風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

隣の中也(6)/ダダの受容 その5「口惜しきひと/中原中也」

2007-06-17 00:47:47 | コラムなこむら返し
 上京した中也と泰子は、当初高田馬場(豊多摩郡戸塚町源兵衛195林方)に住んだ。これは中也自身が、早稲田受験を考えての選択だつたのだろふ。
 ついで、中野のつるべ井戸のある家へ転居する(同年4月)。東京では中也は、受験勉強はそつちのけで相変わらず文学の話のできる友を、仲間をもとめて彷徨ひ歩いていたらしい。そんな中で、小林秀雄といふ新しい友ができる。小林は富永太郎の友人だつた。上京して間もなく1925年(大正14年)4月頃に知りあつたと思われる。
 そして雨の降る夕刻、引つ越したばかりの中野の借家に最初の客が現れる。そして、それは鮮烈な「奇怪な三角関係」の始まりをも告げる予兆だつた。

 その人は傘を持たず、濡れながら軒下に駆け込んで来て、私を見るなり、
「奥さん、雑巾を貸してください」といいました。
 私はハッとして、その人を見ました……その人は雨のなかから現れ出たような感じでした。雨に濡れたその人は新鮮に思えました。
(前掲「ゆきてかへらぬ」)

 1970年代の半ば頃、突然中原中也を捨て、小林秀雄のもとへ走つた女性の話題が女性誌や、週刊誌をにぎわしたことがあつた。中也の死後35年あまりを経て、小林秀雄がその「中原中也の思ひ出」などに書いた悔恨に満ちた謎のことばの内実が天下のもとに明らかになつたのである。これは、文学史上でも重要な出来事だつたとボクは思ふ。
 この1974年に村上護編で出版された『ゆきてかへらぬ』は、スキャンダルジャーナリズムの耳目も集めたが(最近も『新潮45』6月号がこのやうなスキャンダラスな文壇事件史の特集をしていて中也と泰子と小林の三角関係が取り上げられている)、おかげで小林秀雄の謎のような独白も、また中也自身の詩の背景がみちがへるほど理解し易く展開したからだ。中原中也研究はこの長谷川泰子へのインタビューで構成された書物で、格段と進歩した。
 たとへばそれは、たとへ否定的言辞に見へようとも小林が、「彼は詩人といふより寧ろ告白者だ」(「中原中也の思ひ出」)と述べたことが、なにを現わしていたのかと言ふことや、知り合つて半年余りの同年の10月になぜ、突然のやうに小林が中也に「絶交宣言」を申し渡すのかと言つたことの背景が見えてくるからだ。
 この頃、中也18歳、長谷川泰子21歳そして東大仏文に入つたばかりの眉目秀麗な秀才小林秀雄は23歳になつていた。
 さて、この「奇怪な三角関係」(小林秀雄)については、ここではこれ以上立ち入るのはやめておこう。ただこれだけは、年譜的事実としてふれておかねばならない。
 この年(1925年)11月12日富永太郎結核で死去。享年24歳だつた。同月下旬長谷川泰子、小林秀雄のもとへ去る。
 そして、この事は中也の生涯においての喪失体験の始まりとなり、ダダッ子中也を成長させた。そのことだけは、言明できるだろう。

 1925年(大正14年)、中原中也は傾倒する富永太郎を病で亡くし、宿命のおんな長谷川泰子を小林秀雄に奪われ「口惜しきひと」になる、そしてその当の生涯の友人小林秀雄も喪失するのだ(とはいえ、その友情はのちに回復する。中也の『在りし日の歌』は小林秀雄に託され、その死後出版された。また小林の『Xへの手紙』の「X」は中原中也では?という読みも可能であることを指摘しておく)。

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※参考文献:「中原中也との愛/ゆきてかえらぬ」(村上護・編1974年講談社/角川文庫2006年3月)
      「中原中也との愛の宿命」(長谷川泰子手記:「婦人公論」1974年3月/『群像日本の作家15中原中也』小学館1991年6月)
      「中也・在りし日の夢」(長谷川泰子/秋山駿対談:「国文学」1977年10月号/『新文芸読本/中原中也』河出書房新社1991年2月)


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