京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート 『亜由未が教えてくれたこと』

2018年10月02日 | KIMURAの読書ノート
『亜由未が教えてくれたこと』
坂川裕野 NHK出版 2018年7月

本書は2017年NHKで3回に渡り放映された「亜由未が教えてくれたこと」を下にしつつ、更に番組で放送できなかったこと、亜由未のそれまでの人生や家族の思いを綴ったものである。著者は亜由未の兄であり、この番組を作ったディレクターである。そして当の亜由未は双子として生まれてきた直後に受けた手術の後遺症で、重度の障害を持ってしまった。

著者がこの番組を作ろう、妹の存在を知ってもらおうと思ったきっかけは2016年に神奈川県で起きた知的障碍者施設での大量殺傷事件での犯人「障害者は不幸を作ることしかできません」という言葉を聞いたことにある。著者は障害を持つ妹と生活をしていたが、幼い頃からそれを「不幸」と感じたことがなかった。世間は、「障害者の家族は世話や将来の不安に追われている」というイメージを持っているが、それは一面に過ぎず、同じように笑いや楽しい出来事、喜びもあると綴っている。そして、人は重い障害があるから、何もできないという訳ではないということに気づくはずである。ただ、家族にたまたま障害を持っている人がいないために、そうでない人はそれを「知らない」だけなのである。

前回の「読書ノート」で命の選択について書かれた本を紹介した。偶然であるが、本書ではそのことについても記されている。亜由未は双子として生まれその後の手術で障害を持ったと前述したが、すでに胎内でハイリスクの双子(妹も同様である)であった。著者は母親に、出生前診断について質問している。母親は次のような内容の事を語っている。「胎児の立場は弱いなと思う。世間では、お腹の子が障害児と分かったら中絶する人が多い。しかし、生まれてから事故で障害を負ったとしても、『その子を殺して欲しい』と言う人はいない。障害児が生まれるのが嫌というのは、苦しみや苦労ばかり想像してしまうからではないのか。長い時間をともに過ごして、深くかかわって、自分の腕に抱いて一緒に生
きてきた子どものことは分かるけど、まだ見ぬ胎児に関して、何かを判断するのは難しい。普通想像力はそこまで及ばない。まだ何の関係性もない状況で、その命を引き受けるか否かの判断を迫られてしまうのはどうかと思う」。

本書と前書を合わせて読むとそもそも「選択」って何なのだろうということを改めて考えさせられる。これまで「選択」できることは束縛されない、自由があるということでかなり肯定的に捉えてきた。しかし、筆者はこの「選択できる自由」の裏には「自己責任」がついて回ることを記している。そして、自己責任で産んだのだから…と社会は冷たいとも指摘している。

自分たちで「選択」したから、社会制度は整えなくていいのか。全て「自己責任」であれば、そもそも「制度」どころか「法律」すら必要ないのではないのか。本当は様々な「選択」をしても誰もが安心できる「制度」が必要なのではないのだろうか。本書の目的は、亜由未の家族の生活を垣間見ることで、その日常を少しでも「知る」ということであったはずだが、実はそこにはもっと大きなメッセージが隠されていることに愕然とした。

======.文責 木村綾子

KIMURA の読書ノート 選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子

2018年09月18日 | KIMURAの読書ノート

『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』
河合香織 文藝春秋 2018年7月

2011年北海道に住む母親が羊水検査の結果を医師から誤って伝えられたために、ダウン症の子どもを出産したとしてその医師を提訴した出来事があった。本書は当事者の母親、周囲の人からの聞き取り調査、そして裁判の傍聴をして「命」と向き合った1冊である。

この裁判は全国紙でも大きく取り上げられ、日本初の「ロングフルライフ訴訟」ともなっている。「ロングフルライフ訴訟」とは、著者の言葉を借りると、「子どもが重篤な先天性障害を持って生まれた場合に、もしも医療従事者が過失を犯さなければ、障害を伴う自分の出生は回避できたはずである、と『子自身』」が主体となって提起される損害賠償請求訴訟」である。ちなみに、この両親が起こした訴訟時には、すでに子どもは合併症で亡くなっている。

本書のタイトル、そして最初ページをめくった時には、そもそもお腹の子の状態において、「選択する」ということに違和感を抱いた。しかし、読み進めていくと、分かるのであるが、結局のところ、提訴された医師への不信感が両親を裁判させる方向に追い詰めていることが分かる。いくら論理的な筋道を通した内容でも、法律を持ち出しても、たった一言があるかないかで、事態がここまで大きく変わってしまうということをしみじみと感じてしまう。

また、本章はこの訴訟だけでなく、この両親と同じように診断ミスのため、障害を持つ子どもを出産した家庭への取材も行われている。医師の誤診に対して同様に裁判を起こしながらも、生まれてきた我が子を育てた家庭、結局里親に預けた家庭、取材から通して見えることは、その家庭が我が子をどのような形で選択しても決してそこに「正解」があるわけではなく、そしてその家庭のその選択に対して否定できることではないどころか、その気持ちが分からなくもないということであった。それは、妊娠し、検査を受けた際の結果によって堕胎するという「選択」に対しても本書を読み進めると当初の否定的な感情が無くなっていた。それは、肯定するというものではなく、妊娠したことによって、検査をする
、しない、そして検査結果いかんにかかわらず、お腹に子どもがいる間、誰もが気持ちの大きな揺れを持ちながら、妊娠生活を送る。その揺れの中に「堕胎」という感情が芽生えたとしても決してそれは特殊なことではないのだ。そしてその感情が即決で実行に移すというものでもない。その「揺れ」の中で「新たな命」と向き合っていくのか、常に妊婦は考えていることを改めて思い出させられる。

更には、本書では、「選択」という観点から強制不妊手術に対して国家賠償請求を行っている人々にも話を聞いている。彼女たちは自分の意志ではなく、まさに「強制的」に10代の時に不妊手術を受けさせられており「選択」の余地すらない。しかし、ここでも著者の言葉を借りるのなら、当時は生まれる前に検査ができなかったため、その可能性を持つ母体に対して「予防した」という訳である。これらの背景には、法律的なことも絡んでおり、日本のこれらの法律的なこと、その歴史についても言及している。

一つの裁判から見えてくる「命」。著者とこの母親は言う「誤診という形でこの世にわずか3か月の生を受けた赤ちゃんは、命に真摯に向き合う姿勢を伝えるために誕生したのではないだろうか」。


