羊の死によってエジプトを出て来た者たちです。エジプトに未練を残す者は神の国に相応しくありません。潔くエジプトを後にします。

天からの火で滅ぼされるソドムとゴモラの町から、神はロトとその家族を救い出されたように、神は私たちをこの地上の国から導き出してくださいました。しかし、ロトの妻は振り向いて塩の柱になってしまいました。この世に未練をもって振り向く生き方は、霊的ないのちを失います。

私たちは、エジプトの感覚を潔く断ち切って、約束の国をめざす者たちです。この潔さが、男女の区別なく「男らしく強くある」ことです。

(4)すべてのことを愛をもって行いなさい。

エジプトを出たイスラエルの人々は、老人も若者も子供もいました。元気な人もいれば、病人もいました。約束の国を目指して旅立ったわけですが、先を急ごうとする者もいれば、急ぎたくても急げない弱者もいました。

出エジプトした人々は千差万別です。そんな集団をひとつにするのはです。違いを理解して受け入れること。その違いを活かし合うこと。神の御国を目指す道中では、そのような愛が不可欠です。

先を行く人は、ひと足先に進んで、「神の国はこんなにすばらしいところだよ」と報告して、後から来る人に励ましと希望を与えてください。

また、祈って支える人も必要です。先に進もうとする人に、お弁当をつくって持たせてあげるような人も必要です。そんな互いを活かし合う愛によって、教会はこの荒野の旅を進みます。

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コリント人への手紙Ⅰ 15章

2022年05月28日 | コリント書

第一コリント書 15章
肉の体でまかれ、霊の体によみがえるのである。肉の体があるのだから、霊の体もあるわけである。
(15・44)


コリント人への第一の手紙は、教会内の種々の問題が、「肉」に起因することを指摘しつつ、肉に属する者から、霊(御霊)に属する者へと導く手紙だと言えるでしょう。

霊に属する者とは、自分が肉体的な存在だけではない。自分は霊的存在であることに目覚めていることが基本です。鏡に映る自分は、自分の肉体を映しているだけです。それは氷山の海面に現れている部分です。海面下に、はるかに大きな霊的存在がひかえています。別な言い方をすれば、私・霊魂は、肉体という服を着て働く存在です。

だから聖書は、肉体のためだけの人生ではなく、私・霊魂が神の御言に従って生きるために、肉体を用いる生き方を教えています。

それを霊的生活といいます。

これこそが信仰による生活であって、宗教生活とは区別されるものです。この霊的生活は肉体の感覚からすれば面倒なことであり、負担や窮屈を感じます。ですから、愚かなことに見えます。でも、本当の知者になるために愚か者になるがよい、と聖書は勧めています(3・18)。霊的生活は、肉の感覚にしてみれば愚かなことです。

何をすることも許されています。しかし、すべてが益になるのではありません。つまり聖霊によって自由が制御される生活を勧めているのです。これも、肉の感覚では愚かなことです。しかし、内なる霊魂にとっては有益なことです。

人は地上の栄光のために節制します。やがて朽ちる栄光のためにでさえも節制します。しかし、自分が霊的存在であることを知っている「霊の人」は、天上の栄光のために節制します(9・24)

霊的生活は決して無駄に終わることがありません。なぜなら、私たちの地上で成してきた霊的生活の成果は、復活の体となって現れるからです。

復活とは、肉の体をもう一度得ることではありません。肉体を何度得たとしても、再び朽ちてしまいます。肉から生まれるものは肉です。そのような朽ちる体で、朽ちない世界(天国)に入ることはできません。

そうではなく、朽ちない体に復活します(15・52)。それは霊の体です。新改訳では「御霊の体」と訳しているので、御霊(聖霊)が体になると誤解されますが、正確には、私の霊(新生した霊)が体になるという意味で、「霊の体」です。 ※「霊」と訳されているギリシャ語は「プニューマ」。それを文脈上、聖霊と解釈する場合は「御霊」と翻訳。「霊」と「御霊」の区別は翻訳者によって異なる。

今の私たちは、土の塵が成分となった「肉の体」を受けていますが、来たるべき復活の時は、神の御言が成分となった「霊の体」を受けるのです。ちょうど、種がまかれて、種自体は朽ちるのですが、そこから新しい体が生え出るように、肉の体でまかれて、霊の体に復活するのです。 ※天使は霊の体だ。

今、私たちの霊は、肉の体という「種」の中に宿っているので、それを見ることができません。

肉体のためにバランスの良い食事をしたり、運動をすると、その結果は目に見えます。しかし、霊がどれだけ養われたのか、やせ細っているのか健康なのか、目に見えません。今は隠されています。でも、隠されていることが明かになる時が来ます(4・5)

それは復活のとき、私の霊が体になることによって現れてきます。私の霊が体になるのです(15・44)。それで、この体のことを「霊の体」と呼びます。霊から成り立つ体なので朽ちません。

肉の体は、土地の塵によって造られたので、有限的な体であり、やがて朽ちてしまいます。この地上(物質界)で生きている期間だけ用いる体です。

しかし、天で生きるためには朽ちない体が必要です。朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことができないからです。つまり、肉の体で天国に入ることはできないという意味です(15・50)

ですから、朽ちない体……つまり霊の体を受けるために、地上で霊を養うのです。肉体にある期間に、私たちが霊的生活をするのはそのためです。

わが霊を養うために、肉体を使うのです。わが霊を活かすために肉体を用いるのです。それは結果的に、罪のために肉体を用いるのではなく、神の義のために肉体を捧げる生き方です(ローマ6・13)

私たちの霊はパンで養うことができません。神の御言が食物です。神の御言で栄養を豊かに蓄えた霊が、復活のとき、霊の体となって現れてきます。神の御言で養われた霊が体になります。 ※イエスも、「御心を行うことがわたしの食物だ」と言われた(ヨハネ4・34)。つまり、神の御言を行うために、ご自身の体を用いることが、生きるための食物だという意味である。

肉の体は土の塵が成分となって構成されましたが、霊の体の成分は神の御言です。御子イエスも御言が肉体となって来られたお方であったことを思い出してください。

だから、私たちは肉体にある間に、霊を御言で生かす生活をします。御言を聞いて行う生活が、私の霊を養う霊的生活です。それこそが、洪水が押し寄せても流されない岩を土台にしたいのちです。

ところが、私の霊は見えないので、霊を養うことよりも肉体を養うことに、つい時間も財も費やしてしまいます。霊的生活より肉の生活を優先してしまいます。でも、肉の生活を優先していると、私の霊は飢え渇きます。逆に、霊的生活を優先していると、私の肉体は反抗します。肉は霊に敵対します。肉の感覚は神の御心に従うことができないからです(ローマ8・7)

クリスチャンは、この肉の思いと霊の思いの両方が自分の中に混在することを知っています。そして、その両者の板ばさみを経験します。

でも、そのたびに、霊の思いを選びます。霊の感覚を優先します。それが霊的生活です。それが「目を覚ましている生活」です。肉の体を大切にするのは当然です。それ以上に自分の内なる人、即ち霊を大切にするのです。こうして養った霊が体になります。これが栄光の復活です。私たちはこの復活を目指しています。この栄光の復活がなければ、私たちは全人類の中で最も惨めな者たちです(15・19)

でも感謝です。復活は確かに実現するのです。たとえ愚か者と呼ばれても、復活を信じます。この復活によって、私たちの霊的生活の労苦は報われます。しかし、この地上の何かによって報われようとしたら、天での報いを失います。だから、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励むのです。主にあっては、私たちの労苦が無駄になることはないと知っているからです(Ⅰコリ15・58)

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