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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-16

Vol.-15からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第47番 平塚山 安楽院 城官寺
(じょうかんじ)
公式Web

北区上中里1-42-8
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
司元別当:(上中里村)平塚神社
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第47番、豊島八十八ヶ所霊場第47番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第6番、滝野川寺院巡り第8番

※この記事は■ 滝野川寺院めぐり-2をアレンジして仕上げています。

第47番はエリアを変えて上中里の城官寺です。

第47番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに城官寺となっています。
よって、第47番札所は御府内霊場開創時から一貫して上中里の城官寺であったとみられます。

公式Web北区資料、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

城官寺は平塚神社(平塚明神)の元別当として知られています。(→平塚神社の公式Web

城官寺は筑紫安楽寺の僧侶が諸国巡礼の折、当寺に宿泊した際に阿弥陀如来像を置き安楽院(安楽寺)と称し浄土宗の寺として創建といいます。
創建年代は不詳ですが、浄土宗開宗は承安五年(1175年)なので、それ以降の創建とみられます。

一方、『平塚明神并別当城官寺縁起絵巻』(北区指定有形文化財)は、平塚神社(平塚明神)の創祀について以下のように伝えています。

平安時代後期、このあたりに秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館を建て本拠としていました。
平塚城は源義家公が後三年の役(1083-1087年)で奥州に遠征した帰路の逗留地となり、豊島近義は心を尽くして饗応したため、義家公はこれに応じて、自らの鎧と守本尊の十一面観世音菩薩像を下賜しました。

近義は義家公の没後、平塚城鎮護のために拝領した鎧を埋め、その上に平たい塚(甲冑塚)を築き、義家公・義綱公・義光公の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したといいます。
創立は元永年中(1118-1120年)と伝わります。
これが平塚神社(平塚明神)の創祀で、”平塚”の地名の起こりともいわれ、当社は源家三兄弟にちなんで「平塚三所大明神」とも呼ばれて広く崇められました。

御祭神は八幡太郎 源義家命、賀茂次郎 源義綱命、新羅三郎 源義光命の源家三兄弟で、三兄弟を一社で祀る例はめずらしいかと思います。

以上より、平塚神社(平塚明神)創祀の後に城官寺が創建され、別当となったとみるのが妥当かと思われます。

豊島氏は秩父平氏の名族で、北区豊島が発祥の地、平塚城(豊島舘)を居城としたといいます。
前九年の役、後三年の役で戦功を挙げ、保元の乱では源義朝公の配下となり、治承四年(1180年)頼朝公の挙兵にも豊島清元(清光)・清重父子が馳せ参じて、豊島氏は有力御家人の地位を固めました。

鎌倉・室町時代の平塚城は領主・豊島氏代々の居城でしたが、文明十年(1478年)、太田道灌に攻められ落城しました。
その後の豊島氏宗家の動向は不明とされていますが、庶流は徳川幕府の旗本として幕末まで続いています。

清和源氏の守護神・八幡神の本地を阿弥陀如来とする説(例→兵庫県小野市Web記事)があり、清和源氏嫡流を祀る平塚明神の別当・城官寺の御本尊が阿弥陀如来であることは違和感なく受け入れられたのではないでしょうか。

また、豊島氏は王子神社紀州神社の勧請創祀にかかわり、熊野信仰と深いつながりをもつとされます。

京都今熊野の新熊野神社の公式Webによると、熊野本宮大社の本地は阿弥陀如来で「この当時(平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて)の当時の熊野信仰を一言でいうと、本地垂迹説に基づく神仏習合信仰と浄土信仰が一体化した信仰ということになろう。」とあるので、豊島氏の信仰からみても城官寺の御本尊=阿弥陀如来は、自然な流れだったのかも。

さらに武州江戸六阿弥陀詣の縁起となる「足立姫伝説」の主人公も豊島氏(足立氏とも)とされ、豊島氏と阿弥陀如来のゆかりの深さを物語っています。
■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~

