ウェッジウッド社の皿とベンヤミン

2017-07-10 | 日記

   

忘れていて棚の奥に入れ込んだままの皿だった。今では廃盤になった “ メジチ ” シリーズの皿である。どうも僕の家には合いそうもないので、奥に入れっぱなしになっていたようである。いつかこういうテーブルウェアーを使いこなせるような家に住んで見たいものである。ま、それはそれとしてスポット的に使って見るのも一興である。明日には家のどこかに置いて見ようか … 。

今夜もどうも暑くて眠れそうにないから、内容的にも、文字通り重量的にもちょっと重たい本でも読もうか、と思う。この数日は今橋映子著『  パリ・貧困と街路の詩学 1930年代外国人芸術家たち 』(1998年 都市出版 ) という、ナチズムの台頭と大恐慌時代の無国籍都市パリに亡命、または自国脱出者たちのパリでの生活とその芸術活動について書かれた本である。特にドイツ人にしてユダヤ人のヴァルター・ベンヤミン (1892-1940) のパリでの記述に心引かれるものがあった。それに『夜のパリ』の写真家・ブラッサイ (1899ー1984) である。そして僕はここに、この著作から長い引用をしなければならない。

ボードレールの時代ではなく、1930年代の外国人芸術家たちが、貧困の中でパリを放浪し、街の中でこそ自分の表現形式をつかみとっていった理由は、実はベンヤミンのこの「無為」のうちに読み取れるのではないだろうか。大不況であり(亡命)外国人であるという二重の条件下で「労働過程一般とのいかなる関係をも」絶たれた外国人芸術家たちは、すでにもう「無為」の中にある。そして亡命であれ、放浪であれ、社会から疎外された者たちは、その代わり異国の街に対して遊歩者 (フラヌール) の視線をもちうる ― それは何よりも彼らが「孤独」な存在であったということから説明されるだろう。

「無為という条件の下では孤独は重要な意味をもつ。どんなに些細もしくは貧困な事件であっても、そこから潜在的に体験を解き放ちうるのは、孤独だからである。孤独は、感情移入を通じて、どんな偶然の通行人をも、事件の背景に役立てる。感情移入は孤独な人間のみ可能である。それゆえ孤独は真の無為の条件なのである。」( ベンヤミンの著作から )

こうした孤独な遊歩者が、都市風景の中に降り立つことによって、疲労困憊するほど歩き回りながらも、ついに陶酔の感覚にまで至ることができるのはなぜだろうか ― それは次に「室内としての街路」という、ベンヤミンならではの光り輝くような定義によって明らかにされる。

「街路は集団の住居である。集団は永遠に不安定で、永遠に揺れ動く存在であり、集団は家々の壁の間で、自宅の四方の壁に守られている個々人と同じほど多くのことを体験し、見聞し、認識し、考え出す。こうした集団にとっては、ぴかぴか輝く琺瑯引きの会社の看板が、ちょうどサロンでの市民にとっての油絵のように、いやそれ以上に壁飾りなのであり、「貼紙禁止」となっている壁が集団の書き物台であり、新聞スタンドが集団にとっての図書館であり、郵便ポストが青銅の像であり、ベンチがその寝室の家具であり、カフェのテラスが家事を監督する出窓なのである。路上の労働者が上着をかけている格子垣があると、そこは玄関の間であり、いくつも続く中庭から屋上へ逃れ出る出入り口であり、市民たちにはびっくりするほど長い廊下も労働者たちには町中の部屋への入り口である。労働者たちから見れば、パサージュはサロンである。ほかのどんな場所にもまして、街路はパサージュにおいて、大衆にとって家具の整った住み馴れた室内であることが明らかになる。」( ベンヤミンの著作から )

まさに、「パリは風景となってかれに開かれ、部屋となってかれを閉じ込める」。ナチズムや、ヴィシー政権という、現実の政治にコミットすることなく、意思をもって「アト」をくらましてしまった亡命思想家ベンヤミンは、しかしこうした「遊歩」と「街路」の詩学を1930年代のパリで生み出した。今日から見て私たちが驚くことは、『パサージュ論』が、単に19世紀パリを読み直す鍵を提示しているのみならず、それは〈パリ〉という集団的想像力の場 (トポス) を解明する無尽蔵の資料と、認識論とを包含しているということである。そしてここで今一度注目したいのは、この『 パサージュ論 』が多くの亡命者にとっては、不寛容で不毛の地でしかなかった「1930年代のパリ」でこそ、生み出された ― という事実なのである。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