京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『ぼくはうそをついた』

2023年09月17日 | KIMURAの読書ノート

『ぼくはうそをついた』
西村すぐり 作 中島花野 絵 ポプラ社 2023年6月

8月末に広島に帰省した時のことである。時間が出来たので幾つかの書店をぷらぷらと巡ったところ、本書が平積みや、面出しで置いてあったりと、かなり目立つ配架となっていた。広島から自宅に戻って自分が住んでいる周辺の書店を廻ってみたが本書を目にすることはほぼなかった。それが逆に気になり、読むこととなった。

新学期から小学6年生になるリョウタは河川敷で『ヘロゥばぁ』と呼ばれるおばあさんに遭遇する。『ヘロゥばぁ』に手をつかまれた子は不幸になると子ども達の間でささやかれていた。河川敷で遊んでいた子は一斉にその場から逃げたが、リョウタはそこでツクシを取り続けた。そうしていると、土手の階段を駆け下りる一人の少女を目にした。その少女はリョウタより1学年上でリョウタと同じバレーボールクラブに所属しており、女子チームのキャプテンを担っていたレイであった。彼女はプレイヤーとして期待されており、強豪校からの誘いもあるという。リョウタはレイが『ヘロゥばぁ』に近づき手をとろうとするところを見てしまう。自宅に戻ったリョウタは同居する母方の祖父が手にした小さな箱を持っていることに気付く。その箱には祖父の父親、リョウタにとっては曾祖父からの遺言がこの箱には入っているということを教えてもらう。そして、祖父は自身の父親のことをリョウタに話し始める。次の日、リョウタはレイから『ヘロゥばぁ』が自分の曾祖母であり、夏が近づくとおかしくなると打ち明けられる。

原爆にまつわる物語である。8月の読書ノート『かげふみ』で私は主人公が被爆3世になっていることが衝撃的だったと書いたが、この作品の人物設定にはもっと驚かされることとなった。これまでの物語は祖父母が原爆にあったこととして物語が進んでいたが、この作品の物語のキーとなるのが、曾祖父母たちなのである。つまり、主人公であるリョウタやレイが被爆3世であることには変わりないが、キーとなる曾祖父母は被爆当時すでに大人なのである。しかも高齢化社会のため、曾祖父母が健在という家庭は少なくない。このような中で物語は展開する訳である。

作中でリョウタの祖父が、自身が体験した原爆当時の話をリョウタに語る場面がある。その時祖父は小学4年生であったが、担任は新任でしかも17歳だったという。このことについて「あとがき」で作者がこのモデルになったのは自分自身の母親であると記している。17歳で教壇に立つだけでなく、学校で子ども達と一緒にいるところを原爆にあい、子どもたちの運命を背負わなければならなくなった17歳の少女はどのような思いだったのだろうかと考えると胸が痛くなる。そして、同様にリョウタやレイの曾祖父母が原爆で我が子を亡くしたことで心に重たいものを抱えてしまう描写には切なくなってしまう。それを今の時代のリョウタやレイは小学生でありながら受け止めなければならない現実。それを見事に描き切ったこの作品、広島だけでなく全国の書店で平積み、もしくは面出しで配架してもらいたいと切に願う。


========== 文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『反戦平和の詩画人 四國五郎』他

2023年09月04日 | KIMURAの読書ノート


『反戦平和の詩画人 四國五郎』
四國光 著 藤原書店 2023年5月


『絵本 おこりじぞう』
山口勇子 原作 沼田曜一 語り文 四国五郎 絵 金の星社 1979年  

『おこりじぞう』
山口勇子 作 四国五郎 絵 新日本出版社 1982年

私の中で「四國五郎」という画家は『おこりじぞう』を描いた人であり、広島出身というだけの知識しか持ち合わせていない。本書はその四國五郎の息子が四國五郎が残した日記や作品、更には自身の目から見た父親「四國五郎」を多角的に捉えた評伝である。

本書は440ページと言う厚さに四國五郎という人物が凝縮して綴られている。そこからは想像を超える人物像が浮かび上がってくる。その中でも冒頭で記されている彼の「シベリア抑留」についての体験は目を奪われるものであった。この言葉を耳にするとまずイメージするのが、ロシアの人に囚われて強制労働をするというものであるが、彼が記録したメモにはそれ以外のことが綴られていた。日本人の日本人へのリンチである。それは帰国が決まり、日本に向かう船の中でも続いており、日本を目の前にして、それにより命を奪われてしまう現実がそこにあったのである。彼が戦後反戦に対して絵で訴えていく手法を取っていくわけであるが、本書ではその原動力となったのが、このシベリア抑留と実の弟を奪った原爆であると記されている。しかし、個人的にはこのシベリア抑留の方が彼にとっては過酷は体験ではなかったのではないかとすら感じてしまう。

戦後の広島で行ってきた表現活動において、峠三吉や読書ノートに8月の最初に取り上げた丸木俊ともつながっていたことを本書で私は知ることになる。また活動の1つに「原爆が投下された直後の惨状を、被爆者自身が書き残す」というものがあった。現在広島市内の高校生が被爆体験者に話を聞き、それを絵にするという活動が行われているが、原点がここにあるのではないかと私はおもった。四國五郎の平和に対する思いというものは想像をはるかに超えたもので、それは「戦争」というものがどれだけ人生に大きく影響を与えるのか改めて考える必要があると思い知らされた。

そして『おこりじぞう』。この作品が世に送り出されるまでの詳細がここには綴られている。絵本の表紙は平和の象徴である鳩を手にし、微笑んでいる少女の姿が描かれている。そして、児童書の方は逆に防空頭巾を被り、お地蔵さんの前で何かを訴えかけるような目をした少女が描かれている。実は絵本の方は物語が途中で終わっている。そして、児童書は物語を短縮することなく本来の長さで掲載されている。私は改めて二つを読んでみて、大きな違いがあることに気が付いた。原作の主人公はお地蔵さんであるが、絵本の方は物語を短くしたことにより、主人公が自然と少女に変わっていた。こうすることで、一つの現象に対して二人の視点を得ることが出来ているのである。絵本を出版する際、作者(山口勇子)は原作を短縮することを快くは思っていなかったと本書で述べられているが、その後、絵本の内容で語りをしていた沼田から実際の語りをテープで聴き、了承したという。そして、この2冊の画を担当した四國五郎。著者の息子はこう記している。「原爆や戦争の、想像を絶する悲惨さを、次の世代、特に子供にどのように伝えるか。どのようにして『継承』するか。それは父が最も悩ませていた課題のひとつだった(p279)」。物語の視点が二つになったということで読み手は気持ちが重ね合わせやすい方で読むことができ、まさに「継承」する幅が広がったように感じている。もちろん、それには四國五郎の画がどちらにしろ、後押しをしている。

ここでは「シベリア抑留」と「おこりじぞう」しか触れることが出来なかったが、四国五郎が亡くなるまで語り続けた「絶対戦争の道を再び歩んではならない。そのために記憶せよ、伝えよ(p400)」というメッセージを本書を手に取り、受け取って欲しい。

=======文責 木村綾子 


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