文責 木村綾子

KIMURA の読書ノート 『甲子園という病』

2018年09月03日 | KIMURAの読書ノート

『甲子園という病』
氏原英明 新潮社 2018年8月

「甲子園」という言葉を聞いて一般的には二つの事柄を日本人はイメージすると思う。一つはプロ野球阪神タイガースのホームグラウンドとしての「甲子園」。そして、春と夏、高校野球の全国大会場所としての「甲子園」。本書は、後者としての「甲子園」について論じているものである。

冒頭に著者の意見としてではなく、メジャーリーガーのスカウトたちが、この甲子園を取り巻く環境に対して表現している言葉を紹介しているが、これはかなり衝撃的である。「児童虐待」を意味する「child abuse(チャイルド・アビュース)」と言っているのである。野球の本場、アメリカでは少なからずこの甲子園に関しては好意的どころか、否定的な、いや、この言葉からすると「犯罪」と同列で見られていることが分かる。

その理由の一つが大会における投手の登板過多である。著者はかつて甲子園を賑わし、将来を嘱望されたものの、その後姿を消した選手だけでなく、当時その投手を指導した監督にその時の様子、現在の思いをインタビュー行っている。そして、そこから見えてくる現実。プロ野球選手という将来の夢を持って、幼い頃から野球に取り組む子ども達が「甲子園」という通過点でその夢を断たれてしまうことがあることは想像しないだろう。それどころか、「甲子園」は夢への近道だと教えられるはずである。だからこそ、まず野球少年たちは「甲子園」を目指すのである。

第三章では、プロ野球界で活躍した現在中日ドラゴンズの松坂大輔と元広島東洋カープの黒田博樹の高校時代を比較している。共にメジャーリーグでも活躍したばかりか、松坂選手は高校時代、登板過多ではあったが、決勝戦でノーヒットノーランを達成し、その記録は伝説化すらしている。しかし、著者は彼の野球人生においてそれが果たして「成功」と言えるのかと疑問を呈している。またここでは、現在メジャーリーグでプレイしている他の選手が甲子園時代に注目を浴びながらも、なぜ潰れずに現在着々とキャリアハイを積んでいるかについても触れている。ここに今後の甲子園の運営を考えていく上でのヒントが示されている。

今年の夏の大会は100回大会ということもあり、これまで以上に大会前からメディアを含め、甲子園は盛り上がった。しかし、その反面、その盛り上がりに対して一定数冷ややかな意見が例年になく見受けられた大会でもあった。決勝戦まで勝ち進んだチームの投手の1人は、今大会のみで881球を投げ、連日「不用意な外出を控えるように」というアナウンスが流れる天気予報の中での試合。その中で足をつって処置を受ける選手がありながら、決してそれを「熱中症」と報道しないメディア。まさか、著者もこの100回大会が、本書で自身が指摘した事柄の多くが表に出てくる大会になるとは思いもよらなかったであろう。そして、「児童虐待」と映っている海外の野球関係者は今大会をどのような目で見ていたのであろ
うか。

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文責 木村綾子

KIMURA の読書ノート『東京六大学のススメ』

2018年08月21日 | KIMURAの読書ノート

『東京六大学のススメ』
東京六大学研究会 著 カンゼン 2016年
 
大学をカテゴライズして示す言葉として、「関関同立」「MARCH」「日東駒専」などあるが、これらは全て同じような偏差値を基準としてまとめられている。その中で、唯一偏差値でカテゴライズされていないのが、東京大学・慶應大学・早稲田大学・立教大学・明治大学・法政大学を一括りにした「東京六大学」である。本書はこの東京六大学を目指す人、いや、目指したくなる様に仕向けている進学ガイドブックである。
 
そもそもこの偏差値を超えた「東京六大学」は一体何なのか。私自身、この言葉を聞くと、大学野球をイメージするのだが、まさにこの言葉の出発点は学生野球リーグに由来するらしい。しかも、本書によると、この野球リーグは創設からすでに90年を超えるとのことである。1903年に行われた早慶戦が起点となり、その後に、明治、法政、立教、東大の順に加盟し、1925年に現在の六大学の体制で試合が行われ、現在に至るようである。このような経緯により、日本の野球を引っ張って来たという自負があり、そのまま六大学のブランドを刷り込んだと本書には明記してある。
 
さて、本書はこの六大学をそれぞれの視点から比較して、偏差値とは異なる六大学の魅力を語っている。第1章では前述した「六大学とは」ということも含め、それぞれの大学を個別に紹介。第2章は「数字で見る六大学」。偏差値はもとより、就職率や生涯賃金、犯罪報道まで、多種多様な数字が散りばめられている。第3章は「くそbot」として、自ら通っているそれぞれの大学のSNSにあげた自虐ネタを拾い集めている。在学生やOB、OGが自校をどのように捉えているのか垣間見ることができ、なかなかに面白い。そして、第4章は後述するとして、第5章。六大学以外から見る六大学。偏差値的には他大学(六大学以外)が高い大学と比較し、それでも六大学の方が勝てるという強気な理由がそこに述べられている(ex:慶應の商学部が京大に負けない理由)。……というような形で第11章まで本書は綴られている。第6章以降もなかなか一般的な進学ガイドブックでは取り上げられない内容となっており、ガイドブックというよりは、読み物としてかなり楽しむことのできる構成である。そして、第4章。もし、この章立てがなければ、私は本書をここで取り上げることはなかったであろう。ちょっと面白おかしい読み物的なガイドブックで済ませていたはずである。
 
その第4章のタイトルは「LGBTから見る六大学」。第4章以外の章立ても他のガイドブックではなかなか取り上げられることがないとは言え、それでも、どこかしらの雑誌の企画ページなどではありそうなテーマである。しかし、この章だけは、他の章とは異なるオーラを放っている。なぜ、あえてこのテーマをしかも、第4章という場所に取り込んだのか。それは著者が学生時代に経験した出来事に関係するようである。まず章の初めにその経験が5ページ半に渡って綴られている。そして現在の六大学のLGBTに対する活動や支援についての取り組みが紹介している。著者の調査によると、早稲田大学ではすでに1991年にLGBTのサークルがあったそうで、これらのサークルや団体は今や自分達の所属する大学構内だけでなく、国際的にも活動している。
 
本書は2年前に刊行されている(この夏の某国会議員の発言にのっかったものでないと言いたい)。著者の体験が起点になって本書の中に組み込まれたとは言え、少なからず本書を読む限り、「東京六大学」における「LGBT」に対する意識や認知というのは、ここ最近になって始まったことではなく、すでに身近な存在であることが分かる。六大学以外の大学の状況は分からないが、少なからず某国会議員よりは学生の思考は柔軟で、様々な文化に対応した学生生活を送っていることも見て取れる。そりゃ、著者が「東京六大学」をおススメするのは最もである。

