京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

『女子読みのススメ』

2014年06月20日 | KIMURAの読書ノート
『女子読みのススメ』(YA)
貴戸理恵 著 岩波書店 2013年

てっきり10代女子にオススメのガイドブックだと思っていた。しかし、そんなに軽いものでは全くない。本書は書き手が30代までの女性作家を中心に、現代の10代の女の子達が日常的に向き合うテーマをめぐる小説より、現代社会を深く切り刻んでいく論評である。

テーマは「学校」「恋愛」「家族」「大人になること」の4つ。

「学校」では今クローズアップされている「スクールカースト」に視点を置き、その中で女の子達がどのようにふるまっているのか、そこから派生する「いじめ」についても、彼女たちがどのように捉えているのか、豊島ミホの作品を中心に彼女達の複雑な葛藤や素朴な単純さを浮き彫りにしつつ、現在の日本社会の「価値の多様化」の危うさについて浮き彫りにしている。「恋愛」では金原ひとみの作品から女の子達が生きている現実が乾いているということを指摘し、「家族」では「今」という世界が大人のつくった人間世界それ自体ほかならないと言及している。そして、「大人になること」。西加奈子の作品より、社会が求める人間像に対して、「社会に認められるよう自分を変える」か「自分自身のままでそこから撤退する」のいづれかではなく、「自分が自分のままであり続けられるよう、社会を変える」という選択肢があることを指南してくれている。

この中でも著者の金原ひとみ作品に対する分析にはハッとさせられるものがある。彼女の作品はデビュー当時から、彼女自身、そして作品があまりにも強烈なため、否定的にとられることも多い。芥川賞受賞作品において、選考委員の石原慎太郎氏が「私には現代の若もののピアスや入れ墨といった肉体に付着する装飾への執着の意味合いが本質的に理解出来ない。選者の誰かは、肉体の毀損による家族への反逆などと説明していたが、私にはただ浅薄な表現衝動としか感じられない。」と言ったことを記憶している人も多いのではなかろうか。しかし、著者は金原作品についてこのように、記している。
「散りばめられた過激な性描写や主人公の言葉にぎょっとさせられる人も多いだろうこの作品は、一方で、強烈な自我を『若い女の子』の進退のなかに閉じ込められてしまった存在の生きづらさを、冷徹に描いています。この社会では、『若い女の子』は、とりあえず、顔をキレイにして短いスカートをはいて難しいことを考えずノリをよくしているものだ、と考えられているようなところがあります。~略~『私はそんな勝手なイメージには踊らされない』とこれを拒否して、堅実に勉強し、働いて自律することを目指すという方向性は、あるでしょう。~略~けれども、金原作品の描く彼女達は、いわゆる求められ『若い女の子』のイメージにみずから乗り、進んでそれらしく振舞います」(p73~74)
そして、その理由を頑張って人生に何かを求めたとしても、ゴールまでたどり着くことは到底出来ないと彼女達は肌で感じているからであると指摘し、それを著者は「静かな老成」と言っている。これは、その後の「家族」のテーマの中で、語られる「『今』という世界が大人のつくった人間世界それ自体ほかならない』ということに繋がっていく。

本書を読むと、今の若い書き手が表現する世界は決して「軽薄な表現衝動」でないことが分かる。そればかりか、現代の日本社会の生きにくさ、問題点が「分かった」上で、表現できるのがこの世代の女性作家なのではないのだろうか。

本日(6月13日)の朝刊の1面には「理研再生研解体を」と大きく取り上げられていた。STAP細胞論文の件である。「解体」すれば全てが片付くのか、はなはだ疑問である。この件の中心となってしまった女性は、本書を読めば読むほど「今」という社会の犠牲者としか思えてならない。そして、彼女達なら、彼女の真意を物語に紡ぎだしてくれるにちがいない。

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『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』

2014年06月02日 | KIMURAの読書ノート
『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』(一般書)
松永正訓 著 小学館 2013年

第20回小学館ノンフィクション大賞受賞作品。

「トリソミー」という言葉を耳にしたことのある人は多いのではないのだろうか。「染色体異常」のことを指し、21トリソミーがいわゆる「ダウン症」である。本書は、21トリソミーとは全く異なる症状を示す18トリソミー、13トリソミーを主とした「障害新生児倫理」について記されたものである。

13トリソミーと18トリソミーは様々な複雑な奇形を持ち、この世に生を受けても半数以上が半月の命となり、1歳を迎えられる子は全体の10%である。著者がまだ大学病院で小児外科をしていた頃、この両トミソリーに関しては、積極的治療を行わない方針が一般的であった。著者はこの時、まだそれと診断が出されていない新生児に対して閉ざされた食道をつなぎ、胃へ外部から栄養を送るチューブを入れる手術を行った。その1週間後この赤ちゃんが13トミソリーと分かり、この時の方針からこのチューブを抜かなければいけない体験をしている。以来、著者の中に「罪悪感」が残り、「障害新生児倫理」の解答を見つけられない状況であった。それから約10年後に著者は小児医療の最前線から離れ、開業。そして、2011年、同じ地域の総合病院から生後7ヶ月の13トミソリーの赤ちゃん(朝陽くん)が退院するため、かかりつけ医になって欲しいと言う依頼により、再び「障害新生児倫理」に向き合うことになる。

朝陽くんとその家族との交流が綴られているだけでなく、その家族をきっかけにトミソリーの子どもを持つ他の家族、トミソリー以外の「短命」と言われている病気を持って生まれた子どもの家族の聞き取り調査を行っている。そして、それは「短命」「障害新生児倫理」の問いかけだけでは終わらず、現在あちこちで見聞きする「出生前診断」、その先の「介護」……「老々介護」へと話は繋がっていく。

本書を読み進めると、著者が約20年前に抱いた「罪悪感」は想像以上に重たかったものだということに気がつく。それが、朝陽君家族や他の家族への不躾な質問という形となって、いたるところで表れている。もしかすると、障害新生児がこの世に授かった時、その親と同じ位、そこに立ち会った医療従事者は苦しんでいるのかもしれない。それでも、親は著者が綴っているように、子どもを手放したり家族を捨ててしまうことはほとんどない。時間をかけて受け入れたり、反発しながら、前に進んでいっている。しかし、医療従事者は、あくまでも「医療を行ってくれる人」という他人であり、共に歩みを揃えながら、患児やその家族とゆっくり進むことは物理的に不可能である。次々に様々な病状を持つ子どもを言葉は悪いが捌いていかなければいけない。他人とは言え、自分と関わっているはずの子ども達とゆっくり向き合うことができないというのは不幸なのではないのだろうか。だからこそ、著者のように「罪悪感」を持ち続けなければならなくなるのではないだろうか。

朝陽君家族と寄り添った結果、著者が出した問いの答えは、
「医者にとっての生命倫理は、思弁ではなく行動である」(p219)
その行動の足かせを作らないように、社会は動かなければならない。

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