京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート 『童話作家のおかしな毎日』

2021年02月15日 | KIMURAの読書ノート

『童話作家のおかしな毎日』
富安陽子 著 偕成社 2018年
 
著者は、現在関西在住で日本の風土の根底にある神話や伝承を今の世界に違和感なく融合させながら作品を紡ぐ私の好きな児童文学作家の一人である。本書は彼女自身だけでなく、家族を含めた親戚のことも綴りながら、富安家のルーツまで掘り下げたエッセイである。
 
彼女のルーツの起点は九州にあり、その後対馬に移動。そして著者の曽祖父母を対馬に残したまま祖父母は東京に移っている。そこには少し闇の部分があるようであるが、著者は分かる範囲で本書に記している。それでも著者自身が自分のルーツが、謎が謎のままで自分の中でくすぶりつづけているとし、わずか100年前の身内の出来事を知るというのは案外難しいことなのだと、漠然とだが感じた。と同時にかなり暗部な出来事が身内の中であったとしても、100年も経てば、どこか他人事のような、ドラマの中の一コマという感覚になってしまっているというのも読者としては面白く感じた。もしかして、自分のルーツにもこのような部分というのはあるのではないかと空想を掻き立ててくれる。自身のルーツ探しに謎が残ったままの著者であったが、それでも、結果として自分が今ここにいるという確かなつながりがあるということには変わりないと結論づけている。そして、そのつながりとは地方の妖怪話を含めた伝承であり、著者は幼い頃、親戚からそれらを聴くことより、それが作品の母体となっている。何が功を奏するのか分からないものである。
 
それでも、彼女のルーツの軸となるのは「やはり」というのは少し違うのかもしれないが、「戦争」であった。このエッセイのいちばん最初に書かれたものは、著者の両親の出会いについてであり、彼女はこのように記している。「戦争が母の未来を大きく変えてしまった(p9)」。しかし、最後にはこのように締められてもいる。「思えば母の人生はずいぶんとドラマチックだ(p11)」。そう、もし「戦争」がなければ、現在児童文学作家としてほぼ頂点を極めている(と私が勝手に思っている)「富安陽子」はここに存在しなかったのである。
100年前のルーツの「つながり」どころではない。と、「戦争」を肯定してしまうような書き方になってしまったが、現実はそう甘くはない。これ以降の「戦争」について綴られている項目は、やはり心を締め付けられるものである。著者の父はこの戦争で2人の兄を亡くしているし、父自身も海軍兵学校に入学している。そこで終戦を迎えることができたが、兄が戦争で失ったことにより、父の姉は弟(著者の父)も失うのではないかという危機感を抱き、当時住まいのあった東京から海軍兵学校(広島)まで、弟に会いに行っている。今の時代のように新幹線や飛行機があるわけではなく、更に戦争ですでに焼け野原になっている地域も多い場所をかいくぐりながらの若い女性一人の移動はかなり危険なものであったと想像する。そこまで追い立ててしまう「戦争」というものを著者の伯母の行動だけからも改めて考えさせられる。そして、その部分はぜひ本書を手にして彼女の記す文章で読んでほしい。より「戦争」を身近に感じることができると思う。
 
彼女のルーツの一つのピースが欠けても今の「富安陽子」は存在しなかったことがとても分かりやすく示されたエッセイであった。しかし、彼女は本書の中でこのように語気を強めて綴っている部分がある。
 
「あと一日、あと一週間早く戦争が終わっていたら……、原爆が落ちていなければ、いまこの世界に存在しているはずの人たちの数はどれほどだろうか。これから生まれるはずだった人の数は?とりかえすことのできない無限大の不在(p130」
  

このエッセイの裏にはこの無限大の不在の人たちがいること。本書を読みながらしみじみと感じてほしい。
  ======文責  木村綾子


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KIMURA の読書ノート『ツベルクリンムーチョ』

2021年02月03日 | KIMURAの読書ノート


『ツベルクリンムーチョ』
森博嗣 著 講談社 2020年12月
 
1996年のデビュー以来数々の作品をこの世に生み出し、その作品は「理系ミステリー」と評される著者のエッセイ。彼のエッセイは無秩序に、かつ抽象的なことを思いついたまま書き連ねるというのが基本姿勢であったのだが、今回初の「時事ネタ」について言及しており、これが話題を呼んでいる。それがまさに世界中を現在震撼させている「新型コロナウイルス」のことである。しかしながら、彼の言葉を借りると、「森博嗣は何年も以前から人に会わない生活をしているので、影響はまったくといって良いほどない。だから、完全に『他人事』である。不謹慎だが、そのとおりなのだからしかたがない。ご容赦いただきたい(p2)」。それでも、彼が時事ネタを扱うこと、人と距離を置いた生活をしていることで見えてくる「コロナ騒動」は興味深い。ちなみに、このエッセイは2020年6月に書かれたもので、その時点での彼から見たコロナに関する考察である。
 
最初の緊急事態宣言では学校は休校になり、社会人も在宅ワークをすることを推奨され、一般的にはこれらのことに関して抵抗感があったように思える。が、著者はなぜ学校や会社に行く必要があるのかと語る。人が集う土地や建物にかかる費用よりも通信環境を整えるほうが費用も抑えられるのではないかと述べる。そして「『つながろう!』をスローガンにした社会モデルが、もう古い、と僕は思う。今回の騒動は、そのことに気づく良い機会となったのでは?(p23)」と締めている。また、役所の仕事の本質は「前例重視」で、本格的な「改革」が行われておらず、とりわけITに弱く、ここ30年程のツケが回ってきたと指摘し、「それでも、未だ『技術の日本』を信じる人がいたりする、実に老いた国なのだ(p25)」と、バッサリ切り捨てる。そして、「最近の日本の体たらくにも、気づかない振りをしつつ、自分たちを変えようとはしなかった。こうして、日本はジリ貧になっていく。今がその途上である(p29)」と追い打ちをたてる。また、日本の医療については、今回のコロナ感染拡大以前から医療崩壊していたのではないかと語っている。そもそも救急車のたらい回しは日常茶飯事であり、診察の予約をしても1~2時間待たされていたのが常、これは変ではないかと問いかける。もちろん、日本の体制だけでなく、国民の行動についても意見している。例えば、中止となった春の高校野球。これに対して「開催してほしい」という1万人の署名が高野連に届いたことを取り上げ、そもそも中止になった理由は感染の拡大の危険性や予防を行う対策にお金や人員を投入できないというものなのに、感情的な「好きだ」とか「したい」で署名を集めるのはおかしいと叱責する。

 彼が指摘する内容を読んでいて分かるのは、今回コロナ感染拡大という特殊なことで起こったことではなく、もともと日本が持っていた問題点や課題がただ明確に露呈しただけというものである。著者は各種メディアに出演して声高に意見を述べるタイプでないだけでなく、そもそも人里離れたところでひっそりと生活している人間である。そのため、彼の意見が国民全体の目に触れることはない。だからこそ、今回彼のエッセイが「時事ネタ」を扱ったという以上に日本の根幹的な問題を指摘したという点においてちょっとした話題になったのであろう。このエッセイを読んで、もう一度メディアで報道される内容を耳にすると違った角度からそれを読み取れるようになるかもしれない。
          文責 木村綾子


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