京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート 映画 『新聞記者』

2019年07月15日 | KIMURAの読書ノート



『新聞記者』
望月衣塑子(『新聞記者』角川書店)原案 藤井道人 監督・脚本
シム・ウンギョン 松坂桃李 出演 2019年6月28日公開
 
東都新聞社社会部に勤務する吉岡エリカ(シム・ウンギョン)。ある日、その社会部に「医療系大学の新設」に関する極秘の公文書が匿名のファックスが送られてくる。内部リークされたものなのか、誤報を誘発させるものなのかエリカは調査を始める。同じ頃、外務省から内閣情報調査室(通称:内調)に出向している杉原拓海(松坂桃李)の下に外務省時代の上司である神崎俊尚から連絡が入り、二人は5年ぶりにお酒を酌み交わす。その数日後神崎はビルの屋上から身を投げる。独自の調査で神崎が「医療系大学の新設」に関わっていたのではないかと推測したエリカは神崎の通夜の席で杉原と出会う。エリカの「私は、神崎さんが亡くなった本当の理由が知りたいんです」という言葉に、二人はそれぞれの立場で真相を追いかける。
 
この作品そのものが虚構なのか現実なのか。文科省トップの女性スキャンダルから映画は始まり、スクリーン内に映し出されるテレビ番組の討論会では、東京新聞記者の望月衣塑子氏や元文部科学省事務次官の前川喜平氏が実名で意見を交わし合っている。そして「医療系大学の新設」問題。更には、それぞれの問題がSNSで拡散されていく様子。知っている俳優さんが出ていなければ明らかにドキュメント映画だと錯覚してしまう程である。それでもこれは、完全なるフィクションというよりは、ほぼ現実に近いフィクションであるのだろうと推測する余地はそれなりにある。その根拠となる1つが、番宣である。韓国で数々の賞を総なめにしている実力派俳優のシム・ウンギョン、国内でもともと人気があり、ここ数年で俳優としての頭角を現した松坂桃李のダブル主演作品となれば、一般的に公開前はあちこちのテレビ番組で2人が番宣で出演してもおかしくないのであるが、これが全くの皆無であったということ。また、クランクインからクランクアップまでわずか2週間。内容が内容なだけに、どこからともなく圧力がかかったのではないかと私は勝手に思っている。これが、完全なるフィクションであれば、他の映画同様にあちこちのメディアで取り上げられていて当然であるし、もっと時間をかけて撮影に臨んでもいてもおかしくない。それでも、この作品が公開されるや否や、SNSや口コミで拡散され、公開11日目で興行収入2憶円を突破したと映画ニュースで報じられている。実際私は公開2日目に観覧してきたが、全95席ほぼ埋まっていた。
 
映画内でインパクトがあるのが内調の場面。実際の内閣官房のサイトには「内閣情報調査室は、内閣の重要政策に関する情報の収集及び分析その他の調査に関する事務並びに特定秘密の保護に関する事務を担当しており、内閣情報官のもとで、次長及び総務部門、国内部門、国際部門、経済部門、内閣情報集約センター並びに内閣衛星情報センターで分担し、処理しています。」と記されているが、映画内ではここでかなり世間に流れる情報の「操作」をしている設定となっている。実際ここのトップは内調のことを「火消し」と呼び、政府にとって不都合な出来事や噂はここから都合の良いように編集し、トップが言うところの「与党サポーター」に拡散している。ここまで映画で描写されると、これまでの現実に起きた様々な疑惑がなぜ立ち消されていっているのか、妙に納得させられてしまう。
 
『孤狼の血』で松坂桃李という役者について私は絶賛したが(2018年5月17日の記事)、それを上回る演技力をこの作品で彼は見せつけてきた。権力と家族、そして正義との間に板挟みにされた官僚の苦悩。みるみるうちに頬がこけていく姿に誰もが彼に自分を重ねていくのではないだろうか。そして、シム・ウンギョン。新聞記者として真実と権力の狭間に髪を振り乱し、必要な言葉を紡ぎだしていく姿に心を打たれるのではないだろうか。あるサイトで書かれてあったが、この役を最初は日本人の俳優さんにオファーしていたが、内容が内容だけに誰も首を縦に振らなかったという。しかし、この役はもはや彼女以外には考えられない程のはまり役であった。そして、松坂桃李とその事務所にはオファーを承諾してくれたことに敬意を表したい。
 
パンフレットの最後に監督は次のように綴っている。
「『これ、ヤバいですよ。』『作ってはいけないんじゃないか』という同調圧力を感じつつの製作過程ではありましたが、映画『新聞記者』は完成しました。皆さま、この機会にぜひこの映画にお心を向けて下さい。『映画こそ自由な表現を』の旗を掲げ、ご覧いただいた皆さまのご意見ご感想を糧に、映画『新聞記者』は前人未到の道を進んでまいります。」
 
奇しくも‪7月21日‬は参議院選挙である。

== 文責 木村綾子





 

KIMURAの読書ノート『強制不妊』

2019年07月05日 | KIMURAの読書ノート
『強制不妊』
毎日新聞取材班 著 毎日新聞出版 2019年3月
                                              
2018年年明け。東北に住む一人の女性が国を相手取り、強制不妊をさせられたことに対する訴訟を起こしたことで改めて日の目を見ることになった「旧優生保護法」(以下優生保護法)。しかし、その実態を把握している人はなかなかいない。本書は毎日新聞が「旧優生保護法を問う」というキャンペーン報道として展開したものを1冊にまとめた壮絶な記録である。
 
私自身、本書を読み、ただただ啞然とした。戦後、日本は憲法で人権に関して保証されているはずなのに、
・障害を持っているという理由だけで、本人の同意なく強制的に不妊をさせることができたということ。
そしてそれが平成の時代、1996年まで続いていたということ。
しかも、強制不妊手術に関して、同意どころか、何の手術をしたのかということを当事者に知らせていないことも多々あるということ。
更に、それがエスカレートし、何の疾患もないのに、自分に不都合な人物だからという理由で、当事者をだまして手術をさせていたということ。
 

しかし、この法律の恐ろしいところは、もっと別のところにある。法律が制定されたことにより、この法律で行われる強制不妊に対して予算がつく。その予算のためのノルマが課せられ、それにより法律改定をし、より強制不妊の対象者を増やしているということである。つまり、「命」や「健康」を国の予算で操っていたということである。
 
女性が一生に産む子どもの平均数をあらわす合計特殊出生率が、当時過去最低の1.57であることが判明したのは1990年。これ以降、政府は「エンゼルプラン」などを打ち出し少子化対策を行ってきたが、その一方でこの優生保護法が生きていたという矛盾。となると、この少子化対策も国は、予算という名のもとに、子どもを商品として考えているのではないかと穿った目で見てしまわざるを得ない。
 
