京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート『地図バカ』

2023年11月15日 | 大原の里だより

『地図バカ』
今尾恵介 著 中央公論新社 2023年9月

恐らく我が家は一般家庭より「地図」を多く持っていると勝手に思っている。そもそも私も夫もバイクや車で遠出することを苦としないため、目的地が決まったらそこに至るまでの道路地図を購入する。今ではカーナビで道案内をしてもらうが、行き先によっては電波が届かないところもしばしあるため「地図帳」は必ず持参である。そうこうしているうちにいわゆる「道路地図」というのが本棚にてんこ盛りになったわけだが、学校の副教材として用いられていたような「地図帳」も手放せない。基本、地図を眺めるのが好きなのである。無人島に1冊のみ何か持参してもいいと言われたら本好き・活字好きの私であるが、迷いなく「地図帳」か「道路地図」を持っていく自信がある。それ位地図は眺めていて飽きない「本」なのである。

世の中に読書とは別に「地図」が好きという人がどのくらいいるのか分からないが本書のサブタイトルになっている「地図好きの地図好きによる地図好きのための本」が刊行され、現在重版が繰り返されているということを知ると、かなりの人数似た者がいるのだろうと想像する。そしてそのサブタイトルにまんまと引っ掛かって私も手にした。本書の著者はもちろん地図好きであるが、好きが高じて、誰にも頼まれていないのに軽井沢のイラストマップを作成し、それを自ら売り込みに行ったことが転機となり地図研究家としての第1歩を踏み出した経緯がある。

第1章では幼い頃からどのくらい地図が好きであったかということが延々と書き連られ、第2章では地図好きの先人の紹介。第3章ではお宝的地図を取り上げ、第4章では机上旅行へ誘ってくれる。第5章では地図上に記載された地名や駅名を掘り下げ、第6章では地図から歴史を紐解く。そして、最後第7章は地図から災害をどう捉えていくかという論考で構成されている。

この中で興味惹かれたのは明治30年に北海道庁地理課が発行した北海道地図。この地図は地名がアイヌ語の発音表記で記している。もともと北海道はアイヌ民族の拠点だった地。地名はもちろんアイヌ語由来がほとんどである。例えば、現在の「札幌」。これをローマ字表記すると「SAPPORO」となるが、この地図では「SATPORO」と記されている。これは「サッ【乾いた】」と「ポロ(ペッ)【大きな(川)】」を意味する。この地図を眺めているだけで、もともとの地名がどのように発音されていたのかということが分かるだけでなく、日本語からアイヌ語に取り入れられた単語、またその逆でアイヌ語から日本語に取り入れれたものが分かり、地図で有りながら言語学が学べてしまうのである。そして、何よりも北海道がアイヌ民族の土地であったという史実がはっきりとここからも浮き彫りになるのである。

日本大百科全書によると「地図」は「地球表面の全部または一部の状態を、記号や文字を用い、縮小して、一般には平面上に描き表したもの。地図は、複雑に分布する土地の情報を伝える優れた手段であり、各種の調査、計画、行政、教育、レクリエーションなど、われわれの活動や日常生活に不可欠のものとなっている」と記されているが、土地情報だけでない多くの情報を間違いなく私たちに与えてくれるものである。是非この1冊を手にして地図の世界を堪能して欲しい。  

   文責 木村綾子


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KIMURA の読書ノート『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』

2020年08月02日 | 大原の里だより

『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』
ピエロの母 著 KKベストセラーズ 2019年11月
 
「道化師様魚鱗癬 はい? 道化師…、ピエロ? 魚鱗…魚のウロコ? ピエロのような魚のウロコ ……。 偏差値の低い頭をフル回転させて考えた。 …うん。 いくら考えても訳がわからない。(p24、25)」
 

 上記は著者が我が息子、陽くんを産んですぐ、陽くんの病気について説明を受けた時の感想である。もう少し、この病気について本書からそのまま引用する。
 
「『魚鱗』とは皮膚が魚のウロコやサメ肌状になって生まれてくる病気です。 ~略~ そのため肌は保湿機能がほとんど失われており、四肢や体幹の広い部分、あるいは全身がゴワゴワして厚い皮膚で覆われています。なかでももっとも重い症状を持つのが、この本の主人公である陽くんが罹患した『道化師様魚鱗癬』です。重症者では硬く厚い鎧状の皮膚に覆われています。マブタや唇は真っ赤にめくれ、耳たぶは変形し、まるでピエロが着る道化衣装のような『膜』をまとまって生まれてくることが多いことから、この病名がついています」(p54)
 

