京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『富士下山ガイド』

2024年09月30日 | KIMURAの読書ノート

『富士下山ガイド』
岩崎仁・著 静岡新聞社 2024年7月

昨年、富士登山の人気はインバウンドにより、更に高まった。しかし、装備なく登る人も多く、事故やトラブルが相次いだため、今年は山梨県側で規制が設けられ、登山客は減少。しかし、連日の遭難事故の報道は変わらず多く、映像を視る限り山頂までの道のりは渋滞をしており、果たしてこれを登山と言えるのか、正直げんなりしている。そんな時に出会ったのが本書である。

目から鱗であった。富士山は山頂で迎えるご来光が美しいと言われ、多くがそのご来光を目的と、日本で一番高いところに登りたいという欲求で山頂に向かうものだと思っていた。つまり、「富士山は登る山」という固定観念があったという訳である。しかし、本書のタイトルにもあるように、車の侵入が許される五合目から下山しても、相当な距離を歩き、様々自然に触れ合うことが可能なのだ。なぜなら、五合目ですら標高が軽く2000mを超えているのである。そこから下山する醍醐味がないはずがない。私自身の最高峰は関西最高峰と言われる八経ヶ岳であるが、ここですら、若干2000mを切るのである。しかし、標高2000m弱の世界は明らかに下界とは異なっていた。本書の冒頭には次のように書かれている。

「私が提案している『富士下山』は、富士山を「下る」ことで新たな魅力を発見するトレッキングツアーだ。富士の登山道というと、岩肌が露出した無機質な光景を思い浮かべる人もいるかもしれない。だが、五合目から下には、我々の想像をはるかに超える豊かな自然が広がっている。砂礫地に生きるたくましい植物や、悠久の時を刻む巨木、溶岩を覆い尽くす瑞々しいコケ、そして懐に広がる青木ヶ原樹海や富士五湖。下るごとに次々と見える風景が変わっていくのは、標高差のある富士山ならではの楽しみだ。また、道中には石物や神社、朽ち果てた山小屋などが残りかつて同じ道を歩いた先人たちの営みが感じられる。こうした史跡を巡り、その背景にある信仰の歴史を理解していけば、富士山の自然や文化をどのように次世代へ継承していくべきか、自分なりに考えるきっかけにもなるだろう。(p6~7)」

ここに書かれていることは登山というよりも、私が週末に行っている「登拝」に近いものである。先人たちが残した軌跡を巡ることでそこに思いを馳せることのできる醍醐味を本書は余すところなく伝えてくれている。

本書はガイドブックというカテゴリーに入るが、コースに関する情報だけにとどまらず、写真集と見紛うばかりの画像がたくさん掲載されている。純粋に写真集として楽しむことができる1冊となっている。普段映像で映される富士山の風景とは異なり、画像だけ観ていたら、そこが富士山の一部とは思えない程、樹木が青々と生い茂り、山頂を目指すよりはるかに自然の営みを感じられる。本書を手にしてそう感じるのであるから、実際にそこを歩いた時はどのような感覚を得ることができるのであろうか。これまで富士山映像が流れるたびに足を踏み入れるのはよそうと思っていたが、2000m辺りから下りていくのは決して間違いではないなと思い始めた。山頂へ向かう人は渋滞中でも、下山する人はもしかしたら人っこひとりいない貸し切り状態かもしれない。そんなところで雄大な自然と先人たちの信仰に出会ってみたいと思った。本書は富士山の新たな魅力に出会うきっかけをくれる1冊である

       文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート 映画『ラストマイル』

2024年09月16日 | KIMURAの読書ノート

映画『ラストマイル』
監督・塚原あゆ子 脚本・野木亜希子 出演・満島ひかり、岡田将生ほか 
2024年8月23日公開

かつてドラマで放送された『アンナチュラル』『MIU404』と同一世界線上で描かれるという情報だけを楽しみに映画館へ足を向けた。私自身は『アンナチュラル』のファンなのである。スクリーンに『アンナチュラル』の人物が出てくるだけで満足のはずであったのだが、予想外の内容に『アンナチュラル』のことはすっかり忘れて見入ってしまった。

すでにこの作品はテレビで予告編が流れているため物流倉庫で起こった爆破事件の真相を追い求めていく内容であることだけは分かっていた。しかも前述したように過去のドラマ2作品に登場した人物たちが当時の役柄のままで出てくるため、てっきりエンターテイメントで埋め尽くされた作品だと思っていたのである。予想外というのは、まさにこの部分でエンターテイメント性はドラマ2作品の同一世界線であるというところのみであったこと。いや、それこそこの2作品もあえてというよりは、作品の流れ上必要な職種であったため、必要なのだったら改めてその世界を作り上げるよりは、かつてのドラマの人達に出てもらうほうがいいんじゃない?ファンも多いしという感覚に近いと感じた。

