こんな良い記事読まなきゃ損。日本人の忘れ物。
またまた7月10日の京都新聞に素晴らしい記事が・・
京都工芸繊維大名誉教授 中村 昌生氏のお話です。
伝統的大工技術
伝統的な住空間を甦らせて大自然との関係を修復しよう 。と題して
今回の未曽有(みぞう)の災害は、すべての日本人が共有しなければならない。それは現代の日本人の生き方に対する大自然の激怒であり警(いまし)めであったからである。
暮らしの知恵を蓄積してきた「経験の科学」
古来大地に身をゆだねつつ、家を建て、暮しを営み、自然と共に生き続けてきた日本人は、自然の脅威から身を護りながら、自然と語り合い、その恩恵を限りなく生かし続けてきた。そのような生き方から育まれる心や感性から国民性は養われ、独自の文化が生まれたのである。外来の文化も、そうした国民性に同化させつつ日本の文化に吸収した。
大自然との共生を通じ、さまざまな体験を積み重ねながら、暮しの英智を蓄積してきた。それは体験に裏付けられた「経験の科学」である。
明治になって西洋文明を受容した。これは自然と対立し、自然の征服を理想とした思想によって発達した文明である。それは日本人の自然観とは正反対の思想に根ざしていたが、「自然科学」の急速な発展に裏付けられた近代文明であった。自然科学による文明の導入によって日本は目ざましい近代化をなし遂げ、世界の大国と並ぶようになった。こうした近代国家への驚異的な発展を支えた自然科学の威力の前に、経験の科学は次第に日本人の心から離れていった。
自然をもコントロールできる錯覚に陥る
焦土と化した戦後の復興も、当然ながら自然科学文明に拠らざるを得なかった。科学の進歩の速やかな導入によって、忽ち経済大国となった。そしていつの間にか自然をもコントロールできるような錯覚に陥りはじめたのである。「夏は涼しく冬は暖かに」という工夫が、日本人のもてなしの極意であった。それも物理的な効果はいとも簡単に実践できるようになった。
戦後、住宅の復興は、早く安く、から、もっぱら便利さ、快適さを求めて疾走してきた。住宅行政もその路線を強力に推進した。そして断熱材で密閉された空間で、環境を自由に支配できる住宅が普及した。日本人の住まいづくりは、経験の科学を軽視し、遂に自然と絶縁しかけたのである。
大気と共に呼吸して生き続ける木で造られた住宅
日本の大工技術は世界に比類をみない。大工は「木」の性質を知り尽くし、伐って用材となっても、生きているものとして、その強さ、美しさ、感触などを引き出しながら加工し、組み立て、土壁をつける。このように生き続ける材で造られた伝統的木造住宅は、大気と共に呼吸し続けている。人工の所産ではあるが、自然界の一部であると言えるのかも知れない。
戦後発展した日本住宅を支えた自然科学も、日本人の経験の科学には及ばない弱点を、伝統的な木造住宅は証言している。地震にも負けないし、火災時に人命を落とす心配もまずない。何よりも自然との共生を促し、楽しませてくれる。このような住空間を甦(よみがえ)らせることこそ、大自然との関係を、速やかに修復しうる有効な道ではなかろうか。
京都工芸繊維大名誉教授 中村 昌生 さん
1927年、愛知県生まれ。京都工芸繊維大教授をへて同大名誉教授。福井工業大名誉教授。京都伝統建築技術協会理事長。日本建築専攻。工学博士。日本建築学会賞、日本芸術院賞など受賞。著書は「茶室の研究」「数寄屋邸集成」など多数。
さすが京都新聞良い記事書きますね。
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またまた7月10日の京都新聞に素晴らしい記事が・・
京都工芸繊維大名誉教授 中村 昌生氏のお話です。
伝統的大工技術
伝統的な住空間を甦らせて大自然との関係を修復しよう 。と題して
今回の未曽有(みぞう)の災害は、すべての日本人が共有しなければならない。それは現代の日本人の生き方に対する大自然の激怒であり警(いまし)めであったからである。
暮らしの知恵を蓄積してきた「経験の科学」
古来大地に身をゆだねつつ、家を建て、暮しを営み、自然と共に生き続けてきた日本人は、自然の脅威から身を護りながら、自然と語り合い、その恩恵を限りなく生かし続けてきた。そのような生き方から育まれる心や感性から国民性は養われ、独自の文化が生まれたのである。外来の文化も、そうした国民性に同化させつつ日本の文化に吸収した。
大自然との共生を通じ、さまざまな体験を積み重ねながら、暮しの英智を蓄積してきた。それは体験に裏付けられた「経験の科学」である。