中世の城官寺の動静は史料が少なく不詳ですが、江戸時代、山川貞久(城官)という幕府仕えの鍼灸師が真言宗寺院として再興したと伝わります。

山川貞久(城官)は、三代将軍徳川家光公が病に倒れた時、平塚神社(平塚明神)に病の平癒を日夜祈りました。
その功徳もあってか家光公の病は快癒し、貞久(城官)は私財を投じて平塚明神を再建、さらに寛永十一年(1634年)には平塚神社の別当として当寺を再興したとされます。

寛永十七年(1640年)、家光公が鷹狩りで当地を訪れた際、平塚神社の社殿の豪華さに驚き、村長に造営者を尋ねたところ、貞久(城官)による家光公平癒祈願と社殿再建のくだりが説明されました。
これを聞いた家光公は貞久(城官)を呼び、平塚神社と当寺の所領として五十石、さらに貞久(城官)に知行地として二百石を与え、寺号を平塚山 城官寺 安楽院とすべく命じたとされます。

この病平癒の件もあってか、家光公は当地をたびたび参詣したといいます。
徳川家は源氏姓、新田氏流を名乗り、新田氏流(上野源氏)の祖は源義家公の三男義国公ですから、家光公が源家三兄弟をご祭神とする平塚神社を尊崇されたのも故あることかもしれません。

 
【写真 上(左)】 平塚神社の境内
【写真 下(右)】 平塚神社の御朱印

その後、真恵(享保三年(1718年)寂)を法流開基として現在に至ります。

御府内霊場の別当系札所寺院は明治初頭の神仏分離で廃絶となった例も多いですが、こちらは存続しています。
関係者のご尽力はもちろんですが、御府内から少し離れた郊外ということもあったのかもしれません。

山内には江戸幕府に奥医師として仕えた多紀・桂山一族の墓と山川貞久一族の墓があります。
奥医師には、典薬頭・奥医師・御番医師・寄合医師・小普請医師などが置かれ、奥医師は内科が多紀氏(丹波康頼の後裔とされる)、外科は桂川氏が世襲しました。
当寺再興の山川貞久(城官)も鍼灸師ですから、当山は医術とふかい所縁をもつことになります。


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
四十七番
上中里村平塚別当
平塚山 安楽院 城官寺
音羽護国寺末 新義
本尊:阿弥陀如来 本社平塚大明神 弘法大師
本社 八幡太郎義家 加茂次郎義綱 新羅三郎義光

『新編武蔵風土記稿 豊島郡之9』(国立国会図書館)
(平塚明神社別當城官寺)
新義真言宗大塚護国寺末 平塚山安楽院ト号ス 本尊阿彌陀ハ赤栴檀ニテ坐身長一尺許 毘首羯摩ノ作ト云 臺座ハ瑠璃ニテ造ル 是昔筑紫安楽寺ノ本尊ナリシカ 彼寺の僧回國ノ時當寺ニ旅宿シ 故有テ是ヲ附属セシヨリ安楽寺ト称ス 其頃迄ハ浄土宗ナリシカ 寛永十一年(1634年)社領修理アリシ時 金剛佛子ヲ請シテ別當タラシメシヨリ 今ノ宗門ニ改ムト云 同十七年(1640年)九月廿三日大猷院殿(3代将軍徳川家光公)社領ヘ渡ラセ給ヒテ 誰カ斯マテ造營セルヤト御尋アリシ頃 村長等山川城官ナルモノ公ノ御病悩ノ時 当社ハ己カ鎮守ナルヲ以テ御平癒アラン事ヲ祈誓セシニ 立所ニ験アリシユヘカクモノセシト御請マフセシカハ 御感ナヽメナラス 即城官ヲ御前ヘ召 社領五十石ヲ附ラセ賜ヒ 且忠賞トシテ城官ニ知行二百石ヲ賜ヒ 寺号ヲ改メ平塚山城官寺安楽院ト称スヘキノ台命アリシヨシ(略)
什物
 假面一枚 義家手澤ノ物ト云伝フ
寺中光明院
 十一面観音ヲ本尊トス コハ義家ノ守護佛行基の作ニテ 豊嶋近義ニ与フル所ノ像ナリト云 身長二尺

