京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート 『世界のアニマルシェルターが、犬や猫を生かす場所だった。』

2019年02月18日 | KIMURAの読書ノート

『世界のアニマルシェルターが、犬や猫を生かす場所だった。』
本庄萌 著 ダイヤモンド社 2017年

現在日本では、動物の殺処分ゼロの取り組みが行われるようになり、メディアでも多く取り上げられている。しかし、動物の「保護」という観点からまだまだ後進国であるということも耳にする。実際、私自身国内でのボランティア団体や行政の動きを見聞きすることはあっても、世界の国々ではどのような活動が行われているのか知る機会がなかった。そして今回出会ったのが本書である。

著者は親の仕事の関係で高校時代をイギリスで過ごしている。その時のアニマルシェルターでの職業体験で衝撃を受け、アメリカのロースクールで動物法を学び、現在動物法学者として日本で研究を続けている。その筆者が日本を含む世界8か国の動物保護シェルターを巡り、各国の動物に対する法律も含め、現在の動物の保護状況を報告したものが本書の内容となる。

・アメリカでは、ほとんどの州が動物虐待を厳然たる犯罪として対処しているということ。
・イギリスには、闘犬等に使われてきた犬種の飼育を制限する法律があること。
・ドイツでは、動物の法的地位を改善し、単なる「物」とは違うものであることを明記したこと(日本では動物は「物」として扱われ、動物に傷つけても法的には「器物破損」となる)。
・ロシアでは、野良犬と人が共生しているということ。
・スペインの北東部では「伝統は動物虐待を正当化しない」という理由で闘牛を禁止する法律ができたということ。
・ケニアでは国際法で禁止になっている象牙の取引に関し、かつて合法で日本と中国に1度だけ許可が下りて以降、その商品が合法か違法か判別不可になり混乱状態になっているということ。
・香港では、欧米の文化や思想とアジアの文化や思想を織り交ぜながら、動物との関わりを探っていること。

これらを踏まえた上で、最後に日本の現状を伝えている。もちろん、日本を除く7か国の話題はこれだけでなく、保護シェルターのこと、更には各国のマイナスな部分も詳細に記されている。しかし、そのマイナスな部分を知っても、日本が動物保護の観点から「後進国」と言われてしまう状況が少しは分かるのではないかと思う。各国の保護シェルターは施設も充実しているが、何よりも満床ではないことがいちばんの驚きである。その国の人たちの「意識」も高いということもあるが、何よりもその法律が抑止力になっているとも感じた。今、日本でも動物は「ペット」というよりも「家族」という意識を持っている飼い主が多くなったと聞く。それならば、家族の「人権(動物権?)」を守るためにも、もう少し踏み込んだ制度をの確立化が必要なのではないか。そしてやはり飼い主は家族として動物たちを育む「責任」は最低限の部分であり、当然の義務であると断言できる。平成27年度、日本国内で殺処分された犬や猫は約8万匹。この数字を是非覚えていて欲しい。


=====. 文責 木村綾子

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KIMURA の読書ノート 『人魚の眠る家』

2019年02月03日 | KIMURAの読書ノート

『人魚の眠る家』
東野圭吾 作 幻冬舎  2018年

裏表紙のあらすじは次のように書かれている。
「『娘の小学校受験が終わったら離婚する』。そう約束していた播磨和昌と薫子に突然の悲劇が届く。娘がプールで溺れた――。病院で彼等を待っていたのは、“おそらく脳死”という残酷な現実。いったんは受け入れた二人だったが、娘との別れの直前に翻意。医師も驚く方法で娘との生活を続けることを決意する。狂気とも言える薫子の愛に周囲は翻弄されていく。」

作者が推理小説の大家、東野圭吾でこのあらすじとくれば、この後の展開は狂気の薫子が脳死状態の娘と何かしらの事件に巻き込まれて、それが殺人事件へと発展し、犯人は実は…、そしてその理由は…と想像していたのだが、実際は終始「脳死(臓器提供)」に関する問題提起であった。

子どもの脳死(臓器提供)に関する法律に関して、次のようなセリフがある。「厳密には、臓器提供に同意しないかぎり、脳死したかどうかはわかりません。判定を行いませんから。判定しないから、医者は、おそらく、という言い方をします。おそらく脳死だ、というふうに。でもこの言い方では、親は踏ん切りがつきません。心臓が動いていて、血色もいいんです。我が子の死を認めたくないというのは、親なら当然です。だから法律を改めるべきなんです。医者が脳死の可能性が高いと判断したなら、さっさと判定すればいいんです。それで脳死だと断定できれば、その時点で死亡として、すべての治療を打ち切る。もし臓器提供の意志があるならばそのためだけに延命措置を取る――そう決めればいいんです。それなら親は諦めがつきます。臓器の提供者も増えるはずです」(p295)

作品の後半では薫子が警察を自宅に呼び、“おそらく脳死”とされる我が子に包丁を向けながら、次のように叫ぶ場面がある。「娘はおそらく脳死しているだろうといわれています。すでに死んでいる人間の胸に包丁を刺す――。それでもやはり殺人罪なのでしょうか」それに対して警察は正式に脳死と決まったわけではないのであれば、まだ生きているという前提で考えるべきで、殺人罪が適応されると応える。だが、薫子は言葉を続ける。「もし私たちが臓器提供に同意して、脳死判定テストをしていたなら、脳死と確定していたかもしれないんです。法的脳死の確定イコール死です。それでも娘の死を招いたのは私でしょうか。心臓を止めたのは私だったとしても、私たちの態度次第で、死はとうの昔に訪れていた可能性があるんです。それでも殺したのは私でしょうか。こういう場合、推定無罪という考え方が適用されるのではないですか」(p404、405)

現在日本国内では、自分自身が何らかの事故や病気により「脳死」になった場合、その後をどうしたいかという「臓器提供意思カード」というのが発行されており、それを所持により、意思が反映されるようになっている。しかし、15歳未満の子どもについては、本人の意思ではなく、親がそれを選択することになる。臓器を提供することで助かる命がある一方で、例え目が覚めることがないと理性では分かっていても心臓が動いているがために、もしかしたらという期待を持つのも親である。そして、自分ではない我が子の命の選択をその親がしなければならないという現実。更には現在の法律によってその選択をせざる得ない親が余計に追いつめられるという法の矛盾。当事者とならなければ、なかなか考えることができないこの問題を凝縮した1冊となっている。

本作品は昨秋、篠原涼子さん主演で映画化されている。彼女が苦悩に満ちた母親をどのように演じていたのか、今更ながらに興味を惹かれている。遅蒔きではあるが、今後テレビなどで放映が決まった際には、是非映像でも観て見たいと思う。

文責 木村綾子

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