京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『マンガ万歳 画業50年への軌跡』他

2021年04月12日 | KIMURAの読書ノート

『マンガ万歳 画業50年への軌跡』
矢口高雄 語り 秋田魁新報社 2020年

『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』
藤澤志穂子 著 世界文化社 2020年
 
私事ではあるが、幼い頃、家の決まりとして「漫画を読んではいけない」というものがあった(高校生頃から解禁にはなったが)。しかし、その決まりを作っていた父親が刊行される度に自ら購入していたのが、矢口高雄氏の『釣りキチ三平』(講談社)であった(全67巻全て揃って、未だに実家の本棚に鎮座している)。そのため、父がこの作品を本棚に並べる傍らから私もせっせと読んでいたのが漫画に関する思い出の一つとなっており、私にとってはとても身近な作品でもある。その作者の矢口高雄氏が昨年11月81歳で亡くなった。今回取り上げた2冊は彼自身の生涯最後の書籍となったもの(前書)と、彼が亡くなる直前まで足掛け5年に渡る取材を通して彼という人となりをまとめたもの(後書)である。
 
『マンガ万歳』は、秋田魁新報に2019年10月23日から11月27日に連載された「シリーズ時代を語る」をまとめたものである。彼自身が語る生まれ育った当時の秋田地方のこと。家族のこと。進学のこと。脱サラして漫画家をめざしたこと。『釣りキチ三平』への思いと現在の漫画に対する評価に関して。そして、最後は矢口高雄氏が『釣りキチ三平』のシリーズの中でもお気に入りの作品の1編をそのまま掲載してある。本書で強烈に印象を残したのは、最初に彼が語った「漫画は害虫じゃない」(p18)。これは彼が中学生の時の先生から「漫画は害虫である」と言われたことにある。この言葉は彼の心に鋭く刺さり、大人になってこの状況を変えたいと思ったという。それと同時に彼の生い立ちの中に語られてある弟の死、この二つを知って、彼の語るそれぞれのエピソードを読んでいくと、彼の漫画に対する姿勢がとても重いものであることが分かってくる。と同時にサブタイトルにもなっている「画業50年」の軌跡が漫画界にとっての軌跡でもあることも分かってくる。
 
『釣りキチ三平の夢』は図らずとも前書と重なる部分は多い。しかし、彼に興味を持った著者がひたすら取材を行い、「矢口高雄」という人物を丁寧に掘り下げているだけでなく、前書で彼が語れなかった言葉も引き出している。また、彼に関わる周辺の人たちや彼の数々の作品に関してもスポットを当てており、より「矢口高雄」という人物像が明確になっている。本書は彼が亡くなった後に出版となり、追悼版のような形となってしまっているが、それは結果論であって、本来ならば、漫画家生活50年、戦後75年の節目に出版したいという思いで取材、執筆をしていたようである。ここでは、「矢口高雄」という人物から「地方創生」への思いが一つの柱になっていることも特記しておきたい。
 
また両書で強調されていることの一つに、日本文化となっている漫画文化が実は崩壊の危機にあるということを述べていることである。現在漫画はデジタル化されているが、それ以前の原画は作者の手元にあるものは少なく散逸されているそうである。それは江戸時代の浮世絵と同じ運命を歩いてしまう、つまり日本の文化でありながら、国内にそれがとどまらず、海外のコレクターや美術館に所蔵されてしまうということであり、このことを矢口氏は危惧した。そのため彼は原画保存のための美術館を秋田に設立している。そして、それは文化庁の「メディア芸術アーカイブ推進支援事業」に指定されている。かつて「害虫」と言われた漫画が、文化庁指定の事業となった今、矢口氏の漫画に対する思いを改めて感じ入ることとなる。
 そして、かつての漫画禁止令の我が家が、なぜ『釣りキチ三平』だけ例外だったのか。まさか当時から作者の思いを父親が汲み取っていたということはないであろう。しかし、この偶然に不思議な縁を感じる。

======文責 木村綾子



KIMURAの『人生は七転び八起き』

2021年03月30日 | KIMURAの読書ノート


『人生は七転び八起き』
内海桂子 著 飛鳥新社 2020年9月12日
 
 正直、漫才師であった著者に興味があった訳ではない。著者について言えば、私が幼い頃から漫才の番組では必ず出演しており自分の中で存在は明らかだったことに加え、世の中で「桂子師匠」と呼ばれていたこと、漫才師ナイツの師匠であること、かなり年下の男性と結婚したこと、そして昨年98歳で亡くなられたこと程度の知識である。そのため本書を手にした理由は他にあった。『大家さんと僕』(2017年 新潮社)で第22回手塚治虫文化賞短編賞を受賞したお笑い芸人カラテカ・矢部太郎さんが挿画した表紙が目に留またためである。彼が手掛けた挿画が気になったのだ。それでも、理由はともあれ折角の本縁である。大正から令和までの時代を見続けた著者のひととなりを知ってみようと腰を据えてページをめくった。本書は生前、語り下ろした言葉を夫である成田常也氏が文章に起こしたものである。
 
 本書を読むだけで、著者の全てが分かったのかというと、正直分からないが、年を重ねても様々なものに対して興味を持ち、実行し、そして時には世間に対して厳しい見方で意見をするというかなりしっかりとした面と、想像以上にお茶目でウイットに富んだ人柄であることが少なからず本書からだけでも滲み出ていて、自分自身もこのように年を積み重ねたいなと思うと同時に、百歳近くまで生きると何か今以上に楽しいことが待っているのではないかとわくわくすることができた。何よりも印象的だったのは、「私くらいの年になると、若い素敵な男性に抱きついても、嫌な顔をされません。若いころよりも、簡単にイケメンと仲良くなれる。それだけでもウキウキします(p17)」。現在、ハラスメント発言が大きく世間を揺るがしている中、さくっとこのように言い切ってしまっても決してそれが不愉快に感じることはない。まさにこれが著者の人柄なのであろう。
 
 巻末には著者の年譜が掲載されている。これがまた圧巻である。著者に関わる出来事と同時に国内の主要な史実も列挙されているのだが、著者の年譜ではなく日本近代史の年譜と言ってもおかしくない。そして、何よりも年譜と同時に本中で味わって欲しいのは彼女の生い立ちである。現代の日本ではありえない小学校中退の話、戦争で戸籍が消失したために、現在の夫との結婚が初婚となってしまったことなど、大正から令和までの各々の時代と共に歩んできた著者だからこその軌跡がそこにはある。
  最初に本書を手にしたきっかけを記したが、挿画についても述べておく。彼が上梓した『大家さんと僕』に登場する大家さんは私の記憶が正しければ、終戦の時十代後半だったはずである。つまり、著者と大家さんはほぼ同じ時代を生き抜いたのである。そのようなことを読みながら思い出し、彼がなぜこの本の挿画に抜擢されたのか納得した。大家さんとゆっくりと、しかし深く信頼関係を結んだ彼だからこそのイラストは、笑いを誘う著者の姿ばかりであるのにも関わらず、温もりと深い敬意を感じることのできるものであった。本書はそこにも注目して欲しい。また『大家さんと僕』は先月3月24日よりNHKで深夜アニメ化され放映中である。

