京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『猫だましい』

2021年01月15日 | KIMURAの読書ノート


『猫だましい』
ハルノ宵子 著 幻冬舎 2020年10月
 
著者が2014年に上梓した『それでも猫は出かけていく』(幻冬舎)は著者の飼い猫と外猫の濃密な日々を記したエッセイで、とりわけシロミと名付けられた美猫を中心に描かれているが、私にとってもかなり共感できるものであった。それはシロミが著者の元に引き取られた時にはすでに事故により障害を持っており、それが私事ではあるが、我が家の闘病中の長男(猫・8歳)に重なる部分があったからである。またこのエッセイは著者の言葉を借りれば、父である吉本隆明氏を含めた吉本家最後の8年間の記録として、猫を軸に吉本家の激動も綴っている。そして、昨年新しいエッセイが刊行された。それが今回取り上げた本書である。著者を取り巻く猫環境が満載であることをイメージさせられるこのタイトルにわくわく感いっぱいで手にした。
 
が、である。目次の最初が「ステージⅣ」。意味ありげである。もしかして、シロミちゃん以上の難病の猫を引き取ったのかと最初は思ったのであるが、エッセイの冒頭に綴られた文章「今年(2017年)1月正月明けのことだ。『ほらここ、腸壁を突き破って裏側まで出てるから、ステージⅢ……Ⅳかな』。不鮮明なCT画像を指差しながら、都立K病院の消化器内科医はボソッとつぶやいた(p7)」。都立K病院って動物病院じゃないよなとぼんやり思いながら更に文字を追っていく。どうも、様子がおかしい。猫の「ね」の字も出てこない。そう、今回は猫ではなく、著者自身の闘病記だったのである。うっかり、本のタイトルにだまされた……というわけである。しかしである。猫の「ね」の字が出てこなくても、目がページから離せない。医師の告知を聴いて彼女が発したのは「ああ~!またやっちまった~!(p7)」。「やっちまった」って、どんな感覚なのだと思わず文字に向かって突っ込んでしまう自分がいる。このような著者なので、闘病記とは記したものの、全くその節が本書からにじみ出ないのである。もちろん、告知から手術を受け退院に至るまでの過程ではかなり過酷な身体状況になったことが文章から読み取れる。しかし、そこに悲壮感がないだけでなく、笑いがこぼれてくるのである。これはエッセイストの力量というのもあるのであろうが、間違いなく著者の癌に対する感覚が「やっちまった」と語る所以ではないだろうか。そのような著者なので、「イヤ~……“トンデモ本”ですね~絶対に、お医者さんには、見せられませんよね(まずお下劣すぎるし)」とあとがきで自ら宣言している。その一例として私がインパクトを持ったのは退院してからの飲酒量の増やし方。闘病記であれば決して記すこと、いや、そもそも大病を患った人の多くが飲酒量は少なくなるか、飲まなくなるかだと思うのだが、もとの飲酒量に著者は計画的に戻していっている。これだけでも彼女の病気に対する振る舞いが分かるエピソードである。


 ページが半分まできたところで、少し内容の様相が変わってくる。待ちに待っていた「猫」の「ね」の字が出てくる。と同時に「老い」や「介護」そして、生命と医療についてが、「猫」を軸に綴られていく。と言っても、彼女の文章のスタンスは前半とほぼ変わらず「トンデモ」である。それでも目が離せないのは少なからず、彼女の実体験が基になっているからだろう。とりわけ、ただ「猫」を飼ったというだけでなく、猫の「介護」をしたということは、人間のそれとはまた異なる感覚を飼い主にもたらされる(もちろん、彼女は親の介護もしている)。そこから導き出される彼女の思いというのは、少なからず現在息子を介護している私にとってはひしひしと伝わってくるのである。とは言え、動物の「介護」をする人というのはまだまだ少数派だとは思うが、それを差っ引いても彼女の死生観を知るというのは、自分にとっての死生観の幅を広げてくれるものであると感じた。

=====  文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『アフリカ出身 サコ学長、日本を語る』

2021年01月04日 | KIMURAの読書ノート

『アフリカ出身 サコ学長、日本を語る』
ウスビ・サコ 著 朝日新聞出版 2020年7月
 
明けましておめでとうございます。昨年末の報道から本年も新型コロナウイルスの影響を受ける毎日になる予感。心の日常を安定させるために、昨年同様、引き続き乱読した一年を過ごしていきたいと思っております。
 
本年最初に取り上げるのは、2018年4月アフリカ出身者として日本で初めて大学の学長となったウスビ・サコ氏の自叙伝です。前半は彼の生い立ちを、後半は日本で生活を始めて彼が感じた日本社会や日本の教育について語られています。
 
彼はマリの出身ですが、そもそも「マリ」という国について、アフリカの国であるということしか知らなかった私にとっては、マリそのものの文化や生活、教育について彼が綴っている前半を興味深く読み、かなりの衝撃を受けました。何せ、最初の書き出し、「時は1960年代。アフリカはマリの首都バマコにある我が家では、30人ほどの人が同じかまどのごはんを食べていた。 ~略~ 誰がいるのかというと、祖母、父の姉、そしてその姉のところに居候していた人たちが10人前後、母方の親戚が10人前後。その他諸々。つまり、『赤の他人』が半数近くを占めるわけだが、まあ、マリでは珍しくない(p16)」。日本においてこのような家族形態は江戸から明治にかけて、それなりにお金のある家庭が家の家業を住み込みで手伝わせるために…というケースについてはありますが、どうもそれとは全く違う集まり方であることに更に衝撃を受けます。どちらかと言えば、家賃をとらない下宿的な感覚。いつの間にか住み着いている他人。それでも「家族」という形態が成立しているのです。
 
このような日本とは全く違う文化や習慣が異なる国から日本を彼は見ているので、彼の日本に対する感覚は日本のそれらが染みついている私としては異次元の指摘でした。彼は日本に来て一番怖かったこととして、日本社会にはどこに「オン」と「オフ」があるかわからないことと、語っています。彼の目線だと日本はずっと「オン」のままだと言います。私としては、仕事以外で趣味を楽しんでいる時は明らかに「オフ」だと思うのですが、彼は違うと言うのです。日本人の趣味は、深く掘り下げすぎていて専門家のようになり、気楽ではないと。彼の言葉を引用すると「果たして日本人には、本当の意味でだらだらしたり、何もしないでボーッとしたりする時間はあるのだろうか。 ~略~ だらだらできないような国民性。~略~ それらのことと、引きこもりや自殺というのは、全てつながっているのではないか。日本人よ、もっと肩の力を抜こうぜと、私は言いたい(p157、158)」。
 
彼の日本に対する指摘はこれまで私が見聞きした欧米人のそれとも異なるものでとても新鮮です。その指摘が正しいのか否なのかはともかくとして、そのように日本に対する違和感を持ちながらも大学の学長として、今日本の大学生が必要な力を学生や教職員を一緒に考えながら進んでいく姿はこれからの日本に新風をもたらしてくれるのではないかと期待します。
 

このご時世ですから、第8章には新型コロナウイルスに対する提言もしています。日本でも新型コロナウイルスはますます猛威をふるっており、国内の状況に一喜一憂の毎日ですが、ここでは世界の国がどのような対策をして現状どうなっているのかということ、それらを踏まえて、日本政府がどうなのか、日本国民として本来どうするべきなのかということを考えさせてくれる1冊ともなっています。しかし、彼の関西弁を含んだコミカルな語り口調が随所に見られ、ふと肩の力が抜けていく著書です。

文責 木村綾子


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