京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート 『アヴェ・マリアのヴァイオリン』

2019年06月14日 | KIMURAの読書ノート

『アヴェ・マリアのヴァイオリン』

香川宜子 作 角川書店 2013年

あすかは徳島に住む中学2年生。父親は医者で両親ともあすかが医者になることを望んでいる。あすかは小さい頃からヴァイオリンを習っており、将来ヴァイオリンが弾ければいいなと漠然とは思いつつもヴァイオリニストになりたいと確固たるものもなく、かつ医者になりたいという気持ちが全くないわけでもないというよく分からない状態だった。ある日懇意にしている楽器店からいいヴァイオリンが入ったという連絡があり、母親とその楽器店にあすかは行くことになる。そのヴァイオリンはかつてあすかと同い年のハンナ・ヤンセンという女の子が所有していたものであった。ハンナはアウシュビッツ収容所の生存者でこのヴァイオリンは収容所の前の野にあったという。その後、ハンナのことを知るポーランド在住でオーケストラの指揮者のカルザスが『交響曲第九番』の指導のため来日することを知り、あすかは彼に会いに行く。そして、彼から語られたハンナの生涯とは。

この作品はあすかとハンナのダブル主人公となっており、第1章があすかがカルザスに出会うまで、第2章から第4章までがハンナの生涯、そして第5章はカルザスがハンナのことを語り終わった後という構成となっている。

アウシュビッツ収容所に関しては『アンネの日記』が有名で誰もが知るところであるが、アンネと違うのは、ハンナはヴァイオリンを習っていたということで、収容所では家族と分けられ、ここの音楽隊としての役割を与えられる。音楽隊に入った者は、毎日の食事が与えられ、部屋も個室という他のユダヤ人とは全く別の待遇であったが、その役割は人々を欺くため、アウシュビッツ内で行われていた恐ろしい行為を隠蔽するための道具であったことがハンナの目を通して語られている。

本書は『アンネの日記』と異なりフィクションであるため、同列に扱うことは難しいが、作者は巻末に主要参考文献を掲載すると共に、フィクションではあるもののエピソードは実際の出来事を元にしていると断り書きを記している。つまり、ハンナは存在しないけど、ハンナと同じ生涯を送った人がいると解釈できる。『アンネの日記』でしか知らないアウシュビッツの恐ろしい状況をこの作品を読むことで更に強固にさせられるだろう。人は一体どこまで非人道的になることができるのか。『アンネの日記』とは違う角度からこの作品はそれをまざまざと見せつけることとなる。

またハンナと同じ音楽隊にいた男性は、第1次世界大戦中徳島の板東俘虜収容所に連行され、そこでの生活をハンナに聞かせる場面も出てくる(板東俘収容所に関する本は『二つの山河』として「読書ノート」(2016年7月21日の記事)で紹介しています。



アウシュビッツの対極として板東俘収容所をこの作品で描いているとすれば、それは違うと感じるが、板東俘収容所を知るという意味においてはこの作品はその役割を担っている。

カルザスがあすかに語る。
「歴史を勉強しない子はいけない。しかし、知っているだけじゃあだめだ。何年に何が起こったかなんて年表を覚えても、それは歴史を知ったことにならない。史実に基づき、自分の頭でいろいろなことを考え、感じることが勉強なんだよ。そして、人間にとってこれから先、どう生きていくべきか、幸せとはどんなことなのかを追求し、世界に目を開き、きちんとした自分の意見を持つことが歴史を学ぶことの意味なんだ」(p41,42)
まさにそれを具現化した作品である。

====== 文責 木村綾子

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KIMURA の読書ノート. 『科学と非科学』

2019年06月03日 | KIMURAの読書ノート
『科学と非科学』
中屋敷均 著 講談社 青木健生 シナリオ 小学館 2019年2月

しばし、とある事象について述べた時、「科学的でない」とか「根拠が明確でない」と一蹴されることがある。確かに理屈では説明できないけれど、それでも自身が体験したこと、経験したことは明らかな肌感覚として残っている。しかし、他者からすれば、それは説明つかなければ胡散臭ものとなってしまう。著者の言葉を借りれば、『現代において「非科学的」というレッテルは、中世の「魔女」のような「異端」の宣告を感じさせる強い力をもっている(p6)』ということなのだろう。だが、著者は続ける『果たして科学という体系は、本当にその絶大な信頼に足るほど強靭な土台に建っているものなのだろうか』、『「科学的」なものと「非科学的」なものは、そんなに簡単に区別できて、一方を容赦なく「断罪」できるものなのか?また、「科学的な正しさ」があれば、現実の問題は何でも解決できるのだろうか?』と問いかけている。本書はこの問いに対して、著者が論じているものである。

第1章では、様々な事例を挙げて、先の問いに対する著者なりの結論に導いている。前提として「科学」というのを考える上では、重要なポイントが1つあるという。それは、科学的な物の考え方の基礎には、この世界は「法則」に支配されていて、同じことをすれば同じ結果が返ってくることが前提となっている。分かり易く言えば、学校の教科書で学ぶ各種の公式がそれに当てはまる。しかし、現実の世界では、同じことをしても同じ結果が返って来ないことは多くある。それは、公式などは理想的条件下で行われた場合であり、現実には理想条件下では無視できるような微弱な力や因果律の作用が大きくなるからだと著者は指摘している。こうなると科学的な考え方の「法則」から現実の世界は外れることになる。また別の視点で科学的な知見を不確かにしてしまう事例として「安全」と言われている「医薬品や食品添加物」について挙げられている。科学的に検査やデータを取った上で「安全」としているが、「絶対安全」とは言われず「大体安全」とされている。それは、ある化合物単独の毒性は調べられていても混合された時の組み合わせは多すぎて、現実的には検査対象になっていないからである。しかし、一般的には科学的に検査をしてこれを「大体安全」としている。だが、現実は「科学的に検査をしていない」部分も含めての表現である。最終的に著者は『「科学と似非科学の間に境界線が惹けるとするならそれは何を対象としているかではなく、実はそれに関わる人間の姿勢によるのみなのではないかと私は思う』としている。また、著者は現在の社会で「科学的な根拠」の確からしさを判断する方法として、世界的な学術誌に掲載されたからとか、有名大学教授が言っていることだからという権威主義に基づいたものが特別な位置に置かれているからだとも指摘している。しかし、これは権威にしがみついているだけだと著者は一蹴している。

第2章は、第1章のことを踏まえた上で、「科学は不確かなものである」ということを前提として、科学が進歩してきた歴史や、そのリスク、また現在の競争原理や大学における研究について語られている。そして、最終的には「科学」であろうが「非科学」であろうが、「意志のある選択」というのが人は大切ではないのかということで本書はまとめられている。

「科学」とはこれまで理論づけられ割り切れるものと信じていたが、本書を読むと現実の「科学の現場」の実態を知り、以外にも「科学」が全く違う様相を見せ、ただただ、自分自身「科学」という言葉に振り回されていたことに気づかされる。約20年前に政府は科学技術創造立国を目指すという答申を発表しているが、日本がイメージする「科学」とは一体何なのか、もう一度立ち止まって考える必要があるのではないだろうか。
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文責 木村綾子

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