文責 木村綾子

 

 


KIMURAの読書ノート 「あしたのことば」

2021年03月16日 | KIMURAの読書ノート


『あしたのことば』
森絵都 作 小峰書店 2020年
 
森絵都が児童文学に戻ってきた。いや、正確には数年前から再び児童文学作品を描くようになっていたことは知っており、自分自身のそれを手にしていたが、何分にも文芸作品として2006年に発表した『風に舞いあがるビニールシート』(文藝春秋)で直木賞を受賞。一昨年NHKでドラマ化された『みかづき』(2016年 集英社)では中央公論文芸賞を受賞し、私の中ではすっかり文芸作家に成り代わってしまったという印象を持っていた。しかし、森絵都は一般の文芸作品より、少年・少女を主人公とした児童文学作品の方が似合っていると私は勝手に思っている。本章は「ことば」ということをキーワードに8つの物語で構成されている。作者が紡ぐ少年・少女の「ことば」こそ、私が知っている森絵都の真骨頂であり、ひりひりとした、しかし不安定な子どもの内を表にさらけ出してくれる児童文学作品である。
 
表題作の「あしたのことば」は転校した先で自分が「転校生」から「仲間」になったと確信するまでを描いたもの。子どもたちが会話をする何気ない言葉には大人からは想像もつかない意味が含まれていて、それを敏感に感じ取る子どもたちの心情を「方言」という言葉を使って軽妙な形で綴っている。主人公の裕は「仲間」になったと受け止めたことばをタイトルになっている「あしたのことば」と表現しているが、それはタイトルからは想像もつかない単純なたった一言であることに読者は驚くのではないだろうか。しかし、それこそが森絵都の子どもに対する視線であり、温かさだと知ることになるだろう。
 
私自身がとりわけひかれたのは、「風と雨」という物語。クラスのとあるグループに所属していた風香はグループが分裂したのをきっかけにその分裂したそれぞれのグループには所属することをやめ、常に一人でいることの多い瑠雨と過ごすようになる。瑠雨はしゃべらない子でほぼ一方的に風香が話しをしているのだが、彼女のことをもっと知りたい風香はとある作戦に出るというもの。この物語は、章ごとに風香、瑠雨の一人称書きで綴られており、その場面のそれぞれの思いが詳細に描かれている。何よりも面白いのが、お互いの思っていることが、実は当人たちの思いとは全く違うところにあるということ。それでもなぜか心を通わせていて、エピローグはかなり微笑ましい終わり方となっている。子どもたちの心の内がすれ違っているということ、日常ではそれは子どもだけでなく、大人でもそうであるが、人生経験の少ない子どもたちの心の内は大人が思う以上にあらぬ方向に思いを寄せる。それを事も無げに物語でそれを当然のように表現し、かつそれでもハッピーエンドに矛盾なく仕立て上げ、読後に爽快感をもたらしてくれる作者の表現力は何ともいえない深みを感じる。
 

本書最初の物語である「帰り道」の初出は今年度版の小学校6年生の国語の教科書(光村図書)に採用された作品。なかなか教科書というものから遠くなった読者には、今の子どもたちが学んでいる教科書の作品がどのようなものなのか、ということを本書を手にすると知ることもできるいい機会ではないだろうか。


======文責  木村綾子


KIMURAの読書ノート『ほんとうのリーダーのみつけかた』

2021年03月02日 | KIMURAの読書ノート


『ほんとうのリーダーのみつけかた』
梨木果歩 著 岩波書店 2020年7月
 
本書の表紙を見たとき思わず二度見してしまった。タイトルと著者が私の中で一致しなかったからである。著者、梨木果歩氏はルドルフ・シュタイナーに造詣が深く、「行きて帰りし物語」をそのまま絵に描いたようなファンタジーを紡ぐ作家というイメージがあった。それでも近年その部分をオブラートに包んだ作品となってはいたが、決して何かを訴えるような直接的なタイトルを付ける作家ではないと思い込んでいた。
 
ページをめくると本書を上梓する経緯が記されていた。2011年に理論社から出版された『僕は、そして僕たちはどう生きるのか』が2015年岩波書店から文庫化された節目に、出版社の方が若い人たちに著者が講演をするという企画があり、その時のメモ書きをもとに文章化したものだという。先ほど、彼女の著書は直接的なタイトルを付ける作家ではないと書いたが、私自身この作品が上梓されて間もなく手にしており、その時の自分自身の記録に「彼女の作品にしては(私が読んだ中では)、直球で現在の日本社会を浮き彫りにしています」(2011年10月19日記載)と書いていたことを見つけ出した。そう、この作品そのものが異色だったのである。そして、読んだ当時は全く気が付かず、本書を読むことで知ることとなったのが、この作品は吉野源三郎著の『君たちはどう生きるか』のアンサー作品として描いたものであるということである。その辺りの経緯も詳細に本書で綴られている。
 
それでも、ページをめくるごとに私は度肝を抜かされる。
●怖いのは、「みんな同じであるべき」「優秀なほど偉い」という考え方が当たり前のように場を支配しているのに、指導者が「みんなちがって、みんないい」と、その言葉のほんとうの意味も考えず、さして慈愛の気持ちも持たずに、型どおりにそれを繰り返していることです。(p14)
●大きな容量のある言葉を大した覚悟もないときに使うと、マイナスの威力を発揮します。~略~ こういう言葉遣いをするのは現代の政治家に多い。~略~ その結果、ほとんど真実でないことまで繰り出してくる羽目になってきた。私は、今の政権の大きな罪の一つは、こうやって、日本語の言霊の力を繰り返す、繰り返し、削いできたことだと思っています。(p15~16)
  上記引用したのは、全体のごく一部であるが、著者がここまで政府を痛烈にはっきりと批判しているとは、読む前は全く想像していなかった。それほど、著者は今の日本に対して危機感を抱き、憂慮しているのである。いや、「今の日本」としたが、これを語り綴ったのは今から6年も前のことである。逆に今、著者はこの日本社会をどのような形で見ているのだろうか。この間に日本のリーダーは変わったが、そこに決して明るい光を見出したとは思えない。6年前の記録を今、ここに上梓したこと。なぜ今、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を取り出したのか。わずか69ページの著書であるが、語る内容な深く重い。そして最後に彼女が出した結論。おそらく、読者以上に政府へ著者は届けたいのではないのかと、しみじみと感じた。