本書の取材班は、司令塔は東京にしたものの、北海道から九州まですべての本支社に担当デスクを置き、全国に散らばる被害者やこの法律に結果として加担する側となった医療従事者をはじめとする行政職員などへのインタビュー、そして当時の国や自治体からの資料を余すことなく吸い上げることができたことにより、この法律の実態を丸裸にすることを可能とした。
 
それでも、この取材を通して、「我が子に不妊手術を受けさせたい」と訴える現在成人を迎えた障害を持つ子どもの親からの訴えも取り上げている。その親の訴えは切実である。我が子が性的な犯罪に幾度となく巻き込まれそうになったこと。このことに関して我が子を守るためのサポートがないか行政をはじめとする様々な窓口で相談をしてきたが、支援を受ける体制が今の日本ではないということが明らかとなっている。取材班はこう綴っている。
 
「優生保護法下で不妊手術の可否を審査した精神科医らにも取材した。彼らは決まって「家族からの要請があった」と言った。家族が望んだ不妊手術だから医師だけの責任ではない、という弁明にも聞こえたが、(略)優生保護法の時代も、優生保護法が改定された時代も、障害者と家族が置かれた状況はそれほど変わらないのではなないかという現実だった」(p223)
 
弱者を取り巻く環境は「過去の話」ではないのである。

======文責 木村綾子

KIMURAの読書ノート 『アヴェ・マリアのヴァイオリン』

2019年06月14日 | KIMURAの読書ノート

『アヴェ・マリアのヴァイオリン』

香川宜子 作 角川書店 2013年

あすかは徳島に住む中学2年生。父親は医者で両親ともあすかが医者になることを望んでいる。あすかは小さい頃からヴァイオリンを習っており、将来ヴァイオリンが弾ければいいなと漠然とは思いつつもヴァイオリニストになりたいと確固たるものもなく、かつ医者になりたいという気持ちが全くないわけでもないというよく分からない状態だった。ある日懇意にしている楽器店からいいヴァイオリンが入ったという連絡があり、母親とその楽器店にあすかは行くことになる。そのヴァイオリンはかつてあすかと同い年のハンナ・ヤンセンという女の子が所有していたものであった。ハンナはアウシュビッツ収容所の生存者でこのヴァイオリンは収容所の前の野にあったという。その後、ハンナのことを知るポーランド在住でオーケストラの指揮者のカルザスが『交響曲第九番』の指導のため来日することを知り、あすかは彼に会いに行く。そして、彼から語られたハンナの生涯とは。

この作品はあすかとハンナのダブル主人公となっており、第1章があすかがカルザスに出会うまで、第2章から第4章までがハンナの生涯、そして第5章はカルザスがハンナのことを語り終わった後という構成となっている。

アウシュビッツ収容所に関しては『アンネの日記』が有名で誰もが知るところであるが、アンネと違うのは、ハンナはヴァイオリンを習っていたということで、収容所では家族と分けられ、ここの音楽隊としての役割を与えられる。音楽隊に入った者は、毎日の食事が与えられ、部屋も個室という他のユダヤ人とは全く別の待遇であったが、その役割は人々を欺くため、アウシュビッツ内で行われていた恐ろしい行為を隠蔽するための道具であったことがハンナの目を通して語られている。

本書は『アンネの日記』と異なりフィクションであるため、同列に扱うことは難しいが、作者は巻末に主要参考文献を掲載すると共に、フィクションではあるもののエピソードは実際の出来事を元にしていると断り書きを記している。つまり、ハンナは存在しないけど、ハンナと同じ生涯を送った人がいると解釈できる。『アンネの日記』でしか知らないアウシュビッツの恐ろしい状況をこの作品を読むことで更に強固にさせられるだろう。人は一体どこまで非人道的になることができるのか。『アンネの日記』とは違う角度からこの作品はそれをまざまざと見せつけることとなる。

またハンナと同じ音楽隊にいた男性は、第1次世界大戦中徳島の板東俘虜収容所に連行され、そこでの生活をハンナに聞かせる場面も出てくる(板東俘収容所に関する本は『二つの山河』として「読書ノート」(2016年7月21日の記事)で紹介しています。



アウシュビッツの対極として板東俘収容所をこの作品で描いているとすれば、それは違うと感じるが、板東俘収容所を知るという意味においてはこの作品はその役割を担っている。

カルザスがあすかに語る。
「歴史を勉強しない子はいけない。しかし、知っているだけじゃあだめだ。何年に何が起こったかなんて年表を覚えても、それは歴史を知ったことにならない。史実に基づき、自分の頭でいろいろなことを考え、感じることが勉強なんだよ。そして、人間にとってこれから先、どう生きていくべきか、幸せとはどんなことなのかを追求し、世界に目を開き、きちんとした自分の意見を持つことが歴史を学ぶことの意味なんだ」(p41,42)
まさにそれを具現化した作品である。

====== 文責 木村綾子

KIMURA の読書ノート. 『科学と非科学』

2019年06月03日 | KIMURAの読書ノート
『科学と非科学』
中屋敷均 著 講談社 青木健生 シナリオ 小学館 2019年2月

しばし、とある事象について述べた時、「科学的でない」とか「根拠が明確でない」と一蹴されることがある。確かに理屈では説明できないけれど、それでも自身が体験したこと、経験したことは明らかな肌感覚として残っている。しかし、他者からすれば、それは説明つかなければ胡散臭ものとなってしまう。著者の言葉を借りれば、『現代において「非科学的」というレッテルは、中世の「魔女」のような「異端」の宣告を感じさせる強い力をもっている(p6)』ということなのだろう。だが、著者は続ける『果たして科学という体系は、本当にその絶大な信頼に足るほど強靭な土台に建っているものなのだろうか』、『「科学的」なものと「非科学的」なものは、そんなに簡単に区別できて、一方を容赦なく「断罪」できるものなのか?また、「科学的な正しさ」があれば、現実の問題は何でも解決できるのだろうか?』と問いかけている。本書はこの問いに対して、著者が論じているものである。

