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■ 滝野川寺院めぐり-2(第7番~第11番)

※新型コロナウイルス感染症の感染拡大が収まる気配をみせません。一部で不要不急の外出自粛要請が出されていますし、寺社様が御朱印授与を休止される可能性もあります。
この霊場や札所に興味をもたれた方も、まずは遙拝にとどめ、感染拡大が収束してからじっくりと巡拝されてはいかがでしょうか。


第7番
光明山 照徳院 円勝寺


北区中里町3-1-1
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
御朱印尊格:南無阿彌陀佛(六字御名号)
江戸・東京四十四閻魔参り第36番、閻魔三拾遺第7番

第7番は、浄土宗の円勝寺です。

鎌倉期の文永年間(1264-1275年)、浄土宗第2祖鎮西正宗國師の弟子信阿聖法の開山と伝わる古刹です。
一時荒廃しましたが文明年間(1469-1487年)、香誉上人が中興
戦国時代までは(江戸城)曲輪内龍ノ口(和田倉門の周辺)にあり、のちに当地に移転したと伝わります。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之9、国会図書館DCコマ番号104/107)に以下の記述があります。
「浄土宗芝増上寺末 光明山照徳院ト号ス 本尊彌陀ハ立像長ニ尺許慈覚大師ノ作ト云 開山僧信阿聖法弘安九年二月十五日寂 御入國ノ頃ハ御曲輪内龍ノ口辺ニアリシト云 勢至堂 佛師春日ノ作レル立身ノ勢至ヲ前立トシ故アツテ三尊彌陀ヲ内佛ニ安ス 鐘楼 正徳二年新鋳ノ鐘ヲカク 御腰掛松 古木ハ枯テ植纏シモノナリ相伝フ慶長ノ頃此辺御遊猟ノ時當寺ヘ成ラセラレ此松ニ御腰ヲ掛サセラレシ故此名アリ 又此時寺領五石ノ御朱印ヲ賜ヒシガ五石松トモ称ズトイヘリ 其御朱印ハ後年回録ニカカリ烏有トナリ地所ハ今ニ領セリ」

江戸名所図会には「圓照寺 五石松」として載っています。(参考資料
慶長の頃、家康公が御放鷹の折に当寺にお成り、上の由来をもってこの地の名所となっていたようですが(「家康公の腰掛け松」とも云われたらしい)、いまは残されていないようです。
寺宝として、護良親王の鉄冠、知恩院宮第6世尊超法親王の名号などを蔵します。

石州流茶道の流れをくむ伊佐家代々の墓所(→ 文化財説明板伊佐家の墓/北区飛鳥山博物館資料)で、茶道と所縁のふかいお寺です。
筆者は茶道の心得はまったくありませんが、茶道の流派について少しく勉強してみました。

茶道の流派の多くは、武野紹鴎の門人か千利休の直弟子の流れとされています。
(以下、系譜については諸説あるようです。)

■ 利休七哲
千利休には利休七哲(りきゅうしちてつ、蒲生氏郷、細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)、瀬田正忠(掃部)、高山長房(右近/南坊)、牧村利貞(兵部))と称される高弟があり、ここからつながる流派があります。
細川忠興(三斎)→ 三斎流(一尾流)、御家流
古田重然(織部)→ 織部流 、遠州流、小堀遠州流、大和遠州流、上田宗箇流、御家流

■ 千道安の流れ(堺千家系)
・宗和流 流祖、金森重近(宗和)は千利休の門下、長近の養子金森可重は千道安の門下とされる。加賀藩にて隆盛。
・石州流 流祖、片桐石州は千道安門下の桑山宗仙に師事。
 ・石州流怡渓派
 ・石州流伊佐派 怡渓派の伊佐家の系譜につながるとされる。
 ※他に石州流として数派あり
・鎮信流 流祖は肥前平戸藩四代藩主松浦鎮信公。石州流・宗和流の流れ。
・不昧流 流祖は松平不昧公(治郷公)。不昧公は石州流怡渓派三代伊佐幸琢から石州流怡渓派を学んだため、石州流不昧派と称されることがある。

■ 千宗旦の流れ(宗旦流)
・三千家  千利休の後妻の連れ子である千少庵の系統
 ・表千家 不審庵 宗旦の三男の系統。江戸千家もこの流れ。
 ・裏千家 今日庵 宗旦の四男の系統
 ・武者小路千家 官休庵 宗旦の二男の系統
・宗旦四天王 宗旦の門弟のうち、とくに活躍した4人にちなむ流派
 ・宗徧流 流祖は山田宗徧。
 ・庸軒流 流祖は藤村庸軒。
 ・普斎流 流祖は杉木普斎。
 ※ 久須美疎安にちなむ流派は不詳

