京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『うちの子が結婚しないので』

2020年04月16日 | KIMURAの読書ノート
『うちの子が結婚しないので』
垣谷美雨 作 新潮社 2019年
 
28歳の娘を持つ福田千賀子は友人モリコから娘が結婚することになったという年賀状を受け取り、胃が重くなる。モリコの娘は33歳とは言え、自分の娘もまもなく30歳になると考えると不安しかない。そんな時に知ったのは親同士が子どもの代わりに見合いをする「親婚活」。千賀子は娘を説き伏せ、「親婚活」に参加する。初めての「親婚活」では自分たちの生活環境とは程遠い親たちの集まりとなり、屈辱的な思いをする。それどころか、このような親たちが我が娘の舅や姑になるのかと思うと、より不安が襲ってくる。自宅に戻り、娘や夫にその様子を話し、今後も「親婚活」を続けるべきか相談する。千賀子も娘も今後も続けることに後ろ向きであったが、夫の後押しにより、その後も「親婚活」を続けることになる。
 
この物語は千賀子を中心に展開されていく。しかし、何と言っても注目点は千賀子の夫フクちゃんである。実はいちばんこの「親婚活」に乗り気なのがフクちゃんであり、「親婚活」に参加することが決まると、自分自身は関連本を買い込み、「婚活の傾向と対策」というタイトルをつけたファイルまで作成し、千賀子や娘にどのようにこの「親婚活」を乗り切っていくのか、的確にアドバイスしていく。この「親婚活」1回の参加料もそれなりであるが、参加するにあたり、着ていく服を新調し、身だしなみを整えるための費用。そして身上書に添付する写真に至るまで、とにかくお金がかかる。それに躊躇する千賀子と娘であるが、フクちゃんはその度ごとに「いま金を使わないで、いったいいつ使うんだ」とばっさり言い切ってしまう。その爽快さはとても清々しい程である。実際の「親婚活」の世界を知らないが、両親がというよりは、母親が我が子の心配をしてというイメージを持っていたのをあっさりひっくり返してくれる。それだけに、余計にこの物語がコミカルに展開していく。
 
フクちゃんの後押しやアドバイスもあり、その後も様々な主催団体の「親婚活」に参加していく千賀子。「親婚活」の世界も一つではないことをこの物語から知ることになり、なかなかにディープな世界を覗き見させてくれる。例えばセレブばかりが集まった団体では、親の年齢層が高く、明らかに自分達の老後をみてもらおうという下心満載の親が多いとか、「親婚活」前に送られてくる資料に掲載される好条件の人は「釣り」であるとか、「親婚活」3~5年越しというのはザラであるとか。思わず読みながら、へぇーと声を出してしまう。
 
私自身、娘を持つ身であるが、これまで「親婚活」など考えたこともなかったし、これを読んでもやはりその気になることは今のところない。しかし、このような世界があり、ここに参加する親御さんは理由はともあれ(場合によってはかなり滑稽な理由であっても)いたってまじめに我が子のことを考え、心配していることが分かる。親とは子どもが幾つになっても心配する動物なのだと、しみじみと感じてしまった。また、これをきっかけに「良縁」に恵まれるという選択肢があるということ。そして、結婚を含めたそれぞれの人生プランというのがより幅広くなっていることも楽しく教えてくれる物語である。
 現在新型コロナウイルスが蔓延して自宅待機を余儀なくされている。こんなご時世だからこそ、この作品を是非お勧めする。なぜなら、この物語を他人事と思って読んでも全く構わない位、軽快でコミカルであり、ただただ笑い転げることのできる作品でもあるからである。

=====文責  木村綾子

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Kimura の読書ノート デフ ヴォイス

2020年04月02日 | KIMURAの読書ノート

『デフ・ヴォイス』

丸山正樹 作 文藝春秋 2015年

警察署の事務官を退職して手話通訳士となった荒井。手話通訳士として最初の仕事をこなした後、かつての職場近くで殺人事件があった新聞記事を目にする。自分とはすでに関係ないと思いながらもなぜかその事件が心にひっかかる。その後法廷での手話通訳を引き受けたことでこの事件と自分がかつて関係していた事件が繋がっていくことに気が付いていく。

ろう者の世界をミステリーとして丁寧に描いた作品である。本作品を読むまで、ろう者はあくまでも「聴覚に障害を持っている人」、つまり「聴覚障害者」という認識であったが、全く異なる文化をもつ「その人」であることを知った。そもそも聴覚障害者である人はこの表現より「ろう者」という表現を好み、その逆(つまり健常者)は、「聴者」と表現するということである。これを意味するのは、ろう者は「聴こえないけれど、話すことはできる。」という意志の表れであるとこの作品の中で説明があった。それは、音声を持たない言語で話しているということ、もっと言えば、「手話」という母語を持つ一つの民族であると私は解釈した。

それを踏まえた上で、この作品を読んでいくと、日本の法制度というのが、まだまだ整っていないということ、それ以前にろう者に対する通訳の制度にも偏りがあることが分かっていく。その隙間を繋ぐように荒井は手話通訳士として事件に深く関わっていくが、それでは荒井はどのような背景を持つのであろうか。そこも注目すべき点である。「ろう者」と「聴者」を繋ぐ「その人」=「コーダ」。ろう者の両親から生まれた聴者である子どものことである。コーダは聴者でありながら、音声よりも手話を先に覚えるため、精神的には「ろう者」の文化を持つそうである。この荒井もそうであり、作品では繋ぐ役割だけでなく、コーダであるが故の彼の心の揺らぎも併走して描かれている。

その中で物語の終盤、荒井はこのように語っている。
「彼らの言葉を、彼らの想いを正確に通訳できる人間がいて、それでようやく法の下の平等が実現するのだ。彼らの沈黙の声を皆に聴こえるように届けること。それこそが、自分がなすべきことなのだ」(p291、292)

この作品を私が手にしたきっかけは、今年1月に行われた「第6回全国高等学校ビブリオバ決勝大会」で優勝したチャンプ本であることが、新聞で取り上げられていたのを目にしたことにある。優勝した高校生は「この本は唯一『障害を持つ持たないに関わらず皆が平等であり共通している』そんな対等な目線で描かれた作品なのです」と本作品を紹介している。
 

作者が荒井を通して伝えたかった「法の下の平等」。それを読んだ高校生、そしてそれをきっかけに本作品を手にした多くの読者にそのことが静かに深く染み渡っていくことを感じ取れる作品であった。

      文責 木村綾子
 
 

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