京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート『パイプの中のかえる』

2022年08月15日 | KIMURAの読書ノート


『パイプの中のかえる』
小山田浩子 著 ignition gallery 2022年5月

著者は2010年に作家としてデビューした後、数々の賞を受賞。そして2014年に芥川賞を受賞している。本書は2020年7月から半年間、日経新聞夕刊に連載されたコラムをまとめたものである。私が本書を手にしたのは、彼女が広島出身でかつ、現在も広島に住んでいるということを知ったからである。もしかしたら、私が知っている懐かしい風景がコラムの中に出てくるのではないかという期待がそこに大きくあった。

最初のコラムは方言について。私自身広島で使っていた言葉(単語)が方言であると知ることとなったのは、ほとんどが社会人となり広島を離れてからのことである。逆に著者は広島から離れていなかったため方言と認識したのは、かつて勤務していた職場の関東出身の同僚と話をしている時に首をかしげられたことによるという。広島だけでなく地方で生まれ育った時の「あるある」エピソードであるが、事例が広島の「方言」ということもあり、私は前のめりで読んでいく。次のコラムは西日本豪雨災害の1年後のことを綴っている。広島の話題ではあるが、ここだけのピンポイントな話題ではなく、どこの出身の人が読んでも自分のこととして捉えることのできる内容であった。その後は幼い頃や学生時代のことについて書きながらも社会に対してきちんとした意見を示していることに襟を正すことになる。

そして、はたと目が釘付けとなったタイトルにぶつかる。それが「広島の『平和教育』」。これについては毎回タイトルが変わりながらも3回に渡って綴られている。冒頭著者はこのように書き出している。「他県から来て広島で子育てをしている知人が『広島ってすごいねぇ、保育園でも平和教育するんだね』と言った(p36)」。これを受けて著者は「自分が園児だったころのことは忘れたが小中高と『平和教育』を受けたのは覚えている(p37)」と応えている。確かに私も小中高と「平和教育」を受けてきた。学校で『はだしのゲン』の映画を何回観たことか。更に夏休みには市役所でこの映画が繰り返し上映され、それも幾度となく鑑賞した。著者は私と同じ世代であるので、恐らく『はだしのゲン』に関しては空で物語を語ることができるのではないだろうか。しかし、著者の言い分はこのことではなかった。「そんな風に平和教育を受け続けてきた広島の人々はだから平和への意識も高く、政治、特に平和と直結うる改憲や核兵器禁止条約批准などへの関心も高くそれが支持政党や投票率に大きく影響しています、という風には実はまったくなっていない。(2019年の参院選の投票率は)お隣の山口より岡山より低く全国平均も下回っている。なにが平和教育じゃという話だ(p38)」。著者のボルテージは上がっていく。「私たちは戦争を扱った物語に涙を流し共感してきた。二度と戦争は起こしたくありませんと感想を書いた。~略~ でも戦争は起こった。~略~ それを踏まえ、広島で『平和教育』を受けてきた私たちは一体なにをしているのか?(p44)」。とどめはこれだ。「義務教育だけで9年間高校もなら12年間の夏ごとに、平和を願うなら原爆が非人道的と思うなら投票へ行こう、政治に興味を持とうと、教え教わってきていないからこその投票率の低さ、政治への関心の低さなのではないだろうか?(p45、46)」。うなだれた。確かにそうである。戦争、原爆の悲惨さは嫌と言うほど教え込まれたが、ではそのようにしないために現実的にできること……一切「平和教育」では触れられることはなかった。しかも、今の今までこれらのことが全くつながっていなかった。

改めて著者のコラムをひとつひとつ加味して読んでいくと、どのコラムも今の社会に対する意見であったり、警鐘を鳴らしているものであった。淡い期待を持って読み始めた自分に赤面してしまう。広島から見た、他都道府県、海外。決してそれは広島を美化するものではないばかりか、それがブーメラン返しのように広島に突きつけられている感じすらある。著者は「まえがき」でこのようにも書いていた。「広島の田舎で生まれ育ちいまも似たような地域にすんでいる私は、井の中の蛙というかパイプの中のかえるというか、狭い範囲で暮らしそれなりに充足していて、でもそこから顔を出し世界を見回すこともある」。

