京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート『エモい古語辞典』

2022年10月14日 | KIMURAの読書ノート


『エモい古語辞典』
堀越英美 著 朝日出版社 2022年7月

「古語辞典」と聞くと一般的には古典の受験勉強をする時にひたすらめくった分厚い、いわゆる辞書をイメージする。辞書なので体言も用言も古語に必要な言葉を一緒くたに五十音順で並んでいる。しかし、本書は少し趣が異なる。まえがきによると、この本の企画のスタートはマンガ好きの中学生から「好きなキャラをエモく表現するために感受性を爆上げしたいから、爆エモな語彙を知りたい」と頼まれたことにあるという。そもそも今、若い人たちに浸透している「エモい」という言葉。これもまたまえがきに書かれていることであるが、この「エモい」は古語の「あはれ」とほぼ同じ用法であるということである。つまり、「感動を覚えて自然に発する叫びから生まれた語」なわけで、それなら「エモい表現」の宝庫である古語を活用しない手はないと著者は思ったようである。そのため、この辞典は現代言葉に組み合わせやすいように「体言」のみで構成されている。また本書は五十音順ではなく、第一部は「天文」、第二部は「自然」のように現象によってカテゴライズされている。更に「天文」の中でも「時間」「季節」など更に細かく分かれている。

前回の読書ノートで取り上げた『平安女子は、みんな必死で恋してた』の中で、著者が古典にはまっていった理由の1つに「この時代の物語に出てくる単語が圧倒的に男女関係にまつわるものが多く、一つひとつの持つ意味合いが細かく定義されているため」というのを思い出した。実際、本書では第三部の「人生」の中の「感情」という区分に「恋」に関する語彙だけを集めたページがある。現代では使わない語彙がここだけでもてんこ盛りである。その中には現代でも使われている言葉がないわけではないが、逆にそれは昔から使われていた言葉が現代にも引き継がれているということに驚きを感じた。この中には今では全く連想できない言葉もあった。その1つが「蜘蛛の振る舞い」。蜘蛛と「恋」はどこでつながるのかとその意味を読んでみると「クモが巣をつくる動作。恋人が来る前兆とされた」とある。つまり、1000年近く前の人たちはクモが巣をつくるのを見ると恋人が来ると思い浮足立っていたということなのだろうか。面白くもあり、今とは異なる感覚で不思議な感じもする。しかし、「恋」という区分を離れても、本書全体を見渡せば、「恋」や「男女に関係する」言葉が散在している。例えば、「第一部・天文:朝」に区分されている「後朝(きぬぎぬ)」という言葉。これは「男女がお互いの着物を重ねかけて共寝した翌朝、起きて着るそれぞれの衣服。朝の別れの象徴。または男女が一夜をともにした翌朝」の意味らしい。また「第二部・自然:哺乳類」にある「うかれ猫」。「恋に無釉になって鳴きながら浮かれ歩くネコ」とある。同じく猫に関しては「恋猫」というのもある。こちらは「恋に夢中なネコ」と単語そのままの意である。確かに発情期の猫が外で鳴いているのを目にすることはあるが、それを現代人は「恋」と連想することはほぼないであろう。「第五部:言葉」は「ことわざ・故事」そして「熟語」を集めたものであるが、ここでも「愛」に関して単独で四字熟語を集めている。この1冊を見渡すだけでも、イザベラが語ったように、確かに「恋」や「男女関係」に関する言葉が多いということがよく分かる。

また、「恋」とは離れて興味深かったのは、熟語に関してである。受験に話は戻るが、私自身受験対策としてかなりの二字・四字熟語を覚えたつもりである。しかしそこには私の知っている熟語、つまり受験対策用の熟語というのが皆無であった。「神韻縹渺」、「自分の語彙では言い表せないほどに神レベルに優れた作品の趣」という意味だそうだが、熟語以前に使われている漢字自体初めましてである。

この1冊に表されている語彙だけでも、私たちの祖先は自分の些細な気持ちをいかにして文字で表そうとしていたのかということが垣間見ることができる。それは可能な限り、気持ちの行き違いのないようにしたいという努力なのかもしれない。今、コミュニケーション能力を問われているが、それは新たに獲得する能力ではなく、本来私たちが持っている能力であり、それがなぜ衰退したのか、もう一度先人たちから学ぶべきものではないのかと気づかされた。

========文責 木村綾子

 


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KIMURA の読書ノート『平安女子は、みんな必死で恋してた』

2022年10月03日 | KIMURAの読書ノート

『平安女子は、みんな必死で恋してた』
イザベラ・ディオニシオ 著 淡交社 2020年7月9日

昨年8月の読書ノートで清少納言へのラブレターを書いたとしか思えないフィンランドの作家、ミア・カンキマキが綴ったエッセイ『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』を紹介した。この時彼女が綴った中に、紫式部はともかく、清少納言は少なからずフィンランドでの認知度は低いとなっていたため、やはり日本の古典というのは、日本人でも難解なのだから、海外の人にとっては受け入れ難いだろうと思っていた。いや、今も思っている。しかし、やはりというか何というか、日本の古典を愛する海外の人というのはレアではあるが、存在はするようで、今回取り上げる本もまさにそれである。

著者はイタリア生まれで、25歳の時に来日し、お茶の水女子大学院を修了。現在は翻訳及び翻訳プロジェクトマネージャーとして活躍しているが、古典に関してはただの「愛好家」であると本人は語っている。本書は偶然に知り合った編集者に古典文学に対する偏愛を白状したところ、それならばと「東洋経済オンライン」に「日本人が知らない古典の読み方」としてコラムを書くことになり、それを加筆修正したものが本書となった。

ミアはひたすら清少納言一択での愛を語ったものであるが、こちらは『和泉式部日記』から『竹取物語』まで全9作品プラス1を取り上げ、イザベラ自身による解釈という名の愛を語っている。ちなみにプラス1は、イタリアの古典、ダンテとこれら平安時代の女性作家を比較しているものである。

さすが外国人の視点である。ミアは清少納言のことを「セイ」と呼んで、私をたまげさせたが、イザベラは「清姐さん」と呼び、紫式部はミア同様、「紫」と呼び捨てである(正確にはミアは「ムラサキ」とカタカナ表記である)。すでにミアで免疫が付いているので、このようなことでいちいち驚きはしないが、このように愛称で呼んでしまうのは日本の古典文学の海外愛好者は日本人のそれよりも古典文学をもっと近しい関係に感じているのではないかと思い始めた。

ミアは清少納言に恋をした理由の1つに、この時代において男性の権力に翻弄されながらも物語を綴ってきたというところにあるが、イザベラの場合、この時代の物語に出てくる単語が圧倒的に男女関係にまつわるものが多く、一つひとつの持つ意味合いが細かく定義されており、それを読んでいく過程でこの時代の恋愛模様の沼にはまっていったようである。そのため和泉式部のことを「平安最強のモテ女」、小野小町を「魔性の女」、藤原道綱母は「鬼嫁」と定義付けている。もちろん、他の作家たちもそれぞれに彼女が定義づけをしながら、それに関連する文章を原文とイザベラ流の訳で読み解いている。中でも、私が共感したのは、「ダメ男しか掴めない薄幸の美女と位置付けられた二条」。これは『とはずがたり』の作者である。私自身、偶然にもつい最近、この現代語訳になったものを読んだのであったが、とにかく出てくる出てくる男性全ての出来が悪すぎて、これって今の時代の話ではないよね?と突っ込んでいたのである。全く同じことをイザベラも感じたようで、平安時代もこの令和の時代もダメ男の形態は何も変わっていないということを彼女が書いてくれたことで納得することができた。この作品が発見されたのは1938年のことでその発見場所は宮内庁書陵部。これだけダメ男が羅列されていたら、確かにこの作品を二条が発表して以降速攻で皇室関係者は隠したくなるよなと心の底から同情したのである。

本書は取り上げられている作品すべてにおいて、男女の恋愛事情を視点に綴られている。というか、もはや平安時代の文学の多くがまさにそれなのであろうということをようやく私は理解したかもしれない。そして、今の男女関係の方がかなりマシなのではないかとふと思ってしまった。

=======文責 木村綾子


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