『江戸名所図会 7巻 [15]』(国立国会図書館)
(平塚明神社)
平塚村にあり 当社縁起云往古八幡太郎義家兄弟 奥州前後十二年の戦終凱陣のみぎり此地に逗留あり ●主豊島氏某(或豊嶋太郎義近とも云)に鎧一領幷に守本尊十一面観音(長七寸行基菩薩の作也今城官寺に安置)を賜ふ 其後元永年中(1118-1120年)豊島氏●内清浄の地を択むて彼鎧を塚に築収め(塚の形高からさるを以て平塚と号●地名も亦これに因て称す)城の鎮守とす 且社城営むて三連枝の像●安し平塚三所明神と号す(八幡太郎義家 加茂次郎義綱 新羅三郎義光) 是義家兄弟の武功を欽崇且武運を祈らん為なりと云々 別当を平塚山城官寺といひ安楽院と号す 本地阿弥陀如来を安す 赤檀佛毘首羯摩天の作瑪瑙の玉座なり 昔筑紫安楽寺の僧回國修行の砌 此像をこヽに安置せしとそ  



「城官寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


「平塚明神社 鎧塚 別当城官寺」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[15],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』巣鴨絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはJR京浜東北線「上中里」駅で徒歩約3分。
「上中里」駅はかなり地味な駅でふつうは降り立つ機会がなかなかありません。
筆者も寺社巡りをはじめて、はじめて降りました。

Wikipediaには「2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は6,547人である。京浜東北線・根岸線の駅では最も乗車人員が少なく、東京23区のJR駅の中では越中島駅に次いで2番目に利用客数が少ない。」とあり、YouTubeなどで「都内の秘境駅」などと題されてしばしば紹介されます。

■【都会の過疎駅】京浜東北線 上中里駅を探検してみた Kami-Nakazato Station JR East Keihin Tohoku Line


メトロ南北線「西ヶ原」駅からも近いですが、こちらも乗降客の少なさで有名です。
乗降客が少ないということは付近に集客施設がないということで、この周辺は閑静な住宅街となっています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

「上中里」駅からの道行きはかなりの登り坂で、城官寺と平塚神社が田端台から飛鳥山にかけて南北に走る尾根上に位置していることがわかります。

人通りもまれな閑静な住宅地に、突如としてあらわれる立派な山門は桟瓦葺の四脚門。
「平塚山」の扁額は、当寺三百年を記念して書かれた当時の内閣総理大臣田中角栄氏の筆によるものとのこと。
山門前には御府内霊場第四十七番の札所標が建っています。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所標
【写真 下(右)】 ???

全体に開放的であかるい雰囲気のお寺です。
正面に本堂。寄棟造平入りで起り屋根の向拝を付設しています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 向拝拝み部

水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に出三ツ斗、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
扁額は「城官寺」。格天井。扁額上の小壁に大瓶束と彫刻からなる笈形。
向拝屋根には経の巻獅子口と兎毛通を置く、存在感のある仏堂です。

御朱印は本堂向かって左手の庫裡にて拝受しました。
御府内霊場の他複数の霊場札所を兼務され、御朱印対応は手慣れておられます。
なお、上野王子駒込辺三十三観音霊場第6番の御朱印は、現在のところ授与されていないそうです。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊 阿弥陀如来」「弘法大師」の揮毫。中央の印は山号印かもしれません。
右上に「第四十七番」の札所印。左下に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

 
【写真 上(左)】 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 滝野川寺院巡りの御朱印


■ 第48番 瑠璃光山 薬王寺 禅定院
(ぜんじょういん)
公式Web

中野区沼袋2-28-2
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第48番

第48番はエリアを郊外に変えて沼袋の禅定院です。

第48番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに市ヶ谷の林松院となっています。
よって、第48番札所は御府内霊場開創時から江戸時代を通じて市ヶ谷の林松院であったとみられます。

