京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KUMURAの読書ノート『国境のない生き方 ~私をつくった本と旅~』

2015年05月19日 | KIMURAの読書ノート
『国境のない生き方 ~私をつくった本と旅~』
ヤマザキマリ 著 小学館 2015年4月

映画化にもなり一世風靡した『テルマエ・ロマエ』(全8巻 エンターブレイン)や現在は『プリニウス』(既3巻 新潮社 とり・みきと共著)を連載している著者のこれまでの軌跡を自身が綴っている。

14歳でのイタリアへの一人旅を起点にシリア、ポルトガル、アメリカと世界規模で住まいを移していく生活に。サブタイトルには「本」についても確かに語っているのだが、何よりも世界に住まう彼女の視点がとても興味深く読める。例えばこれらのことを含め、全てを「経験」として一般的には捉えるが、彼女が語る経験とは、「まっさらな場所で『お前は何者なのか』と問われているような気持ちになるはずです。そうやって自分で考え、自分で感じ、自分の手と足を使って学んでいくこと」(p57、58)そして、それは「囲いの外」に出なければ得ることができないとしている。また今日本では「教養」が必要であるということを言われるがこれについてもこのようなに記している。「教養を高めるといっても『自分はたくさん本を読んだからいいわ』という話ではないんですね。見て読んで知ったら、今度はそれを言葉に転換していく。これって、日本人に書けているところではないかと思います」(p104)つまり、知識をため込むだけでなく、それを使いこなしてこその「教養」。但し、それは論破するためのディベートではないとも指摘している。

日本のことを否定的に書かれているように思えるが、実際は囲いの外から出て、日本のことを世界のオンリーワンとして捉えている文章も随時出てくる。いちばん目を引くのが宗教的なことではないだろうか。「哲学者のプラトンとキリスト、シッタータが入り乱れて、ミロク救済計画の謎に挑むあの壮大なスケールの作品(※筆者注 『百億の昼と千億の夜』光瀬龍・作)を、全国の中高生が楽しみに読んでいた。そんな国がほかにあるでしょうか」(p118)他にも、悪役が決して完全なる悪とならない日本の番組。放射能の影響を受けて生まれたゴジラすら日本人は憎まない。人魚のミイラや河童の手、幽霊の足跡が掲載された本が普通に読まれ、西洋の合理主義とはまた異なるゆるさを持つ日本の土壌。これらは著者が海の外に出たからこそ味わった実感と語っている。

現在日本では政府がのろしをあげて「グローバル化」を進めている。例えば、外務省が行っている「グローバル人材育成」における推進会議開催の根拠は次のようになっている。

グローバル人材育成推進会議の開催について
1.「新成長戦略実現会議の開催について」(平成22年9月7日閣議決定)に基 づき、我が国の成長を支えるグローバル人材の育成とそのような人材が活用 される仕組みの構築を目指し、とりわけ日本人の海外留学の拡大を産学の協 力を得て推進するため、「グローバル人材育成推進会議」(以下、「会議」とい う。)を開催する。 (首相官邸HPより)

これだけを読むとグローバル人材育成とは留学すればよいのかということにはならないだろうか。かなりお粗末な「グローバル化」である。確かに海外で留学するということそのものが無意味とは言えない。しかし、「留学=グローバル」かと言われたら誰もが「YES」とは言わないだろう。それでは、本当の「グローバル」とは何なのか。そのヒントが詰まった1冊である。著者は語る。「単純に地球があって、太陽があって、この環境の中で生きていける生命体として、私たちは命を授かったのだから、まず『生きてりゃいんんだよ』。これが基本」(p252)

                               文責 木村綾子

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KIMURAの読書ノート『居所不明児童 ~消えた子どもたち~』

2015年05月01日 | KIMURAの読書ノート
『居所不明児童 ~消えた子どもたち~』
石川結貴 著 筑摩書房 2015年4月10日

2013年4月横浜市郊外の雑木林で6歳の女の子が遺体となった発見された事件を記憶している方も多いのではないだろうか。親の虐待の末の遺体遺棄事件であったが、この事件はそれでは済まなかった。捜査により、この女の子は就学年齢に達していたにも関わらず、住民票を移動させずに各地を(親により)転々とさせられていたため小学校を入学していないことが判明。この事件をきっかけに、文部科学省がこのような児童生徒が国内にどのくらいいるのか実態調査に乗り出すきっかけともなった事件である。

このように実際に記載されている住民票に存在がなく、かつ公的な支援も受けずに行政の網からこぼれている子どもたちを「居所不明児童(生徒)」と言う。本書はなぜそのようなことが起こっているのか。行政の対応。そして、実際に自身がそのような子どもだったという人、またかつてそのような子どもを受け持った学校の先生のインタビューでまとめられている。

「居所不明」の子どもでありながら、なぜインタビューがとれたのかという疑問がうまれてくるであろう。このインタビューに答えている男性は、まだ小学校を途中まで経験しており、当時の状況をきちんと記憶してということ。このような境遇でありながら無事に大人になれたからである。小学校後半からは親の繰り返す転居(その中には長期間の野宿生活も含まれている)により学校を行く機会が失われ世間的には「居所不明児童」となっている。この転居も学校に親が知らせて、転居するものではなく、いきなり学校を欠席させられ、そのまま別天地への移動。学校も気づいた時には、クラスの子が親ともどもいなくなっていたということである。もちろん、学校側もそれに対して野放しにしてはいない。それは前述したそのような子どもを受け持った学校の先生のインタビューからうかがえる。しかし、そこには法的な問題や、いなくなった子どもたちの親の人脈などがまったく見えてこないために、手を打つ術がないというのが正直なところのようである。また、親はそこに存在しても子どもに合わせてもらえないケースというもの、紹介してある。2004年に起こった岸和田市での虐待事件を覚えているだろうか。虐待死したのが中学生であったということでその衝撃はより強いものになった。この事件の場合は、亡くなってしまったもののその中学生が発見されたということで、「居所不明児童」とはならなかったが、本書でのケースの場合、担任が何度も家庭訪問に行っても、合わせてもらえないまま、半年が経過し、親も忽然と姿を消したという。そして、岸和田虐待事件。このインタビューを受けた教師は、もしかしたらこの事件と同じケースではなかったのではないかと、今もなお心を痛めているという。

文科省の調査により、2014年10月の段階で国内の居所不明児童(生徒)は141名と発表されている。その内訳は未就学児61名。小学生40名。中学生27名。義務教育機関を終えた子が13名である。果たしてこれは正しい数字なのだろうか。生まれた時点から役所にそのことを届けられておらず、もしかしたら虐待をうけながらも存在する子どもたちが想像を超えてたくさんいるのではないだろうか。少なからずこの調査は氷山の一角のように思える。それを実感させてくれる1冊である。

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