ーーーー文責 木村綾子


KIMURA の読書ノート 『童話作家のおかしな毎日』

2021年02月15日 | KIMURAの読書ノート

『童話作家のおかしな毎日』
富安陽子 著 偕成社 2018年
 
著者は、現在関西在住で日本の風土の根底にある神話や伝承を今の世界に違和感なく融合させながら作品を紡ぐ私の好きな児童文学作家の一人である。本書は彼女自身だけでなく、家族を含めた親戚のことも綴りながら、富安家のルーツまで掘り下げたエッセイである。
 
彼女のルーツの起点は九州にあり、その後対馬に移動。そして著者の曽祖父母を対馬に残したまま祖父母は東京に移っている。そこには少し闇の部分があるようであるが、著者は分かる範囲で本書に記している。それでも著者自身が自分のルーツが、謎が謎のままで自分の中でくすぶりつづけているとし、わずか100年前の身内の出来事を知るというのは案外難しいことなのだと、漠然とだが感じた。と同時にかなり暗部な出来事が身内の中であったとしても、100年も経てば、どこか他人事のような、ドラマの中の一コマという感覚になってしまっているというのも読者としては面白く感じた。もしかして、自分のルーツにもこのような部分というのはあるのではないかと空想を掻き立ててくれる。自身のルーツ探しに謎が残ったままの著者であったが、それでも、結果として自分が今ここにいるという確かなつながりがあるということには変わりないと結論づけている。そして、そのつながりとは地方の妖怪話を含めた伝承であり、著者は幼い頃、親戚からそれらを聴くことより、それが作品の母体となっている。何が功を奏するのか分からないものである。
 
それでも、彼女のルーツの軸となるのは「やはり」というのは少し違うのかもしれないが、「戦争」であった。このエッセイのいちばん最初に書かれたものは、著者の両親の出会いについてであり、彼女はこのように記している。「戦争が母の未来を大きく変えてしまった(p9)」。しかし、最後にはこのように締められてもいる。「思えば母の人生はずいぶんとドラマチックだ(p11)」。そう、もし「戦争」がなければ、現在児童文学作家としてほぼ頂点を極めている(と私が勝手に思っている)「富安陽子」はここに存在しなかったのである。
100年前のルーツの「つながり」どころではない。と、「戦争」を肯定してしまうような書き方になってしまったが、現実はそう甘くはない。これ以降の「戦争」について綴られている項目は、やはり心を締め付けられるものである。著者の父はこの戦争で2人の兄を亡くしているし、父自身も海軍兵学校に入学している。そこで終戦を迎えることができたが、兄が戦争で失ったことにより、父の姉は弟(著者の父)も失うのではないかという危機感を抱き、当時住まいのあった東京から海軍兵学校(広島)まで、弟に会いに行っている。今の時代のように新幹線や飛行機があるわけではなく、更に戦争ですでに焼け野原になっている地域も多い場所をかいくぐりながらの若い女性一人の移動はかなり危険なものであったと想像する。そこまで追い立ててしまう「戦争」というものを著者の伯母の行動だけからも改めて考えさせられる。そして、その部分はぜひ本書を手にして彼女の記す文章で読んでほしい。より「戦争」を身近に感じることができると思う。
 
彼女のルーツの一つのピースが欠けても今の「富安陽子」は存在しなかったことがとても分かりやすく示されたエッセイであった。しかし、彼女は本書の中でこのように語気を強めて綴っている部分がある。
 
「あと一日、あと一週間早く戦争が終わっていたら……、原爆が落ちていなければ、いまこの世界に存在しているはずの人たちの数はどれほどだろうか。これから生まれるはずだった人の数は?とりかえすことのできない無限大の不在(p130」
  

このエッセイの裏にはこの無限大の不在の人たちがいること。本書を読みながらしみじみと感じてほしい。
  ======文責  木村綾子


KIMURA の読書ノート『ツベルクリンムーチョ』

2021年02月03日 | KIMURAの読書ノート


『ツベルクリンムーチョ』
森博嗣 著 講談社 2020年12月
 
1996年のデビュー以来数々の作品をこの世に生み出し、その作品は「理系ミステリー」と評される著者のエッセイ。彼のエッセイは無秩序に、かつ抽象的なことを思いついたまま書き連ねるというのが基本姿勢であったのだが、今回初の「時事ネタ」について言及しており、これが話題を呼んでいる。それがまさに世界中を現在震撼させている「新型コロナウイルス」のことである。しかしながら、彼の言葉を借りると、「森博嗣は何年も以前から人に会わない生活をしているので、影響はまったくといって良いほどない。だから、完全に『他人事』である。不謹慎だが、そのとおりなのだからしかたがない。ご容赦いただきたい(p2)」。それでも、彼が時事ネタを扱うこと、人と距離を置いた生活をしていることで見えてくる「コロナ騒動」は興味深い。ちなみに、このエッセイは2020年6月に書かれたもので、その時点での彼から見たコロナに関する考察である。
 
最初の緊急事態宣言では学校は休校になり、社会人も在宅ワークをすることを推奨され、一般的にはこれらのことに関して抵抗感があったように思える。が、著者はなぜ学校や会社に行く必要があるのかと語る。人が集う土地や建物にかかる費用よりも通信環境を整えるほうが費用も抑えられるのではないかと述べる。そして「『つながろう!』をスローガンにした社会モデルが、もう古い、と僕は思う。今回の騒動は、そのことに気づく良い機会となったのでは?(p23)」と締めている。また、役所の仕事の本質は「前例重視」で、本格的な「改革」が行われておらず、とりわけITに弱く、ここ30年程のツケが回ってきたと指摘し、「それでも、未だ『技術の日本』を信じる人がいたりする、実に老いた国なのだ(p25)」と、バッサリ切り捨てる。そして、「最近の日本の体たらくにも、気づかない振りをしつつ、自分たちを変えようとはしなかった。こうして、日本はジリ貧になっていく。今がその途上である(p29)」と追い打ちをたてる。また、日本の医療については、今回のコロナ感染拡大以前から医療崩壊していたのではないかと語っている。そもそも救急車のたらい回しは日常茶飯事であり、診察の予約をしても1~2時間待たされていたのが常、これは変ではないかと問いかける。もちろん、日本の体制だけでなく、国民の行動についても意見している。例えば、中止となった春の高校野球。これに対して「開催してほしい」という1万人の署名が高野連に届いたことを取り上げ、そもそも中止になった理由は感染の拡大の危険性や予防を行う対策にお金や人員を投入できないというものなのに、感情的な「好きだ」とか「したい」で署名を集めるのはおかしいと叱責する。

 彼が指摘する内容を読んでいて分かるのは、今回コロナ感染拡大という特殊なことで起こったことではなく、もともと日本が持っていた問題点や課題がただ明確に露呈しただけというものである。著者は各種メディアに出演して声高に意見を述べるタイプでないだけでなく、そもそも人里離れたところでひっそりと生活している人間である。そのため、彼の意見が国民全体の目に触れることはない。だからこそ、今回彼のエッセイが「時事ネタ」を扱ったという以上に日本の根幹的な問題を指摘したという点においてちょっとした話題になったのであろう。このエッセイを読んで、もう一度メディアで報道される内容を耳にすると違った角度からそれを読み取れるようになるかもしれない。
          文責 木村綾子


