京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『古鏡のひみつ』

2024年04月17日 | KIMURAの読書ノート

『古鏡のひみつ』
荒井悟 編著 河出書房新社 2018年

去る3月30日~4月7日まで橿原考古学研究所附属博物館で昨年奈良市の富雄丸山古墳で発見された蛇行剣が一般公開されたため、見学してきた。この蛇行剣は国宝級の発見と言われているが、この古墳で発見された国宝級のものはこれだけではない。もう1つが「盾形銅鏡」で現在は「鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡」と名づけられている。という訳で今回も考古学の本を取り上げる。残念ながら見学した「剣」に絡むものではなく、今後一般公開をしてくれるであろうと期待している「鏡」に関するものである。

古墳からの出土品に鏡が出てくることはしばしあることは知識と知っていたし、これまでも博物館で数多く目にしてきた。しかし、その役割というのを深く考えたことはなかった。ましてや、鏡の裏の数々の文様に意味を持たせているということなど、はなから意識の中に組み込まれてさえいなかった。ただのデザインとしての意味合い程度だったというのが正直なところである。そのため、最初の小見出しに「実用品とは違う『鏡』の姿」というのを目にした時、言葉につまってしまった。私としては「姿見」とまでは思わなくても、グリムの昔話「白雪姫」に出てくる「魔法の鏡」程度、つまりどのような場面であれ「人を映す」というのが第一番の使い道だろうと思っていたからである。本書によると古代の人たちは鏡面以上に鏡背(鏡の裏側)に神秘の力を感じていたという。この言葉を枕にたくさんのカラーで掲載された鏡が余すとところなくページを埋めている。そして、説明書きを見なくとも、鏡背の文様がここまで異なっているのかと見せつけられる。

鏡の歴史としては4000年前の新石器時代の中国、斉家(せいか)文化まで遡るらしい。そして、殷周時代を経て春秋戦国時代に精巧な金属製の鏡が制作されるようになったと説明されている。この金属製が太陽の光を浴びて輝くため、このことが古代の人々は神秘の力と感じ取ったようである。日本には弥生時代前期に大陸からもたらされ、弥生時代中期に日本列島各地の社会に広がっている。
 
本書は中国で出土した鏡と日本で見つかった鏡それぞれを歴史と共に行きつ戻りつしながら、説明されており、それは古代だけでなく、中世に入っても神格化された鏡としての位置付けにまで考察は及んでいる。そして、それは19世紀後半まで続いていたということを史料から読み取ることができると本書では説明されていた。

が、それは説明文を読まずしても掲載されている数々の鏡の文様を目にするだけで、鏡が特別な存在であったということが分かる。そして、その文様はただただ「素敵」という言葉ひとつで片づけても何らおかしくなく、今の日常からは考えられない程、精密で丁寧で独特のデザイン性を持っており、どれも魅了されるものばかりである。

さて、日本における四世紀は国内でも、大陸でもその記録がない「空白の四世紀」と言われている。富雄丸山古墳から発見された数々の出土品はその四世紀の時代のものである。今年の3月時点の情報では出土された鏡についてはまだ背面が確認されていない(クリーニング作業が終わっていない)状況だという。もし、この背面に何かしらの文字や意味を示す文様が刻まれていたらと思うと、今からわくわくした気持ちが抑えられない。調査結果と一般公開が待ち遠しい。


========文責 木村綾子





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

KIMURA の読書ノート『考古学者が発掘調査をしていたら、怖い目にあった話』

2024年04月04日 | KIMURAの読書ノート

『考古学者が発掘調査をしていたら、怖い目にあった話』
大城道則 芝田幸一郎 角道亮介 著 ポプラ社 2023年7月

現在、古代日本についてどっぷり、沼にはまっている私ですが、小学生の頃は古代日本よりは世界の古代遺跡にどっぷりとはまっていました。正確に言えば、「世界のミステリー」と銘打った本を読み漁っていましたので、その中にはマチュピチュやイースター島、イギリスのストーンサークルなどの記述があり、知らず知らずのうちにその世界を妄想していたという訳です。もちろん、現在も関心は薄れてはおりません。日本の古代遺跡のように、歩き回ってフィールドワークということができないので未だ知識ばかりを詰め込んでいますが、関連した本に出合った時は家にお連れするという状況です。という訳で、今回はまさにそれに関連する1冊です。

3人の著者は大城氏が古代エジプト、芝田氏が南米ペルー、角道氏は中国殷周時代がそれぞれ専門分野。彼らが現地で発掘調査をしている際に起こった出来事がエッセイ風に綴られています。「怖い目」というと、「幽霊」にあったとか、「強盗」にあったなどをうっかり想像してしまいますが、考古学者ならではの「怖い目」はそれだけではありませんでした。
 
例えば、かつてツタンカーメンの発掘調査に関わった人が、次々と死亡したということを引き合いに出し、現在も地下での発掘調査を行った後に1カ月熱が下がらなかったこととか、やはり地下での発掘調査で、2週間その地下にこもって人骨と共に過ごしたこと。別の現場では共に過ごしたどころではなく、地下に閉じ込められた話。笑えるけれど深刻なトイレの事情。食文化から伝統神事に関して日本ではありえないこと。何よりも海外で発掘調査を行うために申請する書類が100ページを超えること。この中には全く命にはかかわらない話題もありますが、どれもこれも考古学者にとっては「怖い目」。まさに聞いてみないと分からない話ばかりです。

しかし、最後に執筆を担当している芝田氏のエンディングはまさに身の毛のよだつような「怖い目」。未だ科学的には解明されていないことです。そのようなことって本当にあるのだと、ただただ読みながら呆然としつつ、やはり、さもありなんか……と思ったりもします。そして、私が幼き頃の読んでいた「世界のミステリー」にそれがつながっていく不思議な感覚がありました。これだからこそ、古代遺跡から関心を外すことができないのだなーと一人で納得した次第です。

本書はこれだけに特化したものではなく、全体的には世界を飛び回る考古学者の仕事はどのようなものなのかということがエッセイの中で綴られていて、そこには全く想像のできなかった世界(業務内容)が広がっております。そして、読了後に思ってしまったことは「この職業、気力、体力、時の運の3拍子揃ったものを持っていないと務まらないな」ということ。この3拍子を持ち合わせた考古学者なしには、私たちが果てしない世界の歴史を見て妄想することができないのだ思うと、ただただ頭が下がったのでありました。

=====文責 木村綾子


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする