京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

『魔女の宅急便』

2013年09月19日 | KIMURAの読書ノート
2013年9月その2
『魔女の宅急便』(児童書・一般)
角野栄子 作 林明子 画 福音館書店 1985年

9月1日映画監督の宮崎駿氏が引退を発表。そして9月6日その記者会見が行われた。中学2年生の時、『風の谷のナウシカ』以来、いやテレビ作品から勘定すれば物心ついた時から現在まで彼の作品と接していたことになる。記者会見では年を追うごとに1作品にかかる時間が要するようになり、次の作品を手がけることになったら、自分自身80歳になっているという言葉が自身の作品に対する情熱と年齢という壁の挟間で揺れ動くその葛藤を垣間見ることとなった。

今回は宮崎監督の引退を受け、彼の作品の一つである角野栄子さん原作の『魔女の宅急便』を取り上げてみる。
『魔女の宅急便』は児童文学として1985年に刊行された。そしてその4年後宮崎監督の手で映画化されている。この作品は松任谷由美の曲が主題歌に用いられたことでも話題となった。

この物語は、魔女の母と人間の父の間に生まれたキキが魔女として独り立ちするために、海の見える町に居を構え、「魔女の宅急便」を開業。ここで様々な経験をして大きく成長していくお話である。映画では、魔女の要という「飛行能力」を失ったキキがどのようにして「飛行能力」を再生していくかということに焦点が絞られている。しかし、原作ではまさに「様々な」体験が章ごとに描かれており、「飛行能力」の喪失はあくまでもその一つのエピソードでしかない。

印象的なのは、キキが旅立つまでのキキと母であるコキリとのやりとりである。古い魔女の血筋を重んじるコキリに対して、「あたしはあたし」と言い切るキキ。旅立ちの日を両親に伝え慌てた母に対して「ほらね、かあさんの大さわぎがはじまったわ。あたしがぐずぐずしているとおこるし、ちゃんと決めると文句がでるんだから」と肩をすくめるキキ。一つ一つの会話が明らかに思春期を迎えた娘とその母の状況を的確に表現しているのである。この場面は、子どもが読んでも、大人が読んでもちょっと噴き出しつつ、自分のことと投影できるいちばん大切な場面のように感じる。

また、新しい土地で生活し始めたキキの世話をやくオソノはキキに対して明らかに母親代わりの立ち位置として描かれている。しかし、実の母とは異なり、少しナナメの角度から一人の成熟した女性としてどのように振舞っていけばよいかと言うことを物語の中に盛り込んでいる。それはオソノだけではなく、各章ごとの一つ一つのエピソードに出てくる女性がそのように描かれているのである。昨今、ジェンダーと言う言葉が一人歩きし「男だから」「女だから」という発言がタブーになってきているように感じる。しかしながら、肉体的、精神的な発達段階というのは明らかに男女差がある。それを作者である角野栄子さんは上手くこの作品に盛り込んでいる。明らかに良質な「女性」の物語であると私は思っている。

「魔女の宅急便」は映画化されたこの作品だけでなく、全6巻あり、キキが大人になるまでの過程が描かれている。また、今年春には、文芸書として角川文庫からも刊行された。今や児童書と一般文芸書はボーダレスとなっているが、明らかにこの作品はその先駆的なものではないだろうか。他の作家の元児童書から遅れをとってこの春刊行というのが少し残念なくらいである。

そうなると、宮崎映画となったこの作品は少々意味合いが異なってくる。一つのエピソードをクローズアップすることで「女性」の物語が「一人の少女」の物語になってしまっている。しかし、宮崎映画の見所はなんと言ってもあの「飛行」シーンであろう。キキが箒にのって空から街を見下ろすあの構図。様々な角度からの鳥瞰図は、観ているものの心を解き放つ。それはキキの「しがらみ」からの開放(解放)をも意味するように感じた。これらの場面は文章のみではなかなか表現しづらいだけでなく、実写でも難しいであろうと思われる。宮崎映画はこの「飛行」シーンをやすやすやってのけ、原作の持ち味を最大限に引き出していた。それだけに、今後新たな「飛行」シーンが生まれないのかと思うと、引退が残念である。