明治になって西洋文明を受容した。これは自然と対立し、自然の征服を理想とした思想によって発達した文明である。それは日本人の自然観とは正反対の思想に根ざしていたが、「自然科学」の急速な発展に裏付けられた近代文明であった。自然科学による文明の導入によって日本は目ざましい近代化をなし遂げ、世界の大国と並ぶようになった。こうした近代国家への驚異的な発展を支えた自然科学の威力の前に、経験の科学は次第に日本人の心から離れていった。
自然をもコントロールできる錯覚に陥る
焦土と化した戦後の復興も、当然ながら自然科学文明に拠らざるを得なかった。科学の進歩の速やかな導入によって、忽ち経済大国となった。そしていつの間にか自然をもコントロールできるような錯覚に陥りはじめたのである。「夏は涼しく冬は暖かに」という工夫が、日本人のもてなしの極意であった。それも物理的な効果はいとも簡単に実践できるようになった。
戦後、住宅の復興は、早く安く、から、もっぱら便利さ、快適さを求めて疾走してきた。住宅行政もその路線を強力に推進した。そして断熱材で密閉された空間で、環境を自由に支配できる住宅が普及した。日本人の住まいづくりは、経験の科学を軽視し、遂に自然と絶縁しかけたのである。
大気と共に呼吸して生き続ける木で造られた住宅
日本の大工技術は世界に比類をみない。大工は「木」の性質を知り尽くし、伐って用材となっても、生きているものとして、その強さ、美しさ、感触などを引き出しながら加工し、組み立て、土壁をつける。このように生き続ける材で造られた伝統的木造住宅は、大気と共に呼吸し続けている。人工の所産ではあるが、自然界の一部であると言えるのかも知れない。
戦後発展した日本住宅を支えた自然科学も、日本人の経験の科学には及ばない弱点を、伝統的な木造住宅は証言している。地震にも負けないし、火災時に人命を落とす心配もまずない。何よりも自然との共生を促し、楽しませてくれる。このような住空間を甦(よみがえ)らせることこそ、大自然との関係を、速やかに修復しうる有効な道ではなかろうか。
京都工芸繊維大名誉教授 中村 昌生 さん
1927年、愛知県生まれ。京都工芸繊維大教授をへて同大名誉教授。福井工業大名誉教授。京都伝統建築技術協会理事長。日本建築専攻。工学博士。日本建築学会賞、日本芸術院賞など受賞。著書は「茶室の研究」「数寄屋邸集成」など多数。
さすが京都新聞良い記事書きますね。
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いつも楽しんで読ませて頂いています。
初めてコメントさせて頂きますが・・・
この教授の文のあまりの想像力の無さ、無神経さ、我田引水ぶりには呆れかえる以外ありません。
「今回の未曽有(みぞう)の災害は、すべての日本人が共有しなければならない。それは現代の日本人の生き方に対する大自然の激怒であり警(いまし)めであったからである。」
この震災で亡くなった人たちは自然の怒りを受けたために亡くなったと。
なるほどね、津波にのまれた人たちは子供も含めて自然と敵対していたんですね。
自然を破壊している政治家・ゼネコンの人たちは何でまだ生きてるのかな。
よくもこんなばかげたことを新聞に載せるものだと嘆息するしかありません。
震災は単なる天災です。
それを自分の持論に利用しようとして自然の怒りなどと形容する浅薄さは、いかにこの人物が馬齢を重ねてきたかを表しています。
石原都知事も似たようなことを言っていましたが、距離があるためか所詮他人事なのでしょう。
さすが京都新聞、良い記事書きますね。
伝統的な日本家屋は確かに魅力的ですが、「地震にも負けないし、火災時に人命を落とす心配もまずない。」のでしょうか?
日本家屋は地震にはある程度強いと思いますが、もともと今回の震災では地震そのもので亡くなった方は少数なのではないでしょうか?
また、日本家屋は火災の時は逃げやすいという意味なのでしょうか・・・木造家屋は良く燃えるものかと思うのですが。
津波に襲われて残ったのは鉄筋コンクリートのビルです。
伝統的な日本家屋など何の役にも立たず海の藻屑と消えます。
初めから結論ありきの強引な論旨展開に失笑するしかありません。
先生の仰る言葉は、いいとして、
私達大工は初めから永久に残る材料で仕事をしていません。
木は植物なので燃えやすい、湿潤にも弱い、その他弱い欠点は沢山あります。
「何の役にも立たず海の藻屑と消えます。」
おいらは関東出身で東北にも沢山の先輩や友達がいますが
、何の役にも立たないなんて言う大工の先輩や友達は一人もいません。
元々、植物なので儚い材料の「木」を道具を使って建物を建てるのが一番良いと感じているからです。
おいらは木が大好きです!