第1章では、様々な事例を挙げて、先の問いに対する著者なりの結論に導いている。前提として「科学」というのを考える上では、重要なポイントが1つあるという。それは、科学的な物の考え方の基礎には、この世界は「法則」に支配されていて、同じことをすれば同じ結果が返ってくることが前提となっている。分かり易く言えば、学校の教科書で学ぶ各種の公式がそれに当てはまる。しかし、現実の世界では、同じことをしても同じ結果が返って来ないことは多くある。それは、公式などは理想的条件下で行われた場合であり、現実には理想条件下では無視できるような微弱な力や因果律の作用が大きくなるからだと著者は指摘している。こうなると科学的な考え方の「法則」から現実の世界は外れることになる。また別の視点で科学的な知見を不確かにしてしまう事例として「安全」と言われている「医薬品や食品添加物」について挙げられている。科学的に検査やデータを取った上で「安全」としているが、「絶対安全」とは言われず「大体安全」とされている。それは、ある化合物単独の毒性は調べられていても混合された時の組み合わせは多すぎて、現実的には検査対象になっていないからである。しかし、一般的には科学的に検査をしてこれを「大体安全」としている。だが、現実は「科学的に検査をしていない」部分も含めての表現である。最終的に著者は『「科学と似非科学の間に境界線が惹けるとするならそれは何を対象としているかではなく、実はそれに関わる人間の姿勢によるのみなのではないかと私は思う』としている。また、著者は現在の社会で「科学的な根拠」の確からしさを判断する方法として、世界的な学術誌に掲載されたからとか、有名大学教授が言っていることだからという権威主義に基づいたものが特別な位置に置かれているからだとも指摘している。しかし、これは権威にしがみついているだけだと著者は一蹴している。

第2章は、第1章のことを踏まえた上で、「科学は不確かなものである」ということを前提として、科学が進歩してきた歴史や、そのリスク、また現在の競争原理や大学における研究について語られている。そして、最終的には「科学」であろうが「非科学」であろうが、「意志のある選択」というのが人は大切ではないのかということで本書はまとめられている。

「科学」とはこれまで理論づけられ割り切れるものと信じていたが、本書を読むと現実の「科学の現場」の実態を知り、以外にも「科学」が全く違う様相を見せ、ただただ、自分自身「科学」という言葉に振り回されていたことに気づかされる。約20年前に政府は科学技術創造立国を目指すという答申を発表しているが、日本がイメージする「科学」とは一体何なのか、もう一度立ち止まって考える必要があるのではないだろうか。
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文責 木村綾子

KIMURA の読書ノート 『まんがで語りつぐ広島の復興』

2019年05月17日 | KIMURAの読書ノート

『まんがで語りつぐ広島の復興』

手塚プロダクション まんが 青木健生 シナリオ 小学館 2015年
 
本書に出会ったのは、半分偶然で半分は意図的である。たまたまGW中に友人が店主をしている書店に遊びに行ったところ、野球談議(店主は野球好きでもある)となった。そこへ小学校6年生の女の子が母親と共にやって来た。彼女は作家重松清の著書を購入したのであるが、その時母親が彼の作品の一つである『赤ヘル1975』(講談社 2103年)について店主に問い合わせた(※1)。そこから「ヒロシマ」のこと「カープ」のことについてこの母娘も加えて話が咲くこととなった。その流れから、この読書ノートでもかつて紹介した『ヒロシマを残す』(2018年10月20日の記事)、『原爆』(2019年3月4日の記事)、『日本野球をつくった男』(2019年4月20日の記事)についても話題となった。書店をあとにした後、ふとこの4冊について思いを巡らした。もしかすると、広島が原爆にあったその後のことが綴られた本が他にもあるのではないかと、図書館に足を運んで探したところ、行き当たったのが本書だったのである。
 
本書は読書ノートで紹介した3冊の内容を含めた10の復興の物語がそれぞれ30ページ弱でまとめられている。人間が生活していくために大切なインフラである「水道・電気・ガス」の復旧についてまず第1章で描かれているが、なんと、水道は原爆が投下されたその日の‪午後2時に‬給水が再開され、‪2日後‬の8日には電気が復旧されている(ガスは少し時間がかかり翌年4月に供給開始)。そのため、JR(当時の国鉄)もその2日の間に線路を引き直し、8日より復旧している。同じく‪2日後‬に営業を再開した12の銀行(第3章)。‪4日後‬に復旧した、今でも広島の足となっている路面電車(第2章)。他、学校の再開や広島の経済の再建など、恐らく誰もが想像しなかった程のスピードで広島の街が立て直されていることが本書を読めば一目瞭然である。
 
広島は現在「紛争の被害や傷跡から立ち上がろうとする国にとり、手本となる街である」と本書の「はじめに」記されている。実際に自国で復興事業に携わるアフガニスタン人を広島市に案内したり、2011年に起きた東日本大震災の被災地域からは「広島が復興したのだから」という掛け声が上がったとのことである。また、本書は被爆70年にあたり、中国放送(広島にある放送局)が立ち上げた『未来へ』というプロジェクトの一つとして発刊されたものである。しかし、「ヒロシマ」における資料は「原爆投下」そのものがほとんどで、復興への記録は多く残されていなかったと綴られている。その中でこのプロジェクトに関わったスタッフは地道に資料や記録を探し求め、こうしてこの1冊が完成されたのである。読書ノートで紹介した3冊のように一つ一つのエピソードが詳細には描かれていないが、それでも、3冊では取り上げられていない様々な「復興」がここにはしっかりと地に足をつかせ存在している。まずは本書を足掛かりにして、ヒロシマの「復興」を、そして「復興の力」を身近に感じて欲しいと願う。
 
また、「ヒロシマ」は今後「原爆」という負のワードだけでなく、「昭和」から「平成」そして「令和」に続く新たなキーワードとなり、間違いなくその道標になるであろう。この転換期に本書に出会ったこと、いや昨年からの、3冊からの、この流れに不思議な力を感じる。
 
※1…『赤ヘル1975』については拙ブログ(2014年7月19日の記事)に記載。興味がありましたら、ご覧ください。
(‪https://plaza.rakuten.co.jp/hibinotsurezure/diary/201407180000/‬)


=======. 文責 木村綾子

 


KIMURA の読書ノート 『父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』

2019年05月02日 | KIMURAの読書ノート

『父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』

橋本治 著 朝日新聞出版 2019年4月30日

本書は今年1月に亡くなった橋本治氏が『小説トリッパー』で2017年からその直前まで連載していた「指導者はもう来ない 父権制の顛覆」を改題し刊行されたものである(改題は生前橋本氏の意向を受けたものだそうだ)。

「父権制」は「家父長制」と共に生まれた思想である。「家父長制」そのものは明治時代に法律で明記されたもので、戦後は撤廃されている。しかし、橋本氏は冒頭でも明記しているが、「父権」という考えは今も尚相変わらず残っていて、その一例として「威張る父親」になりたがっている人がいるとしている。それでも、橋本氏はまもなくこの「父権制」というあり方が瓦解するであろうと予言している。それはなぜなのかという理由が1冊にたらたらと綴られているのである。

