京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『ロシア日記  シベリア鉄道に乗って』

2017年03月21日 | KIMURAの読書ノート
『ロシア日記 -シベリア鉄道に乗って』
高山なおみ 著 新潮社 2016年7月

ロシアのウラジオストクから韓国を経由して日本の鳥取県境港市にフェリーが出ているのを知ったのはつい最近のことである。日本好きのドイツ人が母国ドイツから自らの旅のために手を加えた車(通称ネコバス)でユーラシア大陸を走って日本に来るという番組で、彼とネコバスはウラジオストクからそれに乗船して日本にたどり着いたのである。本書の冒頭、旅のスタートが彼とネコバスの逆をたどりウラジオストクに向かうことが綴られおり、俄然興味を持った。しかし、著者は前述のドイツ人とは旅の目的が異なり、彼女の愛読書武田百合子さんの『犬が星見た』(中央公論新社 1982)に記されたロシアへの旅の道筋をたどる旅であった。

残念ながら私はその著書に関して未読であるため、筆者のこの旅に対する思いをどれだけ重ね合わせることができるか心配であった。しかしそれは読み始めて杞憂であることが分かった。著者高山なおみさんは執筆家でもあるが、もともと料理家として名を馳せている人である。この旅には数多くの食べ物に関するエピソードが登場する。時折、文中には武田百合子さんが顔を出してくるが、それ以上にとかく食べる話が多い。身近な食べ物から、未知の食べ物まで、それだけで十分に心とお腹が満たされる。無論、前述の武田百合子さんの著書が克明に食べ物に関して記載されているようで、それが深く関係していることは疑う余地はない。

出発当日の羽田空港では「ぶっかけ温玉冷やしうどん」を食べたという一文が出てくる。正直、そこにはそれ以上のものはなく(つまり、味に関しての感想など)、ただ「食べた」というだけの事実だけがポンと置かれている。フェリー内でのバイキング方式での夕食。料理名だけでなく、その食材まで記されている。食べ物の話はページをめくるごとに加速する。ウラジオストクで最初の夕食。上記食材にプラスその食べ方が追加される。翌日はそれだけでは書き足りなかったのか、自分が玉ねぎ臭いことまで綴っている。シベリア鉄道に乗ると、更に拍車がかかる。停車駅では必ず下車して駅周辺の露店でロシアの家庭料理を購入。その時のトレイに並べられた料理の並べ方を一つ一つ書き記す。途中下車した町では地元の人の自宅で料理を学び、それらの合間合間にウォッカとビールを嗜む。旅の最終日イルクーツクではロシアの料理本を通訳の人に邦訳してもらう。しかし、武田百合子さんは更に旅を続けている。著者はその思いを食べ物で表現し、自身もその続きの旅を願いながら本書はエンディングを迎える。

本書のあとがきに衝撃的なことが記されていた。この旅は本書が刊行される5年前、つまり2011年6月のことであったと。2011年と言えば、あの東日本大震災が起こった年である。奇しくも私がこれを読み終わったのが、その3月11日。これだけ食べることという楽しい話題の紀行文で心もお腹も満たされているのにも関わらず、全体がモノトーンで静まり返っているように感じたのはそのせいであったのだろうか。この事実を知って読むと、この紀行文もまた別の意味合いが見えてくる。

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KIMURAの読書ノート『サイコパス』

2017年03月03日 | KIMURAの読書ノート
『サイコパス』
中野信子 著 文藝春秋 2016年11月

「サイコパス」という言葉からどのようなイメージを抱くだろうか。大抵の人が世間を震えさせる強烈な殺人鬼を連想するのではないだろうか。本書では、それも含め私たちの周りにいる「サイコパス」について特徴から脳科学的構造、歴史に至るまで論じたものである。

ここで身近にいる「サイコパス」としての特徴の幾つかを挙げると、
・常習的にウソをつき、話を盛る。自分をよく見せようと、主張をコロコロと変える。
・ビッグマウスだが飽きっぽく、物事を継続したり、最後までやり遂げることは苦手。
・傲慢で尊大であり、批判されてもおれない、懲りない。
・つきあう人間がしばしば変わり、つきあいがなくなったことを悪く言う。
・人当たりはよいが、他者に対する共感性そのものが低い。(p8)

となる。これら全てでなくても幾つか当てはまる人が周囲にはいるのではないだろうか。私も正直このような方がかつて身近におり、付き合い方にほとほと悩み、エネルギーを消耗したことがある。と同時に、その人がそうなった背景に興味を持ったのも事実である。この部分で言うと、
・脳の機能について、遺伝の影響は大きい。
・生育環境が引き金となって反社会性が高まる可能性がある。(p150)

現段階ではこれ以上のことを言うのは、難しいそうである。とても肩透かしのようにも感じるが、ここに至るまでに本書が取り上げている文献の数は目を見張るものがある。と同時に、世界で「サイコパス」について様々な研究が古くから行われていることに驚かされる。実際に「サイコパス」という言葉が使われる以前からそれに該当する言葉を持っていた少数民族の存在も確認されている。また概念的なものとしては、ギリシア時代にさかのぼる。19世紀に入ると「サイコパス」の存在についての「発見」があり、そこから本格的な研究が始まっているようである。現代では、これらに関して脳科学的にも研究が行われており、一般の人との活動部位が異なることも分かっている。しかし、現段階では更に実験的な研究というのは倫理的に不可能であるということも記されていた。

更に本書では、昔から一定数集団に存在し、現在も淘汰されていない「サイコパス」について言及している。それには、誰もが不安や尻込みするような事案に対して恐怖心を持つことなく進むことで、新たな道を開く存在であるためというのが理由の一つのようである。そのような意味において広義的な「サイコパス」が存在している職業を最後に本書では記しており、著者は「好むと好まざるとにかかわらず、サイコパスとは共存してゆく道を模索するのが人類にとって最善の選択であると、私は考えます(p230)」と締めている。しかし、凶悪犯罪者でなくとも、身近にいる「サイコパス」と渡り合うのはやはりしんどいと思うのは私だけであろうか。  (文責 木村綾子)

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