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文責 木村綾子

 

KIMURAの読書ノート 『お母さん二人いてもいいかな⁉』

2018年08月07日 | KIMURAの読書ノート


『お母さん二人いてもいいかな⁉』
中村キヨ(中村珍) 作 KKベストセラーズ 2015年
 
少し前からとある国会議員のSNSでの発言が話題となっていた。それはあくまでも当初はネット内だけのものであったが、7月半ばに発売された雑誌にその議員のLGBTに対する寄稿文が掲載されたことで多くの人にも知ることとなり、更に物議を醸しだしている。丁度、その時にたまたま手にしたのが、本書である。
 
本書はコミックエッセイの形で、作者の婦妻生活を描いている。しかし、作者はあとがきにも綴っているが、決して「LGBTが差別に負けないで子どもと家庭を得た」という啓蒙書ではない。誰でも経験する恋愛感情や三角関係、仕事のことを漫画家としての職業のため、それをネタとしている。いわゆる多くの異性愛者の漫画家が自分自身の生活やそれまでの経験を描くそれと全く変わらない。読者は同じ経験をしていれば共感するだろうし、もしかしたら、その逆の感想を持つかもしれない。そして全く自分自身が経験していないことであれば、知識として得るだけのことである。
 
それでも、今回本書を取り上げたのは、某国会議員が発言した言葉「生産性」、つまり「子づくり(子どもが産めるかどうか)」について、たまたま本書で記されていたからである。作者とパートナーの間には3人の子どもがいる。異性愛者(つまり一般的な男女のカップル)からすれば同性愛者の間には子どもは授かることはないというのが普通のイメージであろう。だからこそ、某国会議員もそのような発言になったのかもしれない。しかしである。作者はこのように語っている。「男女のカップルは双方合意して伴侶と作るけど、私たちは各自殖やしたければ、外で作れる」更に付け加えると、「伴侶に作る気がなくても、自分の子作り計画を一切諦めずに作れるのは女同士特有のメリット」と言っているのである。作者自身は、「仕事の関係で妊娠することは避けたが、欲しいのはパートナーの子である」と。そして、「子どもに関していえば、男性不妊、女性不妊があるため、異性愛者でも幸運が揃った人でないと叶わない」と。更にこの話には続きがあり、この疑問をぶつけた作者の友人は、自身の不妊が原因で夫と夫の実家に離婚してくれと頼まれて別れている。
 
この事例だけを見ても、某国会議員の発言には矛盾が生じることになる。本書からすれば、「生産性があった」のは、LGBTの作者たちであり、その友人の異性愛者は「生産性がなかった」ことになる。また本書から離れるが、とある芸能人の異性愛者カップル(日本の法律上、普通の夫婦)は海外で代理母という選択をし、血縁的には親子である。しかし、日本の法律上、実の親子となっていない。この場合、生産性は「ある」のか「ない」のか。とすれば、何をもって「生産性がある」、つまり「子作り」とするのかを根本的に考えなければならないだろうし、「生産性」という言葉をあえて議員が使うのであれば、LGBTに関してクローズアップする前に先の作者の友人や芸能人のようなケースをもっとバックアップすることが政治家の務めではではないのかと考えてしまう。
 
今回はこの発言と読んだ時期が同じだったために、この部分だけを紹介したが、先にも書いたように、このことも、仕事のことも、子育てのことも、犯罪被害についても(パートナーが被害を受けている)、等々どれも並列に描かれている。どこに焦点を置いて読むかは読者次第である。
 
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文責 木村綾子




 

KIMURAの読書ノート 国境なき医師団を見に行く

2018年07月17日 | KIMURAの読書ノート

『「国境なき医師団」を見に行く』
いとうせいこう 著 講談社 2017年11月

 「国境なき医師団(以下:MSF)」に知人を通して個人的に寄付をしていたところ、MSF広報より取材を受けることになった著者。その縁がきっかけで逆取材を申し込み、作家としてMSFの活動を記録したルポタージュである。

本書は、ハイチ・ギリシャ・フィリピン・ウガンダの四か国での活動が記されている。MSFの活動と言えば、途上国での診療活動のイメージがあるが、それは活動の一部であり、実際は多岐に渡るようである。著者自身、MSFから取材を受けたことでこのことを知り、自分でも現場で取材をし、原稿を書くことによってこのことを伝えたいという気持ちになったという。言葉の通り、診療活動に関しては、最後のウガンダで大きく触れられているが、他国ではそれ以外の活動を主軸に置いている。本書の中だけでも、ハイチの産科救急センター、性暴力被害者専門クリニック、コレラ緊急対策センター、ギリシャのVoV(暴力や拷問を受けた人びとを対象としたプロジェクト)、フィリピンのリプロダクティブ・ヘルス
(性と生殖に関する健康)などがある。

更には、医療従事者だけがMSFではなく、そこでは医療器具を管理するエンジニアであったり、ドライバー、そして文化的仲介者というスタッフの存在も紹介している。ここで、インタビューした文化的仲介者は難民として母国から逃れてきた青年であったが、母国に戻らずにそのまま他国で身を寄せる選択をしたという。そして、彼の仕事は主に難民をサポートするものであるが、具体的には、言葉を通訳し、それぞれの慣習を医師に説明し、また患者にこちらの支援方針や内容を理解してもらうことを担っている。

日本人のMSFスタッフが著者に語ったところによると、例えばアフリカの活動地では、ヨーロッパ系やアフリカ系のスタッフのみだと自己主張が激しくなるため、日本人スタッフは調整機能として、チームに1人組み込むのだそうだ。その方が実際に上手く働けているという。また日本が平和を重んじて外に軍隊を出さないというのも、国際社会で日本人が小性的な役割を果たすのに大きく役立っているという。しかし、残念なことにこれを聞いた直後に南スーダンへの駐屯が海外でも話題になり、他国のスタッフからも惜しいという声が聞こえたという。話は飛ぶが、現在西日本の災害で被災地は大変な状況になっている。政府は果たして現場の声を聞いているのだろうか。決してMSFが活動している海外でのことで
はない。国内のことである。空白の66時間。一体何をしていたのか。本書を読みながら、そのようなことも思ってしまった。