★ 柳営茶道(武家茶道四派)
江戸幕府で重んじられた武家茶道。「武家茶道四派」とも称され、現在も柳営会により啓蒙活動が営まれ、護国寺などで定例の茶会が催されています。
・旧磐城平藩主安藤家御家流
・小堀遠州流
・石州流伊佐派(石州流怡渓派の流れ)
・鎮信流
柳営(武家)茶道はいずれも利休七哲、ないし千道安の流れで、円勝寺とゆかりのふかい石州流怡渓派・伊佐派も江戸幕府と深いつながりがありました。

伊佐家は代々”幸琢”(こうたく)を名乗り、五代にわたって江戸幕府の数寄屋頭を勤めました。
数寄屋頭とは幕府の職名で、若年寄に属し、殿中の茶礼・茶器などを司り、数寄屋坊主を統轄したとされます。

怡渓宗悦(いけいそうえつ)は大徳寺二五三世に就かれた後、江戸の広尾祥雲寺や品川東海寺に入られた高僧で、茶人としても名高く、『石州流三百ヶ条註解』を著されて石州流怡渓派の派祖とされます。
なお、怡渓宗悦は関東大震災を契機に品川から世田谷烏山に移転した高源院の開山とされます。(高源院の御朱印はこちらに掲載しています。)

数寄屋頭初代の伊佐幸琢(半々庵)は怡渓宗悦より皆伝を受けた高弟で、以後五代にわたって幕府の御数寄屋頭となり石州流怡渓派の名を高めました。
不昧流の流祖、松平不昧公(治郷公)が、三代伊佐幸琢(半寸庵)から石州流怡渓派を学ばれたことからも、柳営茶道における伊佐家(石州流怡渓派)の権威のほどがうかがわれます。


【写真 上(左)】 「第二中里踏切」
【写真 下(右)】 参道入口

JR山手線の唯一の踏切「第二中里踏切」のすぐそばにある寺院です。
踏切のよこから伸びる参道は銀杏の並木、大ぶりな降り棟、袖塀を備えた立派な薬医門のおくに本堂が姿を見せています。


【写真 上(左)】 勢至菩薩碑
【写真 下(右)】 秋の参道

参道脇に「厄除 大勢至菩薩霊●」と刻まれた石碑があります。
『新編武蔵風土記稿』によると、かつて山内に勢至堂があり春日仏師による立身の勢至菩薩が祀られていたとされるので、これに因むものかと思われます。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標

山手線の線路に近いものの、山内には古刹特有の落ち着いた空気が流れています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、鬼板部、降り棟、隅棟、稚児棟すべての棟飾りに経の巻獅子口を置いています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝見上げ


【写真 上(左)】 木鼻の獅子(左)
【写真 下(右)】 木鼻の獅子(右)

水引虹梁木鼻では、彫りの深い獅子が睨みをきかせています。
頭貫上に出三つ斗、身舎側に海老虹梁と手挟、中備に龍の彫刻。
正面桟唐戸の上に「光明山」の扁額。
扁額後ろの小壁にも彫り物が置かれ、向拝両脇の格子窓は奥に花頭窓を繰抜くなど芸が細かいです。


【写真 上(左)】 扁額と中備の龍
【写真 下(右)】 扁額

本堂右手の墓所、伊佐家の墓石には初代、二代半寸庵の和歌と俳句が刻まれています。
(文化五年(1808年)十一月銘)
- 出る日も入る日も遠き霊鷲山 またゝくひまに入相のかね -
初代 半寸庵知當


【写真 上(左)】 本堂手前から庫裡方向
【写真 下(右)】 庫裡

本堂左手の庫裡の方に進むと、さらに奥ゆかしい佇まいに。
こちらは、滝野川寺院めぐり第7番、江戸・東京四十四閻魔参り第36番、閻魔三拾遺第7番の3つの札所を兼ねておられますが、いずれも巡拝者は多いとは思われません。
しかし、ご住職は心あたたまるご対応で、御朱印の揮毫についてしきりに謙遜なさっておられましたが、素晴らしい筆致の御朱印を授与いただけました。

丸みを帯びた六字御名号は、祐天上人の御名号、徳本上人の「徳本文字」を彷彿とさせる筆致です。
当寺は、幡随意上人、祐天上人、徳本上人などの墨跡を蔵されるとのことなので、ご住職は六字御名号墨跡の研究をされているのかもしれません。

江戸・東京四十四閻魔参り第36番の札所で、閻魔様の御縁日の16日にも参拝しましたが、現在は閻魔大王の御朱印はお出しになられていないとのことです。


● 滝野川寺院めぐり第7番の御朱印

中央に六字御名号「南無阿彌陀佛」と阿弥陀如来の種子「キリーク」の揮毫と梵字九字の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左上に勢至菩薩の種子「サク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「勢至菩薩」を含む印。
右下に「滝野川寺院めぐり 第七番寺」の札所印、左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
中央の梵字九字の内容は、不勉強につきよくわかりません。