かなりきつい言葉で批判してしまい、はんなりさんにはやや申し訳なかったかな、と反省しております。
あくまでもこの老人への批判です。
本当は京都新聞に投書でもすれば良いのかもしれませんが、購読もしていない他地域の者が投書するのもちょっと変なので・・・。
この教授の「今回の未曽有(みぞう)の災害は、すべての日本人が共有しなければならない。それは現代の日本人の生き方に対する大自然の激怒であり警(いまし)めであったからである。」という一文が許せなかったのです。
ちなみに自分自身や家族は人的被害は受けていません。
それなりに苦労はしましたが。
「共有しなければならない」等と述べていますが、自分や家族が被害を受けていたら「これは日本人の生き方に対する大自然の激怒であり警めだ」等というタワゴトは出てくるはずがない。
いかに他人事と考えているかを示しており、共有とは対極にある偽善に満ちた台詞です。
>>辰年の蟷螂さん
日本家屋が「何の役にも立たず」と書いたのはあくまでも津波に対して、という文脈です。
自分は木製品が好きですし、伝統的な様々な仕口をこらした美しい家具や建築には憧憬を持ってもいます。
通常の生活、特に温暖な地域では快適でもあるのかもしれません。
そうはいっても残念ながら津波の前には「何の役にも立たず海の藻屑と消えます。」というのが否定できない事実です。
火にも弱いですね。
すべてに優れているわけでもないのに、この老人が震災を引き合いに出したあげく、日本家屋の欠点を無理矢理利点のように強弁していることが我慢なりませんでした。
誤解のないように言い添えますが、私は鉄筋コンクリートのビルが日本家屋よりも優れていると言いたいわけではないのです。
あくまでも今回のような特殊ケースです。
きちんとした仕事をなさる大工さんは、自信を持って良い物を作っていってほしいと思います。
わかってますよ。山本様の気持ちはわかってますって。
福島県いわき市四倉の知人で堂宮大工のMさんはこの度の天災で水浸しの中を御母さんを、おぶって非難されたとの事です。その大工さんとは以前に建築の勉強を一緒にした方なので、震災後に大丈夫かと心配して電話しましたが連絡が繋がりませんでした。
海沿いの住まいなので若しかしたら・・という不安がありましたが翌日に再び電話をしましたらMさんの懐かしい声が聞けて安心して、良かった良かったと、嬉しくて嬉し涙が出て。
もう一人の知人の堂宮大工のK君は山形市の人なのですが
仕事の現場が震災当時石巻で、地震直後に現場と自分の車が水浸しになり、携帯電話も何も連絡手段が無くなりながらもヒッチハイクをしながら、やっとの事で山形まで帰れたとの事です。そんな苦労をしているのに関東出身の私の実家の事を気にして『辰年の蟷螂さんの実家は被害は無かったですか?』と心配してくれて・・・またまた涙が出ました。
個人の一例でも、突如このような被害を受けて未だに苦労されていて、大切な人を亡くした方々はもっともっと苦しいでしょう。
学者先生の一言が気に入らねぇ気持ちは、おいらも同じ気持ちですって。蟷螂の斧で玄能を振る蟷螂
はんなり様 御免なさい またもや、はんなり様の工場、いやいやブログで小生意気な事を言ってしまいぁした。悪しからず。蟷螂
有事に生きて・京都新聞・支援活動から
震災以降、思ったことをざっくばらんに書いて置きます。
文章のまとめが、相変らず悪いです。
1000年に1度という大地震・津波と原発事故。
歴史上例がない災いに
「我慢」の精神で立ち向かう日本人~
震災後、世界の知識人たちが書き立てられたように、
日本を論じた文献を各方面で読みましたが、
そこにはインテリジェンスに満ちた知見から
破壊と復興を繰り返す
日本の文明と日本人の精紳論や
科学技術立国の「おごり」などについて
鋭い指摘が今も成されています。
日本には、
古代から火山活動、地震、津波、台風、高潮などの
自然災害からの破壊と復興の繰り返しで育まれ
変わることなく引き継がれてきた精神性に、
「無常」という世界観があります
人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、
という「あきらめ」のことでもあります。
逃げることなく自然と共存してきた民族の歴史が、
近代に入っても繰り返し破壊と復興に
鍛えられてきた文明
という解釈が根幹にあります。
しかし、福島原発の事故に関しては、
指摘がされている通り
科学技術立国としての
「おごり」が招いた人災と思います。
管理された情報源としての
報道や新聞、雑誌、本などの文章は、