KIMURAの読書ノート『猫だましい』

2021年01月15日 | KIMURAの読書ノート


『猫だましい』
ハルノ宵子 著 幻冬舎 2020年10月
 
著者が2014年に上梓した『それでも猫は出かけていく』(幻冬舎)は著者の飼い猫と外猫の濃密な日々を記したエッセイで、とりわけシロミと名付けられた美猫を中心に描かれているが、私にとってもかなり共感できるものであった。それはシロミが著者の元に引き取られた時にはすでに事故により障害を持っており、それが私事ではあるが、我が家の闘病中の長男(猫・8歳)に重なる部分があったからである。またこのエッセイは著者の言葉を借りれば、父である吉本隆明氏を含めた吉本家最後の8年間の記録として、猫を軸に吉本家の激動も綴っている。そして、昨年新しいエッセイが刊行された。それが今回取り上げた本書である。著者を取り巻く猫環境が満載であることをイメージさせられるこのタイトルにわくわく感いっぱいで手にした。
 
が、である。目次の最初が「ステージⅣ」。意味ありげである。もしかして、シロミちゃん以上の難病の猫を引き取ったのかと最初は思ったのであるが、エッセイの冒頭に綴られた文章「今年(2017年)1月正月明けのことだ。『ほらここ、腸壁を突き破って裏側まで出てるから、ステージⅢ……Ⅳかな』。不鮮明なCT画像を指差しながら、都立K病院の消化器内科医はボソッとつぶやいた(p7)」。都立K病院って動物病院じゃないよなとぼんやり思いながら更に文字を追っていく。どうも、様子がおかしい。猫の「ね」の字も出てこない。そう、今回は猫ではなく、著者自身の闘病記だったのである。うっかり、本のタイトルにだまされた……というわけである。しかしである。猫の「ね」の字が出てこなくても、目がページから離せない。医師の告知を聴いて彼女が発したのは「ああ~!またやっちまった~!(p7)」。「やっちまった」って、どんな感覚なのだと思わず文字に向かって突っ込んでしまう自分がいる。このような著者なので、闘病記とは記したものの、全くその節が本書からにじみ出ないのである。もちろん、告知から手術を受け退院に至るまでの過程ではかなり過酷な身体状況になったことが文章から読み取れる。しかし、そこに悲壮感がないだけでなく、笑いがこぼれてくるのである。これはエッセイストの力量というのもあるのであろうが、間違いなく著者の癌に対する感覚が「やっちまった」と語る所以ではないだろうか。そのような著者なので、「イヤ~……“トンデモ本”ですね~絶対に、お医者さんには、見せられませんよね(まずお下劣すぎるし)」とあとがきで自ら宣言している。その一例として私がインパクトを持ったのは退院してからの飲酒量の増やし方。闘病記であれば決して記すこと、いや、そもそも大病を患った人の多くが飲酒量は少なくなるか、飲まなくなるかだと思うのだが、もとの飲酒量に著者は計画的に戻していっている。これだけでも彼女の病気に対する振る舞いが分かるエピソードである。


 ページが半分まできたところで、少し内容の様相が変わってくる。待ちに待っていた「猫」の「ね」の字が出てくる。と同時に「老い」や「介護」そして、生命と医療についてが、「猫」を軸に綴られていく。と言っても、彼女の文章のスタンスは前半とほぼ変わらず「トンデモ」である。それでも目が離せないのは少なからず、彼女の実体験が基になっているからだろう。とりわけ、ただ「猫」を飼ったというだけでなく、猫の「介護」をしたということは、人間のそれとはまた異なる感覚を飼い主にもたらされる(もちろん、彼女は親の介護もしている)。そこから導き出される彼女の思いというのは、少なからず現在息子を介護している私にとってはひしひしと伝わってくるのである。とは言え、動物の「介護」をする人というのはまだまだ少数派だとは思うが、それを差っ引いても彼女の死生観を知るというのは、自分にとっての死生観の幅を広げてくれるものであると感じた。

=====  文責 木村綾子


KIMURAの読書ノート『アフリカ出身 サコ学長、日本を語る』

2021年01月04日 | KIMURAの読書ノート

『アフリカ出身 サコ学長、日本を語る』
ウスビ・サコ 著 朝日新聞出版 2020年7月
 
明けましておめでとうございます。昨年末の報道から本年も新型コロナウイルスの影響を受ける毎日になる予感。心の日常を安定させるために、昨年同様、引き続き乱読した一年を過ごしていきたいと思っております。
 
本年最初に取り上げるのは、2018年4月アフリカ出身者として日本で初めて大学の学長となったウスビ・サコ氏の自叙伝です。前半は彼の生い立ちを、後半は日本で生活を始めて彼が感じた日本社会や日本の教育について語られています。
 
彼はマリの出身ですが、そもそも「マリ」という国について、アフリカの国であるということしか知らなかった私にとっては、マリそのものの文化や生活、教育について彼が綴っている前半を興味深く読み、かなりの衝撃を受けました。何せ、最初の書き出し、「時は1960年代。アフリカはマリの首都バマコにある我が家では、30人ほどの人が同じかまどのごはんを食べていた。 ~略~ 誰がいるのかというと、祖母、父の姉、そしてその姉のところに居候していた人たちが10人前後、母方の親戚が10人前後。その他諸々。つまり、『赤の他人』が半数近くを占めるわけだが、まあ、マリでは珍しくない(p16)」。日本においてこのような家族形態は江戸から明治にかけて、それなりにお金のある家庭が家の家業を住み込みで手伝わせるために…というケースについてはありますが、どうもそれとは全く違う集まり方であることに更に衝撃を受けます。どちらかと言えば、家賃をとらない下宿的な感覚。いつの間にか住み着いている他人。それでも「家族」という形態が成立しているのです。
 
このような日本とは全く違う文化や習慣が異なる国から日本を彼は見ているので、彼の日本に対する感覚は日本のそれらが染みついている私としては異次元の指摘でした。彼は日本に来て一番怖かったこととして、日本社会にはどこに「オン」と「オフ」があるかわからないことと、語っています。彼の目線だと日本はずっと「オン」のままだと言います。私としては、仕事以外で趣味を楽しんでいる時は明らかに「オフ」だと思うのですが、彼は違うと言うのです。日本人の趣味は、深く掘り下げすぎていて専門家のようになり、気楽ではないと。彼の言葉を引用すると「果たして日本人には、本当の意味でだらだらしたり、何もしないでボーッとしたりする時間はあるのだろうか。 ~略~ だらだらできないような国民性。~略~ それらのことと、引きこもりや自殺というのは、全てつながっているのではないか。日本人よ、もっと肩の力を抜こうぜと、私は言いたい(p157、158)」。
 
