京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート 『Blue』

2019年10月15日 | KIMURAの読書ノート

『Blue』

葉真中顕 作 光文社 2019年4月

平成15年12月26日。5人家族のうち、世帯主の篠原敬三(61歳)、その妻、長女、そして長女の子が自宅で惨殺されているのが発見される。警察の調査により、犯人は敬三の次女と判明。次女は家族を殺した後、その自宅で風呂に入り、そのまま心臓麻痺で死亡していたため、被疑者死亡として警察は幕引きをする。そして、この事件を通称「青梅事件」と呼ばれていた。しかし、この事件を担当した藤崎は犯人が次女の単独行動と思えず、更に調査。そもそも次女は高校生以来引きこもりとされていたが、実際は家出をしており、この事件を起こした時に自宅に戻ったらしい。そしてこの次女は子どもを授かっており、その子どもが「Blue」と呼ばれていたことが判明する。この事件の真相を追いかける藤崎。事件を起こすまでの次女とその後のBlueの足取りが明らかになっていく。

Blueは平成が始まった日に生まれ、平成が終わった日に亡くなったとされている。そのBlueの生涯を追いかけると共に、その時々のつまり、平成という30年間の世相を織り交ぜながらこの物語は進行していく。とりわけ、児童虐待、子どもの貧困、無戸籍児童、外国人の低賃金労働など、平成の時代にあぶり出された「闇」の部分がテーマとなっている。次女の家庭は教員一家で何不自由ない生活であったと言えばそれまでである。そして彼女が家を出た理由はその後に彼女と関わる少女たちからすると些細なことである。それでも、一度道を外れると転がるように負の連鎖に巻き込まれていく様子がただただ静かに描かれている。そして、「静か」という意味でおいては残虐で救いのないような物語でありながら、そこには凄惨さが余り感じさせず、物語として一気に読み進めることができる。また、各小見出しは人物名で表記されており、それぞれの人物がこの事件、そしてBlueと徐々につながっていく構成に手に汗を握らずにはいられない。

幼い頃のBlue、大人になってからのBlue。しかし、彼の目から見た「親」という存在は幾つになっても変わらず尊く、そしてかけがえのない存在として描かれている。それは現実の世界とも決して乖離するものではない。だからこそ、エンターテイメント小説でありながらも、読了後に切なさがズンと心に残り、どこかしらBlueという存在に共感してしまう自分がいる。ただ、それを「共感」という言葉で終わらせてはいけない。先にもあげたように、ここには平成であぶり出された「闇」の部分がテーマである。現実に児童虐待は年々増え、それと共に子どもの貧困も増加。そして、平成29年の文科省の調査によると、少なからず国が把握している無戸籍児童は国内に200名余りいる。しかし、これは義務教育に就学している無戸籍児童であり、実態はまだまだ掴めていいないというのが本当のところであろう。また、外国人の国内における労働に関してもニュースで取り上げられることがしばしばある。確かに平成は国内において「戦争」のない平和な時代ではあった。しかし、その30年間「平和」という言葉では片づけられない課題が新たに噴出していることを改めて知らしめてくれる1冊であり、令和の時代はそれを引き継いで突き進んでしまうのか、それともそれを収束させる方向に向かうのか、それを考えさせるための1冊だったとも言える。

=====文責  木村綾子

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KIMURAの読書ノート 上級国民/下級国民

2019年10月01日 | KIMURAの読書ノート

『上級国民/下級国民』

橘玲 著 小学館 2019年8月

今春、池袋の横断歩道で高齢の男性が運転する車が暴走し、母子が亡くなった事故が起きた。そしてその2日後、神戸では市営バスの運転手が同様に2人をはねて死亡させるという事故があった。この時、前述の男性は現行犯逮捕されず、後者の運転手は現行犯逮捕されている。その後前述の男性は元高級官僚で、退官後も業界団体の会長などを歴任していたことなどという肩書きから、事故直後に逮捕されなかったのではないかとSNSでは話題に上がり、この時、「上級国民」「下級国民」という言葉が流布したことは、ご存じの方も多いのではないだろうか。本書はまさにこの「上級国民」と「下級国民」にスポットあて、論じているものである。

本書は3つのPARTで構成されており、PART1では、平成の労働市場が「下級国民」を生み出したとし、それを説明している。PART2ではこの「上級国民」「下級国民」が「モテ」と「非モテ」につながることを論じ、そして最後のPART3ではこれらのことが日本だけでなく世界中で起きており、その背景について考察している。

そして、本書の読みどころはこれらが論じているエビデンスとしてなかなか目にすることのできないデータ、しかし、実はかなり身近なところで行われていたという調査を紹介しているところである。例えば労働市場を調査する上では、働いている人だけでなく、そうではない人についても調査をしなくてはいけない。内閣府でもそれを調査し、結果を公表しているが、調査方法はアンケート方式によるものである。しかし、秋田県の藤里町ではすべての世帯に対して訪問調査をしていることを本書では取り上げ、その結果から導かれたのは、内閣府の調査結果のその5倍は現実として働いていない人がいるのではないかということであった。また、大阪ではフリーターに対しての調査が行われているが、これも当事者の聞き取りによるものである。そしてそこから見えてきたことは、多くが高卒以下の学歴であるが、大学や高校に進学しなかった、もしくは中退した若者の多くの理由が、経済的なものではなく、「授業が分からなかった(本当に勉強についていけなかった)」ものであることが分かってくる。そしてそこから更に見えてきたものは、著者の言葉を借りれば「ここからわかるのは、『すべての子どもが努力して勉強し、大学を目指すべきだ』という現在の教育制度が、学校や勉強に適応できない子どもたちを苦しめているという現実です(p105)」。
 

本書より見えてきたことは、調査を行う時により正確さを求めるならば、現場の声というのがあくまでもその近似値になりうるものなのであろうということ。一般社会においてもよく「現場の声が上に届かない」と言う事はよく耳にするが、全国で行われている調査もまさにそのようなことが起きているのではないかということ。ともすれば、政府が調査結果を踏まえて行われているであろうと思われる改革も実は現場の現状とはちぐはぐなものになってはいないだろうか。それが今回のテーマとなる「上級国民」と「下級国民」を生み出しているとしたらとぞっとする。しかし、1億人以上いる国民の生の声というのをひとつずつ吸い上げることは現実問題として難しい。それでも、「生の声」を吸い上げようとする姿勢が今の政府にも必要とは思われる。筆者は「民主政治では、有権者の総意≒ポピュリズムでこの問題に対処する以外ありません」とし、そして、「それはユートピアなのか、ディストピアなのか、私たちはこれから『近代の行きつく果て』を目にすることになるのです(p217)」と本書を締めくくっている。ここから私は「絶望」という言葉が浮かび上がってしまったのは、深読みのし過ぎであろうか。


====文責 木村綾子

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