人を惑わしたりコントロ-ルする媒体でもあり
それを利用する組織が多いことも事実です。
この思想的に劣化した情報からでも
裏に隠された背景と
本当の真実を知る努力をすることが、
大切だと思います。
日常の危機管理に
お人好しの方が世の中多過ぎます。
煮え湯も喉元過ぎれば何とやら~
人一倍喉元が短いのかな~
と考えざるを得ない時もあります。
この日本人のメンタリティの根底にある
優しさ・仕方がない・我慢が、
原発事故の対応に大きな禍根を残していますネ。
震災後、
人や物の流れの景色が変わりました。
震災後に気付いたこと。
人々も気づいてはいますが、
つぶやけないこと。
多々あります。
今回の京都新聞の記事の件
この中村 昌生氏の文章は、
常々その見識から
分かり易く情熱をもって論文を
書かれる方と思って居ります。
仕事柄、幾度となく目にする機会はありましたが、
迎合する訳でもなく
それ以上、それ以下でもなく
少し唐突な展開と被災者の事を思いやる
気持ちの配慮に、
丁寧さが足りなく感じられたとしても
特に否める気は起りません。
論理的な積み重ねの文章でも、
立場が違えば同じことでも
見えるものは違って見えます。
唯、人間が書いたものですから
震災後に何かいたたまれない心情や
健康の変化など
何か他にも要因があるのかなと
勝手に思ったりします。
数寄屋の普請には、
伝統的建築様式の中にも
人が
何を求めているのか
それを見越した洞察から
一つの細部意匠のデュ-ティ-ルの
繋がりに、
芸術を超える
初めて創造する世界もあります。
ここから
派生したものは多いです。
復興支援活動は、
肉体的なしんどさより
あまりの被害の甚大さに、
精神が殺伐とした情景と無常観の
狭間に陥ります。
被災された方々が、
我慢をし過ぎないよう
心が早く健康に
立ち直れるよう
元気な声で叫んで頂きたい
見守りの気持ちになります。
また、被災された方に対し
個人として大きな力はなくても朴訥でも
今してさし上げられることを寄り添う気持ちで、
会社、組織、個人で全国から支援に来る
リピ-タ-の方は案外多いです。
被災地での活動を通して、
自発的な団結の動きや
阪神・淡路大震災の時の経験が、
独創的な被災者支援体制へと
復興への改革が、上からではなく、
下から起きるものだ ・・・ と肌で、
民衆が主導する変革へと繋がる
継続の力を予感します。
(被災地からの明日への希望です)
改めて思うことは
社会に対する無関心さ
政治への無関心さが、
こんな無責任で無能な政治を生む
土壌の大きな要因なのかと
自問します。
これは 福島市在住の詩人、
和合亮一 氏wago2828の
有名な4月1日付のつぶやきです。
ガソリンが切れるか、
命が切れるか、
心が切れるか、
時が切れるか、
道が切れるか、
俺はまた、一個の憤怒と激情となって、
海へと向かうのか。
悔しい、悔しい、悔しい、海へ、
悔しい、海へ、海へ。
これは、1994年12月4日京都国際交流会館で開催された、街の色研究会・京都 主催の「街の色研究会・京都」 シンポジウム94「街の色・壁の色」での中村昌生氏の講演記録です。
『街の色・壁の色』 基調講演より
日本の壁の色
中 村 昌 生
ただいまご紹介に預かりました中村でございます。
実はこのような貴重なご研究のお集まりの基調講演というには、私は大変荷が重すぎましたけれども、実はこの席に立っていただく方が、おられたのでございます。それは「壁博士」として尊敬されておられた山田幸一先生という関西大学の教授をしておられた方です。
先生は中京のお生まれで、ずっとこの壁の歴史的な、また技術史的なご研究をなさっていて、たくさんの著書を出しておられます。
本来からいえば本日の基調講演には非常に相応しい硯学でいらっしやいましたけれども、残念ながらもう三年になりましょうか他界されました。
私は先生と非常に親しく、いろいろお教えもいただいたりしておりました。
特にただいまご紹介いただきましたように、私は日本の建築の伝統的なもの、とくに茶の湯に関わる建築や、数寄屋の建築について勉強して参りました。
そういう点で日本の壁の一番いい所に触れてきたということもございます。
そんなことで山田先生の教えもいただいてきたので、それでは今日は先生の受け売りをさせていただこうかと、そんなつもりでここに立たせていただいた次第でございます。
日本の壁ともうしますと、西洋の建築におけるそれとは、事情が違っていることはご承知の通りでございます。