御朱印にも勢至菩薩が登場されるので、やはりこのお寺様において勢至菩薩は格別の尊格なのかもしれません。
(寺宝として秘仏の大勢至菩薩像を蔵されます。また、勢至菩薩は浄土宗の根本所依教典である「観無量寿経」で説かれ、法然上人を勢至菩薩の化身(勢至菩薩は法然上人(幼名は勢至丸)の本地身)とする信仰もあって、浄土宗でもなじみのふかい尊格です。)


【上(左)】 御本尊(札所無申告)の御朱印
【下(右)】 閻魔大王御縁日(十六日)の御朱印

御本尊の御朱印は、滝野川寺院めぐりと同様の構成で、札所印は捺されていません。
閻魔大王御縁日の御朱印は、御本尊の御朱印と同じ内容です。


第8番
平塚山 案烙院 城官寺


公式Web
北区上中里1-42-8
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
御朱印尊格:阿弥陀如来
御府内八十八箇所第47番、豊島八十八ヶ所霊場第47番、江戸八十八ヶ所霊場第47番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第6番

第8番は、真言宗豊山派の城官寺です。

寺伝(当寺公式Web)によると、筑紫安楽寺の僧侶が諸国巡礼の折、当寺に宿泊した際に阿弥陀如来像を置き安楽院(安楽寺)と称し浄土宗の寺として創建。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之9、国会図書館DCコマ番号102/107)に以下の記述があります。
「(平塚明神社別當)城官寺 新義真言宗大塚護国寺末 平塚山安楽院ト号ス 本尊阿彌陀ハ赤栴檀ニテ坐身長一尺許 毘首羯摩ノ作と云 臺座ハ瑠璃ニテ造ル 是昔筑紫安楽寺ノ本尊ナリシカ 彼寺の僧回國ノ時當寺ニ旅宿シ故有テ是ヲ附属セシヨリ安楽寺ト称ス 其頃迄ハ浄土宗ナリシカ寛永十一年社領修理アリシ時、金剛佛子ヲ請シテ別當タラシメシヨリ、今ノ宗門ニ改ムト云(以下略)」

江戸時代、山川貞久(城官)という幕府仕えの鍼灸師が真言宗寺院として再興したと伝わります。
山川貞久(城官)は、三代将軍徳川家光公が病に倒れた時、平塚明神(現在の平塚神社)に治癒を日夜祈った。その霊験もあってか家光公の病は快癒し、貞久(城官)は私財を投じて平塚明神を再建、さらに寛永十一年(1634年)には平塚神社の別当として当寺を再興したとされます。

寛永十七年(1640年)、家光公が鷹狩りで当地を訪れた際、平塚神社の豪華さに驚き、村長に造営者を尋ねたところ、貞久(城官)による家光公平癒祈願と社殿再建のくだりが説明されました。
これを聞いた家光公は貞久(城官)を呼び、平塚神社と当寺の所領として五十石、さらに貞久(城官)に知行地として二百石を与え、寺号を平塚山 城官寺 安楽院とすべく命じたとされます。
享保三年(1718年)寂の真恵を法流開基として、現在に至ります。

当寺には、江戸幕府に奥医師として仕えた多紀・桂山一族の墓と山川貞久一族の墓があります。
奥医師には、典薬頭・奥医師・御番医師・寄合医師・小普請医師などが置かれ、奥医師は内科が多紀氏、外科は桂川氏が世襲しました。
当寺再興の山川貞久(城官)も鍼灸師ですから、当寺は医術とふかい所縁をもつことになります。

別当を勤めた平塚神社とは神仏分離により分かれましたが、少しく触れてみます。
御祭神は八幡太郎 源義家命、賀茂次郎 源義綱命、新羅三郎 源義光命の源家三兄弟で、三兄弟を一社で祀る例はめずらしいかと思います。

略縁起によると、創立は平安後期元永年中、八幡太郎義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主豊島近義に鎧一領を賜われました。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築いて自城の鎮守として祀りました。平坦な塚だったので平塚と呼ばれ、三兄弟にちなんで平塚三所大明神として崇められました。

家光公の時代、上記の病平癒の件もあって再建され、家光公もたびたび参詣に訪れたとされます。
徳川家は源氏姓、新田氏流を名乗り、新田氏流(上野源氏)の祖は源義家公の三男義国公ですから、家光公が源家三兄弟をご祭神とする平塚神社を尊崇されたのも故あることかもしれません。


【写真 上(左)】 平塚神社の境内
【下(右)】 平塚神社の御朱印

当寺の最寄り駅はJR京浜東北線「上中里」駅か東京メトロ「西ケ原」駅。
いずれも都内屈指の閑散駅で、都内育ちでも知らない方が多いのでは?(わたしも寺社巡りをはじめて、はじめて降りました。)
ただし、周辺には寺社が意外に多いので、御朱印巡りの際には便利な駅といえましょう。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

人通りもまれな閑静な住宅地に、突如としてあらわれる立派な山門は桟瓦葺の四脚門。
「平塚山」の扁額は、当寺三百年を記念して書かれた当時の内閣総理大臣田中角栄氏の筆によるものとのこと。
山門前には御府内霊場第四十七番の札所標が建っています。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所標
【写真 下(右)】 ???