彼の日本に対する指摘はこれまで私が見聞きした欧米人のそれとも異なるものでとても新鮮です。その指摘が正しいのか否なのかはともかくとして、そのように日本に対する違和感を持ちながらも大学の学長として、今日本の大学生が必要な力を学生や教職員を一緒に考えながら進んでいく姿はこれからの日本に新風をもたらしてくれるのではないかと期待します。
 

このご時世ですから、第8章には新型コロナウイルスに対する提言もしています。日本でも新型コロナウイルスはますます猛威をふるっており、国内の状況に一喜一憂の毎日ですが、ここでは世界の国がどのような対策をして現状どうなっているのかということ、それらを踏まえて、日本政府がどうなのか、日本国民として本来どうするべきなのかということを考えさせてくれる1冊ともなっています。しかし、彼の関西弁を含んだコミカルな語り口調が随所に見られ、ふと肩の力が抜けていく著書です。

文責 木村綾子


KIMURAの読書ノート『ビブリア古書堂の事件手帖Ⅱ 扉子と空白の時

2020年12月17日 | KIMURAの読書ノート

『ビブリア古書堂の事件手帖Ⅱ 扉子と空白の時』
三上延 作 KADOKAWA 2020年7月
 

今年も残すところ半月となりました。新しい元号の下に明るい話題が国内をもたらすと思われていた本年でしたが、新型コロナウイルスの到来により、状況は一転。これまで当たり前に送っていた日常を方向転換せざる得ない1年となりました。しかし、その中において私事ですが唯一変化なく行えた日常、それが「読書」でした。ただただ、好きな作家さんの新刊本が出るのを心待ちにし、その間に興味のそそられるタイトルや表紙を見つけては手にして何とか日常全てが変わっていないことを確認していました。そこで今年最後の読書ノートは、シリーズ最初の作品が刊行されて以来、新刊を心待ちにしているシリーズの一つ『ビブリア古書堂の事件手帖』の最新刊をお届けします。
 
このシリーズはビブリア古書堂を経営する篠川栞子とアルバイト店員の五浦大輔が客の持ち込んだ古書にまつわる謎を解き明かすミステリーです。この2人が結婚し子どもが授かり、娘もまた作品の軸として活躍していくのが本作品からスタートする新シリーズ「Ⅱ」となっています。
 
今回紹介する作品は横溝正史とその作品にまつわるミステリーです。二人の娘である扉子が、父大輔が古書堂で起こった出来事を書き記した手帳を読むところから物語は始まります。それは2011年、扉子が生まれる少し前、横溝正史の幻の作品が何者かに盗まれたという奇妙な依頼が古書堂に持ち込まれます。幻の作品とは何なのか、そしてそれを盗んだ人は誰なのか、2人は関係者や横溝正史の背景を重ね合わせながらその謎に挑んできます。しかし、それだけが今回の謎ではなかったことが判明。全てを解決することなく2021年へと時間は進んでいき、本当の真実を引き出していきます。
 
このシリーズの面白さはその物語に出てくる作品や作家にまつわる背景を深く記述されているところにあります。それは「蘊蓄」という軽い言葉ではなく、「研究書」と言っても決して大袈裟ではないものです。例えば、今回の横溝正史にまつわるところでは、彼は戦時中生きていくために、ミステリーだけでなく市民が望むようなジャンルのものをたくさん発表しており、その中にはもっとも有名である金田一耕助の元となった人物像を書き記した家庭小説があるとか、戦時中の原稿用紙の使い方、また、古書としての横溝作品の扱われ方など、ただ作品を深読みするだけでない彼の作品の周辺情報が存分に記されているのです。巻末には参考文献が列挙されており、今回の作品だけでも、ざっと25冊。そして、文献だけでなく、横溝正史の研究者の方にも資料を見せてもらったり、助言を頂いたりして、この作品は生まれています。もちろん、これはこの作品だけに限らず、全シリーズを通してこのような形で物語を紡いでいますので、自分が興味のある作家や作品を扱った作品だけをつまみ読みすることも可能です。しかし、つまみ読みしたとしても恐らくその作家や作品の詳細な記述を目にすると他の作品も恐らく気になることでしょう。
 
私自身、今回この作品でいちばん気に入った場面は、横溝正史の背景とは全く異なるところ。扉子ちゃんのこの台詞「紙の本って、そこにあればだれでも読めるでしょう。本の方はなにもいわないのに、人間の方は色んなこと言ってくるよね……子供は読んじゃいけないとか、あれを読みなさいとか、なんでそんな変な本読んでるのと……なんだか、難しい(p147)」。小学校3年生の扉子ちゃんが学校での読書感想文を横溝正史の「獄門島」で書こうとして、学校の先生にやんわりと止められたことに対してのこの台詞。実は何を隠そう私自身も小学校3年生頃に横溝正史作品を堪能していたため、この扉子ちゃんの台詞に親近感を抱いたのでした。
  

本当にこの1年、出版される書物もコロナ関連、それに関わる政治・経済と何となくとげとげしい感じがしました。エンターテイメントとして少しほっこりとした、しかしページをめくればずっしりと「本」という書物を堪能できるこのシリーズで新しい年を迎えるのはいかがでしょうか。
ーーー文責 木村綾子


KIMURAの読書ノート『首都崩壊』

2020年12月03日 | KIMURAの読書ノート


『首都崩壊』
高島哲夫 作 幻冬舎 文藝春秋 2014年
 
2010年に刊行された『首都感染』(講談社)が今のコロナ禍の予言の書として話題になっていると知ったのはつい最近である。作者のインタビュー記事によると、作者自身は、今はこの『首都感染』より、本作品『首都崩壊』を是非読んで欲しいと語っていた。その理由が「この作品も間違いなく予言の書になるからだ」と言うのである。私自身、彼の作品自体まだ未読で、予言の書とされる『首都崩壊』にも興味があったが、作者自身がそういうのであれば、すでに起きてしまったことよりも、今後何が起こるのか、作品から何が語られるのか気になり、本作品を先に手にすることにした。
 
国土交通省のキャリア官僚の森崎真は、東都大学理学部地震研究所の前脇准教授から、東日本大震災を引き起こした地震の影響で東京直下型地震が5年以内に90%の確率で起こることを聞かされる。そしてその日の日付が変わった頃、ハーバード大学留学中に知り合ったアメリカの政府機関で働くロバートが彼の家を訪ねて来る。大統領から日本の総理大臣に直接手渡すレポートを届けるように依頼されたが、その通訳を森崎にして欲しいという。そのレポートは日本発の世界恐慌であった。実際、このレポートを基にヘッジファンドや格付け会社は動き出しており、アメリカ大統領は日本政府にこの恐慌が起こらないようにするために、具体的な策を提言してくれというものであった。地震と恐慌、森崎は内々に指示を受け対策を練っているところに地震が起きる。
 