作家という文章を紡ぐ仕事をしている著者であるが、MSFをほぼ何も知らない読者と変わらない目線でのスタッフへの問いかけは素人さながらで、MSFのスタッフからの突っ込まれた返答に何も答えられずに赤面するという様子も綴られている。だからこそ、読者に分かる事実というのが、本書にはいたるところに転がっていて、安心して読める1冊でもある。


文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート[母の家がごみ屋敷]

2018年07月02日 | KIMURAの読書ノート


『母の家がごみ屋敷』
工藤哲 著 毎日新聞出版 2018年2月
 
本書は毎日新聞の連載記事をまとめ、更に加筆して一冊にまとめたものである。「ごみ屋敷」と聞けば、家の中だけでなく、それに続くようにごみが外にまで散乱し、近所の人たちが迷惑をしているという映像をテレビなどで誰もが一度は目にしたことはあるのではないだろうか。「ごみ屋敷」が全てではないが、このように自分の身辺についての放任や放棄を「セルフネグレクト」と言う。私たちが映像で目にする「ごみ屋敷」の当事者はこれらのごみに関して「ごみではない」と口に、視聴者も思わず「どうしようもない人」と烙印を押してしまいがちであるが、本書から見える姿、それは当事者の本心ではないことが分かってくる。
 
第1章ではいわゆる「ごみ屋敷」と言われた事例を新聞記事から紹介し、第2章では実際に著者が「ごみ屋敷」の現場を取材し、なぜこのような状況に陥ったのか原因を探っている。このような現状の中で、行政の対応を伝えているのが第3章。そして、医療や医師の役割について考察が第4章。章立ての最後はこれらのことについて専門家からの意見が記され、巻末資料として「セルフネグレクト」に関する主な研究が添付されている。
 
読後に思ったのは、テレビで写し出された「ごみ屋敷」が決して他人事ではなく、自分自身にも当事者として起こり得ることだということ。著者は「はじめに」で日本のごみ出し作業について言及している。最近では、24時間いつでもごみを捨てられる集合住宅が増えてきているが、まだまだ多くが分別して、さらに決まった曜日の時間に指定のごみ集積所まで自分自身で出しに行かなくてはならない。若い(と言っても40代)著者ですら、病気になったり、動くのがおっくうな時は、この分別・ごみ出し作業がめんどうになるのに、高齢となりまさに体が動かしにくくなった時、これら一連の作業は大きな負担ではないのだろうかと。ましてや、高齢者は「人に何かを頼む」ということを好ましく思わない。「ごみ
を代わりに出してきて欲しい」と他人に頼むことはなかなか難しいだろう。もちろん、自治体によっては、この「ごみ出し」に対しての支援を行っているところもある。例えば、所沢市ではごみを集積所まで捨てに行けない高齢者を対象とした「ふれあい収集」を行っており、この10年で利用者は増加傾向であるが、それでも先に記したように「人に迷惑をかけられない」という理由で支援を受けることに消極的な高齢者がまだまだ多いというのが現状である。一般社団法人産業管理協会のHPによると、ごみの分別の理由は、「ごみの中には、もう一度試験後資源として使えるものがあり、これを分別してごみ出しをすることでリサイクルルートに乗せることができる。」とあり、実際私たちも現在その理由により行政
からの指導を受け、分別・ゴミ出しを行っている。しかし、こうすることにより、負の部分を生み出す一端になっているということに気づかされる。だからと言って、現在のごみ出しの方法を大幅に変えていくというのは、現実的ではないだろう。
 
ルポタージュとしては、決して多くないページ数であるが、なかなか踏み込むことのできない弱者の生活に足しげく通い、時間をかけて丁寧に言葉を積み上げている本書は、特異な人が行っていると思っていた「ごみ屋敷」が、実はとても身近な課題であるという事を身に染みて感じさせるものであり、これから更に進んでいく高齢化社会の課題をまた一つ浮き彫りにさせた一冊である。

 文責 木村綾子

KIMURAの読書ノート 友罪

2018年06月17日 | KIMURAの読書ノート


『友罪』
薬丸岳 集英社 2015年
 
ジャーナリストを目指して挫折した益田がたどり着いた先が埼玉県内にある町工場。同じ日に同い年の鈴木もここに雇用される。鈴木は誰とも打ち解けず、工場内では浮いた存在になっていたが、次第に益田と話をしていくようになる。ある時、益田は14年前に地元で起きた猟奇的な殺人事件の犯人が鈴木ではないかと疑うようになる。疑念を払しょくするために、鈴木は益田の身辺を調べていくと……。
 
「心を許した友は、あの少年Aだった」というキャッチコピーが先月映画のCMとしてテレビで頻繫に流れていたので目にした人も多いのではなかろうか。本書はその原作である。私自身このコピーを目にした時、正直1997年に起きた神戸連続殺傷事件を思い出してしまった。そして、そのコピーよりその後を作者なりにかみ砕いてフィクションと描いたものだとイメージしてしまった。しかし、巻末の解説によると、この事件の犯人が手記を出版したのは、本作品(初出2010年)よりも後のことで、件の事件とは全く別物であるということを解説者は記している。
 
このような事件をモチーフにした小説の場合、多くが加害者や被害者側の家族の視点に立ったものが多かったように思える。しかし、この作品は事件の渦中には犯人とは全く接点を持っていなかった人物、つまり法的に罪を償った犯人とその後日常生活の中で出会った人物に焦点を置いている。そして、本作ではこれらの人物はそれぞれ鈴木と同様に知られたくない過去を背負って生きている。鈴木を通して、自分の過去とどう向き合っていくのかというのが主題であり、かつ、人の過去に対して、他人はどこまで詮索していいのか、いやしてしまわずにはいられないのかという読者への問題提起に比重を置いている。
 
それを顕著に表したのが鈴木に好意を寄せる事務員の藤沢ではないだろうか。彼女はかつての恋人のために、AVビデオ出演の過去を持つ。その過去から逃げるべく町工場の事務員の職を得てひっそりと身を潜めて暮らすのであるが、元恋人にその場所を見つけられ、過去のビデオをその町工場に送られてしまう。更に鈴木の過去を追う記者により、藤代の過去が雑誌に掲載される。打ち砕かれる藤代に対して鈴木が発したのは「君は何も悪いことをしていない」。そう、少なからず彼女に関しては、何も罪になるようなことは犯してないのである。それでも、周囲は面白おかしく、彼女を好奇の眼で見てしまうばかりか、それ以上の過去を知ろうとする。
 
