京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『ドナルド・キーン わたしの日本語修行』

2020年09月30日 | KIMURAの読書ノート


『ドナルド・キーン わたしの日本語修行』
ドナルド・キーン 河路由佳 著 白水社 2014年
 
昨年2月 96歳で亡くなった日本文学・文化研究の第一人者のドナルド・キーン氏。2012年に日本国籍を取得しているが、生まれも育ちもアメリカで、母語を英語とした彼がなぜここまで日本文学に深く造詣したのか、そもそも日本人でも原文読解は難解な『源氏物語』を読むことができたのか、ここに至るまでの日本語の習得はどのようにされたのか、実はこっそりと疑問であった。たまたま聴いていたラジオの番組でその疑問が解ける本を紹介しており、慌てて手にしたのが本書である。また、本書は著者の1人である河路由佳さんがキーン氏にこれらのことを語ってもらった内容をまとめたものとなっている。
 
キーン氏の話によると彼と日本の接点は大学2年(彼は飛び級をしているので17歳)の時、ニューヨークの古本屋で見つけた『源氏物語』の英訳(アーサー・ウエーリ訳)を購入したことによるという。但し、これは日本や『源氏物語』に興味があったのではなく(そもそも当時は日本に関しての知識は皆無だったとのこと)、価格が買い得だったため、購入して読んだというものである。しかし、読んでいるうちに『源氏物語』の美の世界にどっぷりとはまったと語っている。そして、更にその2年後、友人の別荘で日系人が日本語を教えてくれるということで誘われ日本語に触れたのが日本語への第一歩だったと振り返っている。その後は日本語に興味を持ち始め、大学でも日本語の授業を受講している。しかし、日本語が飛躍的に上手くなったのは、海軍日本語学校に入校したことによる。ここでは11か月みっちり日本語をしこまれ、日常会話だけではなく、文語体も学び、行書まで読めるようになったということである。ここで使用された教科書などが本書では詳細に紹介されている。
 
このようにしてキーン氏は日本語を習得していったのであるが、本書ではそれ以外にも興味深いことが語られている。キーン氏が日本語を本格的に習得した時期は、第二次世界大戦の最中。もちろん、日本とアメリカは敵対国である。しかしである。この時期アメリカの大学では日本文学の授業が普通に行われていたのである。その内容は武者小路実篤や谷崎潤一郎などを読み、日本語でその感想を書くというもの。日本では当時、敵国の英語の使用を禁止していた時期である。また逆にアメリカの兵士は敵の手に渡ったら知られたくない自国の情報を知られてしまってはいけないということで、日記を書くことを禁止されていたが、日本はそれを禁止していないだけでなく、新年ごとに日記帳を支給されていたということ。このように、本書では戦争に対する文化の違いがキーン氏の体験から綴られている。
 
本書の最後にはキーン氏の愛弟子たちがキーン氏の教師としての人となりと日本語、日本文学・文化に関してのキーン氏の向き合い方について自らの体験を通して語っている。これらはキーン氏の日本語に対する考え方を通しつつ、日本語を母語に持たない外国人がどのように日本語などを捉えているか客観的に知る機会にもなっている。
 
最後にキーン氏は次のように語っている。「戦争中に日本語を勉強した仲間たちが、戦後日本の文化の理解者になり、研究者になって次世代に日本語や日本の文化を伝えた。~略~今や日本文学は世界中の多くの人が知るところとなった。戦争前には考えられなかったことである。あの戦争で日本は負けたが、日本文化は勝利を収めた。これはわたしの確信するところである(p245)」。キーン氏は戦時中の海軍日本語学校で日本語を習得した仲間のほとんどが日本に敵意を当時から持っていなかったという。日本文化が勝利したというよりは、あの戦時中に日本語を敵国の言葉でありながらも、軍事的なこと以外にも自由に使えた風土。このような風土があるアメリカにやはり日本はそもそも戦争には勝てなかったのである。彼の日本語の習得過程以上にそのことを知る1冊となった。

===== 文責  木村綾子

 


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KIMURAの読書ノート 『家族終了』

2020年09月14日 | KIMURAの読書ノート

『家族終了』
酒井順子 著 集英社 2019年3月
 
2003年に発表された『負け犬の遠吠え』(2003年10月講談社)を皮切りにむさぼるように読んできた著者のエッセイであるが、ここ何年かは少し遠ざかっていた。しかし、先日ふとタイトルに惹かれて手にしてみた。そして、「はじめに」の冒頭、衝撃的なことが綴られていた。
 
「かねて病気療養中だった兄が他界したことによって、私にとって『家族』だった人が全員、いなくなりました。自分が生まれ育った家族のことを『生育家族』、結婚などすることによってつくった家族を『創設家族』というそうですが、生育家族のメンバーが自分以外全て、世を去ったのです(p1)」
 
著者の父親は彼女が30代の時、母親は40代の時に亡くなっている。ひとりっ子でなければ、両親が亡くなってもまだ兄弟姉妹がしばらくいるという感覚が少なからず著者の世代であれば当たり前のようにあるはずである。その当たり前の存在が突然この世を去るということは、未婚であれば、いわゆる「天涯孤独」という現実に突きつけられるのかとしみじみと感じてしまった。彼女はこれを「『家族終了』の感、強し(p2)」としている。そのような状況に置かれた著者が改めて「家族」というものを18の項目で考え綴ったのが本書である。
 