「たらたら」という表現を使ったが、本当に「たらたら」なのである。実際著者自身も文中で「話があちこちとんでしまうが」と幾度となく記している。とびすぎて、読み手は「たらたら」と言った具合に感じる。何せその理由となる日本の変化について第1章で2017年の都議選を挙げ、その辺りを説明していたはずなのだが、そこでは確固たる結論というものはなく章が終わり、第2章では自分が「父権制」が顛覆してきたことに気づき始めたのは……と映画「スターウォーズ」シリーズの話を延々とし始める。その説明は、あきらかにスターウォーズのあらすじであり、私のようにこの映画を観ていない人間に対して、「今後DVDを借りてこの作品を観る必要性はないな」と思わせる位詳細である。そして、「スターウォーズ」が終わったかと思えば、続いて「スパイダーマン」、そして「バットマン」が登場する。そして、ようやく2017年の都議選の話に戻ったかと思ったら、わずかそれは1ページ半のみ触れて、第2章終了となる。第3章は再び「スターウォーズ」の登場である。それから日本の学生運動に話はつながるが、今度はプレスリーとジェームズ・ディーンが登場してくる。しかし、第3章の最後2ページはやはり2017年の出来事に触れているのである。この辺りで全体の半分まで話は来ているのだが、ここまで来ると次はどんな話が飛び出し、2017年につながるのか、多少の期待をするものの、正直読んでいる頭は混乱している。第4章以降も映画の話が出てくるのかと思えは、唐突に「加計学園・森友学園」が話題にのぼってくる。ここで彼が言いたいことは、『この問題の中心にいるのが「安倍」という事ではなく、「中央の人間は地方の人間を下に見ている」という事実』という事で、話はパワハラ、セクハラの問題へとシフトチェンジする。そして、ここから一気に(いや、まだ「たらたら」は少し残っているのだが)加速度を上げる。そして、最後のページ、著者が言いたかったことは「父権制瓦解の理由」そのものではなく、タイトルの後半「指導者はもういない」という事であることに気づく。

また、ここに至る直前にはわずか2ページ程であるが女性天皇のことについても触れている。しかし、これに関しては決して唐突でもなくここまでの流れの中で書かなくては終着点に着かないという著者の意思のようにも感じた。もちろん、それは元号が変わるということも意識してのことではあろうが。もし、著者がこの転換期を目にしていたら、どのような流れでこの先のことを予言しつつ、近未来への結論を導いていたのだろうか。それが読めないのかと思うととても残念である。

====== 文責 木村綾子


KIMURAの読書ノート 『日本野球をつくった男 石本秀一伝』

2019年04月20日 | KIMURAの読書ノート

『日本野球をつくった男 石本秀一伝』

西本恵 著 講談社 2018年11月
 
「石本秀一」という名を聞けば、カープファンであれば、「カープの初代監督」とすぐに思い浮かべることができるであろう。そのため、本書のタイトルが「カープをつくった男」であれば、何も違和感なくカープ本として受け入れられるはずである。しかし、本書のタイトルは「カープ」という小さな地方球団ではなく「日本野球」と野球界全体を表すものとなっている。それは何を意味することなのか。カープファンの私自身、前述したように彼は「カープの初代監督」であり、カープの創設に尽力した人間という知識しか持ち合わせていなかった。一体彼は何者なのか。惹かれるように本書を手にした。
 
広島県出身の彼は、現在の県立広島商業高校に入学し、ここの野球部に所属。そして全国大会に出場している。大学卒業後は大連に渡り、商社で勤務。大連では実業団チームに所属し、その後大連商業の監督を務める。広島に戻った彼は毎日新聞の記者として就職しながら、母校広島商業高校の監督となり、4回の全国制覇を果たしている。そのまま、高校野球の監督と記者の二足の草鞋を履き続けるのかと思いきや、日本のプロ野球の前身、職業野球がスタートした時には、今の阪神タイガースの監督として就任。タイガースの黄金期を築いている。タイガースを退任すると次は名古屋金鯱軍の監督を務める。そして、野球チームの吸収合併で金鯱軍が消滅すると他のチームの監督にと次から次へと監督として招聘される。ちなみに、ここまでの話は全て戦前のことである。プロ野球が発足する前の今の高校野球界において、すでに名選手、名監督として全国に名を馳せていただけではなく、その後のプロ野球(職業野球)発足に関しても名将として呼び声が高かったことが分かる。本書では、彼の功績だけでなく、戦前からの野球界の歴史が細かく記されており、往年のスター選手の名前もここでは数々取り上げられている。そして、それらの選手が全て石本秀一と何らかのつながりを持っていたという事実に、野球ファンであれば鳥肌が立つ思いではないだろうか。
 
少しばかり戦後カープ創設と石本秀一のことに触れておくと、親会社を持たないばかりか、オーナーすらいなかったこの球団の選手集めや運営資金を確保したという話は、ここ近年テレビ番組でも取り上げられているため、知っている人も多いと思われる。しかし、ここで一歩立ち止まって欲しい。「監督」と言えば、試合の采配をするのが「監督」であり、選手集めや運営資金を確保するのは「監督」の仕事ではない。これらは、GMであったり、CEOの役割である。しかし、彼は「監督」をしながらそれら全てを行ったのである。また、資金集めは、「後援会」を結成して運営資金を調達している。しかし、「後援会」そのものを結成するために、地域や会社、町内会に出向き、カープの窮状を理解してもらい、一軒ずつ頼み廻っている。そして、お金を出してくれた人には、領収書代わりに、新聞に名前を掲載するという方法をとっている。これは今でいうところのクラウドファンディングである。今では当たり前となってきた手法の数々を様々な場面で石本は戦後発足したプロ野球界で(とりわけカープという球団の中で)、最初に用いた人物でもあるのである。
 
また、カープを退任後は、現在の西武ライオンズ、そして中日ドラゴンズのコーチとして選手を指導するのみならず、その後の野球界を背負っていく指導者も育てている。まさに、石本は「カープ」という球団では治まりきらない、野球界に足跡を残したタイトル通り「日本野球をつくった」人物だったのである。
 
本書は全578ページと、本としてはかなりの厚みのあるものである。しかし、丁寧で綿密な取材に基づいて綴られた彼の一生は、日本野球の歴史そのものでもあることがよく分かる。野球ファンにとっては溜飲が下がる1冊になっていると断言できる。
 
3月29日に今シーズンのペナントレースが開幕し、広島東洋カープは昨年までの勢いがそがれたかのように低空飛行を続けているが、石本監督が力を尽くして立ち上げたこの球団、いや日本野球でプレーしていることを誇りを胸に是非前を向いて進んで欲しいと、蛇足ながらファンのひとりとしてここに付け加えておく。

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文責 :木村綾子


 

KIMURA の読書ノート ブラック校則

2019年04月04日 | KIMURAの読書ノート

『ブラック校則』
荻上チキ 内田良 編著 東洋館出版社 2018年

4月。入学式を心新たに迎えようとしている子ども達もたくさんいることだろう。しかし、実際に中に入ってみて、思った以上に違和感を持つことがある。その一つが「校則」ではないだろうか。例え入学前にその「校則」について知っていたとしても、それが文字以上に自分自身を拘束するものに感じ、学校生活が苦痛になることもある。私が中学生の時は校内暴力が吹き荒れていた時代で、それを抑え込むべく「校則」は半端ではない位厳しかった記憶がある。服装や頭髪どころではなく、抜き打ちの「お弁当チェック」というのもあった。お弁当の中にお菓子類が入っていないかというものである。噓のような話であるが、実際にそれは行われ、親も先生方のそれに関して容認していた。そして、今。このような噓のような校則というのは減ってきていると漠然と思っていたが、手を変え、品を変え、理不尽な校則が蔓延しているようである。実際、校則によって、生徒の命が奪われ、事件となったものも幾つもある。本書は、そうした時に作られた「ブラック校則をなくそう!プロジェクト」のリサーチャーとしてこのプロジェクトをサポートしている荻上チキと名古屋大学院准教授で学校のリスクについて広く情報を発信している内田良が編者になり、多角的に現在の「校則」についての構造や影響を分析したものである。

本書で特記すべきものの一つに、これまで漠然と「校則」というものについて語られていたことを実態把握として大規模にアンケート調査を行っているという点である。それは現役の中高生に絞られたものではなく、50代までを対象に広げ、自分自身の校則に関する経験を聞いている。また予備調査では、現役の保護者にも調査を行っている。そしてそれ以前にTwitterにおいて校則に関する理不尽な指導を投稿してもらい、1000件以上の事例からアンケートに用いる項目を決定している。「校則」をデータ化したことで、私たちの時代も今も「校則」に変化がないどころか、意外にも今の方がより厳しくなっていることが分かる。また、それは、ここ何十年かで社会や気候の変化が大きく変わっているのにも関わらず、「校則」というものがそれに応じて見直されず、ほぼ何十年も前と変わらず固定化されているというも明らかとなった。それにより、子ども達に健康被害が及んだり、人権問題・経済的問題にもつながっていることなど具体的な例を示しつつ、述べられている。更にはここではLGBTについても深く掘り下げられている。

本来「校則」というのは、子どもの目線に立ち快適に学校生活を送るためものではいけないはずなのに、大人が子どもを管理するための「道具」になっているというのが、本書を読んで改めて認識せざる得ないものとなった。子ども達が健やかに成長するための場所としての「学校」で大人が作った「校則」により、理不尽さや窮屈な思いを感じるだけでなく、それで命を落としてしまうという現実。また、学校はこれだけではなく、「いじめ」という大きな問題を抱えているが、少なからず「校則」については、学校の「ルール」だからという門切り型の思考から一歩離れ、子ども達にとって何が大切なのかということを大人が少し考えれば、「いじめ」よりは少し早く解決できる問題ではないだろうか。

多くの子ども達が笑顔で迎えるであろう入学式。その3年、もしくは6年後、卒業の時も笑顔で迎えて欲しいと切に願う。


=====文責 木村綾子


KIMURAの読書ノート『卒業の歌』

2019年03月19日 | KIMURAの読書ノート
『卒業の歌』
本田有明 作 PHP研究社 2010年

校内放送で職員室に呼び出された6年生の翔太。「おばあちゃんが入院した」ということを聞かされ、その足で病院に向かう。骨折しただけであったが、七夕の日が誕生日のおばあちゃんは病院でその日を過ごすことになる。そこで翔太と姉のマオはおばあちゃんに誕生日プレゼントのリクエストをしたところ、「歌がいい。翔ちゃんの作った」と答えるおばあちゃん。歌を作ったことのない翔太は気が重いまま病室を後にしたところ、病院の受付に同じクラスの細川さんがいることに気づく。その日は彼女の姿を遠目に帰宅の途についたものの、後日おばあちゃんのお見舞いに行った時、再び彼女に出会う。そこで翔太は彼女におばあちゃんからのリクエストのことを話すと翔太が作った詩に彼女が曲をつけてくれるという。実際に出来上がった歌はおばあちゃんが「子守歌」として気に入ってくれる。同じ頃、学校では2学期に行われる合唱コンクールの曲を決めていた。翔太のいる3組はまとまりがなく、合唱コンクールも全体的に士気が下がっていた。しかし、翔太と細田さんがおばあちゃ
んのために歌を作ったことを耳にしたクラスメートが自由曲を創作曲で挑戦してはどうかという提案をしてから、クラスが徐々にまとまっていく。テーマは「卒業」。そして、2学期の初め歌が出来上がり、更にクラスが一つになっていこうとしている最中、細川さんが、合唱コンクールを待たずしてアメリカに引っ越すことがクラスに告げられる。

この作品はわずか160ページの児童書であるが、思わずハッと考えさせられる場面が随所に織り込まれている。とりわけ、翔太と細川さんの家族構成とその背景。子ども達に分かるように平易な言葉で描写されているため、さらっと読んでしまうとその作者の真意を読み過ごしてしまいそうになる。しかし、そこにある言葉は決して簡単に片づけることのできない、今の日本の直面している家族の形というのをしっかりと示してくれている。

そして、テーマとなる「卒業」。学校を卒業するということが大きな意味となるが、それだけでなく、そこに至る過程で更に一回り成長する子ども達の姿が丁寧に描かれている。誰もが迎えたことのある「卒業」であるが、自分自身を振り返ってみてもなかなか渦中にいる時は客観的にその姿を捉えることができない。それをこの作品を読むことで、もしかしたら自分にもこのような成長があったのかも知れないと思わせてくれる安堵感に包まれる不思議な作品でもある。

この作品で翔太と細川さんが作った歌は合唱コンクールのために作ったものであるが、あくまでも自分たちの「卒業」に向けて作っている。3組のメンバーはもちろん、卒業式でも歌う気満々。しかし、作品は合唱コンクールの場面で終わっている。この後、卒業式で3組はどのような形でこの歌を歌うのか、いやその前に3組はどのように卒業式を迎えていくのか。その姿を読者にゆだねられているのもこの作品の醍醐味である。そして巻末には翔太と細川さんが作った歌2点が楽譜で掲載されている。この楽譜により、更にこの作品の世界に浸れる粋な計らいとなっている。