600ページ近くあるこの作品、ページをめくるたびに気持ちは沈んでいき、心が刻まれていくような感覚を抱き、何度も途中で目をそらしたくなる。そして、結末。そこにハッピーエンドがあるわけではない。ただただ、ひたすら重たい宿題がのしかかっていく。それは、この作品はかつての犯罪者であった鈴木の視点をあえて描いていないからかもしれない。それだけに、読者には逃げ場のない作品となっているのである。
 
映画は観ていないために、どのような仕上がりになっているのか私には分かりかねるが、原作を読んだ身としてはこの映画のキャッチコピーは観客動員のための印象付けにしか感じない軽いものに思えてしまった。まさに件の事件に関して他人がどこまで関与していいのか。被害者・加害者の家族の想いをどこか置き去りにしていないか。しかし、かくなる私自身、この作品を手にしたのは、このコピーを目にしたのがきっかけだったのは、否めない。複雑な心境である。

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文責 木村綾子






KIMURAの読書ノート『孤狼の血』

2018年06月05日 | KIMURAの読書ノート

『孤狼の血』
柚月裕子 作 角川書店 2017年8月
 
前回の「読書ノート」では、映画『孤狼の血』を取り上げた。その中で、私は「いわゆるやくざの『指をつめる』シーンがそのまま映し出され、豚の糞を口に押し込むという暴挙。バイオレンス映画とは聞いていたが、ここまであからさまに映し出されるとは全く想像もしていなかった」と書いたが、原作ではこのような暴力的なシーンがどのように綴られているのか気になり、早速原作を読んでみた。
 
結論。映画で写し出されたこれらのシーンはほとんど「刺す」「殺す」「殴る」「拷問」という言葉で表記されていた。具体的な描写のところもあるが、それは「肋骨が折れ」「鼻血が噴き出した」など、小説としてはごくごく身近な言葉であった。正直、映画を観ず原作だけで留まっていたら、自分の中の想像の範疇であり、決して映画の中で映し出されていた暴力団の中で繰り広げられる、おぞましい状況を思い描くことは全くできなかったであろう。改めて、映像の力というものを思い知らされた。
 
逆に、映画の限界というのも原作を読むことで知ることとなった。原作は453ページ。それを2時間余りの作品に凝縮するには、原作の全てを組み込むことができない。今回の場合、暴力団組織、警察組織について原作では物語の流れの中で踏み込んで書かれている。それは現実の部分もあり、この小説だけのオリジナルの部分もある。しかし、映画の中ではそれが端折ってあり、原作を読むことでこれらの両組織について全く知らない人でもすんなりとその世界に入っていけるようになっている。今回の作品に限っては、原作と映画が両輪となって上手く機能しているように感じた。
 
本作品は「警察小説」と言う触れ込みであるが、第69回(2016年)日本推理作家協会賞受賞作品である(上記出版年は文庫化のもの)。つまり推理小説なのである。各章の扉には一部黒塗りの日誌が表されており、これが伏線になっていることは、明らかであるが、物語の中でここに言及される言葉が出てこないため、読み進めていくとこの存在をうっかり忘れてしまう。そして新たな章になるたびに、この扉が出てくるのだが、だんだん麻痺し、これがただのデザインのように見えてくる。そして、エンディングで思わぬ展開に驚愕するというミステリー好きにはたまらないお楽しみが待っている。どこが推理小説となっているのかは、読んでからのお楽しみであるが、この楽しみを期待する人は映画ではなく、原作をまずは読んで欲しい。
 
また、原作では新人刑事日岡の16年後にも触れられている。そこには大学卒のエリートだった日岡がタイトル通り「孤狼」の血脈を受け継いだ泥臭い一人の人間となって、呉原東署に君臨する。わずか2ページにそのことが凝縮されているが、その場面は圧巻である。
 
と、この「読書ノート」を書いている最中に、本作品の第2弾『凶犬の眼』の映画化が決まったというニュースが飛び込んで来た。原作では味わえない覚悟のいる映像になることは想像に難くないが、少しだけわくわくしている自分がそこにいる。
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文責 木村綾子

 

KIMURAの読書ノート『孤狼の血』

2018年05月17日 | KIMURAの読書ノート
『孤狼の血』
白石和彌 監督
柚月裕子 原作 池上純哉 脚本 役所広司 松坂桃李 出演
2018年5月12日 公開
 
昭和63年。広島県呉原東署に勤務するマル暴の刑事・大上(役所広司)と新人刑事・日岡(松坂桃李)は、広島の巨大組織五十子会系加古村組の関連企業の社員の失踪事件解決に奔走する。それに関連して、加古村組と地場組織尾谷組の抗争が激化。それを食い止めようとする大上のもとに、大上の過去がリークされ、両者に顔の利く大上はこの事件から外される。そのため、両者の抗争は更に激化していく。
 
目を覆ってしまう場面から物語は始まる。いわゆるやくざの「指をつめる」シーンがそのまま映し出され、豚の糞を口に押し込むという暴挙。バイオレンス映画とは聞いていたが、ここまであからさまに映し出されるとは全く想像もしていなかった。しかし、これはほんの序の口。話が進むにつれ、スクリーンに映し出される暴力はエスカレートしていく。いや、それはもはや「暴力」の域を脱している。フィクションであり、スクリーンの中の世界は架空の出来事で、その暴力シーンの一つ一は作りこまれたものというのは、頭では理解出来ていても、目の前で繰り広げられる凄惨さは、明らかに大人でもトラウマになってしまう。「表現の自由」と「社会規範」。その線引きはどこでするのかという問題を提起
した作品でもあると感じた。
 
しかし、それに目を背けつつも、その場から逃げ出せない面白さがあった。やくざ顔負けの大上。そのやり方に反発しながらも、暴力団を相手にするという現実を目の当たりにしながら、その世界を知っていく日岡との関係性。何よりも日岡役の松坂桃李さんの俳優としての成長過程がそこにあった。役所広司さんをはじめとする脇を固める豪華大御所人たちのぎらぎらとした目は間違いなく、この作品には必要なメンバーである。黙っていたら、暴力団に日常から間違えられてもおかしくない俳優陣の中に、「爽やか」が代名詞のような彼がどのような演技をしていくのか、そこだけ浮いてこないのかという疑問が当初はあったが、まさに作品が彼を育てたと言っても過言ではないだろう。日岡自身が作品の世界
でもまれたように、松坂桃李という俳優も今後、このような汚れ役に必要な俳優として名乗りを上げたように感じる。
 
