京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『ことばの発達の謎を解く』

2015年11月18日 | KIMURAの読書ノート
『ことばの発達の謎を解く』
今井むつみ 著 筑摩書房 2013年

私自身、現在0歳児、つまり一般的に言われる「赤ちゃん」と関わる仕事に携わっている。この仕事をしているとその子の「初めて」の第一目撃者となることが多い。これは楽しみでもあり、保護者に対して申し訳なさも感じる。それでも、「第一歩」と「第一声」を目の当たりにするのは何とも感慨深いものとなる。とりわけ「第一声」。いわゆるその子にとっての「発話」が出た瞬間というのは、「第一歩」と異なり、前兆もなく不意打ちにくるので、感慨もひとしおとなる。それにしても、赤ちゃんはその国の言葉の文法も教わることなく話し始めるということは、かなり不思議なことである。一般的には、お腹にいる時から親が話している言葉を「聞き」、それを「真似て」話すようになると言われているが、案外それは漠然とした説明にすぎないと思える。おまけに、自分自身の出来事でもあるのにも係わらず、振り返ってみても、なぜ日本語が話せるようになったのか、その過程の記憶はない。今回そのメカニズムについて解き明かしているのが、本書である。

ヘレン・ケラーは耳も聞こえず、目も見えないため、サリバン先生に出会うまで言葉を持つことがなかった。しかし、サリバン先生の指文字による長い期間の指導により物には言葉を持つことをヘレン・ケラーは知ることになる。しかし、当初ヘレンはサリバン先生の指文字が「ことば」であることを理解していなかったと記している。しかし、ついに指文字が「ことば」ですべてのモノには名前がありそれを表すのが「ことば」だということをヘレンは理解する。それがあの有名な「水(Water)」の場面である。このことが、赤ちゃんの言語取得について何が必要なのか示唆していることになると、著者は述べています。

このことを元に、多くの赤ちゃんをはじめ、人と同じ猿人類での実験を著者は行い、細かく言語取得への過程を考察している。その中で分かることは、赤ちゃんは胎児の時からその発達に応じて、一つの文章を細かく区切って認識していっているというものであった。

蛇足であるが、その過程は、(日本の場合)中学生になると国語の授業で日本語の文法を習っていくが、その学ぶ順番によく似ていることが分かる。一つの文章を単語別に区切る。その後、「名詞」「動詞」などの自立語を学び、最後に付属語を学ぶ。本書を読んでいると、まさに赤ちゃんはそのような順番で「ことば」を理解しているように思えた。脳科学はここ何年かで急速に発展してきたものだが、少なからずこの文法の学び順は、私が中学生の時から変わらない。正直、文法を学ぶ順番がなぜこうなっているのか私には分かりかねるが、かつての日本語の研究者は何か感じるものがあったのかもしれない。

ここで大切なのは言葉を「知る」ことではなく、「理解」することである。赤ちゃんはその言葉を知るだけでなく「理解」することにより、ようやく「言葉を話す」ということにたどり着くということである。つまり、ことばをたくさん知っていたからと言っても、それが何であるか分からなければ「話す」という行為には結びつかない。では、「理解する」というのはどうすればいいのだろうか。著者は最後にこのように伝えている。

一方的な語りかけや言葉が流れているだけでは、学ぶことはできない。日常の中の、気持ちの通じ合わせた、言葉の一つ一つを丁寧に使った赤ちゃんとの対話。つまり「質の高い言語のインプット」である、と。

コミュニケーションはすでにお腹にいる時から必要であるということが、科学的にも検証された1冊である。

                        ( 文責 木村綾子)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

KIMURAの読書ノート『「子育て」という政治』 

2015年11月02日 | KIMURAの読書ノート
『「子育て」という政治 ~少子化なのになぜ待機児童が生まれるのか?』
猪熊弘子 著 角川書店 2014年7

少子化と言われて久しい。子どもの人数は減少しているにも関わらず、「待機児童」つまり、保育所に入ることのできない子ども達が年々増えているのか、その現状について報告しているのが本書である。また、自治体によっては「待機児童ゼロ」と言う報告もなされているが、それは本当なのだろうか。そのからくりについても指摘している。

まず前述した「待機児童増加」については、一般的には「共稼ぎ世帯」が増えたというイメージであろう。実際にリーマンショック以降、その世帯数が増えたのは事実である。それに伴い保育所も同じ割合で普及すれば「待機児童」は増加しないはずである。本書では、その普及率があがらない部分にメスを入れている。また逆に急いで事をすすめた自治体によっては、保育の質の低下や事故が増えていることも指摘している。

2013年「待機児童ゼロ」と発表した横浜市。その実態について著者は第1章で取り上げているが、結論から言えば「ゼロ」ではないということが分かる。横浜市に限らず、何をもって「ゼロ」とするかというところも、自治体によってまちまちであり、市民の、子育て中の親の肌感覚や実体験の方がはるかに待機児童の実態について正確であることが、赤裸々となっていく。つまり、行政と市民レベルでの感覚に大きく隔たりがあることが分かるのである。

しかし、この2点について以上に重要なことが本書では述べられている。それが第8章。ここでは「保育所としての命綱」として、「表には出てこない待機児童」がいることを取り上げている。2014年3月にインターネットを通して知ったベビーシッターに子どもを預け、その子どもが死んでしまったという事件を覚えている人も多いのではないだろうか。この事件について、著者は見ず知らずのシッターに預けた母親の責任や、保育制度の不備について指摘しているわけではない。実際に行政の手の届かないこのような世帯が数多くあるという実態。つまり、日本の子育てが抱えている問題を凝縮した事件であると論じているのである。その一つが貧困の問題と結びつく。格差社会と言われて久しいが、片親の中でも母子世帯が正規雇用として働いている率は低い。非正規となると昼間の稼ぎだけでは生活していくことはままならず、夜も働く、もしくは夜の稼ぎのみで生活していくパターンがどうしても多くなる。夜間保育や会社と契約する一般的なベビーシッターは数も少ない上に保育料は高くなる。しかし、この事件のようなサイトを通じてのシッターはそれらに比べると格安であるという。日々の生活が精一杯の世帯にとっては、質はともかく、低料金で子どもを預かってくれるのは、渡りに船であろう。著者は子どもがせめて小さい間だけでも、夜働かなくて済む支援が出来ないのかと問題提起している。

著者自身4人の子どもを持ち、すでに第1子(1996年生)の時から「待機児童」を抱えて悩む母であった。「保活」という言葉が存在しなかった時から著者は子どもの預け先に奔走し、現在に至っている。そして、20年。何も変わっていないどころか、更に深刻化している「待機児童」の問題。その忸怩たる思いが凝縮し文章一つ一つ迫真に迫る勢いとして表れている。        文責  木村綾子

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする