京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

『名物「本屋さん」をゆく』

2013年11月19日 | KIMURAの読書ノート
2013年11月その2
『名物「本屋さん」をゆく』(一般書)宝島社 井上律子
2013年2月20日

本好きの人がそうかは分からないが、私はやたらに「本屋さん」や「図書館」に焦点をあてた本が好きである。
そして、すでに足を運んだことのある本屋さんが掲載されているとほくそ笑み、未踏本屋があると悔しがり、
必ず行ってやると心に誓いつつ、その本屋さんに思いを馳せるのである。

本書はその妄想を描きたてくれる1冊である。まず、表紙に魅了される。
どこの本屋さんなのだろうか。奥にそびえたっているであろう書架、左端には腰高までの書架。
右からは通路の一部と化している本棚。そしてそこに縦横無尽に自己主張している本たち。
そして、真ん中には白い布をかけられたソファーが横たわり、羊皮紙を想像させる本がめくられて置かれている。
これだけで、胸がときめいてくる。そして、はっきりとしないのに、そこにある本たちのタイトルを探しあてようとうっかりしてしまう。
表紙をめくるまでにどれだけ時間を要することか。

目次を見て、また驚愕する。たった全190ページの中に紹介されている本屋さんが60店舗。正味1店舗あたり3ページである。
これで、それぞれの本屋さんの魅力が語れるのか心配するのであるが、ところがどっこいである。
最初に紹介されている本屋さんは(もったいないので、書店名はここでは伏せておく)「街道」が専門という。
「街道」と言えば、道の出発点。本屋さん紹介本のスタートにふさわしい本屋さんから始まっている。
著者の計算に基づくものであることは頭では分かっているが、すでに理性が揺さぶられる。そして、3行目にはこのようなフレーズ。
「『ようこそ』と染められた暖簾がかかっていた」(p10)
もう、「ようこそ」と言われたら、頭をさげて、ははぁとその世界に踏み込むしかないではないか。上手すぎる。
もう一気に本屋街道一直線である。


70カ国を廻っている「旅」がテーマの24歳の店主に、「いい本は年齢に関係なしにいい(p162)」と語るブックバーの店主。
フリーペーパーしか置いていない本屋さん。新刊書も古書も混在する本屋さん。
どれも「セレクトショップ」と言ってしまえば簡単なのだが、
その「セレクト」には店主の哲学が詰まっていることを十分に知ることができる3ページなのだからあなどれない。

60店舗一気に駆け巡った後、振り返ると以外なことに気づかされる。いちばん目に付いた言葉は「エロ」。
普段はどうも私の肌にはなじまない言葉なのであるが、この本が語ると奥行きの深い言葉に代わっているので不思議である。
そして、この「エロ」が本の世界では奥深いところでどっしりと根を下ろしていることに気づかされるのである。
著者の取材によるとお客さんは、「静かに品定めしておられる(p68)」。なんと奥ゆかしいことであろう。
決してこそこそと「隠れて」というわけではない。
おごそかに粛々と和の雰囲気を醸し出す要素が「エロ」にはあることを知るのである。

改めて目次を開いてみる。一軒ずつの本屋さんがきれいに書架に並んでいる姿が見えてくる。
この1冊の中に、「本屋さん」という本が並んでいるというわけである。

残念なのはこの本屋さんが東京都内のものばかりというもの。関西版も出版してもらいたいものである。

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「見てみて、虹よ、虹よ!」

2013年11月11日 | KIKUの庭

先日,わたしも大きな弧を描く虹を観ました。



以前に、KIKUの庭にも「虹」を書いたいい文章があったことを思い出して、ここに再掲しました。

「見てみて、虹よ、虹よ!」

                 きく子

今日の午後4時ごろ、京都でどなたか虹を見ましたか? 私は見たのです! 
ずいぶん久しぶりで見たような気がします。

夫と買い物に出かけ、帰途タクシーの窓からふと見上げた空に、大きな大きな虹がかかっていました。
思わず大声で「 虹! 虹! 大きい! すごい!」と子供のように叫び、夫と運転手さんを驚かせました。
それは東の空に、のびやかに鮮やかに、美しい大きな弧を描いていました。
家々の屋根が無かったら、地平線から地平線まで完璧な半円を描いていたはずです。

タクシーの中で「きれい、きれい」と叫び続け、私は家に着いた途端、転がり落ちるようにタクシーを降り、留守番をしていた娘に知らせなくてはと、もどかしい思いで鍵を開け玄関に飛び込んで、娘の名を呼び「早く、早く! 虹よ、虹よ、外へ出て、外へ」と叫びました。
娘も飛んで出てきて、「わあ、本当! きれい!」と見とれました。
3人の目の前で、虹はしばし優雅な姿を空の高みに横たえ、数分後にあわあわと消えていきました。
あまりに久しぶりに見た大きな虹だったので、思いがけずとても貴重なものを見たような、幸せな気分になりました。
そして昔大学で習った次のような詩を思い出しました。

それは英国の詩人ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)が書いた「虹」です。

「大空に虹みれば、わが心跳り立つ。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
生まれながらの敬いに
わが日々の結ばれいくぞ願わしき。」(斎藤 勇訳)

「生まれながらの敬い」は原文では natural piety となっており、ワーズワースは“生まれながらに有する自然に対する敬愛の情”とでもいう意味で使ったのではないかと思われます。
自然のうちに神を認め、天地の恵みを歌い続けた彼は、生涯の日々を自然に対する敬愛の念を忘れずに生きていきたいと思っていたのでしょう。

虹が消えてから30分後の今、私の右手の甲はどんどん腫れ始めています。
色も赤紫色になってきました。大慌てで家に飛び込んだとき、玄関のどこかに思いっきりぶつけたことを思い出しました。
でもいい。数日腫れるかもしれないけれど、私は満足です! あんなに見事な虹を見られたのだから。

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『統計学が最強の学問である』

2013年11月08日 | KIMURAの読書ノート
2013年11月 その1
『統計学が最強の学問である』(一般書)ダイヤモンド社 西内啓
2013年1月

「統計学」については、忘れられない記憶が私の中にはある。高校生の数学の授業で学んだ「統計学」。
その時はただただ「授業」としての「統計学」であり、他の単元と同じようにテストや入試で点を取るだけのものであった。
高校を卒業してこの時に学んだ数学は、その後日常生活において使用することなどほぼなかったのだが「統計学」だけは、意外なところで使用することとなり、当時の教科書を探してそれを片手に数値をたたき出したことを昨日のことのようにおぼえている。
「意外なこと」というのは、「卒論」である。
後輩の学生にあるテストを行いそれをデータ化したのであるが、その時の指導教官にまず言われたのが「そのテストは信頼性があるのか証明せよ」というものであった。
つまり「標準誤差を計算せよ」ということなのであるが、高校の授業でもこの「標準誤差」は学び、公式にその数値を入れればよいだけのことだった。
しかし、実際の場での「標準誤差」を求めるのは容易でないことをこの時知るのである。
求め方は簡単である。
サンプル数と真の割合を公式に入れ込めばいいのであるが、何百というサンプル数(人数)から数値を一つずつ足していって、真の割合を出すまでが大変で、「標準誤差」というたった一つの数字をはじき出すまでに丸1日かかったのである。
この時はじめて「統計学」の深さと重みを実感し、それ以来「統計学」という言葉が脳裏から離れなくなった。
 
しかし、本書によると今ではITの発達によりこのデータ処理はパソコン一発ではじき出されるため、私のような苦労は皆無のようである。
そのため、逆に現在ではこの「統計学」がより一層重みがあり、多くの事象のエビデンス(根拠)となっているようである。
本書では最初に統計学の歴史から話は始まり、現在の経済における統計学の扱い方、統計学の様々な種類、そして実践における最善の方法の探し方となっている。
もちろん、「統計学」そのものがよく分からない人にも、事例を出してきちんと応えており、「統計学」を実践の場に活かしたい人でなくとも十分に興味深く読めるものとなっている。
いや、かえって現在「統計学」に関係のないと思っている人が読むと案外日常生活にそれが転がっていることを知ることになるのではないだろうか。
それどころか、新聞記事や報道されている様々なデータについて真に受けるのではなく、心の中でストップをかける場面が出てくるかも知れない。
 
本書では「統計学」というのは、ただ「データ」を集めることではないと釘を刺している。
また、データのそれぞれの値からサンプル数で割るという単純な平均を求めるものでもないとも記している。
身近なところでは、日夜報道されている学力に関するデータ。
同じテストをそれぞれの学校で平均値を出したとして、それだけでAという学校とBという学校を比較してよいかと本書では問いかけている。
このような比較の場合、テストを受ける生徒の条件も全て同じようにしなければならないというのである。
それは男女比だけにとどまらず、部活動の加入率、入塾率、果ては親の収入にいたるまでこれを均等にしてからでないと、本当の学力差というのは統計上からは見えてこないと指摘している。
となると、あの全国学力テストのデータは「統計学」的にはフェアな結果ではないかも知れない。
もちろん、このような条件下でもなるべく影響差が出ないような方法があることも説明されている。
報道されているあのテストデータがどのような分析方法を用いているか是非知りたいものである。
 
タイトルが示している『統計学が最強の学問』かは正直、読了後もよく分からない。
しかし、ここにもメディアリテラシーとなるヒントがたくさんあり、サブタイトルになっている「データ社会を生きぬくための武器と教養」となるのは間違いないようである。

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