地震対策もさることながら、この話の中では日本を取り巻く周辺諸国の動きが詳細に描かれていて興味深い。メディアで報道されている海外の様子というのはほんの氷山の一角で、そこには出てこない非公式での動き、しかも秒単位でそれぞれの国の機関があちこちの国を廻り根回しで動いている様子というのは、なかなか知ることではない。もちろん、小説での出来事であり、現実の世界ではそうではないと否定するのはたやすいことではあるが、それを簡単に否定するだけの根拠をこの物語から見つけるのは難しいと感じる程リアリティーを持っていた。とりわけ中国の動きというのは、ただただ不気味であり、もともとベールに隠されている部分が多くあることもあり、それがより際立っていた。それこそ、この作品も作者に言わせれば「予言の書」であるので、これが現実的になると、日本はどうなっていくのか、森崎のような官僚が現実にもいれば、話はよい方向に向かうのかもしれないが、そればかりは何とも言えず、暗澹とした気持ちになってくる。
 
ただ一つ気になるとしたらエンディングであろう。森崎の対策が功を奏した形になっているが、果たして現実の世界ではこのように上手くいくのであろうか。作者のいう「予言の書」とはこのエンディングも含めてなのであろうか。それとも地震と恐慌、そして諸外国の動きが予言しうる部分であって、エンディングは別なのであろうか。それとも作者はこのエンディングのように日本がなっていく確証というのを持っているからこそ、本作品を上梓したのであろうか。今後、コロナ対策以外のところでも日本の動きを注視していきたいと感じた。

===== 文責 木村綾子


KIMURAの読書ノート『サラリーマン球団社長』

2020年11月15日 | KIMURAの読書ノート

『サラリーマン球団社長』
清武英利 著 文藝春秋 2020年
 
新型コロナウイルにより、今年は3か月遅れの6月19日よりプロ野球のペナントレースが開幕。野球ファン(正確には広島東洋カープファン)の私としては今年は贔屓チームの勝敗よりも120試合を無事に選手たちが罹患することなく戦い抜いてくれることだけを正直祈っていた。途中で一部球団の中では罹患した選手がいたものの11月13日現在、無事に閉幕を迎えようとしており、ホッとしている。と同時に選手にとっては過酷な日程となったがファンとしては公式戦最中ほぼ毎日試合を応援できるというありがたい環境下でもあった。そのような今シーズンであったが、更にこの夏プロ野球に関して面白い本が出版された。それが本書である。
 
著者は1975年に読売新聞社に入社し、東京本社編集委員などを経て2004年に読売巨人軍取締役球団代表(局次長相当)・編成本部長に就任。球団のチーム作りなどに尽力を注いだ。しかし、2011年に著者は緊急記者会見を開き、読売新聞グループ本社会長兼主筆・読売巨人軍球団会長である渡辺恒雄氏が、重大なコンプライアンス違反を侵していると告発。そのため、著者は球団の一切の役職から解任されている。この件に関しては報道でも大きくとりあげられ、野球ファンでなくても記憶に残っている人も多いのではないだろうか。
  

本書は阪神電気鉄道航空から阪神タイガースに人事異動となった野崎勝義氏と、東洋工業(のちのマツダ)に入社した後、東洋工業創業者の一族で現広島東洋カープのオーナーとなる松田元氏の誘いを受け、東洋工業を辞職後カープ職員となった鈴木清明氏の二人を焦点化し、両球団内で何をしたのか、何が起こっていたのかという内部事情を2人の目を通して記されたルポタージュである。
 

親会社・阪神電鉄を持つ阪神球団と親会社を持たない市民球団としての広島球団との対比がやはり本書の核となる部分ではないかと思う。広島球団については、一昨年まで三連覇をしたため、その球団史などがメディアで取り上げられ、詳細はともかく球団背景について知識として知っている人もそれなりにいるのではないだろうか。翻って、阪神球団であるが、世間一般には全国的に見て親会社よりも球団の方が有名である。しかし、本書によると、球団役員は電鉄本社の部長級であるということ、また球団社長は本社からの天下り先であり、チームが負け続けていても球団が儲かってさえすれば何年も社長職を続けられるため、下手に改革の旗を掲げたりすると、下からの反発や本社から嫌われたりするため、じっとしておくことが鉄則のようである。その中で野崎氏は球団に異動してからは改革をしていこうとするのだが、やはり徒労に終わってしまうことや、球団職員が他の球団へ引き抜かれ、その改革案を他球団で施行してしまうという憂き目にあう。改革ひとつひとつが球団内の事柄として全く進まないことが赤裸々に綴られている。それでは親会社をもたない広島球団はというと、運営資金が潤沢ではないため、鈴木氏は何でも屋として国内だけでなく、海外まで足を延ばして一人奔走する姿が描かれている。決してどちらの球団運営がいいのかという単純な話ではなく、それぞれの立場から球団運営の難しさというのをひしひしと感じ取ることができる。ましてや今シーズンはコロナ禍でのペナントレースとなっている。それぞれの立場の球団はそれぞれの事情を持ちながらそれぞれに厳しい運営を更に担っていたに違いない。
 と共に、このルポタージュの合間に、著者が解任された巨人球団の事情というのもひそかに織り込まれており、著者はこの二球団の事情よりも本当は自身がいた球団のことを深く掘り下げたかったのではないのかと穿った目でみてしまった。今月21日から始まる日本シリーズが終わると、プロ野球はオフシーズンに入る。このオフシーズンにファンは本書を読んで、来シーズン、贔屓球団を応援しながらその裏で働く職員にも是非思いを馳せて欲しい。そして野球に興味のない方も、球団職員の奔走記として読んで頂くとサラリーマンとしての悲哀がひしひしと伝わり、自分自身の立場や職場での事象と重ね合わせ、決して球団職員が遠いものではないことを感じるのではないかと思う。    

    文責 木村綾子


KIMURAの読書ノート『コロナ黙示録』

2020年11月02日 | KIMURAの読書ノート


『コロナ黙示録』
海堂尊 作 宝島社 2020年7月
 

物語は2019年11月から始まる。翌年の東京五輪開催に政権が浮かれていた頃、中国湖北省・武漢の海鮮市場に勤務している男性が風邪症状で病院を受診。胸部CTで肺の異常所見が発見される。その後、この症状は原因不明の感染症ではないかと中国CDCに連絡が入る。これが今世界で蔓延している新型コロナウイルスである。この頃の日本と言えば、「満開の桜を愛でる会」の醜聞が吹き荒れていた。年が明け、元浪速府知事を筆頭とした政策集団・梁山泊ではこの新型コロナウイルスが話題に上がる。そして安保政権はオリンピック開催のために、トンデモなことをやり遂げるだろうと推測する。それが、検査をしないことで日本の感染者を少なく見せかけるというものだった。とその時、梁山泊に入った一報が横浜に寄港したクルーズ船内で新型コロナウイルス感染者が発生したというものであった。そして、陽性患者の受け入れ先がこの物語の主人公田口公平が所属する東城大学医学部付属病院となる。
 
