京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『聲の形』全7巻<

2016年10月24日 | KIMURAの読書ノート
『聲の形』全7巻
大今良時 作 講談社 2013年11月15日~2014年12月17日

第19回手塚治虫文化賞新生賞受賞。そして、アニメとして映画化され現在劇場で公開されている本作品は、聴覚に障害を持つ硝子と退屈が何よりも大嫌いな将也、そして二人を取り巻く同級生たちの物語である。

当初、タイトルと主人公硝子の生い立ちからイメージする内容は、聴覚障害に対する啓発物語だと思っていた。しかし、それはいい意味であっさりと裏切られた。しかし、物語はそれ以上に重く、深く胸にのしかかるものであった。

話は二人が小学生の時から始まる。将也のクラスに硝子が転校生としてやってくる。みんなとノートを通して仲良くやっていきたいと、筆談で挨拶する硝子。しかし、その筆談のため授業が滞ってしまうことがあり、徐々に硝子への風当たりが強くなっていく。そして合唱コンクールの出来事をきっかけに将也を中心として硝子へのいじめが始まり、硝子は転校を余儀なくされる。また、将也は硝子の転校をきっかけにいじめる側からいじめられる側に立たされる。2巻目以降は硝子たちが高校3年生になってからエピソードが描かれている。

1巻目は壮絶である。どうやっていじめが生まれるか。そして立場が逆転していくのか。言葉だけでは表現しづらい残酷さを、画と吹き出しいう視覚で訴えられるマンガで描写することにより、リアルにそれが読み手に伝わってくる。それだけに、ページをめくるのが怖くなっていく。2巻目以降も決して高校生の青春の一コマではないどころか、小学校の時のいじめを正当化し、硝子や将也だけでなく、関わっていたそれぞれの同級生たちはお互いを罵倒し、ののしりあっていく。1巻以上にリアルさが増していく。それでもエンディングに見えてくるわずかな光。それこそタイトル「聲の形」、まさにそれである。しかし、全てが解決されたわけではないこの物語。読後にも多くの宿題を与えて、読み手は自分の出来事と重なり合わせて、その場をウロウロするだけである。

本作品は小学生、高校生時代の硝子や将也にどうしても視線が行きがちだが、彼らを取り巻く大人たちの存在にも注目すべきである。耳の聞こえない硝子を守るあまり、過剰なほど彼女に対してきつい態度をとってしまう母親。退屈が嫌いで、内で外で大暴れする将也をあちこちで頭をさげつつも何も言わず黙って見守る母親。両者をシングルマザーとして描くことで2人を対比させつつ、どちらも親としての痛みを背負っていることを表している。二人が親としてもお互いに受け入れられない存在から、我が子たちを通して認め合うその過程は、子ども達の葛藤とは別に胸に響くものがある。そして、全体を通すとわずかな登場ではあるが、強烈なインパクトを残すのが小学校時代の担任である。いじめがどうして始まるのか、加速していくのか、継続されるのか。案外子どもだけの問題ではなく、大人の何気ない本音の一端を子ども達に吐露してしまうことでこのような現象が起きていくのではないのか。子ども達は思っている以上に感嘆に大人の汚い部分を見透かしているのではないか。そのようなことを考えさせられる役割を担任には与えられている。

同時期に映画上映された『君の名は。』で報道的には少し影が薄くなってしまった本作品であるが、9月末の観客動員数週間ランキングでは『君の名は。』と逆転して、1位になっている。原作と合わせて鑑賞する価値のある作品であろう。

                  (文責  木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『ふまんがあります』

2016年10月04日 | KIMURAの読書ノート
『ふまんがあります』
ヨシタケシンスケ 作 PHP研究所 2015年1

絵本作家の作品としての出会いは第61回産経児童出版文化賞美術賞受賞作品ともなった『りんごかもしれない』(ブロンズ新社 2013年)。りんごが見方次第で別のもの(なのかもしれない)という発想を広げてくれるだけでなく、その「モノ」を問うという部分においては哲学的な内容となっており、「絵本」という括りにとどめることのできない作品である。ページをめくればめくるほどに、どこまでが真実(りんご)でどこからが虚構(別の角度のりんご)なのか見えなくなってくる。つまり、今私たちが知っている「りんご」とは果たして本物の「りんご」なのかという疑問が生まれてくるのである。

今回紹介する本書は、前書以上に虚構の世界が強くなっている。絵本の冒頭は女の子が「いま わたしは おこっている」という文から始まる。何に対して怒っているのかというと、大人はいろいろ「ズルい」からだという。そのため「ふまんがあります」というタイトルになっている。例えば、「おとな よるおそくまで おきているのに、こどもだけ はやくねなくちゃいけないの?」「どうして こどもは、よる ねるまえに おかしを たべちゃ ダメなの?」など。ちなみに前述の大人の応えは「じつは、つぎのクリスマスのために、サンタさんから たのまれた ちょうさいんが、『よる はやく ねるこか どうか』を、なんかいも しらべにくるんだよ」。

こうして書いてみると、こどもの「どうして」という問いに対して、大人がそれに応えるというよくある内容にみえる。しかし、これまでの同じような類のものと比較するとそこには、問いに対する子どもへのファンタジーというものは、見られない。あくまでも大人の都合による「噓」の世界が広がる。秀逸は「どうして パパは じぶんが ほしいものは すぐに かうのに わたしの ほしいものは かってくれないの?」という問いに対する返答。「だって あのぬいぐるみを レジに もっていくと、 おみせのおじさんは じつは わるもので、 パパはつかまって、おにんぎょうに されてしまうんだよ」。ここには虚構の世界だけでなはく、大人のずるがしこさが見え隠れする。これらの応えに対して女の子は半分納得せざる得ない表情をするものの、エンディングでは、実は子どもは大人のそれを全てお見通しであったことを指摘するものとなっている。ここに至るまでの二人のやり取りの距離感が絶妙である。

この作品の対象年齢は「4~5歳から」となっているが、大人の世界に踏み出そうとする10代の子ども達に是非読んでもらいたい作品である。人が生きていくためには、必要な「噓」の世界があり、その「噓」をつくために大人は頭をひねり、ドキマキしながら、実は日常を生活しているという一端を知ることができるのではないだろうか。

本作品は『りゆうがあります』(PHP研究社 2015年)の続編。立場が逆で大人の疑問に対しての子どもが理由を述べているもの。こちらも大人顔負けの虚構の世界が広がっている。    (文責 木村綾子)

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