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文責 木村綾子


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KIMURA の読書ノート  『原爆』

2019年03月04日 | KIMURAの読書ノート
 『原爆』
石井光太 著 集英社 2018年7月10日
 
これまでも「原爆」について綴られた本を取り上げてきたが、それは原爆そのものの悲惨さやその当時の状況について語られるものが多かったように思える。本書は広島が「原爆」にあったその直後から復興に携わった4名(長岡省吾・浜井信三・丹下健三・高橋昭博)に焦点を当てて取材し、まとめられたものである。
 
この4名の中で「長岡省吾」という名前に聞き覚えがないだろうか。実は昨年の10月にこの読書ノート『ヒロシマをのこす』で焦点化された人物である。そして、「読書ノート」で私はこのように記している。改めて引用する。
「本書はこの資料館の初代館長であり、ここを開館させるまで地道な活動を行った長岡省吾について初めて書籍化されたものである。」
確かに『ヒロシマをのこす』は長岡省吾だけにスポットを当てた本であり、今回取り上げる『原爆』は長岡省吾だけでなく、他3人にも視点が向けられている。しかし、同じ時期に別の作家が彼に注目して取材を進め、そして同じ月に本を上梓していることに、何とも言えない長岡省吾の運命というものを感じた。また、『ヒロシマをのこす』は子どもたちにも彼の功績を知って欲しいということで、児童書扱いとなっている。しかし、『原爆』は一般書のため、子どもには少し目を触れて欲しくない、長岡省吾の負の部分にも深く追求し、そこから更に「戦争」で一般の人達が背負わされ、表にはなかなか出てくることのない壮絶な闇の部分にも光を当てている。実際には、本書は長岡一人だけを綴ったものではないにも関わらず、彼の生涯が克明かつ詳細に記されており、彼の部分を読むだけでもかなり価値のある1冊である。
 
しかしながら、彼の功績を直接バックアップしてきた人物や、結果として彼を後押しする形となった他3人の足跡も決して見逃してはならない。この3名の中で、誰もが恐らく知っている名前としては建築家の丹下健三ではないだろうか。彼が平和記念資料館及び平和公園をデザインしたことは有名であるが、ここに至るまでに何度も挫折し、苦境に立たされた経緯が本書では詳細に綴られている。そこには、「丹下健三」というきらびやかな肩書からは決して想像のできない過去であり、彼もまた「戦争」「原爆」に翻弄させられた一人であることが分かる。
 
「復興」を目に見える形で力を注いでいったのが、元市長の浜井であり、市職員の高橋である。まず立ちはだかるのが「復興」にかかる予算。広島を「平和都市」として国に認めさせ、法律として明文化させ、復興のための予算を獲得している。またそれだけでなく、「復興」のシンボルの一つ「広島東洋カープ」の創設にも関わったり、「原爆ドーム」の永久保存にも尽力している。
 
「原爆」が投下されてから今年で74年。原爆投下直後は「広島には、75年間は草木も生えない」と言われていた広島。その75年にまだ至っていないにも関わらず、今では中国地方の中心都市となっている広島。毎年、原爆の日には国内外から5万人もの人が集まる平和記念公園。貧乏球団と揶揄されながらも、昨シーズンついに3連覇を成し遂げた広島東洋カープ。これらの出発点となった4名の軌跡を3年に及ぶ地道な取材で明らかにしたこの1冊を是非目にして頂きたい。

======= 文責 木村綾子










KIMURA の読書ノート 『世界のアニマルシェルターが、犬や猫を生かす場所だった。』

2019年02月18日 | KIMURAの読書ノート

『世界のアニマルシェルターが、犬や猫を生かす場所だった。』
本庄萌 著 ダイヤモンド社 2017年

現在日本では、動物の殺処分ゼロの取り組みが行われるようになり、メディアでも多く取り上げられている。しかし、動物の「保護」という観点からまだまだ後進国であるということも耳にする。実際、私自身国内でのボランティア団体や行政の動きを見聞きすることはあっても、世界の国々ではどのような活動が行われているのか知る機会がなかった。そして今回出会ったのが本書である。

著者は親の仕事の関係で高校時代をイギリスで過ごしている。その時のアニマルシェルターでの職業体験で衝撃を受け、アメリカのロースクールで動物法を学び、現在動物法学者として日本で研究を続けている。その筆者が日本を含む世界8か国の動物保護シェルターを巡り、各国の動物に対する法律も含め、現在の動物の保護状況を報告したものが本書の内容となる。

・アメリカでは、ほとんどの州が動物虐待を厳然たる犯罪として対処しているということ。
・イギリスには、闘犬等に使われてきた犬種の飼育を制限する法律があること。
・ドイツでは、動物の法的地位を改善し、単なる「物」とは違うものであることを明記したこと(日本では動物は「物」として扱われ、動物に傷つけても法的には「器物破損」となる)。
・ロシアでは、野良犬と人が共生しているということ。
・スペインの北東部では「伝統は動物虐待を正当化しない」という理由で闘牛を禁止する法律ができたということ。
・ケニアでは国際法で禁止になっている象牙の取引に関し、かつて合法で日本と中国に1度だけ許可が下りて以降、その商品が合法か違法か判別不可になり混乱状態になっているということ。
・香港では、欧米の文化や思想とアジアの文化や思想を織り交ぜながら、動物との関わりを探っていること。

これらを踏まえた上で、最後に日本の現状を伝えている。もちろん、日本を除く7か国の話題はこれだけでなく、保護シェルターのこと、更には各国のマイナスな部分も詳細に記されている。しかし、そのマイナスな部分を知っても、日本が動物保護の観点から「後進国」と言われてしまう状況が少しは分かるのではないかと思う。各国の保護シェルターは施設も充実しているが、何よりも満床ではないことがいちばんの驚きである。その国の人たちの「意識」も高いということもあるが、何よりもその法律が抑止力になっているとも感じた。今、日本でも動物は「ペット」というよりも「家族」という意識を持っている飼い主が多くなったと聞く。それならば、家族の「人権(動物権?)」を守るためにも、もう少し踏み込んだ制度をの確立化が必要なのではないか。そしてやはり飼い主は家族として動物たちを育む「責任」は最低限の部分であり、当然の義務であると断言できる。平成27年度、日本国内で殺処分された犬や猫は約8万匹。この数字を是非覚えていて欲しい。


=====. 文責 木村綾子

KIMURA の読書ノート 『人魚の眠る家』

2019年02月03日 | KIMURAの読書ノート

『人魚の眠る家』
東野圭吾 作 幻冬舎  2018年

裏表紙のあらすじは次のように書かれている。
「『娘の小学校受験が終わったら離婚する』。そう約束していた播磨和昌と薫子に突然の悲劇が届く。娘がプールで溺れた――。病院で彼等を待っていたのは、“おそらく脳死”という残酷な現実。いったんは受け入れた二人だったが、娘との別れの直前に翻意。医師も驚く方法で娘との生活を続けることを決意する。狂気とも言える薫子の愛に周囲は翻弄されていく。」

