京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート 神仏の涙

2018年12月14日 | KIMURAの読書ノート

『神仏のなみだ』
桜井識子 著 ハート出版 2017年

本書を知るきっかけとなったのはかれこれ半年ほど前の新聞広告。詳細は覚えていないが、その紹介文に「東日本大震災の津波到達ラインにあった寺社」という感じの文言があり、興味惹かれたのは記憶にある。図書館で検索してみたところすでに多数の人が予約をしており、そんなに人気本だったのかと正直驚かされた。とりあえず、「右に習え」ではないが私もそのまま予約し、半年後の今となって手にしたわけである。

「はじめに」の冒頭で、著者はこれまでも「神仏のありがたさ」について書いてきたと記しており、民俗学を学んでいる人だという印象を受けた。しかし、ページをめくると「東日本大震災が起こったあの日、神様や仏様はどうされていたのか……」「亡くなられた方が多くいたのはどうしてなのか、助けることはできなかったのか……」という文章が目にとびこんでくる。そして、第一章では、国内の小さな神社を巡ったことを綴っているのであるが、訪れた神社の紹介をした後、(私にとっては唐突に)「手を合わせて祝詞を唱えてみると、出てきたのは、月代を剃ったお侍さんでした。半裃を着ていますから、江戸時代の武士だと思います」とある。思わず、前の文章に戻り、この文章がどこから出てきたのか思わず読み返し、更に著者の略歴を調べるために、奥付にページをとばす。著者の祖母は霊能者、祖父は審神者でその影響を受けて育つとある。一般的に言われるスピリチュアル系本であったことにこの時初めて気が付いたのであるが、それでも「東日本大震災」時の寺社については気になったため、読み進めていった。

第二章がその「東日本大震災」に関わる内容となっている。本書によると、この津波到達ラインには多数の寺社があり、津波がこの寺社の直前で止まったり、境内は浸水しても社殿は被害を受けずにすんだというところが多かったようである。著者は実際その津波到達ラインに沿って建っている寺社を巡り、彼女の力により、神様と交信し当時の様子を聞いたものを寺社ごとにまとめている。正直、著者と神様の対話についてはどう捉えていいのか私自身は迷うところである。しかし、それ以外の寺社の現在の様子や当時の状況、そしてその背景というのは、小さな寺社であればあるほど、表に出てくることはなかなかないので、興味深く読むことができた。また、神様の力かどうかは別として、先人たちがここに寺社を建てたという事実は、それ以前からの歴史的、自然的背景や伝聞があったと考えられる。今よりも科学技術は発達していなかったにしろ、その科学的根拠は何某かあったわけで、先人たちの教えや語り継がれたことを決してないがしろにしてはいけないということを本書はそっと伝えてくれているような気持ちにさせてくれる。

本書では13の寺社を廻っているが、もっとここにスポットを置いた構成であれば、民俗学的な内容に関しても更に掘り下げられたのではないかと感じた。もちろん、この感想はあくまでも私の個人的な趣味の領域であるが。

本年も残すところ後半月。新しい年を迎えると多くの人が初詣に行くことになる。そこに科学的根拠を求める人は多くないだろう。日本の習慣と言えばそれまでだが、今年最後の「読書ノート」が半年待ちの本書であったことを素直に「縁」と受け止め、初詣では少しばかり神様との対話にチャレンジしてみるのも悪くないと思った。


======= 文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『ばーちゃんがゴリラになっちゃった。』

2018年12月03日 | KIMURAの読書ノート
『ばーちゃんがゴリラになっちゃった。』
青山ゆずこ 著 徳間書店. 2018年4月

前回の「読書ノート」で認知症に罹患した人がスタッフとして働いた試験的レストランを紹介した本を取り上げた。ここでは例え「記憶」を失うという症状であってもサポートがあれば「働ける」ということを実践した場であり、その機会を奪うことは社会としてどうなのかという問題を提起するルポタージュであった。今回は認知症の患者を抱える家族を在宅で介護をする様子を描いた著書を紹介する。

著者は当時25歳で都内まで電車一本で職場まで行けるという単純な理由で祖父母の自宅に引っ越すことにした。すでに祖父母が共に認知症で彼女の母親が介護に祖父母宅に介護のために通っていたことは知っていたが、著者の言葉を借りれば「心のどこかで『まーなんとかなるだろう』と軽く考えていた」。しかし現実は想像を絶するものがあり、孫が引っ越してきてもすでに著者が「孫」であるということすら「認知」出来ていなかったばかりか、朝起きて台所に赴くとコンロにかけっぱなしの魚から煙が出てボヤ騒ぎ。その中で平然とご飯を口にしている祖父母。更にそのご飯は夏場に炊飯器に1週間は放置されてカビなどが生えていたもの。ただ、これは本書の第1章での出来事であり、実はまだ序の口。著者がここで更に生活を進めることで事態が一層深刻化していくことが、1ページめくるごとにくっきりしてくる。認知症の症状は人それぞれで一概に「こうである」とは言えないが、著者の場合、とりわけ祖母の症状はかなり重症で「新しいもの」を組み込むということを受け付けず、彼女の部屋のものは彼女が仕事に出ている最中に全て放り出されたり、彼女が眠っている時に、こっそり部屋に侵入し、彼女の身ぐるみをはがすという行為にまで及んでいる。肉体的には元気な上、もともと「超怪力」だったために、このことを可能としているが、これは彼女だけに被害が及んでいるのではなく、近隣にまで至っており、幾ら25歳で健康的な若者であったにしろ、数日で心身が辟易することが手に取るように分かる。

本書は、コミックエッセイの形をとっており、祖父母の症状をコミカルに描いているが、笑えるはずの場面でも笑うことができないほど深刻なことばかりであった。最初は「まーどうにかなる」と思っていた著書も、両親や叔父叔母、更には従姉妹を巻き込み、介護体制を整えていく様子も描かれているが、それでも好転するという状況には至っていないどころか、祖父母に翻弄され、壊れていく様子が描かれている。タイトルの「ゴリラ」が適切かというと分からないが、前書と異なり、そこに「人の尊厳」を考えるゆとりすらない介護の現実が立ちふさがっている。これもまた「認知症」の一面なのであることを、まざまざと見せつけられる。

彼女は力の強い祖母に幾度となく自宅で殴られ、ケガをしている(それを音声データとして残している)。彼女はそれを「…ぶっちゃけその時私もばーちゃんを殴る寸前でその時思ったんだよね。『介護虐待ってめちゃくちゃ身近な話じゃん』って」という言葉で語っているが、実際は彼女が認知症の祖母に先に「虐待」を受けている。このような現実はなかなか表ざたになることはないが、もしかしたら、「介護虐待」と同じくらい多い出来事ではないのだろうか。

前書も今回も「認知症」という複雑で難しい病気について書かれた本を紹介したが、どちらにしろ言えることは、周りのサポートが必要な病気ということであるということは明確に感じた。

===== 文責 木村綾子


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