8月6日、77回目の原爆の日を迎え、平和式典が全国放送をされた。著者はそれを観て何を思い、考えたのだろうか。私自身、ここで立ち止まり「平和教育」というものについて改めて考えたい。


=======  文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『戦争が町にやってくる』

2022年08月02日 | KIMURAの読書ノート

『戦争が町にやってくる』
ロマナ・ロマニーシン アンドリー・レシヴ 作 金原瑞人 訳
ブロンズ新社 2022年6月

今回も取り上げる作品は絵本である。しかし、前回、前々回同様、今の情勢を深く考えさせられるものであり、児童対象とは到底思えない作品である。

この作品の作者はウクライナの人である。タイトルになっている「戦争が町にやってくる」の戦争は今回のロシア侵攻のことではない。奥付を見ると2015年にウクライナで出版されていることが分かる。更に調べてみると2014年、当時のウクライナ大統領をロシア亡命に追い込んだウクライナの動乱。そしてそれに続くロシアのクリミア侵攻を経て生まれてきた作品ということであった。また、この作品はボローニャ・ラガッツィ賞を受賞している。

戦争というものを全く知らないロンドという町で人々はここの暮らしを楽しんでいた。ロンドは素敵な花たちで有名であった。町の広場には大きな温室があり、珍しい草や木や花がある。そして、ここの花たちは歌を歌うことができ、コンサートも行われた。人気のあったのは、モーツァルトの「ロンド」の合唱である。ここにダーンカ、ファビヤンとジルーカという3人が住んでいた。ダーンカの体は薄く透き通り、かつ光っていて、その中でも心臓がいちばん輝いている。ファビヤンの体はとても軽く風が吹くだけで浮き上がるため銀のメダルを首にかけている。かれは宝探し犬の子孫である。ジルーカは紙の翼をはばたかせて飛ぶことが可能である。3人とも心からこの町を愛し、ロンド中の人々は3人のことを良く知っていた。このような町が突然静まり返り不安そうな声が町に広がってくる。そして、どこからともなく戦争がやって来るのであった。戦争は破壊と混乱と暗闇を連れ、戦争が手に触れると何もかもが闇に消えていく。そして黒い花をつけた棘のある硬い雑草を植えていくのである。そして何よりもロンドで育った花たちは枯れていったために、歌を歌えなくなった。このような中3人は戦争の前に出ていき、撤退を頼むのであるが戦争は3人に対して知らぬ顔で攻撃を仕掛けてくる。そこで次に3人は戦争と同じ方法で応えてみたが戦争を止めることができないのである。そして3人の考えが行きついた先は……。

この作品では戦争に対して象徴的なフレーズが2つ綴られている。それがこの2つ。
・戦争は、だれひとり、みのがさない。
・戦争には心も心臓もない。
最初のフレーズは3人が戦争に対して交渉を行った時に、有無も言わずにそのまま攻撃してきたことに対して。2つ目はダーンカの心臓を狙って攻撃してきた戦争に対して、同じように心臓を狙ってみたが無駄であったことに対して。この2つのフレーズを目にした時、頭によぎったのが今のウクライナに対するロシアの侵攻であった。避難する国民のための人道の確保を約束されたはずなのに、その上から容赦ない攻撃。停戦交渉すらままならないのもそこに心がないと言えばまさにそうである。この作品が今のウクライナとロシアの現状をそのままに映し出してしまっていることは作者にとってまさに不本意なことであろう。因みにこの3人は平和にはなくてはならないものの象徴として抽象的に描かれている。その3人が作品上では力を合わせて平和を取り戻していくのであるが、作者も恐らくそのようになって欲しいと願っているはずである。

エンディングは戦争の終わった後のロンドの様子を描いている。これまでは様々な色のひなげしが咲き乱れていた場所に、赤のひなげししか咲かなくなったロンド。第1次世界大戦で亡くなった人々を追悼する花としての「赤いひなげし」。このひなげしは戦争を知らなかったロンドの人々の心に植えられ、そこには悲しい記憶が残り、それは永遠に続く。

==========文責 木村綾子


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