小説なのか、ノンフィクションなのか。この作品は2006年に刊行され、第4回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞した『チーム・バチスタの栄光』シリーズの最新刊である。つまり、小説のはずなのだが、出てくる人、出てくる人、誰もが知っている人ばかり。少しだけ小説風に名前を変えているだけ。安保宰三内閣総理大臣、安保明菜夫人、酸ヶ湯内閣官房長官と書けば誰もが実在の人物が誰か安易に想像つくだろう。そして、2019年11月からの新型コロナウイルスに関する国内での出来事が今年の5月まで時系列に描かれるのである。
 
私自身はこの作品に関して3つの注目すべき点があると思った。
 
1つ目は新型コロナウイルスが日本に上陸してからの政府内のやり取り。表向きは私たちがメディアで報道され知っていることであるが、その裏での政治家の思惑や心情が微細に表されている。この作品に関する作者のインタビュー記事を読んだが、この部分に関しては言葉を濁しているところがあった。もしかすると作者の妄想ではなく、作者の人脈を通して漏れ聞こえてきたことを小説という形で表現しただけなのかもしれない。となると、私たち国民はとんでもない人達に国の舵取りをさせていたのかもというのが、これまで事実としてメディアで報道されて知っていたこと以上に実感として捉えてしまうかもしれない。事実は小説よりも奇なりである。
 
2つ目は現実の横浜でのクルーズ船に搭乗して、その様子をYouTubeに流した感染症専門医と思われる人物についての描かれ方である。彼の著書に関して、この読書ノート本年5月第1回で紹介しているが、まさにそれに書かれていることがこの作品ではそのまま描かれていた。本作品と彼の著書を合わせて読むと面白いかもしれない。
 
3つ目はこのシリーズの世界観をファンは「桜宮サーガ」と称しているが、この世界観に現実の世界を上手く重ね合わせて違和感なく、もともと「桜宮サーガ」で活躍していた人物を融合させているところである。つまりエンターテイメントとしての小説をきちんと確立させているところである。
 作者は更にインタビューでこの作品を書いた理由について語っていた。この政権が公文書を破棄してもいいということを閣議で決定させてしまったことに怒りをもっており、この新型コロナウイルスに関する政府の対処方法についても残されていないのではないかということ。そのため今回の出来事において日本で何が起こったのかという事を自分自身が残さなければ後世に伝えられないのではないかという使命感からだそうである。先にも書いたがこの作品は5月の時点で終了しているが、その使命感があるなら収束するまで5月以降も是非「桜宮サーガ」で書き続けて欲しいと願う。
===== 文責 木村綾子

 
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KIMIRAの読者ノート 『俺の妹がカリフなわけがない!』

2020年10月15日 | KIMURAの読書ノート

『俺の妹がカリフなわけがない!』
中田考 作 晶文社 2020年7月
 
あの「中田考」がラノベを出版した!という話題がこの7月、私が眺めているSNSに突如流れてきた。あの「中田考」とはイスラーム法学者の「中田考」である。と言っても私が持ち合わせている「中田考」の知識とは、数年前に世界を震撼させたIS(イスラーム国)の事件の時に、メディアでコメントを出していた、とか、実家が神社であるにも関わらずイスラム教に改宗したとか、ざっくり「イスラム教」の第一人者という程度である。そしてイメージ的にはお堅い学者さん。とりあえず、SNSに流れてきたし、学者がラノベを書いたということに興味を持ち読んでみた。
 
が、そもそもタイトルにもなっている「カリフ」という単語すら私は知らないに等しい。主人公の双子の妹、天馬愛紗の言葉を借りると「カリフは神の代理にして予言者の後継者、人類と地球を邪神の支配から解放するもののことです(p34)」ということなのだそうだが、正直この説明でも、少々理解出来ず。それでもこの説明を頼りにページをめくっていった。
 
天馬垂葉(俺)と天満愛紗(妹)は双子で君府学院の高校生。この天馬家は予言者ムハンマドの孫ハサンの末裔であり、君府学院はこの2人の祖父の父が設立した私立学校である。しかし、2人の父が経営破たんをさせ、石造財閥に譲り渡すこととなる。生徒会役員選挙公示前、俺は妹が生徒会長に立候補することを耳にする。対立候補は現在この学院の経営者である石造財閥の御曹司の石造無碍。下馬評では圧倒的に無碍が有利であったが、選挙演説で「カリフとして、生徒会長に立候補する」と語った愛紗が当選してしまう。これに納得できない俺は、気が付くと無碍と手を組んだようになり学園祭で上演する演劇で愛紗の目を覚まさせようとするが……。他スピンオフが2編収録されている。
 
教科書通りのラノベだった。軽快でコミカルで中二病(本中では「厨二病」と表記)満載の内容。それなりにラノベを読んできた私としては、唯一他のラノベと異なると思われる点はイスラームやカリフについての会話が留めなく出てくるところ。しかし、安心して欲しい。これらについての多くは愛紗から発せられるものであり、それを聴く友人たちはほとんどが「わけのわからない話!」とか「聞かなければいけないのか?」と呟いている。場合によっては、愛紗当人の思いとは全く別の解釈をしてしまう者も出てくる。そう、これを読んだからと言って、正直イスラームやカリフのことが理解できるわけではないのである。読者は間違いなく愛紗の友人たちと同じ気持ちのまま読み進めることになるであろう。恐らく、イスラームについて少しでも知りたいと思うのであれば、(私は未読であるが)作者が別の出版社から刊行している『ハサン中田考の漫画でわかるイスラーム入門(サイゾー 2020年4月)』を読むほうがよいのではないかと思っている。それでも、面白いと思ったのは、「イスラーム」だけで、これだけ物語を引っ張れるのだということ。読んでいても全く理解不能な難しすぎるイスラームの概念や歴史しか出てこないのに、不思議と途中で読むことをやめようと思わないのだ。軽快なリズムのあるラノベだからこれが成立するのかもしれない。それだとすると、今後他の複雑な理論を持つ分野でもラノベなら物語を展開することが可能なのではないだろうか。もしかすると、すでに追随を目論んでいる専門家もいるのかもしれないとも想像した。これはラノベ界の新境地になるのかもしれない。それを期待する作品であった。

   文責 木村綾子

 

参照

ライトノベルって何ですか? - Yahoo!