作者が推理小説の大家、東野圭吾でこのあらすじとくれば、この後の展開は狂気の薫子が脳死状態の娘と何かしらの事件に巻き込まれて、それが殺人事件へと発展し、犯人は実は…、そしてその理由は…と想像していたのだが、実際は終始「脳死(臓器提供)」に関する問題提起であった。

子どもの脳死(臓器提供)に関する法律に関して、次のようなセリフがある。「厳密には、臓器提供に同意しないかぎり、脳死したかどうかはわかりません。判定を行いませんから。判定しないから、医者は、おそらく、という言い方をします。おそらく脳死だ、というふうに。でもこの言い方では、親は踏ん切りがつきません。心臓が動いていて、血色もいいんです。我が子の死を認めたくないというのは、親なら当然です。だから法律を改めるべきなんです。医者が脳死の可能性が高いと判断したなら、さっさと判定すればいいんです。それで脳死だと断定できれば、その時点で死亡として、すべての治療を打ち切る。もし臓器提供の意志があるならばそのためだけに延命措置を取る――そう決めればいいんです。それなら親は諦めがつきます。臓器の提供者も増えるはずです」(p295)

作品の後半では薫子が警察を自宅に呼び、“おそらく脳死”とされる我が子に包丁を向けながら、次のように叫ぶ場面がある。「娘はおそらく脳死しているだろうといわれています。すでに死んでいる人間の胸に包丁を刺す――。それでもやはり殺人罪なのでしょうか」それに対して警察は正式に脳死と決まったわけではないのであれば、まだ生きているという前提で考えるべきで、殺人罪が適応されると応える。だが、薫子は言葉を続ける。「もし私たちが臓器提供に同意して、脳死判定テストをしていたなら、脳死と確定していたかもしれないんです。法的脳死の確定イコール死です。それでも娘の死を招いたのは私でしょうか。心臓を止めたのは私だったとしても、私たちの態度次第で、死はとうの昔に訪れていた可能性があるんです。それでも殺したのは私でしょうか。こういう場合、推定無罪という考え方が適用されるのではないですか」(p404、405)

現在日本国内では、自分自身が何らかの事故や病気により「脳死」になった場合、その後をどうしたいかという「臓器提供意思カード」というのが発行されており、それを所持により、意思が反映されるようになっている。しかし、15歳未満の子どもについては、本人の意思ではなく、親がそれを選択することになる。臓器を提供することで助かる命がある一方で、例え目が覚めることがないと理性では分かっていても心臓が動いているがために、もしかしたらという期待を持つのも親である。そして、自分ではない我が子の命の選択をその親がしなければならないという現実。更には現在の法律によってその選択をせざる得ない親が余計に追いつめられるという法の矛盾。当事者とならなければ、なかなか考えることができないこの問題を凝縮した1冊となっている。

本作品は昨秋、篠原涼子さん主演で映画化されている。彼女が苦悩に満ちた母親をどのように演じていたのか、今更ながらに興味を惹かれている。遅蒔きではあるが、今後テレビなどで放映が決まった際には、是非映像でも観て見たいと思う。

文責 木村綾子

KIMURA の読書ノート『ぷくぷく、お肉』

2019年01月16日 | KIMURAの読書ノート
『ぷくぷく、お肉』
赤瀬川原平 他31名 著 河出書房新社 2014年

新しい年を迎え、早半月。それでも、まだまだ気持ち的には「新春」という言葉が私の頭をかすめる。そのような状況で出会ったのが本書。私の中で勝手にイメージする「新春」は「美味しいもの」。人によって「美味しいもの」というのは異なるが、本書を読み終わった頃には、タイトル通り「お肉」がその筆頭に来るように上書きされてしまうのが、本書の最大の恐るべき点である。

本書は「お肉」に関して32名の作家がそれぞれ綴ったエッセイのアラカルトである。しかも、すでに歴史上の人物にすらなっている作家から、現在もバリバリに活躍している作家までと幅が広い。しかしである。どの作家が語る文章を読んでもそこに時代を感じさせない。例えば、「すき焼き」が、当時関東では「牛鍋」と言っており、次第に「すき焼き」に浸食されていったという古川緑波の随筆も掲載されているが、それすら古臭さがなく、昨日、今日語られた文章のようである。みんな「お肉」に対する愛は横一線である。それでも、一口に「お肉」と言っても、細かいところでは好みが分かれるようで、「すき焼き」について語る人、「ステーキ」について主張する人、「焼き鳥」、「豚肉」と枝葉が分かれてくる。それでも、どの「お肉」に関しても、一文字追うごとに、読み手は口の中に唾液が広がってくることは間違いない。

この32名の「お肉」の話の中で、私がいちばん何度も唾液を飲みこんだのは、実はエッセイではなく、唯一の漫画で描かれている園山俊二の「ギャートルズ」。私と同年代以上の人なら記憶にあるかも知れないが、原始時代の生活を描き、かつてアニメにもなったあの作品である。主人公の一家やその周辺の仲間たちが、マンモスを追いかけ、それを輪切りにして木に串刺しにして焼き、大胆にほおばっているその姿は、かつて幼稚園児だった私に、素直に「食べてみたい」という古代(マンモス)に憧れを抱かせ、かつ未だに「美味しい」記憶として強烈にインパクトを残している(もちろん、マンモスなど実際に食べたことはない)。それに再会した喜びと、色あせぬ記憶にいたく感動した。しかも、マンモスを直火で「焼く」という印象しか残っていなかったが、ここでは、何と、マンモスを「煮る」という行為が描写されている。私にとっては、あの作品に初めて出会ってから数十年後の今、マンモスの新たな「美味しい」記憶が追加されることになった。

しかしながら、これだけ「お肉」で埋め尽くされると、途中でお腹いっぱいどころか、消化不良を起こしても何ら不思議ではないのだが、まだまだ腹八分目で読了となってしまった。大好きな「お肉」に対して角田光代は「わくわくする。やっぱり愛だなあ。普遍の愛だなあ」と記し、東海林さだおは「おかず一筋。この道一筋。その一途なところもいとしい」とし、菊地成孔は「一羽全部食べ終えてフーッといって点を仰ぐと店員が力強くウインクした。力強い秋の到来だ」と締めている。32名の「お肉」に対する貫く愛だけで、身も心もほっこりとできる1冊である。