エンターテイメントでなければ何であるのか。少なからず、私は流通に関する経済学をこの作品で終始学ばせてもらったということから、予備校のオンライン授業とでも言えばよいのかもしれない。まさかテレビで流れていた予告編から誰が経済学を学ぶと思うだろうか。しかし、これは経済の話であり、現代の社会問題の提起なのである。この映画では物流倉庫が大半の舞台である。この物流倉庫は世界規模で大手の通信販売会社ものと設定されている。そこで爆発予告があったらどうなるのか。物流が止まったらどうなるのか。ピラミッドの頂点にある、通信販売会社本部(アメリカ)とその日本支社、そして物流倉庫。この物流倉庫から荷物を分配する配送業者の本部と配送担当地区のセンター、そしてそれを委託された配送業者。例え、爆発物があろうと物流の流れを止めてはいけないと倉庫のベルトコンベアの動きを止めようとしない物流倉庫までの通信販売会社側。そのしわ寄せがくる配送業者側。配送業者がいなければいくら通信販売でたくさん物を購入しても購入者には届かないのだが、そのパワーバランスは明らかに通信販売会社の方にあるいびつさ。また、倉庫で働く人は何百人もいるのに、これは全てアルバイト(非正規雇用)で正社員はわずか9人といういびつさ。この9人で何百人ものアルバイトをまとめていかなければならないばかりか、倉庫は常にコンピューターで稼働率がはじき出され、80%を切るとその倉庫の社員にペナルティが与えられる過酷な労働環境。そして、今回の爆弾事件はこの稼働率を下げてはならないということが全ての中心となってしまったことが発端であった。これまでほとんど表に出てこない流通の舞台裏に光を当てたのがこの作品だったというわけである。しかし、この光は決して希望が湧くような明るさではない。目をそむけるしかない閃光である。

そして、何よりもラストシーンに背筋が凍った。何が起こっても倉庫は稼働していかざる得ない状況で、バトンを受け渡された人物はその後どのようにして対応していくのか。それはこのバトンが映画の登場人物だけでなく、この作品を観てしまった観客全てにも渡されてしまっているということが、この作品の凄さであり、怖さである。タイトルとなっている「ラストマイル」は物流においてお客様へ荷物を届ける家庭の最後の区間を表す言葉である。

           文責 木村綾子


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KIMURA の読書ノート『バリ山行』

2024年09月01日 | KIMURAの読書ノート

『バリ山行』
松永K三蔵 講談社 2024年7月

第171回芥川賞受賞作。これまでの私なら全く手にしない作品なのであるが、何分にもお山に入るようになって、山関連の本が読める(理解できる)ようになり、今回の受賞作をうっかりと手にしてしまった。因みに私は単行本ではなく雑誌「文藝春秋9月特別号」を購入して読んだため、以下引用分のページに関しては、雑誌の該当ページとなることをご了承頂きたい。

「山行」とは一般的には登山することを指す。そして「バリ」とは「バリエーションルート」の略語で作中の言葉を借りると「通常の登山道でない道を行く。破線ルートと呼ばれる熟練者向きの難易度の高いルートや廃道。そういう道やそこを行くことを指す(p392)」。

私自身山に入り始めた頃は、明確な登山道となるルートをひたすら歩くことに専念していたため、このバリエーションルートに気が付かなかったのだが、回数を重ね周囲にも目を向けられるようになると、この「バリ」と思われる踏み跡の薄い道に、かなり気持ちがそそられていることに気が付く。しかし、それを現実にやってしまうと間違いなく遭難危険度は上がるので、予定ルートをひたすら歩くのであるが(それでも、分岐で迷って知らぬ間にバリ状態になっていることがある)、それが丸ごと作品のテーマになっているとなると、読む前から気持ちはかなりアップしていた。どのようなルートを歩くのか、何を感じるのか、遭難の危険性との兼ね合いを登場人物はどのように乗り越えていくのか、妄想がただただ膨らんだ。

が、思いっきりこの妄想を裏切ってくれた。非難覚悟で本作品を一言で片づけるならば、この作品は「男の物語」であり、今風に言えば「お仕事小説」である。というのも、主人公が「バリ」を行うのは、後半のたった1回。しかも、この「バリ」を週1で行っている会社の同僚がこの山行中に「本物の危機」について語る場面があるのだが、主人公はそれを「山の話」とし、半分も理解できないと感じるのである。主人公にとっての「危機」は会社が倒産するかどうかの方が「危機」なのである。そして、主人公は山の中で同僚がいうところの「本物の危機」に直面する。それでも、主人公にとっては「所詮遊びだ」と一蹴する。この感性をもった人物を主人公としているこの作品を「お仕事小説」としなくて、何と言うのであろうか。本書の帯には「純文山岳小説」と記されているようであるが、私のイメージする山岳小説にはほど遠い。

この主人公は古くなった建物の外装を修繕する会社に転職し、営業課に所属している男性であり、この会社の登山サークルを自分の社内の身の置き所としている。冒頭はトレッキングの場面から始まり、主人公がサークルで山行を重ねるうちに登山関連のグッズや、スマホを山関連のアプリや画像が増えていっていると語る場面もありながら、回想シーンも含めて主人公の会社の話題がやたらと多いというのも「お仕事小説」とする理由の1つでもある。そして、主人公から発せられる言葉の一つ一つがいかにも「男」を彷彿させるもので、私にとっては「男ってこんな考えなのか」と思わせるものが多く、いや理解できないことが多く、そのため「男の物語」と感じてしまうのである。男性の読者であれば、もしかすると全ての面において頷くのかもしれない。

しかし、これを決して非難している訳ではない。タイトルを目にして、過大妄想をしてしまった私が良くなかったのである。と同時に今ここまで「男」の気持ちを前面に出したストーリーがあっただろうかと思ってしまう。一昔前よりもジェンダーレスになってきたとはいえ、人の内面など分からない。それをこの作品では仕事の在り方を男の心情という切り口から覗かせてくれており、それはとても新鮮に感じるのである。もしかしたら、世の男性の本音はこの主人公と同じなのかもしれない。それを投影してくれているのだとしたら、それは確かな「純文学」だと思った。

 

 

 ========文責 木村綾子

 


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