さて、この物語の場所呉原市は、架空ではあるが、一昨年話題となった『この世界の片隅に』に続き、私の地元呉市が舞台である。うっかり忘れていたが、呉市は軍港の街でありながら、かつて『仁義なき戦い』でも有名となった裏世界の街でもある。原作者の柚月裕子さんはこの『仁義なき戦い』をリスペクトして、この作品を書き上げたという。なぜ、こうして今「呉市」が取り上げられるのか、あえて考えてみるとよくも悪くも「ノスタルジー」を感じる街ではないかということなのかもしれない。それは平成最後の年になった今もそうであるが、『‪仁義なき戦い‬』が公開されていた1970年代の当時ですら、その時に人が感じる郷愁を持っていたのではないだろうか。またそれは方言にも表れているような気が
する。とあるインタビュー記事で役所広司さんは「やくざ映画には呉弁が似合う」と語っていたが、それは「やくざ」に特化した方言ではなく、『この世界……』と同様に、人の息づかいの延長にその方言はあり、市井の人にもやくざにも何人にもなじむ方言なのではないかと考えた。やくざだからという突出した方言になっていないところも、この作品の注目すべき点の一つである。
 
私がこれは勝手に予想していることだが、この作品はテレビ地上波での放映はないのではないかと思う。それは、前述したように過激すぎ、かつ露わにとなっている暴力シーンが多すぎるためである。正直これがR15指定というのも首を傾けてしまう(18禁と言っても誰もが納得するのではないだろうか)。これらのシーンを割愛すると物語の7~8割りは無くなってしまい、物語として成立しなくなるだろう。ということで、この作品が気になる方は是非劇場で観覧して欲しい。但し、その後の心のケアは自分自身で責任持って行うべし。という事だけは強く忠告しておく。

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文責 木村綾子

KIMURAの読書ノート 読む パンダ

2018年05月03日 | KIMURAの読書ノート
『読むパンダ』
黒柳徹子 選 日本ペンクラブ 編 白水社 2018年1月1

昨年6月に上野動物園にてパンダの赤ちゃん(シャンシャン)が誕生して以来、にわかにパンダブーム到来となっている。事あるごとに、ニュースに取り上げられ、お店にはパンダグッズが並び、書店でもパンダに関する書籍が目に付くようになった。本書はその中の1冊である。パンダファンの著名人のエッセイ。パンダの飼育に関わった人の記録。そして日本パンダ保護協会名誉会長である黒柳徹子さんと関係者との対談と盛りだくさんの構成となっている。

 中でも私が興味惹かれたのは、東京大学総合研究博物館教授の遠藤秀紀氏の手記である。手記のタイトルは「パンダだけの返事」。彼の肩書と手記のタイトルだけでは、どのようにパンダと関わった人物なのか想像しがたい。手記の冒頭彼は、「死体の声を聞くのが、あたしの仕事だ(p128)」と綴っている。彼は上野動物園で死んだパンダ4頭を解剖し、パンダという動物の謎に挑んでいる。そして、その一つ、パンダがなぜ上手に笹をつかめるのかという問いの答えを見つけ出すことに成功したのである。しかしその過程はただパンダを解剖したら分かるというものではない。彼曰く、「死体に這わせた指が、とんでもない事実をあたしに告げる。尋ねる自分。応じる死体(p137)」。死体からの声に導かれなが
ら、答えを手繰り寄せていくその様子にはパンダに対する畏怖の念が伝わってくる。科学者は論理的に物事を割り切って考えていくイメージを払拭してくれる記録である。

また、本書全体を通して注目すべき点は、中国の研究員の方々のサポートである。パンダは中国のみ生息する動物であり、中国がその研究のトップであることは間違いない。そして、そのサポートなしには日本でパンダが生活することはできない。本書においてそのサポートのみを特化して綴った手記はないものの、あらゆる場面で研究員の姿が散見しており、そして、そこから知ることになるのは、部分的なサポートではなく、1年を通して研究員が常駐して日本の飼育員と共同でパンダを見守っているということである。だからと言って中国のやり方を押し付けるのではない。一例としては和歌山のアドベンチャーワールドで双子の赤ちゃんが生まれた時のこと。中国では双子が生まれた場合、一方を人工保育で
育てるのが通常のようであるが、母親のメイメイが子育て上手だったことから日本の飼育員の意見を採用して双子をそのままメイメイに託すことにしたという。その後もメイメイはもう一組の双子を含む4頭(計6頭)の赤ちゃんを産み、アドベンチャーワールドをパンダ王国としている。パンダを国通しの駆け引きに使われているとしばし耳にするが、実際パンダが中国を離れると民間レベルではそうも言ってはいられない。一つの命をどう支え、向き合っていくか、そこに国境はないことをパンダを通して伝わってくる。

と、シャンシャンブームでパンダ本を取り上げることになったが、関西に住む私としては少々不満がある。前述した和歌山のアドベンチャーワールド。現在までに16頭の繫殖実績があり、これは、中国国内を除くと世界最多である。また双子のパンダを共に成長させた施設としては中国国外では初めてである。確かに上野動物園は日本に最初にパンダが来た施設ではある。しかし、もっとアドベンチャーワールドも注目されてよいのではないだろうか。少なからずシャンシャン同様に継続して全国ネットでこのパンダ王国を取り上げてもらいたいものである。
=====文責 木村綾子





KIMURAの読書ノート[パパは脳研究者]

2018年04月16日 | KIMURAの読書ノート

『パパは脳研究者』
池谷裕二 著 クレヨンハウス 2017年
 
著者が我が子の0歳から4歳までの子育てをエッセイとして綴ったもの。しかし、これが一般的にイメージする子育てエッセイではない。著者の職業はタイトルにもあるように、脳研究者。脳の成長や老化について探求している。そのため、「子育て」というよりは我が子の成長発達を記録しているもので、更にその発達が脳のどの部分が関わってきているかという解説書となっている。そのため、随所に出典も明記されており、より詳しく知りたい人の道しるべにもなっている。だからと言って堅苦しい学術書ではない。もともとこれは子どもの暮らしを応援する雑誌「クーヨン」に連載されたものを加筆、改訂したもの。「我が子は可愛い」、「我が子は天才」、「我が子がこの世でいちばん」なのは、当然と
いう、親バカ丸出し上等の、軽快なタッチで記されている。それと科学者視点の融合。なかなか類似本を見かけることはないだろう。その中で、科学者視点に関して、以下に紹介する。
 