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『日本柔道の論点』

2013年09月02日 | KIMURAの読書ノート
2013年9月 その1
『日本柔道の論点』(一般書)
山口香 著 イースト・プレス 2013年6月

年明け、柔道の女子ナショナルチームが監督やコーチの暴力やパワーハラスメントに関しJOCに告発したのはまだ記憶に新しいことと思う。その件を含めて、現在の日本の柔道界、果ては世界における柔道のあり方について論じているのが本書である。

なぜ事件が起きたのか、明るみにしていったのか、著者の山口氏がなるべく表舞台に出ないようにしたのかということについては、本書を読んでいただくことにして、ここでは、第5章「柔道の本質とは何か」と第4章「柔道における教育と体罰」について触れてみたい。

柔道は嘉納治五郎が創始した武道であり、講道館がその原点となっている。本書によると嘉納治五郎が目指した柔道の精神は、「礼節を重んじる人間教育の考え方が根底にある」というものであり、例えばオリンピックなどの試合に出場した際は、「いかに勝つか」ではなく、「いかに戦うか」というのが重要であるということである。これは、氏の言葉に変えると「力任せに相手をねじ伏せるのではなく、理にかなった技で相手を投げたり、押さえ込んだりする」というものなのだそうだ。そのため修行内容は本来「形と乱取、講義と問答」が基本になっているという。つまり、「勝つ」ためのものではなく、人格形成のための「柔道」であり、「柔道」から離れても「柔道」で学んだことを活かしていくというのが本来の目的のようだ。柔道の言葉ではこれを「自己の完成と世の補益」というらしい。

しかし、山口氏は世界に広がった「柔道」、オリンピック競技に組み込まれ「スポーツ」としての「柔道」を否定しているわけではない。嘉納治五郎が唱える柔道の精神をねじまげた形で「精神論」と唱える日本柔道界の重鎮達を一蹴し、諸外国に学ぶべきことは多々あると指摘している。その上で、本来の柔道の精神をきちんとした形で広めるのが、日本柔道界の役割と論じている。

また昨年度より中学校で武道が必修化された。この時、柔道を専門としていない教員が指導にあたることに不安視する声が多く寄せられている。しかし、山口氏によるとそこには「技術」をどう伝えるかというところばかりが議論され、「柔道」の本来の精神が置き去りにされていたために起こったことと語っている。重要なのは、柔道を学ばせる意味や意義であり、その部分が曖昧になってるからこそ不安な声ばかりが増長されているという。嘉納治五郎の目指す柔道を知っていれば、「勝つ」というテクニックばかりに走り出すことはない。「勝つ」ことばかりに意義を見出そうとするためにこのようなことが起こっていると指摘し、指導者が柔道から何を子ども達に伝えたいのか、再度武道の必修化を機会に考えていく必要があると指摘する。

しかし、これは「柔道」ばかりの問題ではなく、スポーツ界全体の問題でもあると山口氏は苦言を呈す。諸外国においては、それぞれが行っていたスポーツから引退しても、次のステップとして自分の道を歩んでいる。オリンピック選手でも現役を引退すると、医者になったり弁護士になり活躍している人は多いとのこと。諸外国の選手が能力的に秀でているわけではないとも山口氏は語っている。そこには、選手の時代から、自分を管理すること。競技に打ち込むことと将来進む道を考える環境があるというのである。

翻って日本においては、幼い時からスポーツをする子とそうでない子に二分化され、そこには大きな隔たりが生まれている。つまり、幼い頃から勉強かスポーツかの選択を迫られ、どちらかしか選べないようなシステムとなっているという。嘉納治五郎の柔道における目的は「自己の完成、世の捕益」となっているが、これは決して「柔道」だけに当てはめるものではなく、スポーツ界でも同じものであり、引退後はそのキャリアを生かした仕事に従事できるようなシステム、環境、風土を構築しなければならないのではないかと指摘している。

8月22日全日本柔道連盟は臨時理事会・評議会に行い、理事を一新させた。これに伴い、本書の著者である山口香氏が監事に就任している。日本柔道界の再建と始祖嘉納治五郎の理念を是非世界に正しく広めていただくことを期待したい。

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