 1か月前くらいのことだろうか。ネットニュースを何気なくスクロールしていたら、著者と著者の夫のインタビュー記事を目にした。この病気を持って生まれてきた息子に対する様々な感情を吐露していた。そして筆者は息子に関するブログを開設しており、このブログがかなり反響を呼んでいること、そしてこのブログを元に構成された本(つまり本書)が刊行されていることを知り、手にしたのである。そもそも陽くんが抱えている病気に関しては、今回初めて知ったわけだが、本書の中で医師が解説しているところによると、魚鱗癬の中でも陽くんが抱えた道化師様魚鱗癬は50~100万人にひとりと言われているが、昔からあった病気であることは医師の中では知られている。しかし、調査や研究が始まったのは最近だそうで、専門家の数は少ないという。このような中で、著者の言葉を借りれば陽くんは「奇跡の子」である。陽くんが生まれる前、様々な出来事が重なり、偶然この病気を知っている医師が勤務する病院で産まれたため、出産後の対応が早く、陽くんは命をつなぎとめたのである。
 
 本書は筆者のブログの内容だけでなく、筆者の夫のコラム、医師の解説、そして陽くんとはタイプが異なるが同じ疾患を持ち現在社会人となっている患者のこれまでの状況も掲載されており、この病気を多角的な視線で捉えられるように構成されている。
 
 あとがきに著者は「少しでも多くの方に、この難病を知っていただきたい」と綴っている。著者だけでなく、これまでも我が子が難病にかかった親の手記は数多く出版されており、それを手にするたびに、自分が今持っている苦悩と葛藤とは全く異なるそれらに多くの気づきを与えてもらう。そして何よりも人の体について解明されていることは、ほんのわずかしかないことを毎度のことながら教えられる。自分の体で起こっていることが分からない以上、このような手記を手にして、1つずつ「知識」を得ていくことしか、人は出来ないのかもしれない。


  本書だけでなく、著者のブログを拝読すると、現在陽くんは幼稚園生になったようである。これからも私たちが想像できない様々な困難が待ち受けているだろうが、健やかに成長して欲しいと願う。


====  文責  木村綾子


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KIMURAの読書ノート『僕には世界がふたつある』

2018年02月02日 | 大原の里だより

『僕には世界がふたつある』
ニール・シャスタマン 作 金原瑞人 西田佳子 訳 集英社 2017年
 
この物語は二つ舞台から始まる。主人公は15歳のケイダン。誰かがケイダンを殺そうとする家や学校と、ケイダン自身が乗って深海に向かう海賊船の中。これら舞台が半ページ、長くても3、4ページで入れ代わり、読者は何が物語の中で起こっているのか混乱してくる。舞台はそれぞれ独立して読んでいてもそれだけで十分の物語として成立している。それなのに、更に中盤に進むと、1つ目の舞台「家」が「病院」に移ってくる。ここまで踏ん張って読み進めるとケイダンの中で何が起こっているのか理解できるようになるが、それに至るまでに読み手がお手上げになるかもしれない。それを阻止するためにも、あえて予備知識をここに記しておく。本書の袖にもそれが書かれているので、隠す必要もないと勝手に
私が解釈することを許して欲しい。ケイダンは精神疾患を持った少年である。「家」は現実であり、「海賊船」は彼の脳の中の世界である。しかし、ケイダンにとっては共に現実の世界である。
 
この作品はフィクションであるが、作者の息子の実体験がもとになっている。彼に協力を得て、彼の持った病院の印象、恐怖、被害妄想、強迫観念、抑鬱の感覚、更には治療過程を丁寧に描写している。
 
例えば、ケイダンが家のベッドで横になっている場面、「『ふたりは、本当におまえの親なのか?』『やつらは偽物だ。本当の良心はサイに食われちまった』そんな声がきこえる。けどそれは、『おばけ桃が行く』(ロアルド・ダール作の童話)の科白だ。小さいころ、あの本がすごく好きだった。けど、もう頭のなかがぐちゃぐちゃだし、きこえる声にはすごく説得力があるから、なにが現実でなにが妄想なのか、わからなくなってしまう。その声をきいているのは耳じゃないし、頭でもない。その声は、たまたまのぞいてしまった別世界からの呼びかけなのだ。携帯電話が混線して、知らない外国語がきこえてくるみたいなもの。なのに、なぜかその意味が理解できてしまう」(p147)。病院でのケイダンはこのよ
うなことをつぶやいている。「部屋の奥に電気のスイッチがある。電気を消そう。それならできる。だけどできない。なぜなら、フルーツゼリーのなかのパイナップルのかけらになってしまったから。ゼリーから出ていこうという気にもなれない」(p187)。海賊船でのとある場面では、「僕の脳みそが左の鼻の穴から抜け出して、野生化した」(p225)
 