例えば、子どもが生まれて親が戸惑うことの一つに、「寝ぐずり」がある。ともかく眠たくなると泣いて、寝かかったかなと思って布団に下すとまた泣きだし、結局ずっと抱いたままというのはよくある話。実際私もかつてこれに悩まされてきた経験がある。これは著者によると、赤ちゃんにとっての睡魔は不快感覚とのこと。眠っているか起きているかはっきりしない、不安定な状況ともいえるようで、これが大人のようにふわふわした気持ちのよい感覚になるのは、経験によって快楽が強くなっていくのだそうだ。また、他にもこのようなことが記されている。脳が何を知識として覚えるかは、それを受け入れる準備があるかどうかということにかかっているらしい。つまり本人が興味をもたない限りいくら働
きかけても学習は進まない。これを専門的には「準備された心」というそうである。このことは、何に、いつ興味を持つかは一人一人異なり、他の子と学習を比べる必要性はないことを示している。実際に著者のお子さんは他の子よりもアルファベットに興味を持ち、あっという間に覚えてしまったが、ひらがな、カタカナは逆に他のお子さんよりも覚えるのが遅かったそうである。
 
著者によると脳の正しい使い方は「予測して対処する」ということなのだとか。高いところにお菓子があった時、子どもは椅子を持ってきて、それを取ろうとする。椅子を持ってくるとお菓子に手が届くと「予測」して、実践的に「対処」する。これば「予測して対処する」。人は意識をしないでこれら一連の流れを行っているが、ここに至るまでの脳の発達過程を1か月ごとの月齢でどのように変化しているかということを知ると、正直子育て以前に、自分の「脳」そのものに敬意を表してしまう。そして、我が「脳」ながら、全く独立した物質のようにも思えてくる。
 
と同時に、我が子を育てている時、このような本が存在していたらと思う。あの時悩んだ一つ一つの出来事が、ここでは「脳」の発達過程での一つの現象として記されている。それを知っていたら子育てのイライラを「脳」が発達していると捉えて少しは気楽に、対処できたかもしれない。それ位、痒い所、いや「辛いところに手が届く」1冊である。そして、本書は現在の育児書のバイブルになること間違いないと感じた。
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文責 木村綾子



KIMURAの読書ノート 映画 空海

2018年03月03日 | KIMURAの読書ノート

『―空海― KU-KAI 美しき王妃の謎』
チェン・カイコー 監督
夢枕獏(『沙門空海塔の国にて鬼と宴す』角川文庫/徳間文庫) 原作
ワン・フイリン チェン・カイコー 脚本 染谷将太 ホアン・シュアン 出演
2018年2月24日 日本公開
 
1200年以上前の中国・長安。奇病に罹っていた皇帝を法術で治すため遣唐使で日本から来ていた空海(染谷将太)は王宮に呼ばれるが、目の前で皇帝が亡くなるのを目撃する。丁度その場にいた記録係の白楽天(ホアン・シュアン)と空海は皇帝の死に不信を抱き、調査をしていく。その過程でこの死が先々代の皇帝とその皇帝から寵愛を受けた楊貴妃の死が関係していることを知る。楊貴妃は何故死んだのか更に二人は真相を追っていく。
 
阿部寛(阿倍仲麻呂役)が出演するというだけの不純な動機で映画館に向かったため、全く予備知識なしの観覧となった。てっきり、空海の自伝的な話だと思いこんでいたのだが、大間違い(夢枕獏が原作であるのも、映画館に入ってから知った)。まさにタイトル通り、現皇帝や楊貴妃の死の謎を追うというミステリー作品であった。しかし、本作品の見どころは、何と言っても、巨大なセットであろう。当時100万人が住んでいたといわれる大都市長安。このセット建設に4年かかり、樹木だけでも5万本植えたそうである。地平線の彼方にまで広がる長安の街並みは圧巻である。まさに広大な国土を持つ中国ならではのダイナミックさである。同様に宮殿内のセットにも圧倒される。例えるならジブリ映画『千と
千尋の神隠し』の舞台となる湯屋をそのまま実写化したような感じである。また、妖術が物語の中にふんだんに出てきて幻想的で魅惑の世界が繰り広げられる。エンターテイメントやファンタジーを追及するとこのような形で表現されるのかということを知らしめる作品である。
 
監督のチェン・カイコーは空海役を染谷俊太に指名した理由の一つに頭の形が僧侶ぴったりだと話しているが、まさにその通りできれいな剃髪姿を見るだけでも目の保養になる。と同時に、あまり多いとは言えない台詞を表情や佇まいで表現するその雰囲気は長安の巨大な都市に飲み込まれないオーラーを発していた。白楽天の人物的な背景を全く知らないため、ホアン・シュアンがどこまで白楽天に近いのかということは分からないが、長髪と躍動感のある姿は空海と対照的に演じられ、お互いを対比しつつも双方が絡み合う世界観を楽しむことができた。
 
さて唐突であるが本題。この作品、主役は「空海」ではない。主役は一匹の「黒猫」。作品を最初から最後まで牽引し、気が付くと涙腺を崩壊させてくれている。パンフレットによると、この猫はCGで作品に組み込まれているらしいが、物語に完全に溶け込んでおり、意識しないとCGとは気づかない。それだけ愛らしくもあり、ごくごく普通の動きをしている黒猫。だからこそ、彼の表情、仕草がぐっと胸を突き刺し、魅了され涙腺が崩壊するのである。彼が作品にどのような役割を与えられているかは是非映画館に行き、自身の目で確認して欲しい。しかし、愛猫家の方々には強くお薦めできない。それでもと思う方は、涙腺崩壊覚悟でタオルを何枚か持参することに喚起を促しておく。

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文責 木村綾子
 


KIIMURAの読書ノート 工学部ヒラノ教授の介護日誌

2018年02月21日 | KIMURAの読書ノート

『工学部ヒラノ教授の介護日誌』
今野浩 著 青土社 2016年

 元東京工業大学教授の著者は、自身のことを「ヒラノ教授」と呼び、様々な角度から自身の周辺で起こった出来事をシリーズとして出版しています。その中の1冊が本書です。

タイトル通り本書はヒラノ教授が約19年間、妻である道子さんを介護した記録です。道子さんはヒラノ教授が51歳の時、悪性の不整脈と言われる「心室頻拍」を発症。その後、小脳が委縮して、運動機能が徐々に失われていく、「脊髄小脳変性症」という一万人に1人の難病を抱えます。ヒラノ教授の説明によると、この病気は発症後10年ほどで、嚥下機能に障害が出て、誤嚥性肺炎で亡くなることが多いそうで、実際、道子さんの最期のきっかけは誤嚥性肺炎によるものでした。