全体に開放的であかるい雰囲気のお寺です。
正面に本堂。寄棟造平入りで起り屋根の向拝を付設しています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 向拝拝み部

水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に出三ツ斗、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
扁額は「城官寺」。格天井。扁額上の小壁に大瓶束と彫刻からなる笈形。
向拝屋根には経の巻獅子口と兎毛通を置く、存在感のある仏堂です。

メジャー霊場、御府内八十八箇所の札所なので、御朱印対応は手慣れておられます。
滝野川寺院めぐりの御朱印も問題なく授与いただけました。
なお、上野王子駒込辺三十三観音霊場第6番の御朱印は、現在のところ授与されていないそうです。


● 滝野川寺院めぐり第8番の御朱印

中央に「阿弥陀如来」と「弘法大師」と阿弥陀如来の種子「キリーク」の揮毫。中央の印は山号印かもしれません。
右下に「滝野川寺院めぐり 第八番寺」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


【上(左)】 御府内八十八箇所第47番の御朱印(専用納経帳)
【下(右)】 御府内八十八箇所第47番の御朱印(御朱印帳揮毫)

中央に「本尊 阿弥陀如来」と「弘法大師」の揮毫。中央の印は山号印かもしれません。
右に「第四十七番」の札所印。左下に山号と寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


● 豊島八十八ヶ所霊場第47番の御朱印(御朱印帳揮毫)

中央に「阿弥陀如来」と「弘法大師」と阿弥陀如来の種子「キリーク」の揮毫。中央の印は山号印かもしれません。
右上に「第四十七番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
滝野川寺院めぐりの御朱印とは札所印がことなるのみです。


第9番
佛寶山 西光院 無量寺


北区西ヶ原1-34-8
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
御朱印尊格:不動明王・弘法大師
御府内八十八箇所第59番、豊島八十八ヶ所霊場第59番、江戸六阿弥陀如来第3番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第3番、江戸八十八ヶ所霊場第59番、大東京百観音霊場第81番

第9番は、真言宗豊山派の無量寺です。

メジャー霊場、御府内八十八箇所第59番の札所なので、認知度は比較的高いと思います。
また、こちらは江戸時代、春夏のお彼岸にとくに賑わったといわれる江戸六阿弥陀詣の一寺で、もともと参詣者の多い寺院とみられます。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号20/114)に以下の記述があります。
「新義真言宗佛寶山西光院ト号ス 慶安元年寺領八石五斗餘ノ御朱印ヲ附ラル、古ハ田端村與楽寺ノ末ナリシカ、常憲院殿厳命ヲ以テ大塚護持院ノ末トナレリ 又昔ハ長福寺ト称セシヲ 惇信院殿の御幼名ヲ避テ今ノ寺号ニ改ムト云 本尊不動外ニ正観音ノ立像ヲ置 長三尺五寸許惠心ノ作ニテ 雷除の本尊トイヘリ 中興眞惠享保三年閏正月廿三日化ス 今ノ堂ハ昔村内ニ建置レシ御殿御取拂トナリシヲ賜リテ建シモノナリト云 元境内ニ母衣櫻ト名ツケシ櫻樹アリシカ今ハ枯タリ 母衣ノ名ハ寛永ノ頃御成アリシ時名ツケ給ヒシト云伝フ」
「寺寶 紅頗梨色彌陀像一幅 八組大師像八幅 妙澤像一幅 不動像一幅 六字名號一幅。以上弘法大師ノ筆ト云 其内名號ニハ大僧都空海ト落款アリ 菅家自畫像一幅」
「七所明神社 村ノ鎮守トス 紀伊國高野山四社明神ヲ寫シ祀リ天照大神 春日 八幡三座を合祀ス 故ニ七所明神ト号ス 末社ニ天神 稲荷アリ 辨天社」
「阿彌陀堂 行基の作 坐像長三尺許六阿弥陀ノ第三番ナリ 観音堂 西國三十三所札所寫ナリ 鐘樓 安永九年鑄造ノ鐘ヲ掛 寺中勝蔵院 不動ヲ本尊トス」

創建年代は不明ですが、『滝野川寺院めぐり案内』には「現在当山には9~10世紀の未完成の木像菩薩小像と、12世紀末の都風といわれる等身の阿弥陀如来像が安置されている。さらに正和元年(1312年)、建武元年(1334年)の年号を始めとする30数枚の板碑が境内から出土しているから、少なくとも平安時代の後期には、この地に寺があったことはまず間違いないであろう。」と記されています。