公式Webに「明治16年、霊場巡拝の信仰の一つ、『御府内八十八カ所』の第48番霊場(林松院)の弘法大師像が奉安されたことから、第48番霊場となりました。」と明記されているので、第48番霊場は明治16年から禅定院となっています。

まずは、下記史料などから林松院の縁起・沿革を追ってみます。

『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
四十八番
市ヶ谷袋町(市ヶ谷南寺町)
恵命山 圓満寺 松林院
大塚護持院末 新義
醍醐報恩いん(院)旅宿
本尊:不動明王 弘法大師

『寺社書上 [37] 市谷寺社書上 二』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.61』
市ヶ谷南寺町
恵命山 圓満寺 松林院
大塚護持院末 新義真言宗
旧号 宝珠院

林松院は市ヶ谷御門付近(あるいは四谷、市谷、牛込)に開創とみられますが、寛永十三年(1636年)の江戸城外堀普請に先立つ寛永十二年(1635年)、替地の市ヶ谷南寺町(市ヶ谷袋町)に移転しました。
開山は宝賢(正保三年(1646年)六月遷化)と伝わります。

江戸期は大塚護持院末の新義真言宗寺院でしたが、『御府内八十八ケ所道しるべ』には「醍醐報恩いん旅宿」とあります。
「京都ガイド」に「醍醐寺報恩院はかつて鎌倉時代前期に第35世座主・憲深僧正が上醍醐にあった極楽坊を活動拠点とし、報恩院と名付けたのが始まり」とあるので古義真言宗。

林松院が醍醐寺の江戸旅宿だったとすると、新義真言宗寺院が古義真言宗寺院の旅宿だったことになりますが詳細不明です。

御本尊は不動明王。
地蔵菩薩、弘法大師木像、大随求明王、歓喜天(秘佛)も奉安していたようです。
大随求明王はおそらく大随求菩薩とみられ、胎蔵曼荼羅の蓮華部院に在します。
観世音菩薩の変化身とされ、息災・滅罪、ことに求子の功能が説かれたようですが、作例は多くない模様です。

山内には、稲荷社、銀杏稲荷大明神、朝鮮五葉松などがありました。

つぎに公式Web中野仏教会Web、下記史料などから禅定院の縁起・沿革を追ってみます。

禅定院は貞治元年(1362年)、法印恵尊を開基として新橋村(多摩郡野方領下沼袋村から枝分かれした村)に開創され、のちに現寺地に移転と伝わります。
開創時の御本尊は薬師瑠璃光如来で、山号・寺号は御本尊に由来するとも。

旧上沼袋村の伊藤一族の菩提寺として知られ、「伊藤寺」とも呼ばれていました。
明治16年、御府内霊場第48番札所であった林松院の弘法大師像が当山に奉安されたことから第48番札所となりました。

御本尊は不動明王立像で南北朝期(鎌倉時代後期?)の作といいます。
御内陣脇には薬師如来坐像が安置されています。

『新編武蔵風土記稿』に御本尊は不動明王木立像とあるので、現御本尊はこの系譜をひく尊像と思われます。
同じく『新編武蔵風土記稿』には「薬師堂 木ノ立像長三尺九寸ナルヲ安ス 運慶ノ作ト云」とあります。
この薬師如来像は開創時の御本尊であった薬師如来であったかもしれず、現在の御内陣脇の薬師如来坐像もこの流れをひかれるかもしれません。

旧第48番の松林院、現第48番の禅定院ともに史料が少なく、沿革が辿りにくくなっています。
松林院は明治初頭の神仏分離の波は乗り越えたようですが現存せず、明治16年松林院の弘法大師像が禅定院に遷られたことから禅定院が第48番札所を承継しました。
このあたりの経緯も史料からは辿れず詳細不明です。

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【史料】
【松林院関連】
『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
四十八番
市ヶ谷袋町(市ヶ谷南寺町)
恵命山 圓満寺 松林院
大塚護持院末 新義
醍醐報恩いん(院)旅宿
本尊:不動明王 弘法大師

