そういえば、インドでは路上にはなんでもあった。いや、かの地では路上で一生を過ごすひとさえいるのだ。現在、IT立国になりつつあるインドは、むしろそれだからか教育を受けられる富んだ階級と、そうでない貧しい階層との差はさらに天と地ほどにも開きつつあるのかも知れない。
最初、チョークを持ち出してウチの前の道路に絵を書き出したのはムスメである。グルグル巻きの円を描いて、そこに顔をつけ(それは、なんとも可愛いカタツムリだった(phot_1))円を周りながら、遊んでいた。遅く起きだしたボクは、それを見て路上にボクも描きたくなったのだ。
カルカッタの路上にヒンドゥの神さま(おもにシヴァ神が多かった)を色とりどりのチョークを使って描き、敬けんな人々がその路上の神さまになにがしかのお布施を置いていく。
「あ、これならボクもなにがしかのルピーを稼げるかも!」と、思った路上の絵描きたちだった。かれらは、最底辺の暮らしを営むアンタッチャブル(不可触民)の人々だったが、その絵を思い出したのだ。
あいにくチョークは白一色しかなかったが、道にかがみこんで描き出したボクの姿は不可触民そのものだったかもしれない。
だから、今日の報告は「発見」したものではないことを断っておこう。しかし、路上の「絶対零度」という意味で言えば神さまの姿ほど「絶対」なものはないはずで(笑)、事実、自転車で通り過ぎていった少年は、絵を避けて「なんだ!これ?」と言いながら去っていった(phot_2)。
たしかに思いのほか、デッサンをとるのがむずかしく、かんばしい出来ではなかったが、それにしても、路上の神さまの上にお布施を置いていくものは皆無である。ああ、不信心な日本人どもめ(笑)!
<ワレ路上デ発見セリ!(10)/路上の神さま>
最初、チョークを持ち出してウチの前の道路に絵を書き出したのはムスメである。グルグル巻きの円を描いて、そこに顔をつけ(それは、なんとも可愛いカタツムリだった(phot_1))円を周りながら、遊んでいた。遅く起きだしたボクは、それを見て路上にボクも描きたくなったのだ。
カルカッタの路上にヒンドゥの神さま(おもにシヴァ神が多かった)を色とりどりのチョークを使って描き、敬けんな人々がその路上の神さまになにがしかのお布施を置いていく。
「あ、これならボクもなにがしかのルピーを稼げるかも!」と、思った路上の絵描きたちだった。かれらは、最底辺の暮らしを営むアンタッチャブル(不可触民)の人々だったが、その絵を思い出したのだ。
あいにくチョークは白一色しかなかったが、道にかがみこんで描き出したボクの姿は不可触民そのものだったかもしれない。
だから、今日の報告は「発見」したものではないことを断っておこう。しかし、路上の「絶対零度」という意味で言えば神さまの姿ほど「絶対」なものはないはずで(笑)、事実、自転車で通り過ぎていった少年は、絵を避けて「なんだ!これ?」と言いながら去っていった(phot_2)。
たしかに思いのほか、デッサンをとるのがむずかしく、かんばしい出来ではなかったが、それにしても、路上の神さまの上にお布施を置いていくものは皆無である。ああ、不信心な日本人どもめ(笑)!
<ワレ路上デ発見セリ!(10)/路上の神さま>
でもかたつむりはなごみますね~。
保育園の先生は、やはりなごみ系のカタツムリを支持ですね?
保育園=なごみの場なんて。。。。。。うそや!!
公立でも、私立でもありませんが、かって「共同保育」にかかわっていました。ええ、保父としてのスタッフ体験もあります。
ですから、そのことは良くわかりますよ。
理想を求める共同保育であれば、なおさら賃金や助成や親との関係などなど矛盾だらけでしたから……。