これらのケイダンの言葉を読者は彼が精神疾患を持っているからの言葉であることを知っているからこそ受け入れて読むことができるが、当事者はただただそれが現実であると思っているため、その恐怖というのは、想像を絶するものであろう。それと同時に彼の脳の中の世界、すなわち「海賊船」での世界、決してこれも彼にとっては愉快な世界ではない。常に追い詰められ、逃げまどい、混乱していく。それでも、その世界だけを抜き取ると一人の人間の別世界が豊かに展開されているということに気が付く。人はここまで世界を広げていくことができるかということに圧倒される。だからこそ、現実と脳の中の世界が交錯して精神疾患を持つ人は行き場を失うのであろうということが少しだけ想像できる。そし
て、逆に何を手掛かりに彼らはその世界から一筋の光を見つけるのか。作者はあとがきにこのように言葉を添えている。「精神疾患の暗くて予測不能な海を航海する人の気持ちがどういうものなのか、この本を読んで理解してほしいのです」(p353)
 
2015年度全米図書賞児童文学部門受賞作品。また現在、映画化も作者の脚本で進行中である。

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文責. 木村綾子






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KIMURAの読書ノート 映画『美女と野獣』

2017年05月03日 | 大原の里だより
『美女と野獣』
ビル・コンドン 監督 エマ・ワトソン 出演  2017年4月21日日本公開

ディズニーランドは好きだが、正直ディズニーのアニメや映画はあまり好きではない。とりわけプリンセスシリーズは、本来の昔話としての伝承文芸を湾曲解釈していると私は思っているからである。しかし、今回わざわざ劇場に足を向けてしまったのは、他でもない。主人公があのエマ・ワトソンだったからである。

エマ・ワトソンと言えば、私の中では、いや、まだ多くの人が、「ハリー・ポッター」シリーズのハーマイオニーとして思いだすであろう。実際私もそのイメージが強くというよりは、むしろエマとハーマイオニーはすでに一体化したもので、それ以上でもそれ以下でもなくなってきている。しかし、前評判の高かったこの作品に対してエマはどのように演じているのか、そして大人となった彼女の姿をスクリーンで見るのはやはり楽しみでもあった。

結論を先に書いてしまうと、主役ベルはエマ・ワトソンしかないだろうというほどしっくりときていた。この作品でのベルは、美しいというだけでなく、聡明で、行動力があり、自立心が旺盛である。それにぴったりとあったエマの演技には一つもぶれがなかった。父親を助けるために馬にまたがり、村一番の腕っぷしのいい男性からストーカーまがいに求婚されても、ことある事に「NO」と突き放す。村では、本を常に読んでいることで、周囲の人から「変わり者」と言われても、自分の信念を通して本を読み続け、野獣から古城の書斎にある本を手渡された時は少女のように目をキラキラさせる。それは、幼かったハーマイオニーとなんら変わらない姿で、かつ、より地に足のついた形でファンの前に現れていた。それは、同じようなキャラクターだからと言ってしまえば、そうなのは確かである。聡明で、行動力があり、自立心のある女性しか演じられないという否定的な見方もできる。しかし、ファンのひいき目かもしれないが、エマ・ワトソンの目の奥にある毅然とした力にそれ以上のものを感じたのである。今後全く違うキャラクターを演じることになっても、彼女はそのキャラクターを正面から向き合い、自分のものとして演じてしまうだろうと確信をした。

作品全体は、ミュージカル形式になっており、ダンス、歌声、そしてその舞台装置、何から何まで圧倒されるものであった。それはまるで、スクリーン上で繰り広げられるディズニーランドのショーであり、パレードのようであった。気が付くとそのパフォーマンスの中に自分も組み込まれているそんな感覚さえ覚えてしまう。ディズニーが手掛けただけあると、ただただ感心するばかりであった。どこ一つとってもエンターテイメントとしての抜かりのない仕上がりになっている。その分かりやすい一例が、野獣とベルの身長差。誰もが持っているイメージを壊さないように、野獣役のダン・スゲィーヴンスは20cmの竹馬をはいて演じたそうである。ただ演じるだけでなく、ダンスも同様である。ベルを抱えてしなやかにダンスを踊るシーンは、プロ根性を超えた奇跡のようでもある。

私自身は吹き替え版でこの作品を鑑賞したが、日本語の吹き替え版のキャストのほとんどが、ミュージカル俳優であることがこれで納得した。彼らでなければ、あの声量、表現力はなかなか難しいであろう。出来れば、吹き替え版と字幕版の両方を鑑賞するとよりこの作品は楽しめるのではないだろうか。
      (文責 木村綾子)

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