『寺社書上 [37] 市谷寺社書上 二』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.61』
市ヶ谷南寺町
恵命山 圓満寺 松林院
大塚護持院末 新義真言宗
旧号 宝珠院

当寺開闢之代は往古市ヶ谷御門移し給ふ●● 寛永十二年(1635年)御門●(略)砌為替地只今之地也
拝領地寛永十二年(1635年)為替地賜
開山 宝賢 正保三年(1646年)六月遷化
本堂
 本尊 不動明王木立像
地蔵尊木立像 弘法大師木像
 大随求明王木坐像 歓喜天 秘佛
稲荷社
銀杏稲荷大明神
朝鮮五葉松 

【禅定院関連】
『新編武蔵風土記稿 多磨郡之35』(国立国会図書館)
(上沼袋村)禅定寺
村ノ東北ノ方小名内匠ニアリ 瑠璃光山薬王寺ト号ス 新義真言宗ニテ是モ寶仙寺末(略)
本尊不動木ノ立像ニテ長一尺五寸 開山詳ナラス
薬師堂 客殿ノ東ノ方ニアリ 木ノ立像長三尺九寸ナルヲ安ス 運慶ノ作ト云



「松林院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは西武新宿線「沼袋」駅。駅前の細い路地を歩くこと3分ほどで到着です。
第41番密蔵院のすぐそばです。

 
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門の扁額

路地に面して築地塀。その奥に山門という二重の構え。
山門は切妻屋根本瓦葺でおそらく四脚門。
本瓦葺の屋根は照りがきいて格調高く、見上げに山号扁額を掲げています。
別に通用門?があって、こちらにも扁額が掲げられていました。


【写真 上(左)】 通用門?の扁額
【写真 下(右)】 院号標


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山内

向かって右手に院号標、左手に御府内霊場の札所標を置いています。

駅そばとは思えないゆったりとした山内。
参道右手に六地蔵、左手に東屋、その先右手には樹齢600年以上ともいわれる銀杏の巨木があります。
本堂向かって右手には、修行大師像と聖観世音菩薩が御座します。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 修行大師像


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

正面の本堂は昭和45年の再建。
寄棟造本瓦葺で向拝柱はなく、比較的シンプルな構成です。
扉に掲げられた庵木瓜(いおりにもっこう)紋は、おそらく大旦那の伊藤家の家紋と思われます。


【写真 上(左)】 庵木瓜(いおりにもっこう)紋
【写真 下(右)】 弁天堂

向拝見上げに掲げられた扁額は五つの梵字から成りますが、筆者不勉強につき内容は不明です。

たしか本堂向かって左手の蓮池の向こうに弁天堂があり、弁財天・大黒天・毘沙門天の辨財天三尊を安置しています。

こちらは花の寺としても知られ、とくに牡丹が有名です。

御朱印は本堂向かって左手の庫裡にて拝受しました。
豊島八十八ヶ所霊場の札所も兼ね、対応は手慣れておられます。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳(専用用紙を貼付)

中央に「大聖不動」「弘法大師」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(火焔宝珠)。
右上に「御府内八十八所第四十八番札所」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印


■ 第49番 寶塔山 龍門寺 多寶院
(たほういん)
台東区谷中6-2-35
真言宗豊山派
御本尊:多宝如来
札所本尊:多宝如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第49番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第9番、弘法大師二十一ヶ寺第2番

第49番は谷中の多寶院です。

第49番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに多寶院なので、御府内霊場開創時から一貫して谷中の多寶院であったとみられます。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

多寶院は、慶長十六年(1611年)幕府から神田北寺町に寺地を賜り建立されました。
開山は大僧都法印宥純(寛永五年(1628年)寂)、開基は不明です。

慶安元年(1648年)同所が幕府用地として召し上げとなり、現寺地に替地を得て移転しています。
湯島根生院の末寺の新義真言宗寺院で、御本尊は行基菩薩作と伝わる多宝如来です。
多宝如来は法華経に記され、東方・宝浄国の教主の如来です。

