『西行』
白洲正子 新潮社 1996年6月1日
推し活をするまで「西行」という人物に全く関心がなかった。それまでは教科書に出てくる歴史上の人物という認識だった。しかし、推し活で役行者開山のお寺をお参りするようになり、やたらと「西行」という名に出くわすようになった。なぜ、西行は役行者開山のお寺やその周辺に出没したのだろうか。もしかしたら、西行の生涯を知ることでその触りだけでもおぼろげながら分かるかもしれないと考えていたところ、白洲正子が西行に関する著書を刊行していることを知り、手にした。
本書は時系列的に西行の生涯を綴ったものではなく、西行が巡った各場所で詠んだ歌を基に、西行はどのような人物だったのかということを論じているものであった。しかし、そのお陰で、私が気になっている場所、「勝持寺」「吉野山「大峰山」「弘川寺」で西行は何を感じ、そこにどのような背景があったのかということを知ることが出来た。
「勝持寺」は京都市西京区にある役行者開山のお寺で、西行はここで出家したと伝えられている。境内には「西行桜」という桜が咲くことで知られている。著者によると、西行は殊の外、桜と言う樹木を好んでおり、全国行脚したのもこの桜を追いかけていたためという節があると記述している。先の「西行桜」は西行が有名になってからの後付けであろうが、この周辺は桜の名所であることから、西行は杖をとめて隠棲したと著者は断言している。また、吉野山も同様で桜を愛でるために吉野山に行ったものではないかと記している。但し、西行が吉野山にこもる以前は、彼のように吉野山の桜を読んだ歌が少なく、当時は山岳信仰の霊地として人を近づけない雰囲気であったと、著者は述べている。しかし、桜好きの西行はそれをやすやすと乗り越え吉野山の、しかも今で言うところの奥千本まで踏み入ってしまった訳である。そこで、修験者と出会い、著者によると大峯山の修行をしてしまうのであるが、かなり当人は粗暴な行者に困り、修行も好ましい思いではなかったようである。しかし、本来の負けず嫌いが現れ、修行を二度も行ったようである。そして、著者は西行が経文を唱える代わりに、歌を詠んで神仏に捧げ、自らの信仰の証としたのではないかと考察している。そして、弘川寺。こちらは葛城山の大阪側山腹に建っており、ここもまた役行者開山のお寺である。そして、西行終焉の地であり、境内に西行のお墓(円墳)がある。ここに関して、著者がなぜこの地を終焉の地に西行が選んだのかということは、論じていない。そもそもこの墓は、西行を心酔していた江戸時代中期の歌僧・似雲(じうん)によって発見されており、何をもって西行の墓所と定めたのか不明であると記し、「後記」では彼の墓所の所在を知らない方が、彼にふさわしいのではないかと締めくくっている。
本書を読んだだけでは、正直なぜ彼が巡った地に役行者開山の場所が多く含まれているのか、はっきりしなかった。確かに役行者は蔵王権現を感得した時、その姿を桜の木に彫ったことにより、役行者と桜は縁が切れないものとなっている。それでは、なぜ西行は桜を好んだのだろうかということになる。当然人の好みに論理的な理由はない。しかし、本書の序盤で彼の家系について触れているところがあった。彼の家系は佐藤家であり、ここの領地がなんと葛城修験のお膝元、葛城山系に創建され、修験の寺としても名高い粉河寺と根来寺の中間にあったという。つまり、少なからず西行は役行者の存在を確かに知っていたはずであると、私は感じた。そして、私が弘川寺を参拝した際、住職が話してくれたのは、西行は間違いなく役行者の追っかけであったはずであるということ。それは「そうであって欲しい」という願望もお互いに持っての会話ではあったが、どこかにその根拠があるのではないかと思っている。その根拠探しのスタートとなった本書である
文責 木村綾子