京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『海に向かう足あと』

2017年04月18日 | KIMURAの読書ノート
『海に向かう足あと』
朽木祥 作 角川書店 2017年2月

海をこよなく愛する人なら誰もが一度は憧れる湘南が舞台。30歳半ばをすぎた村雨をはじめとするヨットクルー達。彼らはそれぞれの仕事の合間に新艇を手に入れ、外洋のレースに参加することになる。

……と書けば、爽やかなスポーツ系ドラマを誰もが思い描く。実際に冒頭、涼やかな海風が薫る湘南ならではの空気に満ち溢れており、どのようなヨットレースが繰り広げられるのか期待感を抱かせる。しかし、時折見せるこのドラマから似つかわしくない記述。「せっかく来たバスを逃したが、三好が拾ってくれるだろうとまた紙面に目をもどした。六か国協議再開がまたもとん挫したというニュース、そして中東で病院が攻撃されて、たくさんの子どもたちが犠牲になったというニュースが大きく取り上げられていた」(p23)。一瞬ドキッとする。たしか、アメリカ軍がシリアを攻撃したのは、4月7日のこと。本作品に出てきたこのニュースは予言の書なのかと思ってしまう。この物語はどこに向かって走っていくのか。しかし、それもつかの間、再び物語はヨットの話に包まれる。そしてほどなく、レースのトレーニングを始動させる場面に変わった時、再び不穏な空気が現れてくる。「確かに、先日も話題になったテロに加えて難民問題とそれをめぐるトラブルも頻繫し、大国が関わる国々では、新たな火種となる係争や紛争も続けざまに起こっていた。そして核開発及び実験の動きはますます活発である」(p52)。北朝鮮の核実験のニュースがにわかに浮上し、活発化し始めたのは、ここ数日の出来事である。ますます、この物語がフィクションなのかノンフィクションなのか、分からなくなってくる。そして、外洋レースのため、東京から南南東に900kmのところにあるスタート地点三日月島にヨットを回航させた村雨たちの下に届いた知らせは「トウキョウカイメツ」。

作者朽木祥は広島市出身の被爆2世である。これまで、児童文学作家として作品を輩出しており、その多くが国内の児童文学賞を受賞している。また、ドイツのミュンヘン国際児童図書館が発行する国際推薦児童図書目録に『八月の光』(偕成社)『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社)の2冊が選定されているが、どちらも「原爆」戦争を扱った作品である。

これまで「原爆」を扱った作品の多くが、自らがその強烈な体験を克明に描くことで「原爆」や「戦争」の悲惨さを訴えるものであった。しかし、戦後70年を過ぎ、その体験を語れる人が少なくなった今、作者をはじめとする次の世代の作家が体験とは異なる、これまでの資料や証言を丁寧に読み解きながら、今の日常からの地続きにその悲惨な出来事があることを表現するようになった。その代表が作者であり、以前この「読書ノート」でも紹介したこうの史代であろう。しかしながら、彼女たちが表現し、懸命に過去の過ちを訴えても、あっという間に現実が作品を超えてしまう今の現状に恐ろしさを感じる。村雨の先輩、相原は言う。「人間は希望を失ったら三日で死ぬんだよ」(p229)希望を持てなくなる「今」でないことを願うばかりである。

本作品は作者にとってはじめての一般文芸作品である。  文責 木村綾子

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KIMURAの読書ノート『そして<彼>は<彼女>になった』

2017年04月08日 | KIMURAの読書ノート
『そして<彼>は<彼女>になった』
細川貂々 著 集英社インターナショナル 2016年1

副題「安富教授と困った仲間たち」。安富教授とは、1963年大阪生まれ。現在東京大学東洋文化研究所教授。現役の経済学者である。と書くだけでピンとこない人は多いかもしれないが、一昨年辺りから女性の恰好をしてテレビに出演している東大の教授と言えば、脳裏に顔を思い浮かべる人もいるのではないだろうか。本書はその安富教授の半生を『ツレがウツになりまして』シリーズ(幻冬舎 2006年)で一世を風靡したイラストレーター細川貂々さんがコミックエッセイとして表したものである。

先に本書は「安富教授の半生」と記したが、それは正確ではない。どちらかと言えば、「困った仲間たち」の方に入る、安富教授の学問上のパートナーである「ふうちゃん」の半生が本書半分以上を占める。女装家教授として名を馳せている安富教授を語る上で、ふうちゃんの存在なくてしては語れないことがページをめくっていくごとに明らかになる。しかもそのふうちゃんこそが、安富教授の心の奥底に眠っていたトランスジェンダーの扉を開けた当人でもある。

ふうちゃんは幼少の時から攻撃的な実母との関係に悩み、安富教授は結婚した後、妻の軋轢を感じた時、その背後に実母の姿が見えるようになる。大学時代に知り合った2人が後に共闘を組んで自分たちの前に立ちふさがる母親との戦いに終止符を打ったのは、2人が知り合ってから20年以上も経ってから。とここに至るまでで全ページの4/5を占めるため、類似した親子関係の話なのかと思ってしまうが、やはり本書の肝はその後の1/5に集約される。なぜなら、実母との戦いに終止符が打たれたにも関わらず、心の内に不安がどこかしら残っているという感覚を抱かずにはいられなかったのである。それを見つけようとする2人。

その後安富教授は自身がトランスジェンダーであることに気づいていくわけであるが、ここに至るまでの所要年数は50年。それでも、安富教授は試行錯誤していく。とあるインタビュー記事で彼は次のように話している。

「自分の心の中に果たして明確な“性別”があるかというと、これが結構、微妙な問題。性別って身体の性器の形状で判断されているけど、心には性器はついていません。じゃあ、どうやって心の性を判定するかっていったら、男性が好きか女性が好きかってことになるんだけど、トランスジェンダーの人って私のように体が男性、好きなのは女性という人が半分、逆に恋愛対象も男性という人が半分で、実は半々なんです。女性のトランスジェンダーもその割合は同じだそうで。なので判定のしようがない」(ORICON NEWS 2015.08)


これまでの私が読んだ著書は「家族問題」は「家族問題」として、「トランスジェンダー」であればそれのみに特化されたものが多かったように感じる。本書のスタートは「親子問題」であったが、その問題はそれだけではなく、それ以外の自分に関わる問題は全てに連続性があることを教えてくれる。巻末には著者を含めた3人の鼎談が収録されており、ふうちゃんは「固有のつながりがあるわけで、あらかじめ型があってそれに当てはめるんじゃない」(p157)と語り、安富教授は「人の数だけ人生の物語がある」(p159)として、鼎談を締めくくっている。決してきれいごとでは終わるわけではないが、「連続性」を考えていくと、「問題」だと思っていたことが、案外そうでもないのではないかと本書を読んでいると感じてくる。

   文責  木村綾子


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