また、北区設置の説明板には『新編武蔵国風土記稿』や寺伝等には、慶安元年(1648年)に幕府から八石五斗余の年貢・課役を免除されたこと、元禄十四年(1701年)五代将軍綱吉公の生母桂昌院が参詣したこと、以前は長福寺と号していたが、寺号が九代将軍家重公の幼名長福丸と同じであるため、これを避けて現在の名称に改めたことなどが記されています。

江戸時代には広大な寺域を有していたといわれ、当寺が別当を勤めた「七社」はその境内に鎮座されていたと伝わります。
『江戸名所図会』には無量寺境内とみられる高台(現・旧古河庭園)に「七社」が表され、現・旧古河庭園の一部も無量寺の境内であったことがうかがわれます。
大正三年(1914年)、古河財閥3代当主の古河虎之助が周囲の土地を購入したという記録があるので、その時に古河家に移った可能性があります。
なお、「七社」は神仏分離の翌年明治二年(1869年)に一本杉神明宮の社地(現社地)に遷座されています。


【写真 上(左)】 七社神社の社頭
【写真 下(右)】 七社神社の境内


【上(左)】 七社神社の御朱印(旧)
【下(右)】 七社神社の御朱印

西ヶ原村の総鎮守であった七社神社には、西ヶ原村内に飛鳥山邸(別荘)を構えた渋沢栄一翁が氏子として重きをなし、所縁の品々が残されています。
旧古河庭園は陸奥宗光や古河財閥の邸宅であり、このあたりは府内屈指の高級住宅地であったことがうかがわれます。

現在でも、落ち着いた邸宅がならぶ一画があり、いかにも東京山の手地付きの富裕層が住んでいそうな感じがあります。
内田康夫氏の人気推理小説「浅見光彦シリーズ」の主人公浅見光彦は西ヶ原出身の設定で、家柄がよく、相応の教養や見識を身につけていることなどは、このあたりの地柄を物語るものかもしれません。(内田康夫氏自身が西ヶ原出身らしい。)

このあたりの主要道は、不忍通り、白山通り(中山道)など谷間を走る例が多いですが、本郷通りは例外で、律儀に台地上を辿ります。
第七番城官寺、あるいは西ヶ原駅・上中里駅方面からだと本郷通りを越えての道順となるので、本郷通りからかなりの急坂を下ってのアブローチとなります。
旧古河庭園の裏手にあたるこの坂道は木々に囲まれほの暗く、落ち着いた風情があります。

坂を下りきり、右手に回り込むと参道入口です。
入口回りは車通りも少なく、相応の広さを保って名刹の風格を感じます。
ここで心を落ち着けてから参詣に向かうべき雰囲気があります。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 参道


【写真 上(左)】 ことぶき地蔵尊
【写真 下(右)】 山門

参道まわりに札所碑、地蔵立像、ことぶき地蔵尊など、はやくも見どころがつづきます。
そのおくに山門。この山門は「大門」と呼ばれ、棟木墨書から伏見の柿浜御門が移築されたものとみられます。本瓦葺でおそらく薬医門だと思います。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 江戸六阿弥陀札所碑


【写真 上(左)】 中門
【写真 下(右)】 秋の山内



【写真 上(左)】 秋の地蔵堂と参道
【写真 下(右)】 地蔵堂と鐘楼

さらに桟瓦葺の中門を回り込んで進む奥行きのある参道です。
緑ゆたかな境内は手入れも行き届き、枯淡な風情があります。
御府内霊場のなかでも屈指の雰囲気ある寺院だと思います。
左手に地蔵堂と鐘楼を見て、さらに進みます。


【写真 上(左)】 見事な紅葉
【写真 上(左)】 冬の山内


【写真 上(左)】 早春の本堂
【写真 下(右)】 秋の本堂


【写真 上(左)】 右斜め前から本堂
【写真 下(右)】 向拝

正面に本堂、向かって右手に大師堂、左手に進むと庫裡があります。
本堂前では数匹のおネコちゃんがくつろいでいます。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 まどろむネコ

本堂は、寄棟造平入りで起り屋根の向拝を付設。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
扁額は「無量寺」。格天井。向拝屋根には「佛寶山」の山号を置く鬼板と兎毛通。
落ち着いた庭園に見合う、風雅な仏堂です。

本堂には阿弥陀如来坐像と、御本尊である不動明王像が御座します。
この阿弥陀如来像は、江戸時代に、江戸六阿弥陀詣(豊島西福寺・沼田延命院(現・足立区恵明寺)・西ヶ原無量寺・田端与楽寺・下谷広小路常楽院(現・調布市)・亀戸常光寺)の第三番目として広く信仰を集めた阿弥陀様です。

御本尊の不動明王像は「当寺に忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝捕まったことから『足止め不動』として信仰されるようになった」という逸話が伝わります。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 上(左)】 大師堂の堂号板