======= 文責 木村綾子


KiMURAの読書ノート『日本の小さな本屋さん』

2019年01月02日 | KIMURAの読書ノート

『日本の小さな本屋さん』
和氣正幸 著 エクスナレッジ 2018年7月

明けましておめでとうございます。平成最後のお正月。皆様いかがお過ごしでしょうか。この5月には元号も変わり、心機一転という方も多いのかと思われますが、私の読書に関しては、何も変わらずいつもように気の赴くままに乱読していくことになると思います。この「読書ノート」を読んでくださる方の嗜好とは全く異なる方向になるかもしれませんが、宜しければ本年もお付き合いくだされば幸いです。


さて、新年の第一弾として取り上げた本書。本好きとしてはどうしても数か月に1度は目にしたくなる「本」絡みのもの。写真集ともガイドブックともどちらとも捉えることのできる本書。全国23の本屋さんの内部の写真とそこで著者が感じたことが文章としてしたためられています。著者によると、「本屋にあるのは本だけではない。店主が本を通してきてくれる人に伝えたいもので溢れている。それは音楽かもしれないし、空間そのものかもしれない。漂う匂いもそうだろう。それらすべてが合わさって、その本屋を構成している。本屋はただ行くだけ、五感全てを楽しませてくれるのだ」。


最初に紹介されている本屋さんからまさにそう。見開き1ページに大きく撮影されている店舗は、「店舗」ではありません。本好きの家のリビングか、本好きでなければ、学者さんの書斎としか見えない空間。壁一面びっしり誂えられた木の本棚。その手前にはソファとその高さに合わせられたテーブル。光は極力抑えられ、間接照明だけで空間を浮かび上がらせています。都内の別の本屋さんは猫本専門の本屋さん。もちろん、4匹の猫がスタッフとして加わっています。しかし、特徴的なのは、本棚の最上段はその猫スタッフのためのキャットウォークになっており、本棚の間には彼らがくつろぐスペースが作られています。ここの優先順位はまずスタッフであることが一目瞭然です。かと思えば、中国地方のとある本屋さんは、その店舗をみる限り、「ギャラリー」。生活を彩る器や布製品が丁寧に並べられ、別の一角には絵画が展示されています。本に関してはそのまたほんの一角といったところでしょうか。店主によると「ひとえにそれらが好きだから」という理由。それと同時に当時市内にあった文化的な要素を含む本屋が閉店してしまったため、悲しみよりも憤りを感じ、それならばと奮起して自分で本屋さんを開くことにしたようです。


近年、(諸外国はどうかは定かではありませんが)、国内では小さな書店は店を畳み、大型書店が台頭しています。その理由の一つに出版物が売れなくなっているため、小さな書店では店主の食い扶持を稼ぐことすら難しくなったということがあります。それでも、あえて「小さな本屋さん」にこだわる店主の思いが本書では余すところなく詰まっています。そして私個人的な話にはなりますが、本好きと言っても、頻繫に各地の本屋さんや図書館を巡ることはなかなかできません。そのような意味においても、このような本は私にとってはとても重要な位置づけになります。旅に出た時は、このような店主のこだわりの詰まった本屋を一つでも訪れ、そして本について少しでも語ることができたらと、妄想してしまうのです。新年の幕開けには少なからず本好きにはたまらない1冊ではないかと思います。

======. 文責 木村綾子

KIMURA の読書ノート 神仏の涙

2018年12月14日 | KIMURAの読書ノート

『神仏のなみだ』
桜井識子 著 ハート出版 2017年

本書を知るきっかけとなったのはかれこれ半年ほど前の新聞広告。詳細は覚えていないが、その紹介文に「東日本大震災の津波到達ラインにあった寺社」という感じの文言があり、興味惹かれたのは記憶にある。図書館で検索してみたところすでに多数の人が予約をしており、そんなに人気本だったのかと正直驚かされた。とりあえず、「右に習え」ではないが私もそのまま予約し、半年後の今となって手にしたわけである。

「はじめに」の冒頭で、著者はこれまでも「神仏のありがたさ」について書いてきたと記しており、民俗学を学んでいる人だという印象を受けた。しかし、ページをめくると「東日本大震災が起こったあの日、神様や仏様はどうされていたのか……」「亡くなられた方が多くいたのはどうしてなのか、助けることはできなかったのか……」という文章が目にとびこんでくる。そして、第一章では、国内の小さな神社を巡ったことを綴っているのであるが、訪れた神社の紹介をした後、(私にとっては唐突に)「手を合わせて祝詞を唱えてみると、出てきたのは、月代を剃ったお侍さんでした。半裃を着ていますから、江戸時代の武士だと思います」とある。思わず、前の文章に戻り、この文章がどこから出てきたのか思わず読み返し、更に著者の略歴を調べるために、奥付にページをとばす。著者の祖母は霊能者、祖父は審神者でその影響を受けて育つとある。一般的に言われるスピリチュアル系本であったことにこの時初めて気が付いたのであるが、それでも「東日本大震災」時の寺社については気になったため、読み進めていった。

第二章がその「東日本大震災」に関わる内容となっている。本書によると、この津波到達ラインには多数の寺社があり、津波がこの寺社の直前で止まったり、境内は浸水しても社殿は被害を受けずにすんだというところが多かったようである。著者は実際その津波到達ラインに沿って建っている寺社を巡り、彼女の力により、神様と交信し当時の様子を聞いたものを寺社ごとにまとめている。正直、著者と神様の対話についてはどう捉えていいのか私自身は迷うところである。しかし、それ以外の寺社の現在の様子や当時の状況、そしてその背景というのは、小さな寺社であればあるほど、表に出てくることはなかなかないので、興味深く読むことができた。また、神様の力かどうかは別として、先人たちがここに寺社を建てたという事実は、それ以前からの歴史的、自然的背景や伝聞があったと考えられる。今よりも科学技術は発達していなかったにしろ、その科学的根拠は何某かあったわけで、先人たちの教えや語り継がれたことを決してないがしろにしてはいけないということを本書はそっと伝えてくれているような気持ちにさせてくれる。

本書では13の寺社を廻っているが、もっとここにスポットを置いた構成であれば、民俗学的な内容に関しても更に掘り下げられたのではないかと感じた。もちろん、この感想はあくまでも私の個人的な趣味の領域であるが。

本年も残すところ後半月。新しい年を迎えると多くの人が初詣に行くことになる。そこに科学的根拠を求める人は多くないだろう。日本の習慣と言えばそれまでだが、今年最後の「読書ノート」が半年待ちの本書であったことを素直に「縁」と受け止め、初詣では少しばかり神様との対話にチャレンジしてみるのも悪くないと思った。


======= 文責 木村綾子