2017/03/22 — ライトノベル(和製英語: Light Novel)とは小説のカテゴリの一つで、主に中高生を対象とし、漫画やアニメ風のイラストを用いた娯楽小説の事です。略語としてはラノベ、ライノベがあります。 

KIMURAの読書ノート『ドナルド・キーン わたしの日本語修行』

2020年09月30日 | KIMURAの読書ノート


『ドナルド・キーン わたしの日本語修行』
ドナルド・キーン 河路由佳 著 白水社 2014年
 
昨年2月 96歳で亡くなった日本文学・文化研究の第一人者のドナルド・キーン氏。2012年に日本国籍を取得しているが、生まれも育ちもアメリカで、母語を英語とした彼がなぜここまで日本文学に深く造詣したのか、そもそも日本人でも原文読解は難解な『源氏物語』を読むことができたのか、ここに至るまでの日本語の習得はどのようにされたのか、実はこっそりと疑問であった。たまたま聴いていたラジオの番組でその疑問が解ける本を紹介しており、慌てて手にしたのが本書である。また、本書は著者の1人である河路由佳さんがキーン氏にこれらのことを語ってもらった内容をまとめたものとなっている。
 
キーン氏の話によると彼と日本の接点は大学2年(彼は飛び級をしているので17歳)の時、ニューヨークの古本屋で見つけた『源氏物語』の英訳(アーサー・ウエーリ訳)を購入したことによるという。但し、これは日本や『源氏物語』に興味があったのではなく(そもそも当時は日本に関しての知識は皆無だったとのこと)、価格が買い得だったため、購入して読んだというものである。しかし、読んでいるうちに『源氏物語』の美の世界にどっぷりとはまったと語っている。そして、更にその2年後、友人の別荘で日系人が日本語を教えてくれるということで誘われ日本語に触れたのが日本語への第一歩だったと振り返っている。その後は日本語に興味を持ち始め、大学でも日本語の授業を受講している。しかし、日本語が飛躍的に上手くなったのは、海軍日本語学校に入校したことによる。ここでは11か月みっちり日本語をしこまれ、日常会話だけではなく、文語体も学び、行書まで読めるようになったということである。ここで使用された教科書などが本書では詳細に紹介されている。
 
このようにしてキーン氏は日本語を習得していったのであるが、本書ではそれ以外にも興味深いことが語られている。キーン氏が日本語を本格的に習得した時期は、第二次世界大戦の最中。もちろん、日本とアメリカは敵対国である。しかしである。この時期アメリカの大学では日本文学の授業が普通に行われていたのである。その内容は武者小路実篤や谷崎潤一郎などを読み、日本語でその感想を書くというもの。日本では当時、敵国の英語の使用を禁止していた時期である。また逆にアメリカの兵士は敵の手に渡ったら知られたくない自国の情報を知られてしまってはいけないということで、日記を書くことを禁止されていたが、日本はそれを禁止していないだけでなく、新年ごとに日記帳を支給されていたということ。このように、本書では戦争に対する文化の違いがキーン氏の体験から綴られている。
 
本書の最後にはキーン氏の愛弟子たちがキーン氏の教師としての人となりと日本語、日本文学・文化に関してのキーン氏の向き合い方について自らの体験を通して語っている。これらはキーン氏の日本語に対する考え方を通しつつ、日本語を母語に持たない外国人がどのように日本語などを捉えているか客観的に知る機会にもなっている。
 
最後にキーン氏は次のように語っている。「戦争中に日本語を勉強した仲間たちが、戦後日本の文化の理解者になり、研究者になって次世代に日本語や日本の文化を伝えた。~略~今や日本文学は世界中の多くの人が知るところとなった。戦争前には考えられなかったことである。あの戦争で日本は負けたが、日本文化は勝利を収めた。これはわたしの確信するところである(p245)」。キーン氏は戦時中の海軍日本語学校で日本語を習得した仲間のほとんどが日本に敵意を当時から持っていなかったという。日本文化が勝利したというよりは、あの戦時中に日本語を敵国の言葉でありながらも、軍事的なこと以外にも自由に使えた風土。このような風土があるアメリカにやはり日本はそもそも戦争には勝てなかったのである。彼の日本語の習得過程以上にそのことを知る1冊となった。

===== 文責  木村綾子

 


KIMURAの読書ノート 『家族終了』

2020年09月14日 | KIMURAの読書ノート

『家族終了』
酒井順子 著 集英社 2019年3月
 
2003年に発表された『負け犬の遠吠え』(2003年10月講談社)を皮切りにむさぼるように読んできた著者のエッセイであるが、ここ何年かは少し遠ざかっていた。しかし、先日ふとタイトルに惹かれて手にしてみた。そして、「はじめに」の冒頭、衝撃的なことが綴られていた。
 
「かねて病気療養中だった兄が他界したことによって、私にとって『家族』だった人が全員、いなくなりました。自分が生まれ育った家族のことを『生育家族』、結婚などすることによってつくった家族を『創設家族』というそうですが、生育家族のメンバーが自分以外全て、世を去ったのです(p1)」
 
著者の父親は彼女が30代の時、母親は40代の時に亡くなっている。ひとりっ子でなければ、両親が亡くなってもまだ兄弟姉妹がしばらくいるという感覚が少なからず著者の世代であれば当たり前のようにあるはずである。その当たり前の存在が突然この世を去るということは、未婚であれば、いわゆる「天涯孤独」という現実に突きつけられるのかとしみじみと感じてしまった。彼女はこれを「『家族終了』の感、強し(p2)」としている。そのような状況に置かれた著者が改めて「家族」というものを18の項目で考え綴ったのが本書である。
 
その中で第2章「我が家の火宅事情」は「はじめに」で衝撃を受けた以上に衝撃的なものであった。彼女の持つ少し斜め上からゆるやかに主張するエッセイと自身が『負け犬の遠吠え』となった根源がここに記されている。それは『負け犬の遠吠え』の時には「まだ両親が生きていたので書くことができなかった(p43)」幼い頃の彼女の家庭事情。個々の家庭にはそれぞれの事情があり、他人が口を出すことではないが、それでも著者のアイデンティティのスタートがこれだとすると少し切なくもなってくる。
 

このように前半いきなり衝撃的な告白でど肝を抜かされるのであるが、それ以降はいつも通りの彼女の視点に置いた持論が展開される。学校教育の「家庭科」の授業において必要なことは、「『一人一人が、人生を最後までというサバイブしていくために必要な能力を身につけましょう』という姿勢なのではないでしょうか(p92)」という問いかけにうなずき、「経済原理の離れた感情のやりとりがなされる場こそが、家族というものなのでしょう(p105)」というつぶやきに共感し、歌舞伎界の世襲制こそが歌舞伎を観る醍醐味であることを教えてもらい、毒親に育てられ、「親からの影響が好ましくないものであったならば、それを自分の力でどうにかすることが、本当の意味で親の手を離れるということなのではないか(p187)」というささやきに耳を傾ける。そして、彼女の最後の言葉、「家族は確かに素晴らしいものではありますが、それが唯一無二の幸せの形だとした時には、息苦しさがつきまとうのでした。人を結びつけるものは、生殖だけではありません。~略~様々は結びつき方が存在する。そんな様々な結びつき方によって一緒にいる人達を認め合うことによって、日本はもう少し楽な国になるのではないかなぁと、私は思っているのです(p235)」に今更ながらに自分自身の「家族観」とは、と考えさせられるのである。