京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

『風立ちぬ』(映画)

2013年08月21日 | KIMURAの読書ノート
2013年8月その2
『風立ちぬ』(映画)
宮崎駿 監督 2013年7月20日公開

2013年8月15日(終戦の日)MOVIX京都午後2時55分の回
集客率約9割、内年配(60歳以上と思われる)率約6割。

かつてのジブリ作品でこのような動員層というのがあったであろうか。会場で目に付くのは御年配の方々。義務教育以下の子ども達の姿はほぼ見当たらない。戦時中が作品の舞台であり、モデルとなった堀越二郎が零戦の設計者であるということはすでに流れていたものの、それだけの理由で年配の方を惹き付けるものなのか。かれこれ30年近くジブリ作品を観てきたが、会場のこの光景は全く初めて目にするもので、スクリーンにこれから起こる展開に一抹の不安がよぎった。

美しい作品だった。大人の恋愛とロマンが作品を全て包んでいた。確かに子どもが見ても面白くない作品だろう。これまでもジブリ映画は、観る対象をどちらかというと「大人」にしている。それでも「子ども」が一緒になって楽しめる作品となっていたはずだ。しかし、私だったら、本作品は間違いなく「R-15」指定にするだろう。思春期に足を踏み入れたちょっとだけ背伸びができる「子ども」からしか解禁しない。ここに「子ども」が土足で入ることで大人のロマンが壊されてしまう、そんな危険すら感じるくらい美しい作品なのである。

飛行機に夢を託す堀越二郎とその仲間たち。そして、その夢に自分の夢を乗せる菜穂子。彼らの人間模様と飛行機が実にゆるやかな糸で結ばれ、更には時空を超えて結ばれるカプローニとの友情を描いている。戦時中が舞台でありながら、あえて「戦争」という物質を究極まで排除し、今と変わらぬ「夢」や「ロマン」がそこにあり、人はいつでもどこでもそれらを持つことによって、自らを支えることができるということが、彼らを通して伝えてくれている。これは、経験を積み重ねた人にしかできないセンテンスであり、更には零戦をモチーフとして使うことにより、この「夢」や「ロマン」を口にすることをはばかれる世代により深く浸透させているように感じた。

もちろん、「戦争」というものを完全排除しているわけではない。ゆるやかに流れる物語の中に、「戦争」という時間が容赦なく襲い掛かってくる場面は幾度となく展開される。あまりにも美しい物語になっているため、その場面がかえってインパクトとして嫌でも脳裏にひっかかりを見せる。戦争を「知識」としてしか知らない私たち以下の世代にとっては、その一つ一つで息を呑むことになる。例えば、堀越二郎の友人本庄は常に欧米との技術格差について吐露している。また、戦闘機を作ってもそれを滑走路へ運ぶのは「牛」。表立った発言はないがそこには「戦争をやっても勝つわけがない」という意味が十分に含まれていることが分かる。当時の人たちはやっぱりわかっていたんだと思うと私たち世代にとってはそれだけで身につまされる。このように本作品ではこのパラドクスをたくさん提供してくれている。おそらく、この矛盾こそがこれまでジブリ作品にはない動員層を集めている要因であると私は感じた。無論、それを最初から知って映画館に向かうものはいない。宮崎駿はこの作品に関して、
「いろいろなものがより合わさって1本の映画ができたことに不思議な縁を感じています」
と語っているが、まさにこの動員層も不思議な縁に導かれて映画館に吸い寄せられた人たちであろう。

矛盾の中の「恋愛」と「ロマン」。これを表舞台に引き上げてくれたのが宮崎駿であり、この作品である。「終戦の日」、何かに導かれるように向かった映画館。子どものいないアニメ作品もなかなか乙である。

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『スポーツニュースは恐い』

2013年08月04日 | KIMURAの読書ノート
2013年8月その1
『スポーツニュースは恐い』(一般書)
森田浩之 著 NHK出版 2007年9月10日

奇しくも本書を読んでいたのは前書『バカに民主主義は無理なのか?』と同じ時期である。
この時、世間の話題になっていたのが、参議院選挙とフィギュアスケーター安藤美姫選手の出産であった。
本書ではスポーツニュースは「おやじ」であると指摘し、本書の冒頭で女子選手の「結婚」「出産」について述べている。
それだけでも、リアルタイムすぎて驚いていたのだが、更に驚くべきことに次章では「安藤美姫」選手の名前が出てきている。
これを「偶然」として納めてしまって果たしていいものなのだろうか。まずはその点をあえて記しておく。

さて、先にスポーツニュースは「おやじ」として本書は指摘していると書いた。
具体的にどのようなことなのであろうか。著者によると、「スポーツ」は「男の最後の砦」なのだそうだ。
かつては女性がこの領域に踏み込むことはなく、スポーツをしたとしても限られるものであった。
しかし、そこへこれまで男性にしか出来なかったプレーやパフォーマンスを女性がするようになり、男は「落ち着かなくなった」という。
そこで、男性は「最後の砦」を守るために、女性を「女性らしい場所」に追いやるために、スポーツニュースはスポーツの勝敗とはほぼ関係のない記述をしているのだというのである。

また、この件だけでなく、第3章では「人間関係」、第4章では「国づくり」、更には「日本を背負わされる<メジャーリーガーの物語>」と「おやじ目線」は続く。
読んでいるだけで呆れるほどの「おやじ」的内容が出てくるのであるが、確かに振り返ってみるとスポーツニュースはその勝敗や選手の練習風景だけでなく、ワイドショー的内容が存分にある。
指摘されなければ、それも含めて「スポーツニュース」であると誰もが信じて疑わないだろう。
「スポーツニュース」という概念を改めて考えさせられる。

それだけではない。「おやじ」目線だけでは、未だに男尊女卑の「今」を知らない「おやじ」で話は片付くところである。
スポーツニュースは、時代の流れを知らない古い体質なのだという突っ込みをすればいい。
しかし、それだけでは話が終わらないのが本書である。
この「おやじ」目線、国のイデオロギーが裏に隠れているというのが著者の主張である。
それが第4章の「国づくり」以降の話題となる。

この指摘通り読んでいくと、「おやじ目線」は笑い事ではすまない話となる。
結局のところこの日本という国を「ある種の形」として刷り込む一端を担っていることになる。
極論を言えば、「洗脳」であろう。スポーツを語らないで、「日本」というものを「刷り込んでいる」のがスポーツニュースというのが本書の言い分となるのである。

安藤美姫選手の話題に戻る。偶然とは言え、このタイミングで本書を読みつつ、スポーツニュースを目にしていると、私自身がそれ以前に感じていた以上に「おやじ目線」が痛すぎる。
少子化の心配、日本の国を背負うスポーツ選手を賞賛とはまったく反対の報道は一体何をメディアは望んでいるのだろうか。
「日本」という国を刷り込んでいるとしたら、もしや少子化を望み、スポーツ選手が活躍できる場を取り上げるのが本音のところでの国策なのではないかと考えてしまう。
日本はどこを目指しているのか。それでも、その中で凛と氷上を舞う選手としての彼女の姿に私はエールを贈りたい。
その中であえて「おばさん目線」で彼女に声をかけるとしたら、「産後は十分に体を休めてね」。
彼女の今後の活躍をますます期待したい。

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