本堂向かって右手の大師堂は宝形造桟瓦葺で向拝を付設し、向拝柱に「大師堂」の板標。
大師堂の中には恵心作と伝わる聖観世音菩薩像が安置されており、「雷除けの本尊」として知られています。
本堂のそばには、上野王子駒込辺三十三観音霊場第3番の札所標も建っており、札所本尊は聖観世音菩薩と伝わるので、この「雷除けの本尊」が札所本尊かもしれません。

御朱印は本堂向かって左の庫裡で拝受できます。
原則として書置はないようで、ご住職ご不在時は郵送にてご対応いただけます。
なお、複数の霊場の御朱印を授与されておられるので、事前に参詣目的の霊場を申告した方がよろしいかと思います。


● 滝野川寺院めぐり第9番の御朱印

中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「滝野川寺院めぐり 第九番寺」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


【上(左)】 御府内八十八箇所第59番の御朱印(専用納経帳)
【下(右)】 御府内八十八箇所第59番の御朱印(御朱印帳揮毫)

中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「第五十九番」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


● 豊島八十八ヶ所霊場第59番の御朱印

中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「第五十九番」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


● 江戸六阿弥陀如来第3番の御朱印

中央に「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫と阿弥陀如来の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第三番」の札所印。右に「西ヶ原」の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


第10番
補陀山 補陀落寿院 昌林寺


北区西ケ原3-12-6
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
御朱印尊格:末木観音
江戸六阿弥陀霊場(末木観音)、上野王子駒込辺三十三観音霊場第5番、北豊島三十三観音霊場第19番

第10番は、曹洞宗の昌林寺です。

『滝野川寺院めぐり案内』には、開創・開山・開基などは不詳。行基菩薩の作とされる末木観世音菩薩を御本尊とする。応永年間(1394~1428年)に鎌倉公方足利持氏公が再興し、禅刹に改め祥林寺と号した。その後江戸橋場総泉寺4世の宗最和尚が中興開山となり、昌林寺に改称。太田道灌公の寄進を受けて伽藍を善美とし、彫刻物はすべて左甚五郎の作と伝わる。明治十六年(1883年)曹洞宗大本山永平寺の61世絶海天真禅師がご入山され御隠寮となり、太政大臣三条実美公は当山の風光を賞して「百花一覧之台」と賛した。などの寺歴が記されています。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号20/114)に以下の記述があります。
「禅宗曹洞派橋場總泉寺末 補陀山ト号ス 古ハ補陀楽壽院ト号セシヲ應永十八年足利持氏再營シテ祥林寺ト改メ 文明十一年太田道灌田園二十四町を寄附セリ 其後大永五年丙丁ニ罹リシ後本山四世勝庵宗最中興シテ今ノ文字ニ改ム 此僧ハ天文十三年七月十五寂ス 本尊正観音ハ行基ノ作ニテ 六阿彌陀彫刻ノ時同木ノ末木ヲ以テコノ像ヲ作リシユヘ 末木ノ観音と号と云 昔ハ本堂ノ造リモ壮厳ヲ盡セシニヤ 今ノ堂ニ用ル所ノ扉獅子牡丹桐鳳凰等ノ彫刻最工ニシテ 近世ノモノニアラス是左甚五郎ノ作ニテ先年火災ノ時僅ニ残リシモノト云」

昌林寺は江戸(武州)六阿弥陀ゆかりの木残の末木観音様として知られています。

江戸(武州)六阿弥陀は、行基菩薩が一本の霊木から刻み上げた7体の阿弥陀仏と1体の観音様を参拝する阿弥陀巡りで、江戸時代、とくに春秋の彼岸に女性を中心に大流行したとされます。

五番常楽院の縁起、三番無量寺・木残昌林寺の寺伝、足立区資料、および「江戸の3 つの「六阿弥陀参」における「武州六阿弥陀参」の特徴」から創祀を辿ってみます。

その昔この地に「足立の長者」(足立庄司宮城宰相とも)という人がおり、年老いて子がないことを憂いて、熊野権現に祈ると女の子を授かりました。
「足立姫」と呼ばれたこの子は容顔麗しく、見るものはみな心を奪われたといいます。
成長した姫は「豊嶋の長者」(豊島左衛門尉清光とも)に嫁いだものの、誹りを受けて12人(6人とも)の侍女とともに荒川に身を投げ命を絶ってしまいました。

足立の長者はこれを悲しみ、娘や侍女の菩提のために諸国の霊場巡りに出立しました。
紀州牟宴の郡熊野権現に参籠した際、霊夢を蒙り1本の霊木を得て、これを熊野灘に流すと、やがてこの霊木は国元の熊野木(沼田の浦とも)というところに流れ着きました。

この霊木は不思議にも夜ごと光を放ちましたが、折しもこの地を巡られた行基菩薩は(この霊木は)浄土に導かんがための仏菩薩の化身なるべしと云われ、南無阿弥陀仏の六字の御名号数にあわせて霊木から六体の阿弥陀如来像を刻し、余り木からもう一体の阿弥陀仏、さらに残った木から一体の観音菩薩像を刻まれそれを姫の遺影として与えました。
後にこれら七体の阿弥陀仏と一体の観音像は近隣の寺院に祀られ、以降、女人成仏の阿弥陀参りとしてとくに江戸期に信仰を集めました。

