京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

『雪と珊瑚と』 梨木香歩 作 

2013年06月20日 | KIMURAの読書ノート
2013年6月その2
『雪と珊瑚と』(一般書)
梨木香歩 作 角川書店 2012年

21歳の珊瑚は、20歳の時に結婚し、1年後に離婚。赤ん坊の雪はまだお座りができるようになったばかり。その小さな赤ん坊と散歩に出かけた道中で目にとまったのが「赤ちゃん、お預かりします」という張り紙。保育園へ申し込みをしたものの、定員いっぱいのため断られていたこともあり、思い切ってそのドアを開ける珊瑚。そして、そこで待っていたのはくららという年配の女性。くららとの出会いで働ける環境を得ることができた珊瑚が働くことを通して、自分の夢を持ち、それに向かって歩んでいくというとてもシンプルな物語。

 シンプルな故に大きな事件は起こらない。その代わりに優しいゆるやかな言葉で現在のシングルマザーを取り巻く状況を深く掘り下げている。どの場面を目にしても「さもありなん」である。例えば、珊瑚の生い立ち。もともと珊瑚の母親は家にあまりおらず、常に「お父さん」が変わる。珊瑚が高校生のとき、授業料が滞り中退を余儀なくされるが、その時には唯一の珊瑚の肉親である母親は行方不明。珊瑚が出産するときも出産費用が払えないため、病院へは1度も行くことなく、親しくなった看護学生の那美に自宅で(と言っても四畳半一間のアパートの1室)、雪をとりあげてもらう。そして、先の記述でも触れたが、働かなければならない、親子二人食べていくすべがないのにも関わらず、定員オーバーで保育園への入園が認められない。くららとの出会いがなければ、間違いなく珊瑚と雪は何がしかの事件の渦中に足を踏み入れただろうという、これまたシンプルな予測が立てられてしまう。そこに突飛ではない、救いを物語にしたのがこの作品である。

 確かに、くららが珊瑚に申し出る、いや自宅のドアにあのような張り紙をすることは突飛かもしれない。しかし、時間と少しのゆとりを持った年配の人がボランティアにいそしむ現在、この張り紙もそれとなんら変わらないように思える。行政に登録をしていない昼間里親と考えれば何ら不思議ではない。逆に登録をしていないからこそ、お互いを「信じる」ことだけで結ばれるこの契約に愛情すら感じる。かといって生ぬるいものでもない。印象的なフレーズがある。珊瑚がくららから言われたことを反芻する場面。

「なんというか、人の好意を利用するなんて、そういうことは、「薄汚い」、と思う。けれどそれは、まだまだ「プライドの鍛え方」が足りないということなのだろうか。そんなことにいちいち反応するのは、なまっちょろい「プライド」の証拠で、母子家庭でなりふりかまわず働かないといけない立場としては、もっとプライドを鍛え、ちょっとやそっとでは傷つかない鎧のようなものにし、当然のような顔をして人の好意を渡り歩いて行くべきなのだろうか。
自分にそれができるかどうか、しばらく考える。
やっぱり、葛藤なしにはできない、と思う。」(p143、144)

 本作品の登場人物は、すべて善人である。実は珊瑚を明らかに捨てた母親すら善人なのである。決して奇麗ごととして並び立てているわけではない。それでも、私はこの母親も善人だと思える。それは珊瑚の話す言葉がとても美しいのである。きちんとした日本語なのである。言葉は親からまず引き継がれる。荒れた環境で育ったはずの珊瑚があのように奏でる言葉に曇りを感じないのである。それを珊瑚が知るにはまだまだその年齢には達していない。珊瑚と雪とくららの物語は余韻を残したまま終わる。おそらく、誰かを通して珊瑚は知ることになるだろう、母親から引き継いだものを。私がそれを信じ込ませてくれるほど、最後の最後までほっこりとした暖かさで包まれたこの物語。おそらく現実のシングルマザーには読む機会は少ないだろう。だとしたら、そうでない少し時間とゆとりがあるご年配の方々が読むことで、サポートの必要な人への希望の扉となってくれるに違いない。