道子さんが発症してから、9年後にヒラノ教授は東工大を退官、その後の10年間は中央大学の教授として勤めておりますが、その生活は決して緩やかなものではありませんでした。しかしながら、ヒラノ教授の言葉を借りるならば、「大学という、時間に縛られることが少ない職場に勤めていたことである。大学教授は(少なくともこれまでは)、ある程度の研究成果を上げ、何科目かの講義を担当し、会議に出席し、ある程度の雑用をこなし、“悪事に手を染めなければ”、それ以外の時間は自由に過ごすことができたP215)」からとのこと。実際に、仕事を継続するために、ヒラノ教授は自宅での介護が困難になってくると、二人で介護つき有料老人ホームに入ります。それでも、道子さんの状態が悪いため、そのホ
ームでヒラノ教授は介護をしていきます。

道子さんの「脊髄小脳変性症」は遺伝性の病気で、道子さんのお母様もそれが原因で亡くなっていますが、ヒラノ教授と道子さんの娘さんも、道子さんが患ってまもなく発症します。実は娘さんが3人の中では、いちばん発症年齢としては早く、それが元で離婚となっているばかりか、離婚前には当時の夫から暴力を受けることになります。介護をする過程で起こってしまうDVにもヒラノ教授は本書で言及しています。そしてそれは娘さんの夫のことだけでなく、自分自身も道子さんに暴力を振るってしまったことも正直に書いています。

ヒラノ教授は19年に及ぶ介護をしていますが、実際には道子さんだけでなく、娘さんに関してもほぼ同時に介護をせざる得ない状況に追い込まれています。しかし、娘さんに関しては、ケアワーカーのはからいにより、かなり快適に過ごせる障害を持つ人の入所施設に入居でき、月に何回かの訪問でそのハードな介護生活を乗り切っています。

本書以前のシリーズには、大学を去った後は、「工学部の語り部」として本を出しながら余生を過ごすという趣旨のことを書かれていたのですが、実際には、娘さんの介護費用のためというのも、理由の一つであったことを本書で知ることになりました(道子さんは、ヒラノ教授が中央大学退職3日後に逝去)。ヒラノ教授には他に2人の息子さんがいらっしゃいますが、それぞれの生活があり、遠方にも住んでいるため、協力を求めるのは現実的ではないということも書かれてありました。

ヒラノ教授は介護生活を振り返りながら、まだ自分は幸運だったと綴っていますが、金銭的なこと、介護施設に入居しても自分自身がそこで介護しなければならない現実、遺伝性の病気で家族が同時に発症するケースなど、ヒラノ教授が経験したことは読んでいるだけで身につまされます。そして、これが日本の介護の現状なのだとひしひしと伝わってきます。それでも、本書は、ヒラノ教授自身が関わったデータ(具体的な金額など)も踏まえていますので、今後介護にかかわる場合の参考の一つにもなるかと感じました。

文責 木村綾子



KIMURAの読書ノート『僕には世界がふたつある』

2018年02月02日 | 大原の里だより

『僕には世界がふたつある』
ニール・シャスタマン 作 金原瑞人 西田佳子 訳 集英社 2017年
 
この物語は二つ舞台から始まる。主人公は15歳のケイダン。誰かがケイダンを殺そうとする家や学校と、ケイダン自身が乗って深海に向かう海賊船の中。これら舞台が半ページ、長くても3、4ページで入れ代わり、読者は何が物語の中で起こっているのか混乱してくる。舞台はそれぞれ独立して読んでいてもそれだけで十分の物語として成立している。それなのに、更に中盤に進むと、1つ目の舞台「家」が「病院」に移ってくる。ここまで踏ん張って読み進めるとケイダンの中で何が起こっているのか理解できるようになるが、それに至るまでに読み手がお手上げになるかもしれない。それを阻止するためにも、あえて予備知識をここに記しておく。本書の袖にもそれが書かれているので、隠す必要もないと勝手に
私が解釈することを許して欲しい。ケイダンは精神疾患を持った少年である。「家」は現実であり、「海賊船」は彼の脳の中の世界である。しかし、ケイダンにとっては共に現実の世界である。
 
この作品はフィクションであるが、作者の息子の実体験がもとになっている。彼に協力を得て、彼の持った病院の印象、恐怖、被害妄想、強迫観念、抑鬱の感覚、更には治療過程を丁寧に描写している。
 
例えば、ケイダンが家のベッドで横になっている場面、「『ふたりは、本当におまえの親なのか?』『やつらは偽物だ。本当の良心はサイに食われちまった』そんな声がきこえる。けどそれは、『おばけ桃が行く』(ロアルド・ダール作の童話)の科白だ。小さいころ、あの本がすごく好きだった。けど、もう頭のなかがぐちゃぐちゃだし、きこえる声にはすごく説得力があるから、なにが現実でなにが妄想なのか、わからなくなってしまう。その声をきいているのは耳じゃないし、頭でもない。その声は、たまたまのぞいてしまった別世界からの呼びかけなのだ。携帯電話が混線して、知らない外国語がきこえてくるみたいなもの。なのに、なぜかその意味が理解できてしまう」(p147)。病院でのケイダンはこのよ
うなことをつぶやいている。「部屋の奥に電気のスイッチがある。電気を消そう。それならできる。だけどできない。なぜなら、フルーツゼリーのなかのパイナップルのかけらになってしまったから。ゼリーから出ていこうという気にもなれない」(p187)。海賊船でのとある場面では、「僕の脳みそが左の鼻の穴から抜け出して、野生化した」(p225)
 
これらのケイダンの言葉を読者は彼が精神疾患を持っているからの言葉であることを知っているからこそ受け入れて読むことができるが、当事者はただただそれが現実であると思っているため、その恐怖というのは、想像を絶するものであろう。それと同時に彼の脳の中の世界、すなわち「海賊船」での世界、決してこれも彼にとっては愉快な世界ではない。常に追い詰められ、逃げまどい、混乱していく。それでも、その世界だけを抜き取ると一人の人間の別世界が豊かに展開されているということに気が付く。人はここまで世界を広げていくことができるかということに圧倒される。だからこそ、現実と脳の中の世界が交錯して精神疾患を持つ人は行き場を失うのであろうということが少しだけ想像できる。そし
て、逆に何を手掛かりに彼らはその世界から一筋の光を見つけるのか。作者はあとがきにこのように言葉を添えている。「精神疾患の暗くて予測不能な海を航海する人の気持ちがどういうものなのか、この本を読んで理解してほしいのです」(p353)
 
2015年度全米図書賞児童文学部門受賞作品。また現在、映画化も作者の脚本で進行中である。

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文責. 木村綾子