壁穴住居の頃には、壁はなかったといってもいい、地面が掘り凹込められていてその回りが、或いは壁に相当したかもしれません。
しかしそれは土留が成されていたという程度で、とくに壁として意識された構造物ではなかったのでございます。
それが、床をもつようになって、初めて壁体というものが現われる。
填輪など見ますと、当時の壁は、網代といったようなもので壁面が張られているという状況を見うる程度でございます。
それにいたしましても、そうした庶民の住居は、土を控ねてそれを下地に塗り付けるという土壁であったことはいうまでもないことでございます。
しかし、法隆寺をはじめ大陸から伝来した仏教建築は漆喰壁、白い石炭を使った漆喰壁がずっとその主流になっております。
もちろん板に白土を塗り、その上に絵を描くということもありましたけれども、主として漆喰壁で、邸宅の建築もほとんど漆喰壁であったわけでございます。
今も京都御所にはそれが見られるわけでございますが、漆喰壁にもいろいろな工法がございます。
平滑に塗り上げられて、艶と光沢のある壁、そうした壁が漆喰壁の主流であるといたしますと、御所ではそれを少し捻りまして「パラリ壁」といわれる手法、どうして「パラリ」といわれるのか、昨日も宮内庁にお勤めの方に聞いたりしたのですが、どうもそれは分からないということでしたけれども、これは俵灰と申しまして俵にいれた石炭を積んでおきますと中の粒子が幾分固まります。
そういう物を上塗りのときに塗って、わざわざ凹凸のある白壁をつくるやり方です。
まあいうならば普通壁は荒壁を付けて、中塗りをして、上塗りをし、その上塗りで仕上げるのですけれども、その中塗り程度の仕上げを表面にした、いわゆる中塗り仕上げの漆喰壁といったらいいかと思うのです。
そんな仕上げの漆喰壁が工夫されているというところは、非常に日本的な好みのあらわれではないかという気がいたします。
今日会場の展示室の中にも「パラリ壁」を展示いたしておりますので、御覧いただければご理解いただけると思います。
その他板壁がございます。
それから土壁でなく紙を貼った壁、これはいわゆる「貼付け壁」といって紙を貼り付けた壁でございます。
事務局の村上さんのご尊父土居次義博士は私たちの大学の美術史の教授で、特に狩野派を中心に大きな成果を上げられた障壁画研究の大家であらせられましたが、障壁画を描く壁は貼付け壁でございます。
しかもそれに金碧を貼って 「金碧画」といわれているように、金箔に絵を描いた壁もございます。
もちろん絵も描かず、金碧も貼らないで白紙のままの貼付も書院造りの住宅では行われて参りました。
日本建築は柱の建築といわれますけれども、私は正確には壁と柱の建築だといいたいのでございます。
決して西欧の家のように壁の建築とはいえませんけれども、昔の古い民家はほとんど壁で塗り囲まれて、壁で閉ぎされたような空間であったといってもいい、その一部に開口部をこしらえるというようなやり方で、これは建物の強度に非常に関わっていることで、例えば壁の下地が耐震性を高めるのでございます。
目に見えない壁の中に強固な貫を配置してですね、土壁を付けなくても建物がそれだけで持つという位に仕組む。
その上に壁を付けていくのです。
こうして壁が建物を強化していくという役割をするのです。
そして表面の仕上げをどうするかということが、美的な意匠の問題でございます。
建築を作ります上にも、醜い補強、例えば斜めの筋連は壁の中に埋めてしまう。
例えば木割りの繊細な建築でございますと、それをもたせるからくりは、実は壁の中に隠してしまうというやりかたが、日本建築の特色なのでございます。
その壁の表面をどうするか、柱と壁の建築でございますから、見た目には壁の面積のほうが圧倒的に多いわけですね。
ですから住宅などでも一番職人さん達の芸で映えるのは、目に触れやすい広い部分を手掛けるのは佐官であるといわれるようにですね。
壁の面積は広い、それをどう仕上げるかということは大事なのですけれども、一般の民家はですね、ほとんど中世までは普通の土壁、単なる土壁でしかも荒壁そのままだといっていいような壁の状態であったと思われます。
ようやく書院造りになって、貼付け壁で、小壁は漆喰壁でというやり方が定着しました。
ところが民家では土壁であった。
その土壁を単にそこに土を塗ったというだけでなく、そこに意匠的な効果を考えるようになった。
これが最初といっていいかどうか分かりませんが、恐らくそういうことが要請せられるようになったのは、茶の湯の空間からではなかったかと思うのでございます。
それでは茶の湯の空間、言い換えますと茶室は最初どうであったろうか。