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『天才の時間』

2013年06月10日 | KIMURAの読書ノート
2013年6月定期その1
『天才の時間』(一般書)
竹内薫 著 NTT出版 2008年

「天才の時間」ってなんだろう?
というフレーズで始まるこの1冊。
私の場合、そもそも「天才」って何だ?とすら思っている今日この頃。
そのまま文章の引用を続ける。

僕は、科学作家という商売柄、古今東西の天才たちの業績を本でとりあげることが多い。長年、そういった仕事をしているうちに、僕は、だんだんと「天才たちには、ある共通点があるのではないか?」という想いを強くしていった。その共通点とは、ズバリ、「休暇」である。(「はじめに」より)

著者は、寝る間も惜しんで頑張る人や、逆にさしたる苦労もしないで、閃いてしまう人たちではないと言っているのである。本書では、著者のいう「休暇」を持って、天才たる所以となった13人を取り上げ、その「休暇」について持論を展開したものである。

「休暇」と言えば、ただの凡人である私は「仕事」のない日を思い浮かべる。いや、それしかないとすら言える。この凡人に等しい「休暇」を持ったために天才となったのが万有引力の法則を見つけたニュートンとされている。ニュートンの場合、大学に在籍していた当時、ペストが流行し、大学が閉鎖される。そのため、ニュートンは故郷に戻ったわけだが、やることがないので、自分が研究していたことをノートにひらすら書き留めるという作業をしていたという。その期間20ヶ月。2年を少し切るぐらいとなるわけだが、この期間に全てのアイデアが出尽くし、今尚科学史に名を残すニュートンが出来上がったというわけである。

著者によると、この大学の閉鎖がなければ、ニュートンはこれらの業績を残してはいなかっただろうという。ただ、この「休暇」。凡人に20ヶ月と言う「休暇」なほぼ無いに等しい。頑張っても2週間が限界であろう。こうして考えると、その「運」を引き寄せる力こそ「天才」なのかもしれない。

しかし、「休暇」はこのニュートンのように、本当に「暇」な状態だけを指してはいない。宇宙論で名を馳せているスティーブ・ホーキングの場合は、彼の病気を「休暇」として著者は示している。ホーキング博士がALSという難病であることも科学者に加えて誰もがしる事実である。しかし、私は彼がこの病気を発症したのが、20代前半であり、その当時余命2年という宣告を受けているのを本書で知った。それから、50年余り、不自由であるが、余命という言葉をどこ吹く風である。著者は病気になったことを「休暇」と聞いたら、本人には怒るであろうと書いています。それでも、著者が「休暇」としているのは、実際、ホーキング博士は「病気になって暇になった」と公言しており、その「暇」は体が不自由なため、大学での雑務から解放されたとも話している。つまり、このことより、著者は時間のとられる雑務が天から免除されたことにより脳の中で温めていたアイデアをひたすら考える時間を持てるようになったとしているのである。実際、ホーキング博士は病気になったことが引き金で、莫大な量の論文を発表しているそうである。

著者は「休暇」を言い換えるならば「熟成期間」としている。それはこの13人、別々の形で、しかもその期間の長さもそれぞれである。宮沢賢治では、妹を亡くした以降を著者は熟成期間としているし、北野武にいたっては、長い下積み生活を「休暇」として著者は表している。

しかし、著者が指摘しているように、総じて13人は、この「休暇」をただの「暇つぶし」にはしていない。意識的、無意識的にしろ、その次に起こる何かのためにつながる何かをやっているということだ。そして、著者はあとがきで、このようにも書いている。

世間に気づかれずに死んでゆく天才も大勢にいる。そういった「表に出ない」天才たちは、天からきちんと休暇を与えられ、筋書き通りに熟成し、大きな仕事を成し遂げる。~略~
そもそも、天才の仕事を見て、その内容を理解し、さらに評価さえできるような人間は、世の中にほとんどいない。人は、とかく感情に流されがちで、すぐに他人の業績に嫉妬したり、自分と比べて羨ましくなって、逆に無視したりする。(p260)

なるほどと思う。天才と言われる人と比べる時点で凡人に成り下がると解釈しても良さそうである。そんな暇があるなら、まさに自分自身の中に与えられた「休暇」を自分のために使うということがまずは天才になる一歩なのであろう。

先にあげた、4人の天才以外に本書では、ダーウィン、サラマヌジャン、ペレルマン、エッシャー、カント、ヴェイトゲンシュタイン、ユング、鈴木光司を紹介している。読み手はどのタイプの天才たちに近い「休暇」を持つことになるだろうか。興味深いところである。

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