多宝如来は単独で奉安されることは少なく、御本尊の例もほとんどありません。
ただし、日蓮宗では法華経信仰に基づき釈迦如来とともに二体一組で信仰され重要なポジションです。
とくに、題目宝塔の両脇に釈迦如来と多宝如来を配した「一塔両尊」という安置形式は日蓮宗特有の御本尊として多くみられます。

密教では作例は少なく、札所本尊の例もほとんどないので当山の多宝如来は稀少です。
ちなみに、本四国八十八ヶ所に札所本尊が多宝如来の例はなく、他の弘法大師霊場でもみたことがありません。

当山は吉祥天の奉安でも知られています。
吉祥天はヒンドゥー教の女神・ラクシュミーが仏教にとり入れられたもので、仏教では母は鬼子母神、夫を毘沙門天とされます。

鬼子母神はとくに日蓮宗で信仰される尊格で、この点からも日蓮宗の影響が想起されますが当山は当初から純然たる密寺のようです。
この点は弘法大師霊場である御府内霊場の「御府内八十八ヶ所大意版木」が、多寶院が中心となって開版されたことからもわかります。

また、谷中エリアでの代表的な弘法大師霊場は、
 1.御府内霊場(御府内八十八ヶ所霊場)
 2.弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場
 3.弘法大師二十一ヶ寺
の3つありますが、多寶院は3つの霊場すべての札所となっており、弘法大師巡拝に外せない寺院であったことがわかります。
(「御府内八十八ヶ所大意版木」、「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」ともに当山に収蔵。)

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
四十九番
谷中門外
寶塔山 龍門寺 多宝院
湯嶋根生院末 新義
本尊:多宝如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.57』
湯島根生院末 谷中不唱小名
寶塔山龍門寺多宝院
慶長慶長十六年(1611年)二月十五日神田小寺町ニ寺地所拝領仕 其後慶安元年(1648年)御用地ニ●召上当時之地所拝領仕候
開山大僧都法印宥純(寛永五年(1628年)寂)
開基不分明
中興開山権大僧都法印澄正
本堂
 本尊 多宝如来 行基菩薩作
聖天堂
 聖天尊像
稲荷社
四国写八十八ヶ所碑三本 第四十九番目
石地蔵尊

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
多寶院(谷中町三二番地)
湯島根生院末、寶塔山龍門寺と号す。本尊多寶如来、開山宥純(寛永五年(1628年)八月五日寂)。慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給せられて建立した。慶安元年(1648年)同所が幕府の用地となるに及び現地に替地を給うて移転した。



「多宝院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約8分。メトロ千代田線「千駄木」駅からも歩けます。
(→ 谷中マップ
千駄木(団子坂下)から谷中に登る三崎坂(さんざきざか)が谷中霊園に月当たるところにあり、谷中界隈では比較的開けたところです。

門柱に札所札。門柱手前に吉祥天安置標。
門柱脇にも札所標がありますが、写真がうまく撮れていません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 つつじの時期の門柱


【写真 上(左)】 門柱の院号札
【写真 下(右)】 吉祥天安置標

参道左手に六地蔵を含む地蔵尊、その先に慈母観音。
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
見上げに山号扁額を掲げています。
雰囲気のあるいい本堂で、落ち着いて参拝ができます。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂向かって右手に谷中吉祥天のお堂。
堂前には幟がはためき、向拝見上げには「吉祥天」の扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 谷中吉祥天
【写真 下(右)】 谷中吉祥天の扁額

背後に円光(輪光)、胸部に瓔珞(ようらく)を帯び、右手は与願印、左手には宝珠を持たれる煌びやかな立像です。
吉祥天は仏教のなかでも屈指の美形の尊格として知られますが、こちらのお像も整った面立ちです。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
なお、「谷中吉祥天」の御朱印は不授与とのことです。

〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

【専用集印帳】
中央に「本尊多宝如来」「弘法大師」の揮毫とお種子の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第四十九番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
多宝如来のお種子は「ア」とされますが、このお種子は「ア」ではないと思われます。

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-17


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
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