『滝野川寺院めぐり案内』の無量寺の頁に「江戸近郊を歩くこのミニ巡礼は、表向きは信心とはいうものの、実際は世代家族の同居が当たり前だった時代の、年に2回のストレス解消とレクリエーションの一石二鳥の効果を狙ったものであった。まさに庶民が、日常生活の中から考えた知恵だったのであろう。」と記載されていますが、江戸の年中行事を描いた『東都歳時記』や『江戸名所図絵』でも複数取り上げられていることからも、そのような側面が大きかったと思われます。

滝野川寺院めぐりの無量寺、与楽寺、昌林寺の3寺は江戸六阿弥陀の札所と重複します。
また、桜の名所であった王子・飛鳥山、紅葉の名所として知られた滝野川、つつじの名所の駒込染井など、滝野川寺院めぐりの周辺エリアが江戸時代のレクリエーションの名所ときれいに重なっていることがわかります。

昌林寺の末木観世音菩薩については、『江戸名所図会』に、「本尊末木観世音菩薩は、開山行基菩薩の作なり。往古六阿弥陀彫刻の折から末木を以って作りたまひしとぞ。」と記され、江戸(武州)六阿弥陀との関連が裏付けられています。


【写真 上(左)】 山門から山内
【写真 下(右)】 上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)の札所標

谷田川通りから少し入った住宅街のなかにこぢんまりと整った山内。
山門脇に上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)第5番の札所標が建っています。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)の札所碑


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜め左から本堂

入母屋造本瓦様の銅板葺で、軒下に向拝を付設しています。
水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に「補陀山」の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝見上げ

朱の欄干と横長の花頭窓が印象的な本堂の手前には、上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)の札所標と昭和62年造立の百寿観世音菩薩が御座します。


【写真 上(左)】 百寿観世音菩薩
【写真 下(右)】 本堂扁額

メジャー霊場の札所ではありませんが、最近は「江戸六阿弥陀」巡拝者も増えているのか、御朱印対応は手慣れておられます。
滝野川寺院めぐりの御朱印も問題なく授与いただけました。
なお、上野王子駒込辺三十三観音霊場第5番の札所印は、「江戸六阿弥陀」の参拝でも捺されているようです。


● 滝野川寺院めぐり第10番の御朱印

中央に「末木観音」の揮毫と聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)とその下に「末木観世音菩薩 西国五番」の横書きの印判。
左上に「滝野川寺院めぐり 第十番寺」の札所印で、札所無申告で授与されると思われる「藤井寺寫 西國第五番」の上野王子駒込辺三十三観音霊場第5番の札所印は捺されていません。
左下に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


● 江戸六阿弥陀(木残)の御朱印

中央に「本尊 末木観世音菩薩」の印判と聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)とその下に「末木観世音菩薩 西国五番」の横書きの印判。
左上に上野王子駒込辺三十三観音霊場第5番の札所印の札所印「藤井寺寫 西國第五番」の札所印が捺されています。
左下には山号・寺号の印判と寺院印が捺されています。
滝野川霊場の御朱印では「末木観音」の揮毫。江戸六阿弥陀と観音霊場の御朱印では「本尊 末木観世音菩薩」の印判の様式にて授与されるようです。


第11番
明王山 大聖寺 不動院


北区西ヶ原3-23-2
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
御朱印尊格:不動明王
豊島八十八ヶ所霊場第53番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第23番、北豊島三十三観音霊場第29番

第11番は、真言宗豊山派の不動院です。

第10番昌林寺から谷田川通り沿いに少し歩くと不動院です。
ここで通りの由来となった「谷田川」について少し考えてみます。

谷田川はいまはすべて暗渠となり地図上から辿るのは困難ですが、世の中には奇特な方がおられ、かつての谷田川を辿る紀行がWebでいくつかみつかるので、そちらも参考にさせていただきまとめてみます。

谷田川はかつての石神井川とみる説もありますが、多くの説は染井霊園の北側ないし巣鴨あたりを源流とする別の流れと.みています。
そこから西ヶ原銀座通りに入り、染井銀座商店街~霜降銀座商店街と流れます。
本郷通りの「霜降橋」交差点は、谷田川にかかっていた橋名のなごりとされています。
ここからはほぼ谷田川通りに沿って、池之端の不忍池をめざして下っていきます。

谷田川通りは不忍通りのすぐ東側を走っています。
JR駒込駅の東側あたりで山手線内に入り、西日暮里駅の西側を通って、谷中と千駄木のあいだを流れます。根津駅から谷中への登り口にあたる大黒屋煎餅の下あたりを流れ、池之端辺で不忍池に流れ込みます。