利休の師匠の武野紹鴎の時代もそれ以前もすべて自の貼付け壁でございました。
そして柱も角柱であった。
千利休あたりからですね、茶室を草庵化していこうと、真、行、草の行から草へという意匠の展開をすすめていく過程で、角張った人工的な柱でなく、丸いまま丸太を使おうというようになって参ります。
そうなって参りますと、丸太で貼付け壁というと、これはないではありませんけれども、これは不自然で、土壁になってくる。
丸太柱に土壁、それに草の屋根という草庵の形態を茶室は求めたわけでございます。そうなってきますと、土壁の仕上げ方を考えるようになってくる。
そこで今残っております遺構から見ますと、千利休が作ったと伝えられる遺構が京都の山崎にあります「妙音庵」で、ここは東福寺の末寺でございますが、そこに 「待庵」という茶席がございます。
これは二畳という小さな茶室でございますが、壁はまさに荒壁仕上げなんですね。
荒壁のまま放置したのでない、最終的に荒壁のままを一つの仕上げとしたという仕上げの技術が施されている。
具体的に申しますと壁の表面に土のなかに混入いたします藁のスサを、表面に散在させた荒壁仕上げの壁なのでございます。
せめて床のなかだけは貼付け壁にしようという慣習がそれまであったのですが、利休はあえて床の中まで、荒壁仕上げにしてしまいました。
そして利休の言葉としても「荒壁に掛け物面白し」と、これまでの習慣を打ち破るそういう好みを、利休自身が語っているのでございます。
そういうふうな荒壁仕上げの土壁が茶室に登場しました。
その頃おそらくですね、「待庵」 に使われた土がどこの土であるか、良く分かりませんが、これも分析していただいたらどこの土か分かると思いますけれども、そういう調査が行われたと聞いてはおりませんけれども、ちょうど利休のころ京都の衆楽の土が使われるようになっております。
この衆楽の土というと衆楽第のあった周辺、今の掘川から西、千本丸太町を中心とするあの辺りから出土する衆楽の土が一番土壁にはいい土だということが知られるようになりました。
したがってほとんど仕上げは衆楽の壁が日本の座敷、町家、書院そうした住宅建築の主流になってくるのでございます。
この 「じゅらく」につきましては後でお話するといたしまして、衆楽の土を使うことが、茶室をはじめ、その他一般の住宅に広がっていって、貼付け壁でないところは衆楽の土を使うとか、先程申しました書院造で下部は貼付け壁、上部の小壁は漆喰壁としていたのが、小壁も衆楽に変わるというようになって参ります。
茶匠で申しますと、利休の次に古田織部が登場して参ります。慶長年代が活躍期でございます。やがて江戸初期から小掘遠州という
人達が、とくに建築や庭園に大活躍するのでございますが、この織部辺りがおそらく発見したであろう土が大坂土でございます。
これも展示しております。この「大坂土」と申しますのは、大体が京都と大阪とのあいだから出土する土であろうと思います。私も目の当たりに見ましたのは、竹林公園という公園が西山のほうにできましたときにそこを造成しておりましたところで、これこそ大坂土だろうなーと思って見たことがございます。
この土をですね、最初織部が使いだしたかどうかは分かりませんが、織部の作と伝えられておる図面の中にはよく「大坂壁」という書き入れがございます。
大坂壁の特色としては衆楽の壁よりやや赤いのでございます。
今の祇園の一力の壁のようなそんな赤い壁ではございませんけれど、ほのかに赤い、その濃淡はいろいろありますけれども、赤い壁を使うようになってくる。
今、目にしうる遺構ですと、皐珠院の書院の壁などが大坂壁で、桂離宮も大坂壁でございます。
1994.12.04 講演記録No.2へ続きます。
続編
織部たちのそうした色彩に対する斬新な好みが、たちまちのうちに貴族の世界にも取り入れられて、また武家の世界にも、もちろん織部は武家社会の人ですから当然ですが、取り入れられていく。
やがては町家のほうにも取り入れられただろうと思います。
そうした大坂土が織部、遠州らによって桃山後期から江戸初期にかけて山荘の建築とか、或いは奥向きの書院とかに広められていったのです。
それから、江戸時代になりますと、こうした土壁にもいろいろな色合いが試みられて参ります。金沢の兼六公園においでになりますと、あすこに「成巽閣」という建物がございます。
これは藩主前田公が隠居所として作ったものですが、立派な御殿でございます。
ここの二階の座敷にはですね、本当に目も鮮やかな群青の壁が見られます。
