アネモネ・ジャポニカ

2014-09-24 | 日記

昨日掲載した 「 秋明菊 」 ( 学名・アネモネジャポニカ ) の今夜の二様である。たった一日経っただけなのに、すでにバラの花の大きさが大分大きくなっているのに驚く。また秋明菊の蕾も開いているのが分かる。左の写真はフラッシュをたいたもので、右はフラッシュをたかなかったもの。明日は台風による雨の災害が起きなければいいのだが … 。

 


「 秋明 」

2014-09-23 | 日記

    

夕方、隣の奥さんからもらった紫色の花は、教えられて 「 秋明菊 」 ( 学名はアネモネ・ジャポニカ ) という。名前が今の季節であるし、花の姿は蘭のようでもあって、色といい品がある。一緒にもらった酸漿 ( ほおずき ) は夕方の灯りである。真ん中に赤く見えるのはバラの花で、香りがいいと言うのでこのバラを、奥さんは “ 蓮子のバラ ” と呼んでいる。それは少し枯れかかっていたが、それなりにまだ綺麗だったので切ってもらったのである。花瓶には雑然と差してしまったが、これも季節の風景だろう。

今日は一日、秋の日だった。あちこちで稲刈りの機械が動いていて、アスファルトの道には田んぼから上がった機械が落とす泥が家畜の糞のように点々とあるのが、これは一つの村の風物でもあるのだった。秋の採り入れが終ると山々は色づき始める。もう九月も下旬である。一日が早く暮れて行くように、いつの間にか涼しい秋風が吹く。 “ しゅうめいぎく ” はこれからが盛り、と言う。哲学者・西田幾多郎 ( 1870-1945 ) の昭和14年の歌にこんなのがある。

   日は暮れて途(みち)遠けれどともかくもけふけふたけの業(なりはひ)はしつ

 


夜の花

2014-09-22 | 日記

     

                    ( コメントは特にありません )

( 追記 )  コメントなし、とは言うものの、ちょっとコメントしてみる。この花、昨夜遅く帰宅して見ると玄関に飾ってあった。小さな白い花を付けた草 ( 孔雀草 ) は雰囲気のあるものだった。小さな白い花が夕霞のように背景にあると、一輪の花もより綺麗にみえるから面白い。部屋の空気が穏やかに感じられるのである。玄関に入った瞬間、一日の鋭角的な心が緩むのである。これも些細な幸福なのだろう。( 23日未明記 )

 


栗拾い

2014-09-21 | 日記

   

山の畑にある三本の栗の樹には、毎年たくさんの実がなる。毎年、母に栗もぎを催促されているが、僕はしたことがなかった。でも今日は天気もいいし、昨日は遅くまで新潟市から三条市を動き回っていて、母の顰蹙 ( ひんしゅく ) を買っていたから、今日はご機嫌を取らなければならなかった事情もあったのだった。樹の周りの下草を刈ってから、隣の家から借りた長い竹竿で枝を揺すったり、イガを叩き落としたりで、思わぬ汗をかいてしまった。しかし山の空気は汗をかくほどに心地いいのである。遠くに守門岳が青空と白雲に鮮明であったのも、栗拾いを貴重な時間にしてくれたのだった。来年は、( 母がまだ元気だったら ) 催促される前にでも栗の樹を揺さぶってみよう、と思う。

   

この籠の毬栗は実を取るに少し早いから、家に持ち帰ってしばらくネカセテ置くのである。

 


イメージとしては…

2014-09-18 | 日記

     

この写真のイメージは、例えば、バルセロナのかの有名建築のサグラダ・ファミリア教会、である。中央の電柱が、いまだ建設中の工事用クレーンである。葉っぱをピーンと張って上方に伸びる植物は、教会の塔のフォルムさながらであり、サグラダ・ファミリア教会はまるで植物的生き物のようである。教会はアントニ・ガウディ ( 1852-1926 ) の思いの詰まったライフ・ワーク作品である。人間の寿命を遥かに越えて静かに成長する樹木のような。

僕はこの写真がどういう訳か上に書いたように、サグラダ・ファミリア教会をイメージして脳裏から離れないでいるから、自分でも可笑しいくらいだ。一昨日の夕方に撮ったもの。