京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『きょうはおおかみ』

2016年04月21日 | KIMURAの読書ノート
『きょうはおおかみ』
キョウ・マクレア 文 イザベル・アーセノー 絵 小島明子 訳
きじとら出版 2015年

本の読み手というだけでなく、仕事として関わるようになり知ったことの一つとして、日本国内には(もちろん、世界を通してもだが)小さな出版社というのがあちこちにあるということである。今回紹介する作品も広島市にある小さな出版社から刊行されたものであり、この出版社のHPを見る限り、ここから生まれた作品はまだ5作品である。しかし、驚くことなかれ。本作品も含め全ての作品が「いたばし国際絵本翻訳大賞」を受賞している。ちなみにこの作品は出版社を立ち上げたオーナーによる翻訳である。

朝、目を覚ました妹のバージニアは、おおかみみたいにむしゃくしゃしていた。まさにおおかみ気分。姉のバネッサが絵を描いているだけで、「がおーう」、友達が遊びに来ても「うおーん」と吠えるだけ。バネッサはバージニアがどうしたら元気になってくれるのか尋ねたところ、バネッサは「ぜったいにかなしいきもちにならないところ」。バージニアが考えた末出したその場所は。

この作品は妹の気持ちに寄り添おうとする姉の想いと、妹の憂鬱さがユーモラスな語りで展開している。そして何よりも画が妹の心情を的確に表現しているのだが、それがどの心情を表現していても美しい。完璧に自分の殻に引きこもっている時のバージニアの場面にはモノトーンで表され、次のページでバネッサがバージニアの隣にじっと寄り添う場面では黒の中にほんのりと水色が浮かんでいる。更にその先のページにはどんな色が重ね合わせられているのだろうかと鬱積するバージニアに感情を持っていかれることもなく、心はウキウキ・わくわく。ページをめくるごとにだんだん明るくなるわけでもない意外性が更に期待感を高めてくれるのがこの作品の魅力でもある。

邦訳に関しては多くの擬音語が使われている。オオカミの吠え方一つとってもそうであり、原作がどのように記述されていたのか気になるところ。オノマトペは日本語の真骨頂でもあるため、この辺りが翻訳大賞を受賞した理由の一つにもなっているのではないだろうか。外国語にうとい私には「おはな、ふにゃふにゃだね」とか「もこもこしている木」を英語に直せと言われても「flower」と「tree」が唯一分かる単語。もしかすると、擬音語以外にも日本語に適した表現に大きく変わっているのかもしれないが、少なからず一歩間違えれば暗澹とする内容がとにかく愉快に読めてしまう。

この作品、国内だけでなく、海外でも評価が高い。カナダでの「カナダ総督文学賞」において児童書部門で受賞している。また、原題は「Virginia WOLF」。イギリスの作家、ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf) がモデルになっていることもここに加えておく。 (文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『セーラー服と機関銃3 疾走』 赤川次郎 作 

2016年04月06日 | KIMURAの読書ノート
『セーラー服と機関銃3 疾走』
赤川次郎 作 角川書店 2016年1月25日

前回の読書ノートで映画『セーラー服と機関銃 ―卒業―』を紹介した。この時に、その続きとなるシリーズ第3作目が刊行されていることも加えてお伝えした。今回はその3作目を無事読了したので、それを取り上げる。

本作品は、星泉45歳。その娘、叶17歳の物語である。主役は娘である。

叶は高校2年生。演劇部に所属し、その合宿からの帰りに道に迷う。山の中を部員と共にさ迷っていると、一軒の古びた家にたどり着き、そこに泊めてもらうことになる。この家の女主人が深夜、叶に打ち明けたことは、自分が叶の母親泉であること。その後無事に自宅に戻った叶が待ち受けていたことは、友人以上恋人未満の丸山の死。そしてここから叶の身辺が大きく変わってくる。泉の高校卒業以降の動向、叶の出生の秘密、そして父親のことが、明らかになっていく。そして、叶が放つ機関銃の先は……。

シリーズの第1作となる『セーラー服と機関銃』が刊行されたのが1979年。それから35年。泉の年齢もさることながら、彼女たちが対峙する相手が大きく変わっていることに時代の流れを感じさせられる。当時の敵はやくざ同士の抗争であったが、そのような身内同士の争いが子ども同士のケンカのようにさえ思えてくる。作者の赤川次郎さんは近年、自身の仕事としてのコラムだけでなく、プライベートでも新聞などに自分の意見を投稿、話題になっている。その多くが、今の日本社会における政治への不信感や提言である。この作品はそれをまさに凝縮したものとなっている。少しだけ内容に触れることになるが、本作品の舞台は日本にとどまらない。いわゆるグローバル化と言えばいいのだろうか。泉と叶の父親との出会いは、日本ではない。しかし、世界を舞台にして大風呂敷を広げた話なのかと言えば、案外そうではない。今の日本政府のきな臭さを星親子を通して、訴えているのである。しかもそれは、今メディアで報道されていることではない。まさに、作者が「きな臭さ」を嗅ぎ取って作品に著したと言っても過言ではないだろう。そのため、実際にそうであるかは分からない。しかし、作中の日本政府がそうであるように、今の日本政府がそうであっても、決しておかしくないとさえ思えてくる。

かつての『セーラー服と機関銃』は明らかに「青春ミステリー」という言葉がぴったりの作品であった。「セーラー服」を来た女子高生が殺人事件に巻き込まれ、問題を解決しながら義理と人情のために「機関銃」を放つ、爽快感たっぷりの物語であった。しかし、同じシリーズでありながら、この作品は「青春」とはほど遠い、どちらかというと「社会派ミステリー」に変化している。これまで同様、「セーラー服」を来た女子高生が「機関銃」の引き金を引く物語であるのにも関わらず。義理と人情だけでは語れなくなったこの物語。第2作から30年を経てこの作品を書かざるを得なくなった作者の想い。そして、その全てを背負った星親子。明るいエンディングでありながら、切なさが残る読後であった。  (文責 木村綾子)

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