そして大坂土の赤さではない赤い、明らかに顔料をいれて塗ったであろうと、思うような赤壁が登場しております。
これは、私はなんらかの顔料を入れた壁だろうと、思っておりましたが、こういう色の土が出土するのだ、という話を聞きまして、おそらく、「成巽閣」が作られた当時の壁はそうした色の土を用いてそれを塗ったのではないかと思います。
京都などでも先程スライドに出て参りましたように島原の「角屋」の壁なども、大坂土ではなくて、紅柄を入れた壁であろうかと思いますが、そのように色彩を壁土の中に入れて色を表現するという、「顕色」といわれておりますが、技法が江戸時代では始まります。
けれども、それは一般の住宅には、ほとんど取り入れられていない。
御殿であったり、島原のような遊里の建築であったり特殊なところに出てくるのです。ご承知のように京都の町家は、木部は紅柄塗りです。
この紅柄という顔料は、それだけを塗れば極めて刺激の強い色でございますから、それに塁を入れるのです。
練塁といったようなものを使ったりしておりますが、そういうものを入れまして適当な色合いに調整したものを、昔の棟梁たちは常に蓄えておいて、普請に当たってそれを塗って仕上げるのです。
その紅柄塗りに似合う壁はやはり衆楽壁であるということで、町家の外壁も内部も、内外ともに衆楽壁が主流になりました。
ところがですねほんとうの衆楽というのは、そんなに無尽蔵にあるものでもない。
とくに今そうした土を取る場所が、市街化されて、舗装されて電車が通るようになってからは、もう衆楽という土の採取は不可能になりました。
そこで衆楽に代わる土を職人さん達は探して回るということで、現在ほんとうの衆楽を使うというようなことは、ほとんど不可能になっております。
しかし、本日出ておりますのは、「本家楽」と.かいてございますけれども、これは見本を制作してくれました杉森さんという左官の方が、大変に熱心な人で、壁土を探して歩いてばかりいる人であります。
探して歩いてはいろいろ整理をして蓄えて、そうしてそれをいろいろ調合して使う人なんですが、彼があるとき、ある発掘の現場でその「本家楽」を見付けて、早速貴い受けてきたという、そういう土で塗ってくれた見本でございます。
そういう土は得難いので、今では稲荷のほうの土が使われております。
まあ、類似の衆楽の土というわけでございます。
ところがひとくちに衆楽といってもいろんな色調がございます。
皆様も住宅をお建てになった方なら経験をお持ちとおもいますが、衆楽であれば何だっていいという風にはいかないのでございます。
やっぱり自分の好きな色合いというのがあろうかと思います。そういう色調の変化はどこで付けるのかともうしますと、採取した所の土の色でございます。それでこの色では嫌だとなれば、幾つかの場所で採取した土を合わせて、調合して色合いを作り出すということが必要でございます。
そのために京の左官の職人さんたちは、平素からいろいろな所でいい土を探し求めては、それを備蓄しておいて、いろいろな要求に応じるのです。
私ども建物を建てます場合には、必ず一応見本を掩えてもらって、丁度今日出ておりますくらいなピースの中に塗ってもらうわけですけれども、それをまた大きな壁面に塗りますと、色の効果が変わってくる、これはやはり漬すぎたなあー、もう少し薄くして、もう一遍やりかえてもらうということは、しばしば起こるのでございます。
そういう風にひとくちに衆楽といいいましても、色調はいろいろな土を混入して調合をして変化を付ける。
仕上げのスサも大体決まっておりますけれども、土を繋ぐスサによっても色が変わって参ります。
お隣りの大津で取れる土で塗った壁を大津壁といって、これは自大津か黄大津かですけれども、それにはかならず紙スサを使うのでございます。
古い楢の紙を湿らせておいてたたいて、それを乾燥させたものを使う。
これによって非常に光沢のある壁ができてくる。
同じ自、黄であっても光沢が出てくる、紙スサは光沢を出すのに非情に効果があると、聞いておりますけれども、そう言ったスサも影響はいたしますけれども、色調を作り出す基本は、土をどのように合わせるかということでございます。
大坂土に衆楽を合わせるといったことがあってもいいのでございます。
それに京都の町家を見ておりますと、錆が点々と浮いているような壁がございます。左官屋さんの間では 「螢錆」などと称しておりますが、それはポッポッと螢が飛んでおるという意味かと思いますが、今日、それの見本も出ておりますけれども、鉄粉を表面に散らしまして、ほのかに錆をそのまま点在させ、仕上がったばかりの壁という感じでなく、仕上がった状態から自然に錆がでているという状態でございます。