ここで気づいたのは、「滝野川寺院めぐり」は、ほぼ旧谷田川に沿って札所が置かれているということです。

JR田端駅南側から旧古河庭園にかけては高台にあり、その名もずばり「田端高台通り」が走っています。
また、旧古河庭園から王子・飛鳥山にかけても高台で、ふるくは「御殿山」と呼ばれていました。なので、田端駅から王子駅にかけてのJRの南側はすべて高台にあります。
谷田川はこの高台の南側下を沿うように流れていました。

「滝野川寺院めぐり」の札所は一部の例外をのぞいて、この高台と旧谷田川のあいだの南傾地に位置しています。
寺社は崖線に沿って置かれる例が多いので、こちらも例外ではありません。

第1番与楽寺~第7番円勝寺は、すべて「田端高台通り」と旧谷田川のあいだにあり、南傾斜面をトラバースしていくので、大きな高低差はありません。
第8番城官寺は「御殿山」まわりの高台にあり、そこから旧谷田川の流れに近い第9番無量寺の山門までは、急なくだりとなります。

旧谷田川沿いの第10番昌林寺、第11番不動寺を経て、ふたたび「御殿山」エリアにある第12番妙見寺に向けて登りがつづきます。

以上のとおり、第8番城官寺から第12番妙見寺にかけては、地形的にも変化に富んだ巡拝を味わうことができます。

不動院の開創については『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号20/114)に以下の記述があります。
「同宗田端村與樂寺門徒明王山ト號ス 本尊不動開山僧海善 元和六年六月六日寂」
開山は海善和尚(元和六年(1620年)遷化)。その後は数度の火災により寺伝が焼失し詳細は不明のようです。
また、『新編武蔵風土記稿』に「阿彌陀堂。西國二十三番攝州勝尼寺寫の観音を相殿とす。」とあるので、不動明王が御座す本堂のほかに阿弥陀堂があって、そちらに西國二十三番(上野王子駒込辺三十三観音霊場第23番)の札所本尊の観音様が祀られていたのかもしれません。

同書によると、当初は田端与楽寺の末でしたが、『滝野川寺院めぐり案内』によると、昭和16年(1941年)、総本山長谷寺に本寺換えをしています。

『滝野川寺院めぐり案内』には、当寺御本尊のお不動様ゆかりの逸話が記されています。
先の終戦直後、一帯は焼け野原となりましたが、いち早く境内に小屋(お堂)が建てられました。あるときこの小屋(お堂)に賊が侵入し、堂守をされていた慈信和尚の御母堂に刃物を突きつけました。そのとき、どこからともなく人の近づく足音が聞こえ、賊は一物もとらずに退散したそうです。
件の賊は後年、本人の努力と関係者の指導よろしきを得て立派に更正し、平和な一生を全うしたそうです。
このことが近辺に伝わり、当寺のお不動様は「魔除け不動」として信者さんの信仰を集めているそうです。


【写真 上(左)】 豊島霊場札所標
【写真 下(右)】 寺号標

山門向かって右側に「弘法大師」と豊島霊場が一体となった石碑、右手に寺号標と真新しい六地蔵が御座します。


【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 山門付近から山内

本堂は昭和51年建立の鉄筋建てで、手前の階段をのぼった2階正面が向拝となっています。
本堂下には、上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)第23番の札所標がありました。


【写真 上(左)】 本堂下
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 西国霊場札所標

御朱印は本堂向かって左手奥の庫裡にて授与いただけます。
最近巡拝者が増えているといわれる豊島八十八ヶ所霊場の第53番の札所なので、御朱印授与は手慣れておられ、書置のご用意もありました。

参拝時、ご住職はご不在で豊島霊場の御朱印ならば書置に札所印を捺してすぐにお出しになれるとのことでしたが、滝野川霊場の札所印は所在不明とのこと。
郵送をお願いすると快くお受けいただいたので、郵送にて拝受しました。
(ちなみに、筆者は宛先を書いて切手を貼り、郵送のお願い文書と御朱印用紙を同封した返信用の封筒を持ち歩いています。)


【上(左)】 滝野川寺院めぐり第11番の御朱印
【下(右)】 豊島八十八ヶ所霊場第53番の御朱印

中央に「不動明王」の揮毫と御本尊不動明王の荘厳体種子「カンマン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。右に「豊島八十八ヶ所第五十三番」の札所印。
左上に「滝野川寺院めぐり第十一番寺」の印判。
左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
豊島霊場御朱印との違いは「滝野川寺院めぐり第十一番寺」の印判の有無のみです。

(第12番へつづく)

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滝野川寺院めぐり-1(第1番~第6番)
滝野川寺院めぐり-2(第7番~第11番)
滝野川寺院めぐり-3(第12番~第16番)

【 BGM 】
■ 茜色の約束 - 森恵


■ 夢の大地 - Kalafina
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