京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『ジョーカー・ゲーム』

2017年05月20日 | KIMURAの読書ノート
『ジョーカー・ゲーム』
柳広司 作 角川書店 2008年

朝日新聞朝刊4月30日の読者欄に次のような投書が寄せられた。この投書を抜粋すると、「仕事上、戦前の日本の諜報関連資料に目を通すことが多いが、現在国会で取り上げられている『共謀罪』と戦前の『治安維持法』の類似点の多さに驚かされる。『治安維持法』は設立当初、この法律は一般の人には適用されないとされたが、法律制定後、運用は事実上警察に丸投げされ、一般の人が検挙され、取り調べの過程で殺されたり、そうでなくとも心身に傷を負わされている。そしてこの結果に関し、政府や官僚はその責任をとっていない。今の政治状況を見る限り、今回の『共謀罪』でも、過去と同じ過ちを繰り返すことは明らかであり、結果に対しても同様に誰も責任をとらないであろう。そのため、私は『共謀罪』の設立に強く反対する」というものである。この投書に関しては、ネットでかなり話題になったので、ご存じの方もいるのではないだろうか。

この投書を寄せた読者は作家、柳浩司さんである。今回取り上げた作品は彼の代表作とされ、2009年、第30回吉川英治文学新人賞および第62回日本推理作家協会賞を受賞している。

昭和12年秋。結城中佐の発案で、陸軍とは別に「情報勤務要員要請所(諜報員要請所)」つまり、スパイ養成学校(書類上「D機関」と呼ばれる)が設立された。この学校の受験者は陸軍士官学校の卒業生は皆無で、帝大をはじめとした一般の大学生で占められていた。訓練内容は数か国語の語学、政治経済論、自動車や飛行機の操縦法はもとより、刑務所から連れてこられたスリや金庫破りによる実技指導、ダンスや歌舞伎の技術、更には夜の街に繰り出しての夜遊びに至るまで多岐に渡り、ここの学生たち同士でも実名を明かさないという徹底ぶりであった。しかし、このD機関を快く思わない参謀本部は自分達がすでにスパイ疑惑のあるアメリカ人宅の捜索に失敗したことを押し付けるために、自分たちの失敗を隠したままD機関に捜索をさせる。アメリカ人があまりにも抵抗しないことに疑念を抱いたD機関は参謀本部の意図を理解する。そして、彼らはアメリカ人がスパイである証拠を日本軍人ならではの感覚の逆を突き、発見する。

これはこのD機関最初のエピソードであり、表題作でもある(現在「D機関シリーズ」として第5弾まで刊行。各巻、エピソードごとの短編となっている)。一般的にこの作品は、スパイミステリーと言われているが、文庫化にあたり、解説をしている元外務省主任分析官の佐藤優さんによると、「インテリジェンス・ミステリーという新分野を開拓した」として賞賛している。彼の言葉を借りると「インテリジェンス」とは「表に出ている情報から真実をつかむ技法」という。確かにスパイ活動は、表の情報から相手や対国がどのような言動を起こし、我が国に影響を与えるのかという情報を得るものである。ともすれば、この投書、「共謀罪」という表の情報から、本当の真実を、いや政府が本音のところで何を行いたいのかということを作者は見抜いたというにことになるのではないだろうか。そう言えばかつて、作家の赤川次郎さんも新聞の読書欄に投書して話題となった。作家が実名で、しかも職業を明らかにした上での投書はその影響力を考えても相当の覚悟のことであったと推測される。彼の投書と共にこの作品読んで、読者それぞれが「インテリジェンス」でありたいと思う。(文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート 映画『美女と野獣』

2017年05月03日 | 大原の里だより
『美女と野獣』
ビル・コンドン 監督 エマ・ワトソン 出演  2017年4月21日日本公開

ディズニーランドは好きだが、正直ディズニーのアニメや映画はあまり好きではない。とりわけプリンセスシリーズは、本来の昔話としての伝承文芸を湾曲解釈していると私は思っているからである。しかし、今回わざわざ劇場に足を向けてしまったのは、他でもない。主人公があのエマ・ワトソンだったからである。

エマ・ワトソンと言えば、私の中では、いや、まだ多くの人が、「ハリー・ポッター」シリーズのハーマイオニーとして思いだすであろう。実際私もそのイメージが強くというよりは、むしろエマとハーマイオニーはすでに一体化したもので、それ以上でもそれ以下でもなくなってきている。しかし、前評判の高かったこの作品に対してエマはどのように演じているのか、そして大人となった彼女の姿をスクリーンで見るのはやはり楽しみでもあった。

結論を先に書いてしまうと、主役ベルはエマ・ワトソンしかないだろうというほどしっくりときていた。この作品でのベルは、美しいというだけでなく、聡明で、行動力があり、自立心が旺盛である。それにぴったりとあったエマの演技には一つもぶれがなかった。父親を助けるために馬にまたがり、村一番の腕っぷしのいい男性からストーカーまがいに求婚されても、ことある事に「NO」と突き放す。村では、本を常に読んでいることで、周囲の人から「変わり者」と言われても、自分の信念を通して本を読み続け、野獣から古城の書斎にある本を手渡された時は少女のように目をキラキラさせる。それは、幼かったハーマイオニーとなんら変わらない姿で、かつ、より地に足のついた形でファンの前に現れていた。それは、同じようなキャラクターだからと言ってしまえば、そうなのは確かである。聡明で、行動力があり、自立心のある女性しか演じられないという否定的な見方もできる。しかし、ファンのひいき目かもしれないが、エマ・ワトソンの目の奥にある毅然とした力にそれ以上のものを感じたのである。今後全く違うキャラクターを演じることになっても、彼女はそのキャラクターを正面から向き合い、自分のものとして演じてしまうだろうと確信をした。

作品全体は、ミュージカル形式になっており、ダンス、歌声、そしてその舞台装置、何から何まで圧倒されるものであった。それはまるで、スクリーン上で繰り広げられるディズニーランドのショーであり、パレードのようであった。気が付くとそのパフォーマンスの中に自分も組み込まれているそんな感覚さえ覚えてしまう。ディズニーが手掛けただけあると、ただただ感心するばかりであった。どこ一つとってもエンターテイメントとしての抜かりのない仕上がりになっている。その分かりやすい一例が、野獣とベルの身長差。誰もが持っているイメージを壊さないように、野獣役のダン・スゲィーヴンスは20cmの竹馬をはいて演じたそうである。ただ演じるだけでなく、ダンスも同様である。ベルを抱えてしなやかにダンスを踊るシーンは、プロ根性を超えた奇跡のようでもある。

私自身は吹き替え版でこの作品を鑑賞したが、日本語の吹き替え版のキャストのほとんどが、ミュージカル俳優であることがこれで納得した。彼らでなければ、あの声量、表現力はなかなか難しいであろう。出来れば、吹き替え版と字幕版の両方を鑑賞するとよりこの作品は楽しめるのではないだろうか。
      (文責 木村綾子)

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