衆楽の土はほとんど水捏ねでございます。
糊で捏ねないで水で捏ねるわけですが、そのほうが壁が強執になるのでございます。ただ技術は糊捏ねのほうがはるかに易しい、糊捏ねですと素人でも鎮が使えて、平滑に塗れるというものでございますが、水捏ねで広い壁面を鏡のごとく塗り上げるということは、これはなかなかの技術なんでございます。
しかし、水捏ねの方が外壁の場合はとくに丈夫でございますので、水捏ねが行われるわけです。
壁の様々な色調や色付け、作為的にいろいろな色を付けるというようなことは、むしろ易しいことであります。
木部は紅柄塗りにいたしましても、特殊な建築を除いては京町家はそうした色を交えた壁は塗っていないというのが、通例ではないかと思うのでございます。
自然の土の色に依存していたのでないかと思います。
日本建築は 「土と木と紙の家」だとよくいわれます。
この土をそのまま建築空間を限る壁体の素材としてきた、大地から掘った土をそのまま生活空間に導入してきたこと、これは木をそのまま使っているというのと同じ次元だと思います。
やっぱり私たちは自然の素材をですね、実に旨く使ってきた。
そしてその色も、とくに作為的な人工的色を加えるのではなくて、土のもっている自然の色合いを期待している。
それを好ましいと感じてきた。
そういう感覚が、私どもの伝統的な感覚ではなかろうかと思うのでございます。
先程ちょっと水捏ねのことをいいましたが、壁には下地がありますので、土の厚さにムラがあり、乾きの状態も一様ではなく、部分が黒ずむといったような現象がよくございます。
そこは自然に土がそういう色を呈してくる、それをまた良しとする感覚、これは茶の湯の佗び寂びの感覚と共通するものかもしれません。
桂離宮でも最初から一部色付けをしている部分もごぎいました。
昔は黒く色付けをするのに煤を使いました。
煤玉を売っている店が江戸時代にはあったのでございますけれども、そうした煤を薄めて色付けをするということは木の木部にもいたします。
木部にも町家の紅柄塗りではなくて、一般の数寄屋建築でもですね、ほとんど木の木部には色付けをしておりました。
これは薄く煤あるいは砥の粉などでうっすらと色付けをする。
そうした木部と衆楽壁、あるいは大坂壁との映りということの良さを江戸時代の人は基調としたのではないかと思うのでございます。
そういたしますと、衆楽の土壁を本流といたします日本住宅の壁の色というのは、これはほとんど色彩という色合いではなくて、自然の土という素材のもつ色の発色にたよってきたということになろうかとおもいます。
それは大変に渋い色、或いは鈍い色といってもいいかも知れません。
そこに限りない落ち着きと深みを、感じて楽しんできた。
それは昔の照明の状態、夜の場合ですと、そういうものとの関わりも考えていかなければなりませんが、きらびやかなというよりも、漆を塗ってもそれを艶消しにするといった、その艶消しに通ずるような渋い落ち着いた色合いというようなものが、日本の町家や住宅の江戸時代以来の基調ではなかったかと思うのでございます。
刺激的な色は、そこに五感を揺さぶるいろいろな効果があります。
ところがその座敷その空間が、どのような目的、どのような利用にも支障にならないような色合いを求めて、こうした衆楽の色調に落ち着いてきたのではあるまいかと。
果たしてこれから、現代の生活には、どんな壁の色が求められるのか、それはまたこの研究会のご研究に期待したいところでございますけれども、伝統的な住宅の壁の色と申しますと、あらましこういうことになるのではないかと思います。
陶芸という土の芸術は、火を加えた土の味わいでございます。
さらには上薬を掛けることもごぎいます。
しかし住宅の土壁というのは本当に土という素材そのものから匂いでてくる、そして色だけではない、触覚的なものも視覚に変えてしまう、素材の質感も感じるという風な性格のものではなかったかと、こんな風に平素考えております。
一応展示会場に、衆楽壁にもこんなにいろいろの色の変化が出ますという数例を展示いたしておりますし、大坂土その他、京都の南に行きますと、九条土といってこれは黒っぼい土でございます。これはこれだけではほとんど使えないのでございますが、これも衆楽の中に少し混ぜることによって、その色合いの調整に役立つものでございます。私の話の足らざるところを展示の参考品で補っていただければ幸せでございます。ご静聴をどうもありがとうございました。