その中で第2章「我が家の火宅事情」は「はじめに」で衝撃を受けた以上に衝撃的なものであった。彼女の持つ少し斜め上からゆるやかに主張するエッセイと自身が『負け犬の遠吠え』となった根源がここに記されている。それは『負け犬の遠吠え』の時には「まだ両親が生きていたので書くことができなかった(p43)」幼い頃の彼女の家庭事情。個々の家庭にはそれぞれの事情があり、他人が口を出すことではないが、それでも著者のアイデンティティのスタートがこれだとすると少し切なくもなってくる。
 

このように前半いきなり衝撃的な告白でど肝を抜かされるのであるが、それ以降はいつも通りの彼女の視点に置いた持論が展開される。学校教育の「家庭科」の授業において必要なことは、「『一人一人が、人生を最後までというサバイブしていくために必要な能力を身につけましょう』という姿勢なのではないでしょうか(p92)」という問いかけにうなずき、「経済原理の離れた感情のやりとりがなされる場こそが、家族というものなのでしょう(p105)」というつぶやきに共感し、歌舞伎界の世襲制こそが歌舞伎を観る醍醐味であることを教えてもらい、毒親に育てられ、「親からの影響が好ましくないものであったならば、それを自分の力でどうにかすることが、本当の意味で親の手を離れるということなのではないか(p187)」というささやきに耳を傾ける。そして、彼女の最後の言葉、「家族は確かに素晴らしいものではありますが、それが唯一無二の幸せの形だとした時には、息苦しさがつきまとうのでした。人を結びつけるものは、生殖だけではありません。~略~様々は結びつき方が存在する。そんな様々な結びつき方によって一緒にいる人達を認め合うことによって、日本はもう少し楽な国になるのではないかなぁと、私は思っているのです(p235)」に今更ながらに自分自身の「家族観」とは、と考えさせられるのである。


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KIMURA の『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』

2020年09月02日 | KIMURAの読書ノート


『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』
石井光太 作 小学館 2020年4月
 

1988年に施行された「特別養子縁組」制度。この制度は1人の産婦人科医師の尽力により勝ち取ったものであることを本書によって知った。本書はその産婦人科医師である菊田昇氏の生涯を小説として紡いだ作品である。
 
「特別養子縁組」とは厚労省のサイトから転載すると、『子どもの福祉の増進を図るために、養子となるお子さんの実親(生みの親)との法的な親子関係を解消し、実の子と同じ親子関係を結ぶ制度』である。つまり、戸籍上、特別養子縁組は養親と養子の親子関係を重視するため、養子は戸籍上養親の子となり実親らとの親族関係がなくなる点で普通養子縁組と異なる。
 
菊田医師は自身が産婦人科医として赤ちゃんを取り上げていく一方で、望まぬ妊娠をした女性の中絶手術も多く行っていた。その中で妊娠後期もしくは臨月での堕胎手術においては、この世に生を受けたままで死亡させなければならない赤ちゃんも当時は多くおり、産婦人科の現場では闇の部分となっていた。それに対する憤りや後悔のため菊田医師は秘密裏に望まぬ妊娠をした女性と子どもを望む夫婦の橋渡しを行う。それが明るみとなり、「赤ちゃんあっせん事件」として世間を騒がせることになる。それにより、菊田医師は同業者の産婦人科医師達から反感を買い、病院は家宅捜査が行われ、日本母性保護産婦人科医会からは除名されるなど数々の試練に見舞われる。それでも、氏は志を持ちながら国や同業者と戦うことでこの制度を最終的に勝ち取ることになる。
 
この作品は上記のことは基より、彼の生い立ちについて丁寧に文章を綴っている。彼は遊郭を経営する母親の4番目の子として生まれ育つ。彼は遊郭で働く遊女たちに可愛がられていたが、成長するにしたがい、彼女達の不遇な扱いに疑問を持ち、そしてそれは母親に対する反抗心にもつながっていく。この一連の流れを小説の中のフィクションの出来事として片づけるのではなく、もともとノンフィクション作家として腕をならす作者は、きちんとした取材を重ねて、誤解のないように当時の様子や人物の心情を細やかに描写している。それでも、これらの事実をあえて「小説」に仕上げたということを考えてしまう。先にも書いたように彼は今や飛ぶ鳥を落とす勢いのあるノンフィクション作家である。恐らくルポタージュとして完成させても、十分に伝わる人物伝となったのではないだろうか。あくまでも、私の推測であるが、小説でしか書くことのできない出来事や当時の様子、ルポタージュにして全てを明らかにするには過酷すぎる現実や障壁がそこにはあったのではないかと思っている。
 
それでもこの作品は十分に当時の暗部に光を当てているばかりでなく、子どもという尊い存在を彼の戦いを通して読者に思い出させてくれている。しかし、彼が勝ち取った「特別養子縁組制度」は施行されて30年以上経ったが、あまり広がりを見せていないのが現実である。生まれてくる子ども、そして女性にしかできない出産をどのような形であれ「幸せ」に変えていくか、私たちは菊田医師からバトンを受け取り、更に考えて行かなければいけないと感じている。

====== 文責 木村綾子

 

 


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